2017年5月23日火曜日

『「勝ち組」異聞』

 <深沢正雪 『「勝ち組」異聞』(無明舎出版、2017年)>:日本からのブラジル移住者における「負け組」・「勝ち組」とは、一般的に、日本の敗戦を事実として受け止める前者と、いやそんなことはない日本は勝っているのだ、勝つに決まっているのだと狂信的に信じる後者がいたとする知識しかなかった。それは、歴史教科書が「移民」を表面的にしか扱っていないこともある。例えば近現代史に多くの頁を割いている『図説 日本史通覧』(帝国書院)では「特集 日本人の海外移民」が1頁編まれているが、極々簡単にしか記述されておらず、移住先での人々の生活あるいは歴史に思いを馳せることはできない。
 負け組の人たちを殺すほどの狂信はなぜ生じるのか、それが真実なのか、といったような想像を働かせる著作物や報道には触れることはなかった。新聞で『「勝ち組」異聞』の広告を見て、そしてまたそれが地方の秋田市にある無明舎出版から刊行されていることに興味を抱き購入した。
 ブラジル/サンパウロ市にあるニッケイ新聞に連載された記事を編集しているせいもあり、現地で一般的に知られていることもすんなりと入ってこない、重複する部分もある、各章の繋がりを理解するのに少し努力が必要などの不便さもあるが、ブラジルに渡った(サンパウロ中心だが)日本人の「日本への思い」を知るのに好著である。
 長い歴史を簡単に記すことは不可能であるが、本文から引用すると次のようになる。すなわち、「勝ち負け抗争は日本人同士が殺し合ったというコミュニティの歴史の恥部ではなく、ヴァルガス独裁政権時代の迫害が原因となっている人権問題である」(41頁)と。また、「勝ち負け抗争の本当の原因は"戦前戦中からの日本人差別"にあった。終戦後に、日本人差別への反抗心を"日本は勝ったはず"と思うことで押し通そうとした勝ち組に対して、官憲からの弾圧を恐れたのが負け組という基本構図があった」(27頁)。それは確かにそうであろうが、もっと深いところには、心の闇のような場所から自らを解放したいと希うときの、人間の本質的な弱さというものを想ってしまう。
 この本の内容を思い浮かべるときのために、以下キーになる言葉、あるいは引用を羅列しておく。
 戦前は関東大震災(1923年)があって罹災者の南米移住奨励政策があったこと、戦後は中国大陸などからの多勢の引揚げ者などによる国内人口増加や食糧難などの諸問題への対処として南米移住が再開した。
 戦前の移住者への諸外国の対応は、米国を代表的とする排日移民政策、戦争拡大とともに枢軸国への国交断行、資産凍結、敵性言語使用禁止、強制移動と集団隔離収容、日系指導者の逮捕、等々。米国における強制移動は有名だが、カナダでも映画『バンクーバーの朝日』でその一端を知り得る。米国に近しいブラジルも米国政策に追従し同様の政策を執った。
 移住者は出稼ぎのつもりで渡航し、5年か10年経って稼いだら日本に帰ると夢見ていた。
 ブラジルの状況は、1937年に独裁政権が誕生し、日本人たちへの迫害が始まった。「14歳以下の子供への日本語教育禁止」、「全日本語学校の閉鎖」命令。そしてブラジルに国家主義が高まる。日系社会では日本ナショナリズムを植え付けるべく日本政府が動いていた。日本の国家主義的傾向とブラジルのそれがコロニアで激突。大政翼賛会をまねた「大政翼賛会同志会」が発足。
