2019年4月29日月曜日

南会津・白河への旅行、「平成の・・・」、ミステリー1冊

 25-26日は高校同級生9人による南会津・白河への旅行&宴会。往路はTaHiと在来線(東武線と東北本線)に乗り、新白河駅12:40集合時間より1時間早い到着を目指し、春日部駅で彼と合流。ボックス席ではないため、持参のアルコールを飲み始めたのは乗客が少なくなり、目の前が空席になってから。ボックス席になったのは黒磯で乗り換えてからで、そこでようやく1升瓶の栓を開けた。新白河駅で5人が集合し昼食(白河ラーメンが不味かった)。12時40分に全員が集合。3台の車に分乗し高原口から出発。
 初日のルートは、戸赤ジロエモン滝-戸赤の山桜(まだ殆ど咲いていなかった)-塔のへつり-日暮の滝観瀑台-観音沼森林公園-甲子大橋/剣桂展望台(通過してちょい寄りしただけ)-宿。西郷村五峰荘では18時45分から宴会。この宿は規模が小さく(全17室)、他の団体客もいなく、綺麗で、18歳の女性スタッフが可愛く、快適であった。部屋飲みを経ても持参の3升は空にはならなかった。
 2日目は朝から雨。ルートは、座頭ころばし展望台-雪割橋展望台(事前に調べていた風景と違い建築中の橋が増えていた)-白河小峰城-南湖公園-すずき食堂で昼食(ラーメン)-白河関跡-ここでKaMaは自宅まで近いので帰路に着く-新白河駅で解散。
 新白河駅は電子マネーに未対応。出るときはスタッフに決済してもらう。入るときは切符を現金で買えと言われ、電子マネーを使うときは対応している駅で一旦改札を出て買い直すしかないと言う。TaHiの機転で新白河では最低料金140円の切符を買い、久喜駅で改札橫に行くといとも簡単に処理してくれた。新白河駅での対応に不満だったが、地方に行くときには要注意。

 「平成の・・・」「平成最後の・・」がやたらにテレビで流れる。天皇が変わる、併せて元号が変わるということにさほどに意味を見いだせないから、この騒ぎが理解できない。慶応-明治の変わりは日本史上の大きな画期であるが、それ以降は単に天皇と元号が変わるということでしかない。

 <真保裕一 『おまえの罪を自白しろ』(文藝春秋、2019年)>:衆議院議員の孫が誘拐され、解放の条件は該議員に対して「おまえの罪を自白しろ」。国会議員と長男の県会議員、次男の秘書、女婿の市会議員、政治家や警察の言動が描かれる。職務に真摯に向き合う県警刑事が犯人を追い、彼以外には正義は見られず、自己保身と権謀が蠢く。誘拐犯人に大義名分はなく、犯罪隠蔽が目的。政治家どもを登場人物にすればこういうパターンがもっとも当てはまるのであろうが、すっきりとした読後感はない。

2019年4月23日火曜日

スマホ不具合、人間ドック、小説、マンガ

 21日、以前より度々おきていたスマホのトラブルでauショップへ行く。不具合は、相手からかかってきた電話でこちらからの声が相手には聞こえないこと。その後、こっちからかけても聞こえない場合があることが判明した。auショップでは再現できなかったが、結局SIMカード交換で様子をみることになった。月に1回ほどの頻度でこのトラブルはあるらしく、SIMカード変更で対応しているらしい。
 22日、人間ドック。毎年この時期になって病院に行くと1年の移ろい、季節の変わりを感じる。帰宅途中に大滝酒造で日本酒九重桜を2本購入。帰宅後8日ぶりに飲酒。日本酒ではなく、だらだらと6時間ほどかけてアルコール入り蒲萄ジュース-通称ワイン-を1本空けた。スマホ、今度はメールが見られないし送れない。SIMを認識しないのでauサービスが全く機能しない。webでは問題ないし、電話もOK。しかしスマホのメールはサーバーまでは届くので、送った方は届いたものと認識してしまい、これは非常にまずい。
 23日、またもやauショップへ行く。再度SIMカードを交換し正常となる。SIMカードの不具合はままあるらしいので今回はそれに当たったらしい。なんでこんなに度重なるのか、と愚痴るが致し方ない。ビールを飲んでハイボールを飲んで昼寝して、といつものパターンの午後。これをブログにアップしたらまた飲もう。

