2019年5月28日火曜日

飲んで寝て、そしてLP

 25日、午前中に草むしり。その後はビール・ウィスキー、そして昼寝。
 26日、改めてPCとフォノ・イコライザDACの設定を確認し、久しぶりにLPからKronos QuartetのJazzを流し続ける。ついでに泉谷しげるの初期のLPをデジタル化してPCに取り入れる。
 27日、昼からウィスキーを飲んで寝入ってしまう。昼寝のためにまたもや夜更かしモードに入ってしまった。この日の深夜は、SkriabinのLPを聴き続け、これらもデジタル化を進める。1970年代のLPはジャケットは劣化しているものの盤面には傷もなく良好な音楽が流れる。LPも古ければ、プレイヤーも古く、デジタル化にともなう機材だけが比較的新しい。しかしながらアナログ・レコードのクリーニングは面倒で、昔からいろいろな手段を講じるが完璧さには今もって近づけていない。安価なカートリッジおよび別のカートリッジの交換針を発注。
 今日28日も昼にビールと焼酎で短時間の昼寝モードに入ってしまった。これから少し、ジンライムでも飲もう。

2019年5月24日金曜日

雑記

 23日、13:00から高校同窓会旧トップ幹事3人で酒&カラオケ、楽しめた。久しぶりの新宿ではJR駅から上に出るときに方向を間違ってしまう。たまには都会に出て人の多さの中に融け込むことも必要かも。
 電車以外はすべて歩いたこと、復路の電車ではずっと立ち続けていたことなどから、翌朝は歩くのも不自由なほどに左足踵の痛みがひどかった。そのうちに痛みは気にならなくなるのだが、いつまで続くのだろうか。
 
ヘッドホン・スタンドが完成。あり合わせの布、螺子類使用のためもあり完成度は低い。


2019年5月23日木曜日

宗教史などのテキスト3冊

 小説・マンガ以外の本を読んだ後は、その本に書かれている要点を再度拾いながら、なるべく書き落とすように努めている。そうでもしなければ上面の文字追いになってしまう。だからそのようなテキストは-自分にとって参考にならないとした本を除いて-、2度読みすることになる。
 それとは別に、すべての読書については、簡単な感想や、そのときの思いなどをメモ書きし、何を読んだのか振り返られるようにしている。しかし、いろいろと時間がかかりすぎるのは、読解力や文章力のなさであり、いまになって「少年易老學難成」を真に思う。

 <末木文美士 『日本宗教史』(岩波新書、2006年)>:通信教育をしていた頃、宗教史の講義の参考書、またはリポート作成のために読んだ。そのときは多分に駈け足で要点に線引きする程度の読み方だった。そのときとは違って、今回は神道を中心に置き、自分なりの納得を得たい、あるいは自分なりに考えを構築したいという(妄想的な?)目的をもっている。それは著者の文章を借りて書けば、次のようなものである。すなわち、自分なりの「思想史/宗教史の最大の課題は、表層から隠れて蓄積してきた<古層>を」”理解”して、「その<古層>がいかにして形成されてきたかを」”知って自分なりの考えをまとめておきたい”と思っていることである。(引用はまえがき3頁)。だから、日本の宗教に関するテキストは(日本独特の神道を中心にして)少しばかり読み続ける。もちろん専門的に深くは入り込む気持ちはなく、あくまで文庫や新書レベルでしかない。先に待っているのは積ん読状態になっている、敗戦前後にかかわる本で、いまはこれらを読むための準備というか下地をつくること。

 <武光誠 『神道 日本が誇る「仕組み」』(朝日新書、2014年)>:読む価値はなし。あるとすれば歴史の流れを表層的に図表化していること。

 <岡村道雄 『日本の歴史① 縄文の生活誌』(講談社学術文庫、2008年、初刊2002年)>:2000年に出版された約10日後にかの有名な遺跡(旧石器)捏造事件があり、2002年に改訂版刊行となり、本書はその改訂版の文庫化したものである。30年間くりかえされた捏造について、本書のあとがきに著者の思い(苦悩)が述べられている。
 本書では、それこそ「生活」を中心にして読んだ。重点は、縄文人の遊動から定住へ、そしてそこでの祭祀、である。ただし、「草木・動物から雨・風・火・水などにいたるまで、あらゆる自然物・自然現象や、人工物である道具や家・建物・水場などの施設にも精霊が宿ると考え、その威力を崇拝する「アニミズム」があった」(219頁)とする記述にはすんなりとは入り込めない。それは、前記の末木『日本宗教史』に指摘される内容に得心しているからである。すなわち、「アニミズム論にしても、そもそも一草一木に神が宿るという発想が日本にあったということ自体が、成り立たない。歴史的に知られる範囲では、神は特殊な自然物(山、岩、巨木など)に下ってきたり、蛇や狐などの特殊な動物が神、あるいは神の使いとされるのであって、あらゆる自然物がそのまま神というわけではない」(4頁)。