 ブラジルが国交断絶を宣言し、その後街からの立退き命令、日系企業・日経金融機関・大農場に資産凍結令が出される。そのような状況下、日本国大使ら外交官や駐在員だけが交換船で帰国。移民たちは「置き去りにされた」との思いを強くし、「自分たちは棄民にされた」と思うようになった。
 戦争中まで移民の大半は「日本が勝つ」と信じていた。エリート層も同様にそう思っていた。エリート層主導の日本人文教育普及会も密やかに活動を続けていた。
 米国政府主導下、ブラジル政府はコロニアの指導者階級に注目し、スパイ容疑で逮捕して移民収容所や社会政治警察に収容し、拷問までした。植え付けられたのは「ぜったいにブラジル政府には逆らわない」という恐怖心。一方、移民大衆は「日本は勝つはず」と純朴に信じ続けた。1973年には24時間以内にサントス市居住の日本移民6500人が強制退去させられた。
 日本語新聞の発刊は禁止。情報は短波放送「東京ラジオ」。短波ラジオの所有も禁止させられていたがこっそりと持つ者もいた。しかし、日本の情報発信は「大本営発表」で、嘘偽りの戦果に接しては日本が戦争に勝って迎えに来ると心が躍る。もちろんブラジルも報道はするも、それは「アメリカのプロパガンダ」とするのが常識だった。
 ブラジルにあって日本の戦争に実感は伴わない。空襲はないし、バケツリレーもなかったろう。敗戦の「玉音放送」とそれまでの「大本営発表」のギャップは理解しがたいものであったろうし、負けるはずがないとの信念を抱いている。そもそも「敗戦」が意味することが分からない。敗戦は日本がなくなること、天皇制もなくなる、帰るところがなくなる、などの印象で、心の拠り所がなくなる。つまり敗戦を飲み下せない。指導者もいない。権威筋を求めて在郷軍人を中心にして「臣道連盟」が組織される。とびかう「戦勝デマ情報」を信じる。信念派。
 敗戦後もブラジルでは戦中の日本移民対処は続く。勝ち組の動きは反政府運動と捉えられることを恐れる層がいた。つまり、戦中に資産凍結や監禁・拷問をうけたリーダー/インテリ層で、彼らは負けを認識させようと動く。認識派。戦前・戦中時は日本精神を教える「日本人文教育普及会」を牽引する立場だった層が、敗戦を認めさせる動きをすると、勝ち組(信念派)は怒った。そこに「日の丸事件」が発生。勝ち組は強く反発する。殺人事件発生となる。一方、手勢のない負け組(認識派)にはポルトガル語が話せる者もおり、またかつての官憲への恐怖もあり、官憲側との繋がりを強くした。臣道連盟幹部の一斉検挙し、信念派への大弾圧開始。認識派が直接手を下したのではなく、ブラジル官権とマスコミを動かして「合法的」にやったとの分析もある。
 1946年3月から翌年1月までに20数人が亡くなり、数十人が負傷する。戦後のブラジル日系社会に発生した内部抗争である。1955年の「桜組挺身隊事件」が抗争の最後。
 しかし、2000年にブラジル人有名ジャーナリストがセンセーショナルな脚色を相当加えて「勝ち組=臣道連盟=テロリスト」という図式をブラジル社会全体に広め、大ヒットさせた。それに対して憤りを覚えた人たちが反論し、映画を作り、裁判も起こした。今もまだ続く「勝ち組」「負け組」抗争、或いはテロ組織として根付いてしまった臣道連盟である。
 著者が編集長として勤める「ニッケイ新聞」の記事はネットで読むことができる。