 <原泰久 『キングダム 54』(集英社、2019年)>:まだまだ朱海平原の戦いは続き、やっと最終日に入る。王賁は討たれ瀕死の状態に陥る。延々と続く戦いの場面には倦いてきた。最近公開された実写版の映画には興味なし。

 <ちばあきお+コージィ城倉 『プレイボール2 5』(集英社ジャンプコミックス、2019年)>:夏の予選3戦目の相手は聖陵高校。1年生イガラシが先発になるが、彼の心の中は井口への対抗心で一杯になる。好投を目の前にして谷口のプランはずれ始める。

 <柚月裕子 『慈雨』(集英社文庫、2019年、初刊2016年)>:足利事件(DNA鑑定不一致による冤罪)にヒントを得てこの物語を創ったものと思う。退官した元刑事が夫婦二人で四国88箇所お遍路で寺を巡る。歩き始めてまもなく群馬県で少女誘拐陵辱殺人事件が起きる。それは16年前に発生した事件と酷似している。16年前に担当したその事件では逮捕され刑務所に入った男の無罪を確信したが当時は沈黙を守り、その罪の意識に辛苦し贖罪の意味を込めて四国を巡っている。かつての部下であり、養女の恋人でもある刑事と、その上司でもあり主人公の上司でもあった課長と連絡を取りながら現在の事件と過去の事件を推理し、解決へとたどり着く。
 軽自動車をトラックに乗せる手段が具体的に描写されていないのが不満。また、寺巡りでの描写が続き少しばかりうっとうしい。
 ハードボイルドを期待して読んだがそうではなく、若干肩すかしを食らった思いがある。終わってみれば、主人公の真摯さ、気遣いがあり明るい妻、娘への愛情溢れる思い、前向でできのよい元部下、等々の人物配置で、最後は慈しみのある雨の中を歩き始めるところで物語は閉じられる。よく練られた感動ミステリーとでも言うのだろうが、イステリーに組み込まれた陳腐な安手の人間ドラマともいえ、物足りない。

辺境人の質問

 ブラックホール撮影成功に関してアメリカ政府の国立科学財団にて会見が開かれ、そこで高校生の女性が次の質問をした。
今回のことは、科学界の国境を越えた協力による大きな功績だと思いますが、今後こうした共同作業は科学界においてひとつのモデルとなるでしょうか。なるとすれば、どういう課題があり、私たちには何ができるでしょうか。
次に質問したのはNHK記者の質問。
私は国際共同研究に関して質問があります。今回の成果が突出した共同研究であることは理解しております。それぞれの国、特に日本がどんな貢献をしたのかについてお聞かせください。
そして、
NHK記者の質問の最後の言葉「especially Japan」の言葉が場内に響いた瞬間、場内のあちこちから他国の記者の笑い声が漏れた。
「Japan Today」は4月12日に「NHK reporter laughed at for asking black hole team for more on Japan’s contributions」と見出しをつけたニュースを配信。
一方、女子高校生は
パネラーから「That’s a great question」との言葉をもらっていた。
以上、引用は「LITERA」から。

