2020年2月24日月曜日

新型コロナウィルス、一貫性のない読書3冊

 新型コロナウィルスに対し数日前から急に弱気となり、不特定多数の人たちが集まる場所を敬遠するようになってきた。何日かごとに近くのスーパーやコンビニに行けば日常生活には全く困らないので、当分はこの状態が続くであろう。旧日光街道歩きも電車に乗って最寄りの駅まで行くことが前提なので、これも暫くは中断することとしたし、数日後に予定していた、柏での友人との飲み会も当分延期することとした。毎年恒例の上野公園での花見も中止となった。感染者の増加が下火になるまでは今の心持ちが継続される。

 <赤田裕一・ばるぼら 『定本 消されたマンガ』(彩図社、2016年)>:マンガが「消される」理由は、「人権、猥褻、宗教、著作権、盗用疑惑、業界裏事情・・」と様々なものであろうが、青少年に対しての有害図書、悪書追放などを標榜する各種婦人団体や教育委員会などの活動には時には反発を覚えていた。あまりに声高に正義を振りかざされると抗いたくなるし、それは多分に、その「正しさ」の主張のなかには何か本質的なものを覆い隠しているように感じるからであろう。また、「正義」を振りかざすなかには「正義」でないものへの冷酷な排他性が隠されることがあるのも事実である。
 結局のところ、「組織や仲間の正義が正しいか否かは、それを判断する”私”が正義をしているか否かだ」(あるドラマでの台詞)ということ。

 <小沢健志・岩下哲典 『レンズが撮らえた 幕末明治日本紀行』(山川出版社、2011年)>:再読(見)。風景や建造物の写真を見てはそこに存在していたであろう人たちを想像する。人物が写っていればその人の一生はどのようなものだったのかと思いを巡らす。古い写真を眺めるとこのような想像パターンに陥ってしまうのはいつものことである。7年前のメモにも似たようなことを記していた。

 <伊坂幸太郎 『AX アックス』(角川文庫、2020年/初刊2017年)>:最初はさして面白くもなかったが、後半以降、具体的には「EXIT」から最後の「FINE」まではそれまでの伏線を踏まえての展開で上手さを感じた。但し、この軽さは好みでない。

2020年2月20日木曜日

旧日光街道、『ある村の幕末・明治』

 18日、自宅を7時少し前に出て春日部駅で電車に乗り込み、TaHiとともに自治医大駅まで移動。この日はここから東武宇都宮駅まで旧日光街道を歩く。宇都宮からは梅島まで移動し、SuJuと合流して飲む。春日部駅~自宅の往復を含めて約24kmのウォーキング。

 <長野浩典 『ある村の幕末・明治 『長野内匠日記』でたどる75年』(弦書房、2013年)>:幕末・明治維新の時代、一般庶民は大きな政変をどう受け止め、あるいは翻弄されていたのだろうか、それを少しでも実感したくて本書に目を通した。実史料に基づいて当時の農民を活写する。
 旧会津藩士で阿蘇にて戦死した佐川官兵衛の波乱の人生を知りたくなった。また、人命を奪うことのなかった阿蘇の農民一揆のことも知りたくもあるが、こらえておこう。
 幕末・維新黎明期の本といえばすぐに江馬修『山の民』が頭に浮かんでくる。

2020年2月15日土曜日

『背高泡立草』

 <古川真人 『背高泡立草』(『文藝春秋』、2020年3月号収録)>:読み始めた途端に文章の読みにくさというか、句読点の使い方がすっきりせずに、自分ならばどう書くのかと立ち止まってしまった。読み進めても時々は引っかかりを感じて滑らかには入ってこない箇所があった。全体への感想はというと「つまらない」に尽きる。時間の異なる3つの物語が繋がりもなく描写される。「緻密さと冗漫さがないまぜ」(宮本輝)になっているが、「冗漫さ」しか感じられず、作者は「結局はただわけもわからぬまま書いているように見える」(松浦寿輝)という指摘が的を射ていると感じる。

2020年2月14日金曜日

旧日光街道、給湯器交換、ミステリー2冊

 12日、野木駅からスタートして旧日光街道を歩き、自治医大駅まで歩いた。自宅から春日部駅までの往復を含め、この日の歩行距離は約27km。春日部の店に入りTaHiとアルコールで体をほぐすのも3回目となった。

 13日、ガス給湯器の交換。10年ほどが寿命と言われているなかで、15年以上使用しているのでガス展開催を契機にして交換とした。交換作業に来た人の作業が丁寧で、特にドレン配管が予想以上に体裁が良く、こういう仕事をしている人は多分何事にも真摯に取り組んでいるのだろうと思った。

 <今村昌弘 『魔眼の匣の殺人』(東京創元社、2019年)>:前作『屍人荘の殺人』で高い評価を得、大きな話題となった著者の第2作。前作では読んでいて引き込まれたが、今作はちょいと小粒になった。クローズド・サークルの舞台の中で、非科学的な予言と謎とき論理をうまく絡めているが、その分複雑になっているし、躍動感が薄い。二日間で4人が死ぬという予言と実際に起きる殺人、謎ときは、前作に引き続き登場する美女剣崎比留子。最後の文章で次作が“予言”されている。