2017年5月19日金曜日

大島-新島-式根島-神津島

 5月14日午後に竹芝桟橋から船に乗り大島に向かった。2泊3日の東京諸島の旅行でいつもの如くのパック旅行。14日は大島/岡田港に降りてあとは温泉ホテルに宿泊するだけ。大島は2009年夏に高校同窓会以来で2度目。まだ明るいうちに三原山を眺めながら露天風呂に入り、夕食-特に椿油でのフォンジュスタイルの天ぷらが美味しかった-を摂って、部屋でだらだらとウィスキーを飲んで21時前後には寝てしまった。ベッドではなく蒲団のせいなのか何度も寝返りをうってはいるが翌朝7時頃まで寝てしまう。
 翌日は元町港(8年ぶり)から新島に移動。伊豆諸島最大の神社である十三社神社に立ち寄り、抗火石の採石場跡で石を拾い、峠の展望台から海を一望し、オリーブグリーンのグラスを買い、くさやを試食。くさやの里は非稼働日であったせいか臭いも少なく、皆も試食をして美味しいと繰り返し食べていた。我が家人も何度か試食し、すぐに食べられる形になっている商品購入の許可が出て、港のショップで買った。尢も自宅に帰って食するときは、臭さに十分に気をつかわなければダメだろう。
 新島から式根島まで村営の船に乗って移動。温泉に入りたいがために宿の人に地図をもらい、道順を教わって“温泉憩の家”に向かう。その公営の温泉にはシャンプーの類がなく、親切にも宿の人がボディーシャンプーからシャンプー・リンスまで貸してくれた。教えてもらったにも拘らず道の曲がり角で少し迷い、近くにいたオバサンに尋ねて歩を進めた。少し歩いたら横に車が停まり、そのオバサンが乗って行けばいいという、出かけるついでだから送ってあげると仰る。親切に甘えて温泉まで乗せてもらった。広くはない温泉だが気持ちよい。地元のジイサンと話しをし、ゆったりと湯につかった。
 夕食は前日以上に美味。宿は民宿の名を付けているが、なかなかにキレイで普通の民宿から抱くイメージをいい意味で裏切ってくれた。経営者は漁師さんで、刺身・島寿司などが美味い。特に金目鯛まるごと一匹は絶品-まるごと一匹と書くのは以前に尻尾だけで結構なお金を払ったことに起因するウラミみたいなものヵ。
 翌日は島に住む人の案内で海水浴場や展望台などを数時間歩いた。小学生の子供をもつ男性ガイドさんは奥さんが島の出身で、奥さんの親が亡くなって民宿を継ぐために島に来たとのこと。消防団の勤めや島の習慣は結構大変みたい。特に葬儀は島独特のしきたりがあり、話しを聞くだけでオレには絶対にムリだ、住めないと思った。
 島弁当を食べて神津島に向かった。当初の予定では神津島港にて降りる予定であったが、この日は三浦港に着いた。前者の港ならまだ時間潰しもできたであろうが、三浦港付近には何もない。添乗員さんが問い合わせてから待合室もやっと鍵が空けられ、ショップにも人が来て、やっとそこで時間を過ごした。店が開いたことで評判の高い焼酎である盛若を購入できたのが幸いだった。そういえば大島でも式根島でも、島の宿で飲む焼酎は安価だったし美味だった。
 神津島から式根島・新島・外島・大島の港に寄って竹芝桟橋に帰ったのが17:20頃。前日も21時頃には寝ていたのに、船中では殆ど眠っていた。本を2冊持って行ったのにページを開きもしなかった。島というと何故か南の島の思い込みが強く、東京都の島であっても遠く離れた島にやってきた感覚があった。小笠原にも行ったし、あとは八丈島には行っておきたい(焼酎がやはり美味い)、青ケ島は無理か。

2017年5月13日土曜日

60 Delicious Whiskeys (2/2)

 32本目から60本まで。続きはいつになることやら。




やら。

60 Delicious Whiskeys (1/2)

 2013年にCutty Sark aged 12 yearsから始まって12年ものを中心にウィスキーを購入して飲んだ結果が下の写真。当初は“やまや”にあるaged 12 yearsのウィスキーを制覇しようと目論んだが、店では新しい銘柄も随時並べており、終わることがない。
 Alcohol is the anesthesia by which we endure the operation of life.・・・Bernard Shaw



2017年5月10日水曜日

日々是好日

 ジトジトと雨が続き肌寒い。美園イオンに近い某トンカツ屋に初めて入ったが淡泊な味で美味しくない。二度と入らない。同じ価格ならイオン内のチェーン店が遙かにいい。過日行徳で食べたとんかつが今までで最上の味と思い出す。
 書店で新刊に手が伸びそうになるがグッとこらえて買わず。
 夕方、鍵を忘れてしまい家には入れないと娘の長男が来る。少し大きめの学生服が中一であることを示して初初しい。意外にもバスケットボール部に入り、楽しくやっているみたい。娘の子どもたちのためにいつもお菓子やアイスクリームを常備しており、彼は当然の如くに口にする。夕食前なのだが我が家に来たときは一切制限せず好きにさせている。母親から帰宅を催促するメールが来て、ご飯を少なめにしておいてと返事していた。娘もその理由を承知している。

 <雨瀬シオリ 『All Out 11』(講談社、2017年)>:絵が嫌いだと言いながらも11巻目に進み、ページを捲れば花園への神奈川予選が始まった。

長谷川卓(2)、雑感

 <長谷川卓 『嶽神伝 鬼哭 (上)(下)』(講談社文庫、2017年)>:2006年から長谷川卓の小説を読み始め、殆どの作品を読んでいるはず。今回は二日続けて上下2冊をほぼ一気読み。
 シリーズを通しての人物が登場するが年老いた猿のトヨスケは物語のはじまりで死んでしまった。越後の長尾景虎(上杉謙信)、甲斐の武田晴信(信玄)、北条幻庵、山本勘助、ちょこっとではあるが松平次郎三郎元信(家康)・織田信長・木下藤吉郎も物語を彩る。舞台はもちろん駿府・信濃・越後でありそこを縦横に走る”山の者”(無坂・月草・真木備)と忍びたち。山本勘助は自らが予想した死地である第4次の川中島の戦(1561年)で戦死する。
 信長の余命は12年、秀吉は28年で今回の物語は巻を閉じる。戦国の世はまだまだ続くが、たかだか数十年で徳川の天下を迎えるとも言える。
 
