2020年8月26日水曜日

Hurdy-Gurdy


 YouTubeにてThe Dead Southを聴いていて、暇にまかせてあちらこちらのカントリー/フォーク音楽の動画を見ていたらPatty Gurdyなる女性の歌に惹かれ、次に彼女が抱えている楽器に目を奪われた。右手でハンドルを回し左手でキーを動かしている。初めて見る楽器でその音色ももちろん初めてで、ケルティック音楽に通じるようである。一体これは何という楽器なのか調べた。名称はハーディ・ガーディ(Hurdy-Gurdy)。
 日本では売っているものなのかと検索したら、本格的な楽器そのものは大きなショップでは販売しておらず、すぐに見つけたのはウクライナにあるUgearなるホビー会社からのもの。木製のキットで面白そうなので、好奇心を抑えられずにamazonから購入した。
 接着剤は不要でメカニカルに組み立てられ、その作り上げる過程がとても楽しい。あわせてその設計に感心した。3日間で合計8時間ほどの時間を要して完成。弦は一本しかないし、音程はド~シの6音で半音もない限られたものだし、独特の音色に対して連れ合いはウルサイという。でも完成品はなかなか美しい。

2020年8月23日日曜日

カード紛失、飲み過ぎ、芥川賞2作

 20日、イオンモールのATMにて手続きをしようとしたらキャッシュカードがない。この場で紛失したのか、あるいは自宅でなくしたのか、取敢えず自宅に帰って捜すも、見付からない。しようがないのですぐに銀行に電話をかけて紛失の届けをし、カードの無効化と再発行の依頼をした。自宅になかったことで紛失してしまった犯人は自分であるとの気配が濃厚になった。
 失せ物は諦めた頃に見付かるとはよくいったもので、翌日銀行から連絡があり、カードが届けられたとのこと。無効化を取り消してもらい、カード再発行依頼もキャンセル。紛失の犯人は紛うことなく自分だった。

 22日昼、シャンパンから飲み始め、すぐに2本目にも手が伸びて短時間で2本を空けてしまった。以降、昼寝と酔いによるかったるさが続き、久しぶりの飲み過ぎ状態に反省。連れ合いにも軟らかく窘められた。

 第163回芥川賞の2作を『文藝春秋』で読了。大衆娯楽性よりも芸術性があるとされる「芥川賞」は以前より楽しめなくなっている。小難しい芸術的抽象概念の理解力/受容力が低下しているのだろう。

 <遠野遙 『破局』(『文藝春秋』、2020年9月号)>:主人公は公務員を目指して就活する(慶応の)法学部の学生で、体躯を鍛え、大学ラグビー部に所属するのではなく出身公立高校のコーチを勤め、自慰的性癖がある。警官による不祥事/犯罪、タックルなど伏線が張られて物語は展開し、最期には押さえつけられて空を見上げる主人公には不愉快さを覚える。自律的であろうとする姿勢であるからこそ余計に不快さを覚える。登場する人物はみな若く、深みのない生活姿勢にまったく共感できない。

 <高山羽根子 『首里の馬』(『文藝春秋』、2020年9月号)>:幾つもの異世界がパラレルに語られ、それが退屈で、不要と思える饒舌さもあり、読み続けるのに苦痛を伴った。沖縄であることの必然性、唐突に存在する宮古馬、意義を有すると思えない資料館、クイズで繋がる個々の人、・・・・一つの物語を語ると言うよりも、バラバラの想念を狭い世界の中で繋ぎ合わせてバラバラに語っているといえばいいのだろうか。
 書名に「首里」があって、冒頭に「港川」が出て来るので、壮大な時空を飛び交う物語かと期待したが、拡がりのない孤立している人たちの独り言が続く。