 この記事を読んだときに思い出したのが読み終えたばかりの内田樹『日本辺境論』に書かれていた内容で、上記同様に引用する。
「日本は世界に冠絶するすばらしい国だ」と揚言する人がたまにいます。けれども、かれらはつい日本がいかにすばらしい国であるかを挙証してしまいます。
「世界に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない」、それが辺境の限界です。
要は、辺境人の視座は世界観に立つ位置にはなく、世界の中でどこの位置に立っているのかを確認したいと言うことである。でもそれをただ「日本メディアのお粗末さ」を指摘するのではなく、そういう性癖でものを見てしまうのだと自覚することであろう。例えば「わが日本は世界各国とともに貢献したと思うけれど、今後起こりえる課題に対し、どのように立ち向かっていけばよいのか」というような質問ならば少しは場内の笑いを抑制できたのかもしれない。

2019年4月19日金曜日

新書(3/3)

 <内田樹 『日本辺境論』(新潮選書、2009年)>:大別すると3つの幹があって、①日本には建国の理念が(アメリカと違って)なく、②日本は(中華思想の蕃国である)東夷の辺境にあり、③日本語は表意文字と表音文字の特殊性がある、というもの。納得できる論理展開である。しかし、戦艦大和で死んだ青年士官が残した言葉についてはすんなりと受容できないで抗う気持ちがある。それは別のノートにメモしておいた。
 建国理念がないから日本は建国を神話に遡るしかないし、文明の中心にあった中華からは遠く離れた辺境の蕃国であるから(しかも朝鮮とは違って海を隔てた遠いところ)、新しいものを素直に受容し、独自に加工してきた。それはそうだろうと思う。
 いいのか悪いのかではない。日本は右を見て左を見て「きょろきょろ」として我が身の立つ位置を確かめ、外部からくる新しいもの、あるいは支配的な権力を素直に受け容れ、屈託のない態度で無防備になり、親密さを示す。例えば古くは、中国からきた漢字を真名とし、本来の土着的言葉を仮名としてしまう。また、(これは記されていないが)敗戦後1ヶ月後には『日米会話手帳』を発刊し、ベストセラーになったし、明治維新時や敗戦直後には外国人の男性に対して売春組織を早々に作りだした。
 これが日本人だと言い切るのには一部の階層でしかないサムライを代表させ、全日本人を包括する日本人や日本文化については原典や祖型がないので、同一の主題を繰り返して回帰する。だからなのだろうか、自分もまたその回帰する主題について本を読み続けてしまう。
 「「何が正しいのか」を論理的に判断するよりも、「誰と親しくすればいいのか」を見きわめることに専ら知的資源が供給され」、「自分自身が正しい判断を下すことよりも、「正しい判断を下すはずの人」を探り当て、その「身近」にあることを優先する」。このように「外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている」。そのような人間を著者は「辺境人」と呼んでいる。この行動パターンは勤めていた会社で何度も体験的に見てきた。
 また、設計的実験的に多湿状態下で製品に不具合が生じるのは予想できていて、実際にフィールドでトラブルが多発したとき、該システムを担当していた設計者はこのように言っていた、「予想はしていたが、フィールド・ローンチ時にそれを言える空気ではなかった」と。これは敗戦時に東京裁判で被告席に立たされた旧日本軍人が言っていた「個人的には反対していたが、ああせざるを得なかった」という発言と同質である。
 書けばきりがないし発散してしまう。
 「日本は辺境であり、日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できるというのが本書で」著書が「説くところであり」、「本書が行うのは「辺境性」という補助線を引くことで日本文化の特殊性を際立たせることで」、「この作業はまったく相互に関連性のなさそうな文化的事例を列挙し、そこに繰り返し反復してあらわれる「パターン」を析出することを通じて行われ」ている。いきなり日本は辺境であるとドスンと眼の前におかれ、あとはその「辺境性」たる事例をあげているので明快で分かりやすい。しかし、前提をドスンと置いてあとはその前提に即した事例を展開するのであれば分かりやすいのは当たり前とも言える。本書において反論するのは難しいだろう、なぜなら日本は地政学的に(中華に比して)辺境ではないとは言えないだろう。部分的な箇所を取って非難するかもしれないが(例えばヒムラーの言質を取上げている箇所)、著者は、「はじめに」の最後に、予想される批判を述べ、その上で「どのような批判にも耳を貸す気はない」と宣言している。この姿勢、武道家らしいのか、刀を抜く前に雑魚を叩っ切っている。