2019年5月21日火曜日

雑記

 Φ4.4、およびXLRのバランス接続に対応し、かつ今まできいたことのない平面駆動型振動板のヘッドホンFOSTEX/T60RPを購入。Φ4.4とXLRのケーブルも手に入れたがケーブルの短さと硬さがちょいと不満。オーバーイヤーのものはこれで4台目。適宜使い分けているが、総合的にはやはりSENNHEISER/HD650が、インナーイヤーはCampfire Audio/NOVA CKが持っている中では抜きん出ている。どちらも古い。高級品と言われるものでも聴いてみたいが、上を見ればきりがないし、結局は下を向いて咲く百合の花ヵ。

 20日、木材の丸棒、板材を素材としてヘッドホン・ハンガーの製作に取りかかる。せめて卓上旋盤やボール盤、贅沢を言えば卓上フライス盤があればいいのだが、それは思っても詮無きこと。手持ちの大工道具だけでは出来映えに不満が残る。凝り性の性癖と現実的諦めに折合をつけながら進めるが、最後はまあいいや、になってしまうのは仕方がない。材料加工の完成まで約5時間も要した。サンドペーパーをかけても切り口はそこそこにしか滑らかにならないし、接着組み合わせの突き合わせ部がキレイではないので、布貼りあるいは丈夫な紙貼りにする-醜さを隠す厚化粧。

 ドラマ「死命」の録画を見ていたらバックに大好きな「亡き王女のパヴァーヌ」が何度か流れていた。ほかのドラマでの喫茶店のシーンでは「ジムノペディ」が流れていた。好きな曲。

 加藤典洋さんが亡くなった。まだ71歳。最初に読んだ著作は『日本の無思想』。次が(多分入院中に読み始めたが理解が浅く再読した)『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』、続けて『日本という身体 「大・新・高」の精神史』。そして一般的なパターンに入り込んだのは『敗戦後論』で、もちろん高橋哲哉『'戦後責任論』へと続いた。十数年前の事である。

2019年5月18日土曜日

Doris Dayなど

 Doris Dayが亡くなった。高校2年のとき、下宿の自室の壁には彼女の大きな写真を貼っていた。彼女のLPレコードも持っていた。Marilyn Monroeも好きで週刊誌などの頁を切り取って持っていた。Marilyn Monroはいまでも好きで、PCのスクリーンセーバや壁紙にも時折設定している。
 Doris Dayは97歳で亡くなり、36歳で没したMarilyn Monroeは生きていれば93歳。若い頃は自分と同年代であるよりは年上の、しかもかなり年上の女優を好きになることが多かった。今、Monroe以外にスクリーンセーバにしているのは、Andrea Osvart、Ann Margret、Jane Fonda、Grace Park、Mary Joe Fernandez、Meg Ryan、Naomi Osaka、・・・多岐にわたる。日本の女優さんも年上から若い人まで範囲は広い。ここでは省略。

宗教・神の本2冊

 <中村圭志 『信じない人のための<宗教>講義』(みすず書房、2007年)>:三大宗教を中心とした宗教学入門書。世界の宗教に対する基本知識は持っているが、宗教全般を語るには知識不足、あるいはもうちょっと宗教全般に共通する普遍的なもの、あるいは差異を知るための入門書、という位置づけ。日本における宗教の歴史と他の宗教との比較という点に関心がある読み手には物足りない。もっとも、一冊で広範囲に宗教の本質を知ろうとすること自体には無理があることも確かなので、あとは読み手がどの宗教を知りたいのかを問われることになる。