2020年8月18日火曜日

1937

 <辺見庸 『1★9★3★7(イクミナ)』(金曜日、2015年)>:『週刊金曜日』に数ヶ月間掲載されたものに修正と補充を加えられ、本書が刊行された。その翌年に増補版が河出書房新社から、さらにその約9ヶ月後に完全版と冠がつけられて角川文庫よる出版されている。読んだのは金曜日版。
 頁を開くと、漢字にしてもよさそうな沢山の語が平仮名表記になっている。「かんがえる」「じんじょう」「かんたん」「かたる」「いっしゅん」「げんざい」などなど。どのような意図なのか。意味が直読できる漢字ではなく、発音記号としての平仮名が続く文章は読みにくく、目で読んで頭の中で漢字変換して二度読みしている気分になってしまう。
 1937年の1年を簡単に記してみる。2月に兵役法施行令が改正されて徴兵検査の身長が5cm引き下げられて徴兵の枠が広がり、5月末日に文部省から「国体の本義」が配布されて「国体」のあり方が強く定義づけられ、8月に閣議決定された「国民精神総動員実施要綱」と合わせて人々は国家の枠組みに堅固に囚れることとなる。NHKの「国民唱歌」の放送が開始され、その第1回は「海ゆかば」である。以降太平洋戦争中に日本軍部隊の玉砕をラジオで報じるときはこの「海ゆかば」が流される。1943年に少し脱線すると、この年の学徒出陣でも「海ゆかば」が流され、その際の行進曲は現在も自衛隊や防衛大の分列行進曲と同じである。なぜと言いたくなるし、一方では変わりようがないのかとも感じる。
 「国体」を象徴するのは、北一輝・西田悦が8月に死刑執行されたこと、10月には朝鮮人に「皇国臣民の誓詞」を配布し、12月に矢内原忠雄が筆禍事件で辞表を提出している。同じ12月には第1次人民戦線事件が起きている。
 先の戦争開始は1941年の真珠湾攻撃からと広く語られるが、重要なのは、1937年7月の蘆溝橋事件から始まることである。そして多くの論争を生むことになる南京大虐殺事件は12月に起きている。
 ヘレン・ケラーが来日して大歓迎を受け、「路傍の石」が新聞連載を始め、『雪国』が刊行されたのもこの年。これらの作家たちはこの時代の政治や社会にどのような姿勢をとって後世に残る代表作を書いていたのか、調べて見れば面白いかもしれない。因に今も続く文化勲章はこの年に制定されている。
 「露営の歌」が発売され、慰問袋セットが売り出され、日露戦争の頃よりはじまった「千人針」がこの1937年に全国的に拡がり、映画館では最初に「挙国一致」「銃後を護れ」などのスローガンを上映することが義務づけられ、要は戦時一色に向かっていく。スローガンは本質を見えなくするが、多分そのとおりだった。「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の熟語が「国民精神総動員実施要綱」に指導方針として書かれている。
 端的に書くのはとても難しいけれど、本書は刺激的でとても参考になった。物事を見る目、状況を詳細に描いていてもそこに「ナゼ」の視線を向けること、自分の視点の据えるべきところ、安直な判断や論理付けを回避すべき要点、表層的な天皇批判ではなくその深層-丸山真男流に言えば古層-に潜むものを見つめ考えること、等々。
 1937年の南京大虐殺における加害者がそのことをきれいに忘れ、1945年の被害者の仲間入りすることの論理展開を自分なりに一般化すると次のようになる。即ち、加害者としての立場を忘れ、被害者として振る舞ってしまうこと。それは加害については自分が痛みを覚えることがないので容易に忘れやすく、故に、加害者であることを自覚するには学習を要する抽象概念であって、被害者側に立つのは肉体的損傷のイメージが具体的に感覚されるからである。そもそも自らが何者なのかと自問することなくては自分に向き合っている他者の内面を顧慮することもできないではないか。このような気づきを改めて突きつけられた。
 1975年の天皇の記者会見。その後の茨木のり子の詩、藤枝静男の思い、朝日歌壇に所載された歌の切っ先が鋭い。

2020年8月16日日曜日

雑記

 渡哲也が亡くなった。長く俳優界で生きて人たちがなくなると「名優」と呼ばれる。この不思議さ。
 石原軍団と呼称されることに抵抗はなかったのか、テレビ番組で銃火器をぶっ放している無邪気さといえばそれまでだが。
 最初に勤めた会社を辞めるとき、所属していた設計部の送別会で8トラックのカラオケを初めて歌うことになり、そのときに取上げたのが「くちなしの花」。意外と上手いじゃないかと話しているのが聞こえてきた。渡哲也というとこの時の場面が思い出される。

 終戦記念日、同じセレモニーの繰り返し。
 降雨量の強弱で原爆症の認定が左右される。何故?症状で判断するのが基本と思われるが。いつわる人間が増えると際限がないという国会議員、あなたたちは何を守ろうとしているのだろうか。国がまずあって物事を見るのか、人々の生活がまずあって物事を見るのか、視座の位置がひっくり返っている。