 フランス大統領選挙、韓国大統領選挙、両方とも予想通りの結果と報道される。フランス大統領選挙後は極右ルペンの敗北で株価があがり、円安となった。その点においては当方にとってはいいことである。韓国新大統領は北と話し合い路線ですすむらしいが、果して話し相手として相応しいのか首を傾げる人は多いであろう。両国大統領選挙の投票率は70%代後半、高いのか低いのか、はたまた適当なのか不適当なのか。この半分以下ほどの投票率の結果で当選バンザイをする日本の政治家(地方も含めて)たちはお芽出度い存在にも見えるが、どうなのだろう。
 翻って日本の参院予算委員会での質疑答弁、滑稽を通り越して呆れてしまう。問題をすり替えての返答、皮肉った笑みを浮かべた答弁、木で鼻を括るという用語事例に相応しい応答、錆の浮いた刀で何度も切ろうと試合に臨む人たち、等々、ニュース解説では議員の劣化と言うけれど、劣化した物品は通常は廃棄して新品にするが、それもできないで劣化したモノを見つめて喋っているだけの感もある。「自民党総裁としての考え方は、相当詳しく読売新聞に書いてある。ぜひ熟読して頂いてもいい」でふと思った、首相は読売新聞を自らの広報誌と捉えているのかと。

2017年5月8日月曜日

早稲田ラグビー、血圧

 大学ラグビー春期大会、早稲田は初戦の大東大戦で0-27と完封され、次の東海大戦は前半イーブンなれど後半に7Tも奪われ29-67の大敗。今年も今のところはいいところなし。どうもFWやセットプレーがダメみたい。あとは流経大・帝京・明治との試合であるが、下手すりゃ全敗もあり得る。FWは昨年から結構変わっているので、春はまだチーム作りでしようがないとも思える。
 5月に入って1年生が出始めた。久保・下川・古賀・高吉は今後Aに絡みそうである。宮里はやはりHOに転向していた。かつての青木のような運動量を期待したい。梅津・桑山(淳)はまだ出てきていないが怪我なのか。特に桑山は長く出ていないので気になる。昨春に大きな怪我でもしたのか。

 昨年11月下旬から血圧を意識して幾つかのことに取り組んできており、数週間後から効果が出てきた。サボることなくやっているせいであろう、上が160前後、下が95前後あったのが、いまは130/80を切るようになってきた。このままの値で続くとは思えず、時には高くなるときもあろうが、まずは良しとしたい。

2017年5月5日金曜日

長谷川卓

 <長谷川卓 『父と子と 新・戻り舟同心』(祥伝社文庫、2017年)>:「戻り舟同心」の新シリーズ。もちろん中心は68歳二ツ森伝次郎であり、いつものメンバーが周りを固める。今回の物語の中心は上方の盗賊、夜宮の長兵衛が軸をなし、そこに真夏の存在が絡む。文庫本の表紙は牢内であり、顔を両手で覆う長兵衛に水を供する真夏とそれを見守る伝兵衛がいる。この表紙を覚えていて物語を読み続ければ最後の落としどころが容易に想像できる。真夏は小牧に見初められ、泥亀こと百井亀右衛門に養女に入る準備ができ、隼を思う伝兵衛の孫正次郎の恋はまだ先が長い。

 基本的に、時代小説は長谷川卓と永井義男のものしか読まないと決めてから1年ほど経った。佐伯泰英の「居眠り磐音」の子のシリーズにも手を出していない。鈴木英二を読まなくなってからは7年も経った。永井義男は新書を出しても小説は出していないからもう6年もご無沙汰。長谷川卓のもう一つのシリーズ「嶽神伝」の「鬼哭」を続けて読もう。

