2019年4月5日金曜日

長編小説2冊

 <白石一文 『プラスチックの祈り』(朝日新聞出版、2019年)>:出版社のキャッチフレーズは、「作家・姫野伸昌は妻・小雪の死を境に酒浸りだったが、突如周りで不可思議な現象が起き始め、やがて自身の肉体がプラスチック化し脱落し始める。姫野は天罰と直感するが、しかしなぜ? 微かに残る妻の死の記憶──。読者に挑戦し、挑発する先の読めない展開、圧巻のノンストップ問題作1400枚超!」
 どう捉えていいのか戸惑いながらも、どう展開していくのか、作者どのように小説を閉じようとするのか、そんな気持ちを抱きながら読み続けた。
 小説の中の文章を引用して(無理矢理)姫野の思いを作文してみる。
 「いかなることにも必然は存在する」(426頁)この世界で、「自分自身の意識や認識が信じられなくなってしまえば、人はどうやって生きていけばいいのだろう?」 「自らの観察力、判断力、思考力をどの程度信頼していいのかがもう分からな」(43頁)くなる。結局のところ、「世界とは、人間ひとりひとりが手前勝手で野放図に見ている無定見な夢-60年近くを生きてきて、それが正直な実感」(282頁)である。
 「人間の記憶というのは、これだけは間違いないと信じているものであっても何らかの要望で自分の都合のいいように改変されているのが常」(492頁)であり、「記憶の操作も、全身のプラスチック化もそどのつまりは、「自己の物語」の中の「物語を書く」という中枢部分を何としても守るために起きたように思える」(590頁)。「プラスチック化という理解不能の現象が絡みつくことで、物語はかろうじて新しさを獲得し、独自性を発揮しているように思える」(631頁)。「この世界がもともとプラスチックのような、ものではないのか?」(632頁)。この世界で、「人間は、自己意識によってプラスチックをいろんな事物に仕立て上げ、それらを繋ぎ合わせることで更なる自己意識を編み上げていく。そうやって連なり続けていく自己意識を、我々は「私」と呼び「私の人生」と呼ぶ」(633頁)のである。

 <栗原康 『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店、2016年)>:この人の写真を見ると自然に伊達公子さんの顔が浮かんでくる。
 野枝は奔放でわがままで、そのうえ頭脳明晰であったろう。大杉栄と共に甘粕憲兵大尉に虐殺され(蹴られ撲られ肋骨も折られ首を絞められて)、前夫の辻潤は放浪して60歳でシラミにまみれて死んだ。野枝は18歳で辻一を産み、28歳までに三男四女を産み、末子のネストルを産んだ翌月に「国家の犬ども」(犬がかわいそう)に殺された。
 本書、独特の文体で、かつ筆者の思いが濃縮されてちりばめられ、引き込まれた。もちろんそこには既成概念にとらわれない、時代の先を進む野枝の魅力があるからである。
 「死んでしまえばもうすぎたことよ」と世を上手にわたる世知ある人はいうけれど、実際は何時までも執拗くべったりと死者をも抹殺する。野枝の墓(墓石ではなく石)は、今も今宿の世間から嫌われていて、人の訪れない山中にひっそりと隠されておかれている。もちろんそれは大杉栄とても同質の扱われ方である。
 大正時代には惹かれる。明治から昭和への、オアシスになれきれなかったけれど砂漠のなかに緑の樹木を屹立させて水を漑ごうとした、ぽっかりと空いた休憩場所のような気がする。この表現はまだ大正時代を掴みきっていないからこそ情緒的に言っているだけのことかもしれない。

0 件のコメント: