2017年4月19日水曜日

雑感、応仁の乱

 発した言葉を撤回しても発した事実そのものが霧散してしまうわけではない。そして撤回するにあたってはオブラートで包み込んでは意味をねじ曲げる。あざとい、汚らしい、二枚舌等々で形容される被せものがその人の身を醜く覆っている。腐った人間が権力を持つと言葉は軽んじられる。そもそも人は権力を持つと腐るのではなく、腐った人間が権力を持ちたがるという某評論家の指摘は的を射ている。
 全体から部分的に言葉を切り取っていいことも書いてあると是認してしまうのは、DVのような暴力をふるう者に対し、暴力を振るわれる側が彼(彼女)も優しくしていいところがあるのよと受け入れてしまうことと同じ事である。端的にはこの関係は相互依存症と呼ばれる。「切り離して『いいところもある』と評価するのは、まずは無知であるというしかない」(朝日新聞4月17日朝刊掲載の西原早大教授)。無知は無恥な行動と表裏一体でもある。そこに「美しい日本」があるとは思えない。美しくあるには「無知の知」を自覚することでもある。
 閣僚の発言撤回に「『一強』の緩み」というけれど、その一強を出現させているシステムのどこかが異様なのである。そのようなシステムから生まれる小システム(法律・社会性・世間等々)も奇妙な理屈で構築される。そして歴史は繰り返される。

 <『歴史REAL 応仁の乱』(洋泉社、2017年)>:洋泉社MOOK。新書を中心に話題になっている「応仁の乱」を気軽に囓り直してみようかと手に取った。登場する人物の多さはやはり混乱させられる。
 「結局、そこまでひどいことにはならないだろうと思って問題を先送りにしたり、その場しのぎの対応を繰り返していった結果、どんどん矛盾が蓄積していって全部ひっくり返るような大惨事になってしまったのがほんとうのところだと思います」(『応仁の乱』著作者の呉座勇一)の内容は今でも、否いつでも当てはまる思う。
 「政治システムの破綻によって苦しむのは、為政者ではなく、多くの庶民です。だから世の乱れを庶民の側から照射したほうが、時代の混沌ぶりをより具体的に浮き彫りにできると思ったんです」(垣根涼介)。歴史の描き方は史(資)料に基づくが、その史料に庶民の生活などが直截に書かれることは尠い。一揆にしても統制する側からの視座になりがちである。しからばその庶民の生活をもっとも描写するのは小説であろうと思う。「真実は虚構を通してのみ語られる」(魯迅)、あるいは「ノンフィクションは、事実は語るが真実は語れない。フィクションは、事実は語れないが真実を語れる」(柳田邦男の言葉を要約)のだから。
 「応仁の乱」をはさんで「永享の乱(1438年)」「享徳の乱(1454年)から「明応の政変(1493年)」までのたかだか55年ほどの間のできごとは複雑であるが面白い。時間の合間合間に、手許にある歴史講座や日本歴史の通史でもうちょっとこの時代に接してみようと思う。

2017年4月18日火曜日

文庫本一冊

 <岩城けい 『さようならオレンジ』(ちくま文庫、2015年-初刊2013年)>:在豪の女性作家が描く、豪州に流れてきたアフリカ難民女性サリマが再生する物語。サリマはアフリカ母語の読み書きもままならず、ナイフでもって精肉する仕事をして、男児二人を養う。英語を学び始めて日本人女性やイタリア出身の年配の女性と知り合い、自らの無学を感じ取りながら少しずつ前進する。子供の学校で拙いながらも作文を発表し、自らの生い立ちとこれまで生きてきた経緯を語る。下の子はそれを目の前で聴いてから母親サリマへの接し方が変わる。過酷な精肉作業を嫌って都会に逃げていった夫が子供を連れ返しに来るが下の子は列車に乗らなかった。仕事場でチーフになり、日本人女性にはダイガクに行くべきだと話し、英語教師からのすすめで地元紙から全国紙にも目を通すようになり、免許取り立てのかつての監督に誘われてドライブに行き、自分で立ち上がることを決心したサリマは小さくなる夕陽に「さようなら、おひさま」といい、これからも朝に出会い夕べに別れることを繰り返すその「おひさま」に、生きること、永遠の願い、祈り、希望を感じ取る。
 サリマの成長の物語と並行して、日本人の女性が恩師に宛てる手紙の中で自らの生活と思いを語る。
 豪州の片田舎、日本からやってきた女性(娘を亡くしてしまう)、イタリアからやってきて子どもたちが離れてしまっている女性、そしてアフリカ難民の女性。それぞれの女性が生まれた地理は広いけれど、描かれる女性達が抱える重いテーマが基底にあり、それらが柔らかく鋭く展開し、前に進むことで閉じる。
 異国の地の、多様な人々を描き出す日本人の小説であることに驚きもした。良質な小説であるが、全体的には物語が予定調和的に進んできて、これからの私の人生は明るい未来、私の周りの人たちはみないい人たち、のようになってくるのには、ああ、よく目にする感動の物語か、というつまらなさも感じた。

