2023年6月28日水曜日

55年以上前の歌、踵の痛みの再発

 AKAI EWIで演奏すべくバッキング・トラックの作成とともにメロディー譜の作成に多くの時間を割いている。作ってばかりいて練習が疎かになっているのは、読みたい本を沢山買って積読状態と化す行為に相通じている。
 何時でも好きなときに本を読む、楽器に触れる、音楽を聴く、器材を操作する、等々のことを可能にする環境を整えておきたいというのは自分の性癖への弁解かあるいは強弁である。

 1960年代後半、高校時代から大学入学の頃に好きになった曲がいくつもある。その中には、古いせいもあろう、あるいはヒットしなかったものもあり、楽譜(メロディ)が手に入らないものも少なくない。有料サイトで検索しても見つからず、結局は自分で作るしかない。そのような曲の楽譜を2曲載せる。

 「さよならをいう前に」・・・中村八大作曲で1969年に小林啓子が歌った曲。詞は好きではないが物語を感じさせ、ガラスのような透明感がある。どこか「黄昏のビギン」にもつながる雰囲気-ビルの窓の灯りと雨に反射する光でキラキラする夜に街に佇む人-というシーンが浮かぶ。楽譜が見つからず、初めて耳コピをし、耳コピ経験豊富な友人にチェック依頼もした楽譜であり、自分では90点以上の出来映えかなと自負して(己惚れて)いる。

 「星かげの径で」・・・誰がいつ頃に歌った曲なのか皆目分からない。レコードになったのか否かも分からない。作詞の伊藤レイ子さんはかつて新宿にあった歌声喫茶「ともしび」の運営に関っていた人らしく、もしかしたらそこで歌われていたのかもしれない。楽譜も曲も見つからず、でもなぜだか詞を見ただけで歌うことができる。1968-69年頃に五線譜ノートに写し取ったものをずっと持っていて、それを楽譜作成ソフトMuseScoreで楽譜に落とし込んだ。誰かこの曲について情報を持っていないものだろうか。

 左足踵の痛みが再発した。前日夜半から少し痛みを感じていて、翌朝からはかなりの痛みで歩くにも足を引きずってしまう。経皮沈痛消炎剤を貼っても鎮痛薬を服用しても然程には効かない。4月下旬に約4年ぶりに再発し、1ヶ月もかからずに痛みは消滅したのに今度は間を空けずにまたもやぶり返した。また暫くは付き合うしかない。
 ・・・・・と思っていたら、1日経った朝から痛みが大きく軽減していた。これを書いている今は痛みが全くない。訳が分からない、一体どうなっているのだろうかオレの左足踵は。

2023年6月26日月曜日

マンガと新書

 6回目のコロナ・ワクチンを接種。ベッドに入って眠りに就くときに注射した辺りが痛い。失敗した、右肩にしておけば良かった。

 バレーボール・ネーションズリーグでの日本チームの試合を楽しんでいる。男子は予想もしていなかった8連勝。試合観戦を暫く離れていた間に知っている選手の名前が少なくなった。

 <古谷経衡 『シニア右翼 日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中公新書ラクレ、2023年)>:シニア右翼の現状の主張(の愚かしさ)とその誕生の起因を、戦前から現代に至るまでの政治・社会・経済なとの分析に基づいて解明する。至極まっとうと思い得心する。好著。
 親しくはないが知人の中にネトウヨ的な言説を口にする人が少なくとも二人いる。ある二つのシーンを思い出す。一つは、ある日、友人たちと一緒に大宮氷川神社を歩いているときに、以前から仲間内ではアホなウヨクと称されていた知人が陰謀史観的言説を口にしたとき、もう一人の友人が「そんなのバカな右翼がしゃべっているだけだ」と断じた。そのネトウヨ的知人は照れ笑いを浮かべながら黙っていた。もう一つは、ある飲み会で、TBSは韓国人に乗っ取られている、名前からしてそうだと口に出した。その対象となる人は単に名字が漢字一文字で下の名が漢字二文字の合計三文字であったがためであったと思う。帰宅後にちょいと調べたら出所はYouTubeにあったことが分かった。また、ベトナムでの韓国軍による戦争犯罪を滔滔と述べ始めた。かつての東南アジアでの日本軍の戦争犯罪はどうだったと聞いたら、言下にそれはないと否定した。以降、この二人とは他の友人たちをも交えて会うことがあるが、一定の距離をおくようにしている。そう、面倒くさいアホとは付き合うなという基本に従って。

 <田中圭一 『ペンと箸』(小学館、2017年)>:23人の著名漫画家の子に会って、その漫画家の好物を食しながら、その父あるいは母のエピソードを取材するというグルメマンガ。パクリマンガ家と称される著者は取材対象となる漫画家の作風を模して描く。いろいろなエピソードが個性的で面白い。

 <田中圭一 『Gのサムライ』(リイド社、2016年)>:田中圭一らしいいわゆる「ゲスマンガ」(著者本人がそう書いている)。登場人物は島流しにあったサムライ・品場諸朝と貴族・腹上院魔手麻呂、そして食料その他を島に届ける棄木煮淫妖斎。一貫して流れるテーマは流人となった二人が童貞を脱出すべく奮闘するお下劣物語。ゲスであるけど面白い。『神罰1.1』同様に人のいるところでは頁を開くことは厳禁である。「G」とは何を意味するのだろう?