 <梶村啓二 『ボッティチェッリの裏庭』(筑摩書房、2019年)>:帯に「アートミステリーの超新星出現」とあるが、ミステリーとして読むと結末は落胆する。何だよこの終わり方は、カオルの娘カサネが入れ替わっているなら何故追い求める絵の在り処をを知っているのか、何故最初からそこに行かないでバーゼルやルチェルンを訪ね歩くのか、最後に絵を消失させて偽カサネが姿を消す理由と手段は超常現象なのか、と文句を言いたくなる。
 ボッティチェッリの生きていた1510年のフィレンツェ、1945年のヒュッセン、そして現在と3つの時代が描かれる。
 11年前にウフィッツィ美術館で「ヴィーナスの誕生」を目の当たりにしたときも大した感激もなかったほどに自分は美術には疎いのだから、小説での絵に関する描写が精緻であっても、こっちにはそれを味わう資質がそもそも欠けている。

2020年2月9日日曜日

セイタカアワダチ草、『熱源』

 今季の芥川賞は古川真人さんの「背高泡立草」となった。この作品名を見て頭に浮かんだのは、十朱幸代さんが歌う「セイタカアワダチ草」。今から43年前、1977年の歌だから十朱さんが34-5歳ごろ。奇麗な声で歌っていてもっと知られていても良いと思うのだが。

 <川越宗一 『熱源』(文藝春秋、2019年)>:直木賞受賞作で、一時は品切れにもなって手に入れるのに日にちを要した。それ以外には何の予備知識もなく読み始め、時間的にも空間的にも人間社会的にも壮大な舞台なのであるが、何というのだろうか、箇条書き的で深みがなく、エピソードの寄せ集めによる連鎖という感が強かった。改行の多い文章にもそれが表れていると思う。読み終わる頃になって本書が、史実に基づく小説であることを知り、史実を小説にする難しさと安易さの両方が混じり合っていると思った。穿った見方ではあろうが、史料に書かれていることをうまくつなごうとしたのではないかと思ってしまう。本書のように一冊にまとめるのではなく、もっと細部にまで描写し、数巻にわたって大長編にして編んだ方が良いのではないだろうか。本書ではダイジェスト版を読んで安易に済ませてしまったという感がある。
 ここに描かれている物語に深く入り込もうとするには、巻末にあげられている参考文献を読むのが一番よく、その上で自分が受け止める世界を築くことだろう。
 ポーランドについては、通信教育に励んでいた頃に興味を持ち、『ケンブリッジ版世界各国史 ポーランドの歴史』(創土社)を読んでいたので朧げに知っていた。ビウスツキの独裁政治も微かに記憶に残っていた。一方、アイヌについては一般的なことがらしか知らない。樺太アイヌについては何も知らないに等しい。知らないことが多すぎる。
 ヤヨマネクフ(山辺安之助)・シシラトカ(花守信吉)・千徳太郎治・バフンケ・チュフサンマ・ブロニスワフ=ピウスツキ・ユゼフ=ピウスツキたちはwikipediaでも知ることが出来る。金田一京助・白瀬矗・大隈重信等々、歴史上の人物はほかにも登場する。

2020年2月4日火曜日

仙台、旧日光街道、樋口さんの小説

 1月28日病院へ、次の通院は3ヶ月後。帰宅後は大宮から仙台へ向かう。
 1月28-29日は仙台で通夜と告別式。二日間とも雨。久しぶりに履いた革靴にトラブルが生じ慌てたが、一時的対策を施し、帰宅までなんとかもたせた。帰宅して廃棄。

 2月3日は旧日光街道ウォーキング2回目。自宅~春日部駅、南栗橋駅~野木駅、春日部駅~自宅の合計約21.1kmを歩く。Garminを充電しておいたのに持ち出しを忘れてしまい、移動距離は“キョリ測”にての数値。春日部駅近くの飲み屋さんで飲むのは前回と同じ。同行のTaHiは日本橋からの継続歩行であるが、こっちは春日部スタートなので、いつか日本橋~春日部を歩かねば(大げさな表現ではあるが)画竜に点晴を欠くことになろう。

 <樋口有介 『うしろから歩いてくる微笑』(東京創元社、2019年)>:柚木草平シリーズ、舞台は鎌倉。いつもの軽妙な会話が続き、登場人物も主人公以外にこれといった男性は登場せず、娘と女子高校生、独特なキャラの妙齢な女性たちが物語を彩る。サントリーミステリー大賞受賞以来いろいろな賞の候補にはなるも受賞には至らなく、マンネリと言えなくはないが、やはりこの樋口ワールドが好きなので読んでしまう。
 樋口さんも今年で70歳。相変わらず独身生活に漬っているのか。沖縄は離れたのかな。
 3月には新刊が出る。予約は済んでいる。