 <大野晋 『日本人の神』(河出文庫、2013年、初刊1997年)>:国語学者が「カミ」「神」を論じる本書は、歴史学者あるいは宗教史分野の学者が著す本とは切り口が異なり、新鮮である。しかし、「日本語カミ(神)に当たる単語が古代のタミル語の中から見出された」とする本書の主要点は、『古典基礎語辞典』に詳述されており(本書巻末にも掲載されている)、その辞典が自室の書棚にあるのに「カミ」「ホトケ」の頁を開かなかった自分の愚かさに落胆してしまう。
 古代日本語と古代タミル語の酷似性については批判的な学者も多いらしいが(wikipedia)、その内容に踏み込んでしまうと、本来の目的からの脱線も甚だしいので、そこに分け入ることはしない。
 古代タミル語は南インドの語であり、「カミ」以外の宗教的言葉にも酷似性があるとする点については説得される。もちろん、南インドの言葉がどのようにして日本に伝わったのか-逆はないだろう-、人間の移動と交流はどうであったのか、さっぱり分からないし、想像すら及ばないが、そのことを思うだけで楽しい。
 「カミ」と「神(カミ/シン)」は意味が異なる。「カミ」は、阿満のいうところの自然宗教であり、それは①唯一の存在ではなく多数存在し、②具体的な姿・形を持たず、③カミは漂動し、来臨し憑代に付いた。「カミ」は④それぞれの場所や物を領有し支配する主体であり、⑤超人的な威力を持つ恐ろしい存在であり、⑥人格化されることがある。このカミから一気に「神道」に進むのには無理がある。
 知りたいことは「カミ」が外来宗教とどのように、何を目的として混じり合い、相互に混じり合い、重なり合い、大平洋・大東亜戦争に結びつき、今に繋がり、この今の日本を流れているのか、ということ。それは丸山真男の<古層>、あるいは<執拗低音>を知ることだと言ってしまえば事足りるのかもしれないが、そんな単純なものであるはずもない。
 ザビエルはDeusを最初は「大日」と訳したが、結局は「デウス」とした。ヘボンもGodを「神(しん)」と訳さずに「ゴッド」としておけばよかったのに、と思う。

2019年5月11日土曜日

本の売却

 マンガ本を中心に、そして古い算学の小説をすべて、最新の小説も含めて合計90冊強を古本屋に売却。予想よりも高額であった。査定には市場性、本の外的品質、査定額も明示されており信頼できる。といってももう暫くは売却はない。今後読む本は発刊時期が最近ではなく、市場性も殆どないと思われるし、第一に線引きや書き込みをしてしまうので引き取り対象外となることが多い。今回処分した「算学」の小説の大半は値がつかなかった。
 マンガは『瞬きのソーニャ』2冊だけを手許に残し、あとはなくなった。『キングダム』も最新54巻まで読んだが、もう止めた。『ペリリュー』も『プレイボール2』も止めた。『北北西に曇と往け』も『ものするひと』も数ヶ月前に古本屋に買い取って貰っているし、もうシリーズ物のマンガはなし、今後も多分読まないであろう。齢を重ねるとともに読む本のジャンルも変わるのは当然として、ここ数年でも大きく変化した。

2019年5月4日土曜日

『日本精神史』と『日本風景論』

 <阿満利麿 『日本精神史 自然宗教の逆襲』(筑摩書房、2017年)>:就職したばかりの頃、和辻哲郎『日本精神史研究』を購入したが、仕事が忙しくなりかけていたこと、さらにはこちらの方が主な原因であるが、仏像や美術、和歌などの芸術的側面からの論理展開の壁が厚く-要は興味が薄く理解能力もなく-頁を進めることができず放り出してしまった。本書はサブタイトルに「自然宗教の逆襲」とあるように宗教を軸にしており、美術や彫刻や和歌などの人的創造物を媒介させておらず、もちろん思考を巡らせねばいけないのであるが、余計な廻り道をせずにストレートに入ってきた。今後も迷ったときなどに振り返るテキストである。
 本書は、「日本社会のなかで主体性をもって生きるには、やはり、どうしても『無宗教』的精神を一度徹底的に論破し、『無宗教』的精神に代わる普遍的な宗教精神と向き合う必要があるのではないか」という観点に立ち、「『無宗教的』精神を相対化し、あるいは否定して、新たな主体性の根拠を提示できる普遍的宗教」について、かつては日本に存在していたその「普遍宗教」が「普遍性を喪失してゆく過程」に力点をおいている。以上は「まえがき」より。
 「凡夫」も「普遍的宗教」もその概念はストンと腑に落ちるし、「自然宗教」からの展開にも得心する。しかし、「本願」そのものと「専修念仏」にいたるプロセスが消化不良である。否、そうではなくそのプロセスに踏みだすのに(無宗教的に)抗しているのかもしれない。なぜなら、現世は、すべてを含んで、出来不出来は別として、完成されているのであって、その出来不出来を問うても詮なきことであって、それを大きく括って大きな物語として語ろうとしてもそれは不可能なことである、という観念を抱いているからである。だからできることは自分自身がこの世をどう捉え、そのなかで自分は何者なのかという自己の思考に浸りきりしかない、そう思っている。思考のプロセスの媒介として、法然の本願や専修念仏がなぜあらねばならないのかが解っていないし、またそれを排除する論理も持ち合わせていない。本棚で横になっているテキスト類をきちんと学習せねばならない。
 本書の表紙カバーには小熊英二『<民主>と<愛国>』のそれと同場面の写真が使われている。1947(昭和22)年12月広島、天皇が壇上に立ち右手に帽子を持って掲げ、群衆が天皇を仰ぎ見ている。群衆の背後には破壊された原爆ドームがある。本書では左側後方に鳥居があるが、小熊の著書にはそれがない。阿満の天皇へのスタンスを象徴的に表しているようである。