新書(2/3)

 <佐伯啓思 『反・民主主義論』(新潮新書、2016年)>:民主主義ってそんなに素晴らしいのか、民主主義の最たるものの多数決って暴力の一形態ではないのか、そんな思いは小学生の頃から抱いていた。それは、生徒会長を選ぶ選挙を控え、このクラスからは誰を選ぶのか多数決で決めようと担任教師から指図があった。誰々さんがいいとかの意見の発言は多少はあったとは思うが、なぜこのクラスで一人を推薦し、決めなければいけないのか、1人ひとりが別々に決めればいいだろう、と違和感を強く覚えたことを今でも記憶している。
 また、給与所得者であったころ、企業内でも「民主的に」業務配分を行い、「個々が納得できるように」業務を説明して欲しいなどと、まだ経験の浅い設計者が上司に申し入れていたことがある。自分の配下ではなかったが、乱暴に言えばむかついた。多分に「民主的に」という言葉に自己陶酔していたと思う。自己能力の未熟さを棚に上げて、どこかで聞いたかっこよさそうな「民主的」を唱えれば強い武器を持ったと勘違いして自己を高みにおけるという満足感は得たのであろう。
 本書では民主主義を核として、政治・憲法(護憲)などが論じられる。
 誰だったか覚えていないが、政治における選挙とは美人投票のようなものだ、誰が一番美人とされるかその候補者に投票する、といったことのようだった。いい得て妙である。その選挙を実行する多くの大衆とは、「多様な意見に基づく議論でもなければ、熟慮や熟議でもない、どこかで聞いた話や、ちょっとした情緒的なフレーズに飛びついてそれを政治的意志と思い込んでいる巨大な集団」であり、その選挙でもって「民主的」に選ばれる政治家というのは、「世評や人気に依存」しており、耳あたりのいい空疎な言葉を発し続けるのであろう。だからちょいと政治的な事象に触れると浅薄な言葉が口から出てしまい、その失言とか、自らの言うバカさ加減も自分では理解できずに、「民主主義」の原則に則って役職を離れたり辞職するのであろう。プラトンの批判「衆愚政治」はいまも払拭できないでいる。
 「日本には、アメリカのような、民主的な世界秩序を形成するという歴史的使命のごとき大きな世界観も歴史観もありません」は、次に読んだ内田樹『日本辺境論』とも繋がる。

新書(1/3)

 令和の大合唱。西暦から元号に変換する作業が追加され面倒になる。「令和」を最初に目にしたときは瞬時「りょうわ」と読んだが、はて「りょうわ」なのか「れいわ」なのか、どう読むのか戸惑った。今後はいろいろな手続きをするときの生年月日を記入する欄にM・T・S・Hに加えてRが追加されるだろう。年代の運用主体を元号とし、提出書類にMTSHを印刷してある役所や企業では、書類フォームの新規製作が必要となる。何という無駄であろうか。
 先日自動車運転免許更新で警察署に行ったとき、提出書類に生年月日を記入する欄があり、とっさに元号ですか西暦ですか、とたずねたらどちらでも構わないと言われた。国家の公的機関の最たるところで元号と指示されなかったことに少しばかり意外な思いを抱いた。