2023年6月25日日曜日

椅子の故障、マンガ3冊

 もう15-6年使用しているだろうか、椅子-HARA Chair-の座を支えるスプリングが破損した。これで3回目。2回目までは少々苦労してネットでスペアを購入して交換したが、今は販売しているところが見つからない。見つかったところでいつかまた再発するであろう。破損したところは3回とも全く同じで、4箇所ある箇所の前2箇所であり、破損状況は細長いU字状になっている鈑バネのU字の曲げ部分。材料力学的にもっとも負荷応力が作用している箇所で、設計が不味いのか、材料の品質が良くないのか分からないが、破損頻度から言って広義の設計不良であう。耐久性を得るならばコイルバネにすればいいものを部品コストかアセンブリーコストを意識したのか、鈑バネは柔らかさに劣るのでこの設計はいただけない。後部のクッション性は棄てて木材を挟み、後部の鈑バネを前に移して良しとした。それにしてもこの使用年数で3回も破損するなんてまともではない。

 <相原コージ 『うつ病になってマンガが描けなくなりました 入院編』(双葉社、2023年)><相原コージ 『うつ病になってマンガが描けなくなりました 発病編』(双葉社、2022年)>:二日続けて本屋で衝動買いをして「入院編」を読み、「発病編」はamazonに発注し。順番が逆になってしまった。やはり本屋には定期的に通って新刊状況を眺め回した方がいいと再確認。しかし、本屋には売れる本しか並んでいないので、新聞の読書欄と広告が一番である。それとても漫画の情報は少ない。
 で、相原コージの漫画は『下ネタで考える学問』以来で面白く読んだ。うつ病の実態はよくは分からないけれど、漫画が描けなくなった彼に「だったらさ/もういっそ/自分に/起こった事を/そのまま/マンガに描けば/いいんじゃないの」というパート勤務をする奥さんがステキであると感じた。また、吹き抜けの天井まで壁一面にある1Fの本棚にもある種の憧れのような気持ちを抱いた。同じくうつ病の経験がある田中圭一(歴史学者ではなくマンガの作家『神罰1.1』が傑作)のマンガを読みたくなった。・・・2冊発注してしまった。

 <メメント・モリ/山田風太郎 『マンガで追読 人間臨終図鑑』(徳間文庫、2023年)>:山田風太郎原作とあるが、山田風太郎源の本を読んで編者が感想もまじえて短くまとめてみました、というつまらないマンガ集。やはり原作を読むべきであろうと反省した次第。が、手は広げない。

2023年6月16日金曜日

時間の使い方、耳コピ、エッセイ、漫画

 相変わらず時間の使い方がなってない。取捨選択ができない性癖が邪魔をする。何もせずにぼーっとしていたい時もある。しかしあちこちに手を出しては完うできないでいる。音楽も本も何もかも、もしかしたらそれらに取り囲まれていつでも手を出せる環境に身を置きたい、というのが根っ子にあるのだろう。例えば図書館のように本に囲まれ、CDなども陳列しているなかに今の自室の状況(PCやベッドや楽器や器材など)を中心におきたいという願望(妄想)である。
 To Doリストも作ってはいるが進度は極めてゆっくりで、中には沈滞していることも多い。限られた時間のなかでうまく棄てることができればいいのだが-例えばBDレコーダーに録り溜めたものをあっさりと消去しているように-、それがなかなか出来ないでいる。

 日本の古いあるポップスの曲が好きだが全く有名ではなくてメロディー譜が見つからず、自分で耳コピにチャレンジしている。ボイスカットしたカラオケを作るのは簡単にできるのだが、それをEWIで演奏してみたいという願望に沿うには楽譜が必要で、しかたなく耳コピにチャレンジしている。そしてリズムをとるのに苦労している。80~90点の完成度ではあるが、残りの10~20点にまだ納得できない部分がありチェックを繰り返している。 海外のこれまた全く有名でなく、YouTubeでのPVが4000もない曲が好きになり、それも楽譜は見つからない。これもメロディー譜を作りたいがいつまでかかるやら。いや、作ってEWIで練習する。