 <志賀重昂 『新装版 日本風景論』(講談社学術文庫、2014年、初出1894年)>:明治27年から版を重ねている。著者は日本の地理学の大家であり国粋保存主義者。古典日本文学を多く引用して自然を紹介しその美を賛える。3度にわたって世界を旅しており、日本を賛美する。諸論では「要するに英国の人、その国にありては紅楓を描写するあたわざるもの、英国の秋たるなんすれぞ日本の秋と相対比するに足らんや」(14頁)と、また「・・・、シナ人、朝鮮人は『鶯花』の真面目を知覚せざるもの。欧米諸邦にいたりては、初め春に梅花なく、晩春に桜花なきところ、その春なる者、畢竟言うに足るなきのみ」(22頁)とも。梅があって桜を出せば、富士山にも論を述べ、「富士美は全世界『名山』の標準」(103頁)と言い放つ。火山の項においては、「日本は、ラボックのイギリスに艶説するところをことごとく網羅しつくして、これに加うに天地間の『大』者たる火山のいたるところに普遍するをみる。一活火山だにあるなきところにおいてすらなおかつ『全世界中の多様多変なる風景を呈出す』と艶説す、なんぞいわんや日本をや。浩々たる造化がその大工の極を日本にあつめたりと断定する、いよいよますます僭越にあらざるを確信す」(180頁)、続けて、「ああ造化の洪炉や、火山、火山岩を多々陶冶して日本人に贈賜す、これを歌頌せずこれを賛美せざるは、咄々日本人の本色にあらず」(195頁)と日本の自然とそれに向き合う日本人の芸術性に枠をはめる。「日本は山岳国なり、ゆえにこの国に生産せし民人は、平常その雄魁にしてかつ幽黯なる形容を覩目し、また風雨晦明、四時の変更万状なるを観察し、自ら山岳をもって神霊の窟宅となすの乾燥を涵養す。・・・・(諸山があげられる)・・・みな神もしくは仏を祀り、・・・・特に火山はもっとも雄魁変幻に、自然の大活力を示現するをもって・・・・・(諸山があげられる)・・・・の大権現、明神もしくは神社なるもの、みな火山をもって神仏の棲息場のごとく仮定するがゆえのみ」(270頁)と論じる。しかし、火山からこのように神仏へ論を広げるのは些か短絡的と思える。
 「この江山の洵美なる、生殖の多種なる、これ日本人の審美心を過去、現在、未来に涵養する原力たり」(337頁)から、「近年来人情醨薄、ひたすら目前の小利功に汲々とし、ついに遙遠の大事宏図を遺却し」(337頁)ている時代を歎き、だからこそ「日本風景の保護」(337頁)を強く主張した。
 1863(文久3)年に生れ、札幌農学校に学んだ著者が日清戦争のただなかに刊行された本書。文章を読むのに、また熟語を理解するのに肩が凝る。まして引用されている歌や漢文には眼は素通りする。それでも明治27年に刊行された時代は江戸の文化が薄らぎ、世界に肩を並べ追い抜かんとする勢いの中にあって、このような著作が刊行され、版を重ねたことに、明治という時代を微かにではあろうが時間できる。その意味において好著である。