 <中島義道 『反<絆>論』(ちくま新書、2014年)>:東北大震災の後からあちらこちらで「絆」が人の口から発せられ、メディアでも何度何度も報道され、いまになっては人間の麗しい活動の象徴として定着した感がある。身近にいる中学生の部活報告のレジメにも「強い絆をもつことができました」のような意味を書いて体育館に展示していた。
 悲惨な状況下で立ち直ろうとしている人びとに向かい、この一文字で未来を総括してしまうような言動に違和感を覚え、ましてそれを集団で唱えることに尚更にある種のキモチワルサを感じる。それは、「<絆>とは麗しいことばである。だからこそ、そこには人を盲目にする暴力が潜んでいる」のだし、「あのとき死んだ一人ひとりが、それぞれただ一度の死を死んだことが覆い隠され」てるからである。「<絆>は本来、けっして無条件に善いことを意味していないのに、今回すっかり相貌を変えて絶対的に善いことになっていまった感があ」り、「絆」という言葉に内包される意味の拡がりが狭まってしまった。「言葉がこういうふうに変貌するとき、そのマイナス面が消し去られ、すべてが明るい光のもとに照らされてあるとき、われわれは警戒しなければならない」。
 個々の視点を無視して、あるいは気付かないふりをして、みんな一緒に頑張ろう、みんなも頑張っている、あの人も頑張っている、さあ、皆で強い絆で先に進もうと唱えるこの方向性にはちょっと待ってよと抗いたい。これを声高に唱える人は、恐らく「「こうすべきだ」ということと「私はこうしたい」ということの恐ろしいほどの重なり」を自覚せずに、「意識の下層での「自己満足」」を吐露しているのだろう。
 本質を突いていると感じ入った言葉は、「お互いの「わがまま」を認め合う精神」で、続けてこう記している、「自分の「わがまま」を抑えつけていると、他人の「わがまま」も受け容れがたくなってくるであろう」と。いい言葉である。

2019年4月17日水曜日

情報誌購読継続中止、マルムスティーンの最新CD購入

 かなり前から送付されていた情報誌の購読継続をやめた。人間の営む状況は様々に様相を変えてはいるが殆どは本質的に同質の繰り返しでしかなく、ならば、身の周りの現実は一つの完成形であろうと受容するしかない。人びとの欲望や善意など、人間のあらゆる営みの基底は、少なくとも自分が意識する時代から今日まで何も変わることはなく、物質文明の発達に伴いそれらに融合させて外貌を変化させているだけである。だから現在諸処で生じる事件と言われるものもその表層を知るだけでいいのではないか。仔細を知ったところで何になるのだ、という思いである。それらを知ろうとする時間と費用は別のところ-例えば本質的なものやそのあり方-に向ける方がよい。この年齢になると残っている時間は然程ないのだから。

 Yngwie Malmsteenの最新アルバムBLUE LIGHTNINGを購入。随分前にチェコフィルと共演した「エレクトリック・ギターとオーケストラのための協奏組曲 新世紀」以来のCD。近寄りがたい、別世界に響き渡る超絶演奏に距離を保ちながら聴いてみる。While My Guitar Gently Weep、Paint It Black、Smoke On The Waterなど往年のヒット曲のカバーもあり、原曲とは異なる演奏を味わう、ある種のカタルシス作用。