 若い頃からずっと疑問に思っている。○○慰霊碑、△△記念(祈念)碑、これらを建立することで負の部分の全てをチャラにしてリセットしているとの思いが拭えない。悲惨な展示品を目にして過去の惨劇を振り返るのは重要なことだとは思うが、その心裏にはそれらを建てて終わりとする人たちの(行政の)思惑を感じてしまい、しこりが残る。

 多くの人たちを死に至りしめた責任が75年間も不明瞭であることは、どうしても此の国の無責任さ、真善美を希求する姿勢の欠如、などを思う。

2020年8月13日木曜日

暑い、『少年と犬』

 暑い。熱中症注意の呼びかけが流れており、市の広報からのメールもスマホに入ってくる。一昨日の6.2kmウォーキングもいつもよりは2-3分ほど長い時間を要した。昨日はいつもより早い時刻に外に出たが、既に気温は30度を確実に超えていたと思う。無理はするなとの連れ合いの言葉を守ったわけではないが、ショートカットして1km短い5.2kmでやめた。散歩/ウォーキング/ジョギングしている人は一昨日も昨日も一人しか見かけなかった。
 そして今朝、7時少し過ぎに起きたらもう暑い。連続オンしていたエアコンを5時半ころに止めたがまだ室内は冷えていたはずなのに、暑さで目が覚めた。今日のウォーキングは中止。天気予報を見ると9:00から20時頃まで気温30度超でピーク時には35度を超える。

 <馳星周 『少年と犬』(文藝春秋、2020年)>:1996年のデビュー作『不夜城』では「面白い、但しまともな人間が出てこない」とメモし、その翌年の2作目『鎮魂歌』では「ヤクザ、中国大陸の北京と上海、台湾、悪徳刑事.....こういった連中の殺し合い、騙し合い、裏切り、逃亡、追跡、暴力、ホモ、嗜虐性のセックス、金、.....。辟易としてくる」と記し、以降著者の本を手に取ることはなかった。何度も直木賞候補となっていたし、既に地歩を固めている作家なので今回の直木賞受賞には今更ながらという思いも含めて意外だった。そして本作は、過去の-少なくとも過去に読んだ2作の-作風とはガラリと変わっている。いつからこのような小説を描くようになったのは分からないが、本作は犬-名前は多聞-を軸にした温かい優しい連作。
 初出された時期を追うと、まずは最終話の「少年と犬」を描き、そこには東北大震災(2011年)のあった釜石から、2016年の熊本地震をつなげる少年と犬の物語がある。この最終話の5年間に渡る経過を冒頭からの5つの物語に編んでいる。「男と犬」は仙台、「泥坊と犬」で仙台から魚沼への移動、「夫婦と犬」は富山、「娼婦と犬」は滋賀、「老人と犬」は島根、最期に「少年と犬」に繋がる。多聞は賢く、時には異なる名前で呼ばれても都度の飼い主に寄り添い、常にある一定の方向を見つめる。何も語らない犬に、時々わが家にいたヨーキーを思い出しながら読んだ。連作テレビドラマになりそうな予感。
 犬が好きなので小説を楽しんだが、一方では作者の視線の向く方向にはどうも碌でもない人たちが多そうで、「少年」や「老人」を除いて裏道を歩む人が多く登場し、気持ちの中に抵抗感が浮かぶ。そして、小説全体に感動や感涙などの層を表面に敷き詰める軽さを感じがしてしまう。

2020年8月10日月曜日

暑い、ミステリー、戦死の本

 速歩でのウォーキングは8時から9時頃にはスタートし、汗びっしょりとなる1時間ほどの間に約1kgの体重が減る。もちろん水分補給ですぐに元に戻ってしまう。今のところ続けてはいるがいつになったら減量を実感できるのだろうか。

 暑いので午前中のウォーキング以外に外出することは少ない。数日おきにスーパーに行くか、時折酒店に行くぐらいである。日々の繰り返しと新型コロナの感染者数を確認しているとすぐに9月に入りそうである。