2017年4月17日月曜日

雑記

 一昨日(14日)、福島県立図書館からの取り寄せを依頼していた本4冊を受け取りに市立図書館を往復した。スリーウェイのバッグをリュック仕様にして歩いていたら汗ばんできた。図書館から本を借りるのも、まして他県の図書館から取り寄せてしまうのは2~3年ぶりヵ。翌日に必要な部分を写真撮影。本を撮影するための機材があればいいのだが、そんなものがある筈もなく、拡げた本を足指で押さえたりして不自然な格好を強いられ腰が痛くなる。単に一つの橋のことを知りたくて本を借りたのだが、そのうちにまとめよう。大した記事にはならない。

 16日、刺し身で日本酒を飲みたくなり、13時過ぎから飲み始めるが、酒量は以前よりすすまなくなった。ビール500ccに日本酒が300cc程度。2合にも達せずに終えてしまう。前日の寝不足のせいもあり昼寝をしてしまう。2時間も寝たら酔いは覚めていた。テーブルのグラスには飲み残しもあってそれを一息で飲んでしまい、今日の飲食はこれでお終い。
 とある企業からサービスがあり、選んだのがスコッチのBunnahabhain 12 years。これで封を切っていないウィスキーが3本でちょいと飲みかけているものは6本となった。12年もののウィスキー(12年がなければ10年)を飲み始めて58種となった。あと2本追加して60種と区切り良くしようかな。
 いまはOld Parr 12をなめている。この酒、個性がなく万人向けなのか、飲みやすい。物足りたくもある。

 今年の早稲田ラグビーへの新入部員は例年より少ない。そろそろ春のシーズンが始まるし、期待と不安で試合結果を見続けることになろう。フロントローがやや不安。1年生にはいい選手がいるので期待。横山はCTBもやるのか、宮里はHOに転向? 横山も宮里も全早慶明の慶応戦でそれぞれCTBとHOをやっている。横山のCTBあるいはFBはあり得ると思うが、宮里は想定外。

2017年4月13日木曜日

リッピング・ファイルのTag情報、小説一冊

 11日、春という柔らかな暖かさはなく、冷たい雨が一日中降っていた。
 CDからflacでリッピングしたファイルがたくさん貯まっていたので、11日はテレビをみながらtag情報を整理し続けた。SonyのHDDオーディオ・プレーヤーHAP-Z1ESでリッピングするのだが、Gracenoteから得られる情報は全てが統一されている訳ではない。リッピングしたファイルはHAP意外にもポータブル・プレーヤーにも入れており、検索のしやすさ、ファイルの管理上・視認性から自分なりのタグ情報形式を定めており、結局は個々のファイルを編集するしかない。頭を使うことも、さしたる集中力も必要としないのでテレビでも見ているときなどにPCを操作するようにしている。
 持っているCDやLPをすべてflacやmp3に落とし込もうとは思っていないが、いつまで続けることになるのか、自分でも分からないでいる。というより、いつまでも続けるわけにもいくまい。ほかにやるべき事もある。