2019年4月12日金曜日

本3冊、他

 <森達也 『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』(講談社文庫、2018年、初刊2013年)>:この世の色々な世事についての評論。書名の箇所だけを取上げれば、「死刑制度が被害者遺族のためにあるとするならば、もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのですか」という問いかけである。
 犯罪者に対し厳罰化に進まないノルウェイの考え方、死刑を実施している州の死刑への対応、それらに比して明治以来絞首刑が維持されている日本とこの国の最近の厳罰化への傾向について考えさせられる。死刑に関しては、仇討ちを認めればいいと論じていた呉智英の主張を思い出す。しかし、その際も天涯孤独の犯罪者へは誰が仇討ちをするのだろうか。
 日本では改憲が一度もなされていない、日本以外の国では何度も改憲されている、と主張する人がいるがそもそもシステムの異なる国と比較しても意味がない。改憲は常に俎上にあげられてもいいと思うけれど、今の日本でどこまで真摯に、本質的に議論できるのかは甚だ疑問である。そいう意味では今の改憲には肯けない。
 実態のない集団名で語られるものは容易に本質から目を逸らして責任もあやふやになることは日常的にどこででも、勤務先でも観察されることである。
 「表現の本質は欠落、つまり引き算にある」とすることに得心する。流れるニュースには色々な加算がなされている。コメンテーターと言われる人たちが彼らの感情や意見を加えることに苛立ちを覚えるし、面白おかしく日本語をかぶせて外国人の言葉を流すのも好きではない。本書で知ったことだが、2004年頃から北朝鮮の一般国民が金正日について「偉大なる首領さまである金正日同志」としてボイスオーバーするようになってきたということらしい。今は金正恩を語るときに必ず「我等が偉大なる指導者・・」云々と流れる。朝鮮語を知らないからそれが事実なのか否かは視聴する側としては判断できない、それどころか原語は一切出てこない。別に北朝鮮や他国に関心は希薄であるけれど、我々は一体どのようなフィルター、あるいはアンプリファイヤを通して聞かされ、見せられているのだろうか。

 <與那覇潤 『日本人はなぜ存在するのか』(集英社インターナショナル、2013年)>:書名に「日本人」とあるが、日本人固有の存在を探る内容ではない。キーワードは「再帰性」。一般的な考え方である”因果関係”で現実と認識を結びつけるのではなく、認識論的な考え方である”再帰性”で現実と認識をループさせる。日本人とは、国籍とは、日本文化とか、・・・すべては再帰的な存在であるから普遍性も絶対性も不変性もない。「「日本人とはなにか」という問題は、「人間は再帰的にしかその定義を出しえない」というもう一回り大きな問題の一部」」である。簡単に言えば、当たり前として見られていることに当たり前として断定できるものはない。現実と認識はたえずループを描いているということである。認識論の入門書。

 <北村良子 『論理的思考能力を鍛える 33の思考実験』(彩図社、2017年)>:<第1章 倫理観を揺さぶる思考実験>では「暴走トロッコと作業員」系、<第2章 矛盾が絡みつくパラドックス>は「テセウスの船」・「アルキメデスと亀」、およびタイムマシン系が載せられている。ここまでは殆ど知っている思考実験の課題であり、<第3章 数学と現実の不一致を味わう思考実験>では知っているものもあれば初めて知る問題ある。この章では「モンティ・ホール問題」(同型の3囚人問題が有名)から始まって「ギャンブラーの葛藤」「トランプの奇跡」「カードの裏と表」など確率論的な問題が中心となる。この章では頁を開いたままにし、無謀にも数学的に解こうと試みることが多くなるが、数式を使っては解けないので実際は心理的な側面で考えるのが主となる。最後は<第4章 不条理な世の中を生き抜くための思考実験>。
 小説や歴史書、評論などの活字を追うのに疲れて、あるいは倦きたときの口直しといった案配で開いてみた本。「思考実験」をウェブで探せば沢山ヒットし、好みのものを選択できるのであえてこの本は買う必要はなかったようである。

 「忖度」副大臣が更迭され、桜田五輪担当相が辞任した。両者のニュースを見ていると呆れると共に滑稽である。桜田前大臣は言葉を発する度に、あるいは官僚のアシストを求める度に嗤ってしまうし、前の金田法相の域を超えて歴史に残るお笑い大臣として記憶に残るであろう。失言とかのレベルを超えて単にバカ、無能なだけである。まあ、両者だけでなく他にも沢山おそまつな大臣はいた。
 桜田議員の資質を問うよりも何故にあのような人が市議-県議-国会議員として選ばれるのか、そこに大きな問題がある。選挙に立候補するのはどんなバカでも勝手であると思うが、それが選ばれるという根本的欠陥が現選挙システムにあると思う。それから桜田を「裏表のないいい人なんだけど・・」と評する人がいるが、裏表がないのは換言すれば裏も表も選ぶことができない、頭の中に抽出しが一つしかない貧弱な教養と感性の鈍さ、浅い想像力の裏返しとも言える。簡潔に言えば単純無知(恥)、決して純粋無垢ではない。