 <金井真紀 『酒場學校の日々 フムフム・グビグビ・たまに文学』(ちくま文庫、2023年/初刊2015年)>:草野心平につながる新宿ゴールデン街の学校。こういう学校は楽しいだろうと思いつつもゴールデン街は一度だけそぞろ歩きをしただけで、酒場のドアを開けたことはない。喧噪の中に同士が集まり、何かしら侃々諤々と言葉が飛び交い、他者を寄せ付けないアナーキーな閉じられた空間、という思いがしていたし今もそう感じている。
 人々がそれぞれに他者を受け止め、個を発散し、その場を離れればスカッと忘れる。そんな空間の中に混じって溶け込みたい気持ちは若い頃より抱き続けていた。しかし、その空間に同化するには多分オレは小市民的に普通すぎて、融け合うことは出来なかった。今、この年齢に達していると何かに融け込むなんてできないどころか拒んでいる。ただ自分の閉じられた域の中にも自分なりの価値は付加し続けたい。

 <叶精作・天野彰 『そぞろ源内 大江戸さぐり控え帳 1』(リイド社、2023年)>:漫画。登場するのは、「本草学者 怪事件に首を突っ込む」平賀源内、「蘭学者 とにかく人体解剖したい」杉田玄白、「同心 源内と玄白の知恵を借りたい」浅間和之助。そこに剣の道を極めようとする、和之助の妹の幸が脇役として加わる。「面妖怪奇な江戸の闇を知性で斬る エンタメサスペンス時代劇」が「堂々の開幕」となった漫画。
 散歩がてらに立ち寄った書店で衝動買い。活字の本の読書量が減っているので、数を増やすために安易に漫画にはしった嫌いがある。

2023年6月6日火曜日

万年筆、新書一冊

 万年筆の回想;
 アルバムの中に“高3の5月”とメモされた一枚の写真がある。学生服の5人が横並びに立ち、教室橫の外で撮ったもので、今も親しくしているKYやSJもいる。私の学生服の左胸ポケットには1本の万年筆が差されていて、おそらくこの万年筆はパイロットのキャップレス。この頃の筆記具の中心は万年筆で、当時の日記もブルーブラックの万年筆で書かれている。高校時代はプラチナも愛用していた。
 大学入学を決めた55年前の春、今は亡き友人BKの若松の家に立ち寄ったとき、彼の母が「これは合格祝い、うちの息子は卒業祝い」と言って万年筆をプレゼントしてくれた。シェーファーだったような記憶がある。彼女の息子はその後3浪を重ねた後での合格祝いに何をプレゼントしてもらったのかは分からない。その万年筆はいつまで使用していたのだろうか。
 会社勤めをしてからの主体はシャープペンシルに移った。日記は万年筆、仕事上はシャープペンシルと使い分け、設計図を描くのが仕事だったので必然的にステッドラーのシャープペンシルを離せなくなっていた。仕事を離れれば万年筆をメインとしていた。
 最初の会社を辞めるにあたり、同じ設計部署で親しくさせてもらっていた2歳上の先輩岩上さんが、社内にあった売店で万年筆を購入して退職記念にくださった。パイロットのエリートでその万年筆は今も使っている。岩上さんは50代で亡くなってしまったが、この万年筆は45年間もまだ現役でいる。駐車場で落としてしまい車に轢かれて凹みがあるが愛着があって棄てられない。
 その後定年退職するまで、会議や打ち合わせのときのメモはずっと万年筆で書いていた。殆どの人がシャープペンシルやボールペンであったので、万年筆を使用していることが少しばかり目立ち、それを何回か指摘されたこともあった。万年筆の中でも高価格であるモンブランをプレゼントしてくれたのは連れ合いで、ケースも一緒だった。池袋のデパートで購入した(ような気がする)。このモンブランは30年以上、40年間近く使用していたが、先日インク漏れがひどく、またパーツにガタがきていたのでとうとう棄てた。そしてScriveinerを新たに買い求めた。滑かなペン運びでお気に入りとなった。
 雑誌『サライ』で万年筆が付録になると好奇心なままに何回か買い求めた。誕生日には息子からプラチナ万年筆を頂戴した。これは不注意でペン先を変形させてしまいもう手許にはない。申し訳ないので新たに買い求めた。
 手許に残っているインクカートリッジはモンブラン、ペリカン、セーラー、パイロット、プラチナ、欧州共通規格とバライティーに富んでいる(発散している)。愛着ある何本かの万年筆は部屋ごと場所ごとに分散して置き使い分けている。今、高校時代を思い出してキャップレスの万年筆も欲しくなってきている。手書きすることがあまりないので若かり頃と違って万年筆の必要性は薄れているのだが、好きなものへの関心は薄れることがない。後期高齢者の域に一歩手前となっている身としてはこういうささやかな遊びもあっていいだろう(と自分に向かって弁解する)。

 <永嶺超輝 『裁判官の爆笑お言葉集』(幻冬舎新書、2007年)>:16年間で31刷を重ねているから、厳つい裁判官/判事が愚かな犯罪者/被疑者にどのような薀蓄をたれるのか、そんな面白さを求め、揶揄するような気持ちはいつの世も変わらないのであろう。一般的には両者も在来(ありきたり)の範疇からはちょいと外れているというか、分布の3σ/2σの域外にあるとの感は拭えない。