 <今野敏 『棲月 隠蔽捜査7』(新潮文庫、2020年/初刊2018年)>:7年ぶりの著者の小説、即ち7年ぶりの「隠蔽捜査』シリーズ。変わらぬ味を出している竜崎署長に伊丹、それに戸高刑事。サイバー攻撃と殺人を絡めたスト-リーで、スピーディーな展開と巧みな構成でほぼ一気読みとなった。

 <楢崎修一郎 『骨が語る兵士の最期 太平洋戦争・戦没者遺骨収集の真実』(筑摩選書、2018年)>:海外での戦没者240万人のうち113万人の遺骨がまだみつかっていない。海歿した遺骨、戦没した地の事情(中国や韓国など)で収集困難な遺骨、これらを除くと収集対象は約60万人となる。因にアメリカは40万人が戦死し、7万2千人が行方不明であるとのこと。
 書名の副題「戦没者遺骨収集の真実」とは、主に収集にあたっての諸事情の真実である。個々の死に至る瞬間の状況は遺骨から推考されるが、多くの戦没者からすればその数は極極僅かである。地に埋もれて放置され、また海に沈んだ戦没者の数は余りにも多すぎる。

 <藤原彰 『餓死(うえじに)した英霊たち』(ちくま学芸文庫、2018年/初刊2001年)>:先の戦争での日本人の戦没者数は一般民間人も含めて310万人。これは世界の中でとんでもなく多い数である。その内訳を記すと、軍人・軍属・準軍属の死者数は230万人、外地での一般邦人死者数30万人、内地での戦死者数は50万人である。何のためにこれだけ多くの人たちが死なねばならなかったのか、考えても簡単に答えが見出せる筈もない。
 そしてガダルカナル島では多くの兵士が餓死している。ここでの餓死は、単に一義的な飢えによって死んだということではなく、飢えによって誘発される栄養失調や、マラリア、下痢、脚気などによる死-広義の餓死-を意味している。ガ島に残った(残された)兵士の約7割が餓死し、ブナ・ギルワでも7割が病死し、白骨街道(もしくは靖国街道)と呼ばれたインパール、戦没者の8割が病死したビルマ戦線やフィリピン。彼ら餓死した兵士は一体何に向き合って戦って死んだのであろう。少なくとも美称した英霊という言葉では括りたくない。
 第1章「餓死の実態」につづけて、第2章「何が大量餓死をもたらしたのか」と餓死の実態を抉り、続けて第3章「日本軍隊の特質」で本質的な問題点を分析する。餓死者のパーセンテージについては反論もあるらしいが(秦郁彦の著書)、それについては深入りしない。数字の問題にすると(南京事件のように)あらぬ方向に向かってしまう。本書をテキストにして「日本軍の本質」から「日本の本質」をどう捉えるかを意識すればいい。

2020年8月1日土曜日

雑記、『「日本スゴイ」のディストピア』

 8月に入った。コロナ禍はいつになったらある程度の落ち着きを見せるのだろうか。政府の無能無策に呆れるだけで、ニュースを見るのにも嫌気をさしてくる。「現場を一番分かっている人に自律的に意思決定できる権限がなく、現場を知らない上の人が意思決定をする日本のシステムは危機管理に向かない」(小坂健、『朝日新聞』、2020.07.24)のだろう。あるいはよく言われるように「日本人は個々の能力は高いが組織化(システム化)すると3流になってしまう」のだろう。アベノマスクをめぐる国会議員のやりとりは面白くもない喜劇と思える。

 31日、午前中は娘と彼女の長男に頼まれて浦和を往復。2週間前も同様で、これで2回目。

 7月は速歩を22日おこなって、合計127.04kmの距離を歩き、費やした時間は20°29’。連れ合いと一緒のウォーキングを加えると174.5kmを歩いている。日常的な歩数を含めて7月の一日平均歩数は8,471歩。思った以上に歩いている、ちょいと出来すぎ。このペースでいつまで続けられるのだろうか。

 <早川タダノリ 『「日本スゴイ」のディストピア 戦時下自画自賛の系譜』(朝日文庫、2019年)>:満州事変(1931年)から1945年までの、「歴史のゴミ箱に捨て置かれたようなクダラナイ本、知っていても役に立たない本、人類の運命にとってはどうでもいい本」における「日本主義」、「日本にこんなスゴイものがある」、「スゴイものがある日本はスゴイ」の紹介。無論そこには現在の「日本スゴイ」に繋がる連続性がみられる。