2017年5月4日木曜日

駒沢敏器の本

 <駒沢敏器 『アメリカのパイを買って帰ろう 沖縄 58号線の向こうへ』(日本経済新聞出版社、2009年)>:『ミシシッピは月まで狂っている』(1997年10月)、『語るに足る、ささやかな人生』(2007年12月)、『夜はもう明けている』(2008年2月))、『地球を抱いて眠る』(同年8月)以来、9年ぶり5冊目(括弧内は読んだ年月)。
 パイの店(「アメリカのパイを買って帰ろう」)、チビだった少年時代(「きみは小さいのでショーリーと呼ばれたんだよ」)、CoCo壱番屋(「嘉手納軍人のソウルフード」)、ブロックで家をつくる(「石の箱でおうちをつくる」)、SPAMの缶詰(「今宵はポーク缶詰のバラッド」)、コザの観光ホテル(「最後の京都ホテル」)、アメリカから外に出ざるを得なかった牧師の苦悩と前進(「教会を捨てて戦争にNOと云う」)、沖縄はアメリカのコロニーとなり、その後は日本のコロニーと化す(「芝生のある外人住宅」)、ロック・ポップスで沖縄文化を築いた人たち(「幻のラジオステーションKSBK」)。
 政治史、米軍の軍政史、経済史等々から見る沖縄にはあまり興味はない。それよりもアカデミックに著されることの尠い生活史に目が向く。地政学的に立っての米軍駐留是認、日本から離れたら経済的に破綻する或いは中国に隷属させられるとか、視座を「日本」におく無知蒙昧とも思える底の浅い感想もよくあるが、基本は人々の生活そのものに置くべきであろう。沖縄の歴史を感じ取るにはこの本のような視座に身を置くことが大切だとつくづく思う。それは歴史書で語られることは少ない。

 <駒沢敏器 『人生は彼女の腹筋』(小学館、2014年)>:著者最後の作品集である小説集(5編)。もっとも好ましいのは「ルイジアナ大脱走」だが、このコミカルとも言えるタイトルはいただけない。いっそのことストレートに「ノーリンのベニー・アントワン」とでもした方がよかったのではないか。「人生は彼女の腹筋」は分からないし、描こうとした「人生」が何なのか分からない。「那覇空港のビーチパーティ」は『アメリカのパイを買って帰ろう』に繋がっているが、ノンフィクションで描けた時間や空間が小説では描き切れていない感がある。

 上記2冊は購入したまま数年間は読んでいなかった、というより亡くなってしまったことに「何故?」がいつもつきまとい、もうこの著者の本は読めないと思うとなんとなく手が伸びなかった。
 『ミシシッピは月まで狂っている』でアイリッシュ音楽に惹かれ、エニスのミュージック・ショップに発注してアイルランド西クレア地方を中心にしたインディーズのCDを購入するようになった。『語るに足る、ささやかな人生』(いい本である)でアメリカの片田舎を撮した写真が記憶に残っている。
 2012年3月に「首に絞められた痕があっ」て、母親の書き置きもあったとの報道が成されている。あるブログには、前年末から原因不明の病気に罹っていたらしいとの記事がある。真の死亡原因は分かっていない。好きな作家がいなくなるというのは、自分の人生も黄昏時に向かって歩んでいるような気がして寂しい。
 『街を離れて森のなかへ』(新潮社 1996)は読んでいない。多分手にすることはないだろう。51歳で亡くなったその理由はネットを探しても見つからない。

2017年5月1日月曜日

飲み過ぎ?、風邪?

 27日(木)夕から飯田橋で飲む。昼食の量が多かったため最初の店では野菜サラダとポテトサラダだけをつまみにして二人で焼酎720mlを一本。これで帰宅すれば良かったがウィスキーを飲みたくなり神楽坂に向かう。4-5年ぶりに入った小さなスナックには客がおらず、店を出るタイミングが掴めない。帰宅の時間が気になって23:30頃にはやっと店を出た。しかし、そこからが大変だった。乗換駅を過ぎてしまい、気づけば千葉県に入っている。慌てて戻り、北千住からは北春日部行きの最終電車に何とか間に合い、駅から歩いて帰宅時間はほぼ午前2時。
 翌日は夕方頃まで何もする気がなく、家人の送り迎えをチョイとやっただけで無為の一日。土曜日も何か調子が悪い。風邪を引いたような気がした。そして日曜日は頭痛と悪寒で午後からベッドに入った。よくもまあ長時間眠れるものだと呆れるほどに寝た。夕方に起きて再度20時にはベッドに横になりひたすら眠る。
 疲れているせいか、風邪気味の所為なのか、いや宿酔ならぬ三日酔い・四日酔いに近いのか、いずれにしても全ての原因は木曜日の飲み過ぎであろう。8日の花見では抑制して飲んでいたのだが、その反動で飲み過ぎたみたい。酒精への耐性劣化、積み重なった年齢、反省の欠如。結婚・離婚・再婚への箴言を転用してみれば、飲酒に対峙するときの判断力の欠如、酒精の魔力と誘惑に対する忍耐力の欠如、繰り返す飲み過ぎへの記憶力の欠如とでもなろうか。