2019年4月11日木曜日

雑記

 70歳になってしまった。まだ若かった頃は70歳というともうかなりの高齢で、その年齢になる自分など想像だにしなかった。いざこの年齢に達してはみても、納得するほどにこの世の中を知ったとは言えないし、だから諦観に浸る境地にも到らない。種々なことへの関心や好奇心も消失しないし、それらの範囲内ではあるが知識欲もある。できればその姿勢だけは持ち続けたいと思っている。

 秋田の酒粕焼酎Black Stoneを買って飲んでみた。アルファベットのネーミングには抵抗があるが、アルコール度数41%とウィスキーなみのこの焼酎、結構うまい。

 SoundWarriorのPS10(パワーサプライ)が3月に発売され、購入。これで城下工業のデスクトップSoundWarriorシリーズはすべて揃えたこととなる。それに伴ってレイアウトを少しだけ変更。1つの電源コードが増えた代わりに5つのそれが不要ととなり、電源配線が少しはすっきりした。
 オーディオ機器を都度買い足し、それに伴ってラックも安価に継ぎ足しているためにレイアウト全体が統一感の乏しい様相になっている。それが少しばかり不満ではあるが、こればっかりはしようがない。本来、満足とは制限された自由の中で得られるものであり、いま以上を望めばそれは身の程知らずの勝手な振る舞いになろう。

 送り返された32冊の本を前回とは異なる業者に送付した。28冊が買取対象でほぼ予想通りの金額が振り込まれた。

 相変わらずの踵の痛み。医者は体重を減らし、歩くときは痛みがひどくならないようにしろという。しかしこの弁には矛盾がある。一般的にはダイエットにはウォーキングを奨められ、逆に痛まないようにはウォーキングを抑制しろという、これって”ヤマアラシのジレンマ”に似ているか。

2019年4月5日金曜日

長編小説2冊

 <白石一文 『プラスチックの祈り』(朝日新聞出版、2019年)>:出版社のキャッチフレーズは、「作家・姫野伸昌は妻・小雪の死を境に酒浸りだったが、突如周りで不可思議な現象が起き始め、やがて自身の肉体がプラスチック化し脱落し始める。姫野は天罰と直感するが、しかしなぜ? 微かに残る妻の死の記憶──。読者に挑戦し、挑発する先の読めない展開、圧巻のノンストップ問題作1400枚超!」
 どう捉えていいのか戸惑いながらも、どう展開していくのか、作者どのように小説を閉じようとするのか、そんな気持ちを抱きながら読み続けた。
 小説の中の文章を引用して(無理矢理)姫野の思いを作文してみる。
 「いかなることにも必然は存在する」(426頁)この世界で、「自分自身の意識や認識が信じられなくなってしまえば、人はどうやって生きていけばいいのだろう?」 「自らの観察力、判断力、思考力をどの程度信頼していいのかがもう分からな」(43頁)くなる。結局のところ、「世界とは、人間ひとりひとりが手前勝手で野放図に見ている無定見な夢-60年近くを生きてきて、それが正直な実感」(282頁)である。
 「人間の記憶というのは、これだけは間違いないと信じているものであっても何らかの要望で自分の都合のいいように改変されているのが常」(492頁)であり、「記憶の操作も、全身のプラスチック化もそどのつまりは、「自己の物語」の中の「物語を書く」という中枢部分を何としても守るために起きたように思える」(590頁)。「プラスチック化という理解不能の現象が絡みつくことで、物語はかろうじて新しさを獲得し、独自性を発揮しているように思える」(631頁)。「この世界がもともとプラスチックのような、ものではないのか?」(632頁)。この世界で、「人間は、自己意識によってプラスチックをいろんな事物に仕立て上げ、それらを繋ぎ合わせることで更なる自己意識を編み上げていく。そうやって連なり続けていく自己意識を、我々は「私」と呼び「私の人生」と呼ぶ」(633頁)のである。