 <松家仁之 『沈むフランシス』(新潮社、2013年)>:誰かの書評を読んで購入し暫く放っておいた一冊。
 表紙はモノクロームで雪と犬の顔。冒頭は水の流れに身をまかせ、足の裏が鋼鉄の柵にに当たって進めなくなり、進まなくとも良い、と独り語る。表紙およびこの冒頭の描写からフランシスとは中型か大型の犬であろうと漠然と予想した。しかし、物語から思うと、表紙に描かれた犬の鼻は、寺冨野和彦と抱き合っている撫養桂子の腹にあたる彼の膨らんできたものであるようだ。フランシスは水力発電のフランシス・タービンであり(大学の時に水力学で出てきたと思う-懐かしい)、台風で湧別川が増水し、フランシスは川に沈み、桂子と寺冨野は抱き合い、桂子にはなにも聞こえなくなる。そこでこの小説は終わる。
 桂子は東京の大手企業を退職して北海道の小さな村の郵便局で非正規雇用の局員として郵便配達の仕事をする。そこで知り合った寺冨野は音を聴く趣味があり、水力発電を保全する仕事をして一人暮らしをしている。二人は知り合って桂子は彼の家に通うようになる。一緒に料理を作り、食事をし、ベッドで抱き合う。
 この本の帯に書かれている文章を部分的に拾う・・・「五官ののすべてがひらかれる深く鮮やかな恋愛小説」で「からだをふれあうことでしかもたらされない安息と畏れ」とある。しかし、「恋愛小説」とは感じなかった。「畏れ」も感じ取れなかった。二人は恋愛をしているのではなく、北海道の自然の「小麦畑を撫でる風、結晶のままに落ちてくる雪、凍土の下を流れる水、黒耀石に刻まれた太古の記憶」のなかで、深く意識もせずに、そこに男がいるから、女がいるから料理を作り体を求め合ったあっただけに過ぎない。著者は恋愛小説ではなく、自然の中でただ流れるままの姿を描いたのではないかと思う。桂子の哀しみや楽しみ、東京を離れる理由が分からない。寺冨野は入れ込んでいる「音」から何を感じ取っているのかもよく分からない。乱暴を承知で書いてしまうと、深く悩みもせず、だから深い悲しみや膨らむ希望や楽しみを感じ取ることはできず、ただ食べること抱き合うことで時を過ごしている男と女を描いただけでしかない。この小説には共感もなく、ただ突き放してしまうしかない。無機的なフランシス・タービンの動きを二人の感情に重ねて象徴的に描写することはできなかったであろうか、そんな気がした。

2017年4月10日月曜日

4月8日

 <白石一文 『彼が通る不思議なコースを私も』(集英社文庫、2017年-初刊2014年)>:人の死期を感知し、発達障害教育の塾を経営する椿林太郎、未来テレビの発売に注力する妻の霧子。死・教育・愛・・・と深いテーマが続くが、最も惹かれたのは教育。学校教育、そこに勤める教師や親の姿勢、結局基底にあるのは日本人というのか個人個人の生きる事への思いの強さであり、考える能力にあると思う。世間への迎合、組織への盲従、後悔、誤魔化すことによる捻り曲がった自己弁護、そんなものがこの世界の底にこびりついている気がしてならない。
 林太郎は自己の信念に基づいて発達障害の子どもたちをねじ曲がった教育環境から救い出そうとする。霧子は仕事に取り組んでいるが林太郎の進んでいる道に時に懐疑的になりながら、前に踏み出していく。しかし、小説のはじまりは緩やかに坂を上り続け、終わりは何か急勾配を降りるような感じがした。
 超能力を身につけている主人公を登場させる小説は嫌いなのだが。白石一文の小説だけは別。なぜなら彼の小説は豊かな想像力(鋭い感性)と深い思考があり、超能力はその手段でしかないからである。

 8日は68歳の誕生日。最近は年齢をなるべく意識するようにしている。若いつもりでいることに陥りやすいが、本当はそれは大いなる誤解であると自覚するためである。
 この日は高校同窓会の花見。時折雨が降ってくる天候のせいであろう上野公園に繰り出している人はとても少ない。トイレに並んでいる人もおらずそこは助かる。最後には雨が降ってきて花見終了となり、カラオケへと繰り出した。
 カラオケ終了後、まだ時間が早いので、“みはし”と“がんこ亭”で家人へのお土産を購入。
 蕎麦を食べたくなりTHの案内で歩を進めたが生憎と店は閉じていた(潰れたのか)。二人で駅に向かうと海鮮料理の居酒屋があり立ち寄った。そこで貝などを焼きながら少し飲む。同じテーブルの端にいた若い女性と話を交わし、彼女が会計を終えた後でこちらに誘う。鹿児島/垂水出身で大学では物理を専攻し、いまはLSI設計に携わっているようである。この日に読み終わった前記の文庫本『彼が通る不思議なコースを私も』をあげ、我々二人は上野駅方面、彼女は湯島方面に向かい別れた。
 間違ってJRに入ってしまい、ままよと大宮経由で無事に帰宅。