 <栗原康 『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店、2016年)>:この人の写真を見ると自然に伊達公子さんの顔が浮かんでくる。
 野枝は奔放でわがままで、そのうえ頭脳明晰であったろう。大杉栄と共に甘粕憲兵大尉に虐殺され(蹴られ撲られ肋骨も折られ首を絞められて)、前夫の辻潤は放浪して60歳でシラミにまみれて死んだ。野枝は18歳で辻一を産み、28歳までに三男四女を産み、末子のネストルを産んだ翌月に「国家の犬ども」(犬がかわいそう)に殺された。
 本書、独特の文体で、かつ筆者の思いが濃縮されてちりばめられ、引き込まれた。もちろんそこには既成概念にとらわれない、時代の先を進む野枝の魅力があるからである。
 「死んでしまえばもうすぎたことよ」と世を上手にわたる世知ある人はいうけれど、実際は何時までも執拗くべったりと死者をも抹殺する。野枝の墓(墓石ではなく石)は、今も今宿の世間から嫌われていて、人の訪れない山中にひっそりと隠されておかれている。もちろんそれは大杉栄とても同質の扱われ方である。
 大正時代には惹かれる。明治から昭和への、オアシスになれきれなかったけれど砂漠のなかに緑の樹木を屹立させて水を漑ごうとした、ぽっかりと空いた休憩場所のような気がする。この表現はまだ大正時代を掴みきっていないからこそ情緒的に言っているだけのことかもしれない。

雑記

 31日、上野で高校同学年同窓会の花見。客人の女性2名を加え、最後は一人が追っかけ参加して総勢9名。夜9時ちょい過ぎに帰宅。
 翌日、踵がとんでもなく痛く、足を引きずって歩く羽目に陥る。
 この日4月1日には新しい元号が発表された。興味が殆どない。外資系の会社に勤務していたせいもあり日常的に元号を使うことはなく、使うとすれば公的機関で書類を申請するときで、往々にして今年は平成何年かと確認することも多かった。元号には賛否両論がある。まぁ三者三様、十人十色、百人百様、千差万別、人によって捉え方感じ方は違う。オレはこういう理由でこう思うと言えればそれでいい。
 3日、森美術館-毛利庭園-ミッドタウン・ガーデン-北千住、と巡る。森美術館の催し物は理解できない、というか自分の興味の枠外。毛利庭園は日本人よりも外国の人が多い。三渓園を歩いた直後のこともありとても狭小と感じた。ミッドタウン・ガーデンは桜が満開で綺麗。観桜する人たちが多い。途中からまたもや踵付近が痛くなり、帰宅時はかなりの痛みがあった。暫くは歩くことは控えることとし、土曜日の上野での飲み会も断わる旨のメールを送信。
 4日、免許更新。500mほどの距離ではあるが踵が痛むことを心配して車で行く。70歳の講習は受講済みなので短時間で新しい免許が交付された。更新するたびに写真には年齢を重ねた自分がある。
 昼、食前酒として鳥飼を飲む。吟香と謳われているように香りゆたかな米焼酎は美味。しかし長く飲み続ければ倦きてくる気もする。いろいろな酒のメニューに加えておけば楽しめる酒である。
 月曜日に古本買取業者に着払い送付した段ボールが今度は元払いで送り返されてきた。買取査定システムの不具合で査定ができなくなったとのことで、おそらくは「2日で査定完了」をうたい文句にしているポリシーに反するための処置であろう。
 5日、午後は、本がつまった段ボールを別の買取業者に送った。午前中は娘の娘のピアノ発表会。例年ならば歩いて往復した会場まで今回は車で往復した。