2017年4月4日火曜日

『昭和後期の家族問題』

 <湯沢雍彦 『昭和後期の家族問題』(ミネルヴァ書房、2012年)>:『昭和前期の家族問題』と同時に購入しなかなか頁が進まなかった。「家族問題」というよりも「世相史」的な受け止め方をしてしまう。そしてその世相は自分が生きてきた時代と重なるので身近に感じる。
 著者は何を目的にしてこの本を表したのか少し戸惑いを覚えた(逆な言い方をすればオレはこの本を何故読んだのだろう、何を目的にしたのだろうと自問する羽目にもなった)。というのは、新聞や雑誌の記事、調査による統計等々を基礎として夫婦や家族内での軋轢、売春取り締まりの法整備、等々を分析し既述するのであるが、表面的な事象をエピソード的に並べているだけのようにも感じ、その事象の原因や本質的なものには深く入っていない。「家族問題」とは個々の人々や家族の問題であって、共通項はあったとしても実質的には千差万別であろうから全般を括ってしまえばその時代時代の世相を述べているに過ぎないと思える。
 349-350頁では、「大多数の日本の家族にも弱点がいくつかある。その最大の課題は、家族の中の人間関係すなわち心のつながりの淡さ、薄さにある」とし、「とにかく日本では夫の在宅時間を増やし、地位の対等性、役割の共同性、情緒の一体性を確立することが先決」と結論づける。そのためには「『家族』こそ一番大切なものとの思いを増し、その表現をはかるよう努めることではないだろうか」と結論する。判ったような判らない、表面的なキレイな言葉でまとめてしまっている。
 上記の頁で、「あなたにとって一番大切と思うものは何ですか。一つだけあげてください(何でもかまいません)」の回答における年度別推移に言及している。文章では判りにくいので原データにアクセスし、グラフ化してみた。(原データとはhttp://www.ism.ac.jp/editsec/kenripo/pdf/kenripo116.pdf)
 子供と家族を別個にしている意味が分からないので「子供+家族」を追加した。昭和33(1958)年は生きること、食うことが一番の課題であったのか、生命・健康・自分が一番大切で、昭和58(1983)年からは家族が1位となっている。国家・社会は全体的に下位にあるが、昭和58(1983)頃からは1乃至2%であり、家・先祖も似たようなものである。もしかしたら、日本の人々は思ったほど国とか先祖を重くは受け止めてはいないのかも(?)。尢も、「一番大切なものは何ですか。そのためには何が大切かと思いますか」という質問をすれば異なる結果になるであろう。

雑記

 YC&ACセブンズで早稲田が優勝。1981年、83年以来の34年ぶり。この時季、ましてセブンズということで今までは負けてもあまり気にせずにいたが、やはり「優勝」の響きは心地よい。参加したメンバーには岸岡・斎藤・佐藤・中野・横山・梅津・桑山(兄)・吉岡・フリンなど。過去にはAメンバーが出ることは少なかったと思っているので、意外に感じた。昨季大学選手権で同志社に完敗し、今季へのトレーニングはいつもより早めにできているのかもしれない。
 8日には入部式があり、近々新人の全容が判るであろう。一般入試、附属・系属からの新人部員を早く知りたい。

 「文章力を自分の欲望の発散のために使うのではなく、エゴやナルシシズムを削ぎ落とすために使っている人。それが僕の思う『文章の上手い人』です」(朝日新聞、2017年4月2日朝刊)という星野源の言葉が印象に残る。くも膜下出血の断続的な療養でほとんど人と会わずにいて、「自分と向き合わざるをえない時間を長く過ごし、エゴを感じることに飽き飽きしてしまった」ことから来ているようであるが、逆に言えば、エゴやナルシシズムを削ぎ落とすためには自分と向き合うことを厭になるほど繰り返さねばならないと思える。
 また、北山修の言葉として「世界はどんどんどんどん第三者を意識した会話になっていっている」が「折々のことば」(同3日)で紹介され、鷲田清一は「今は『自己』理解の過程がすぐに『みんな』という外からの視線に晒されてしまうと危ぶむ」と解説している。まったくそう思う。「誰誰さんが(も)・・・」、「みんなも(が)・・・」、という理屈づけが多いし、他人の評価を気にしすぎる。
 個々の人の考えや思いはバラバラである筈なのにすぐに色を付けて分けたがる世間(マスメディアも含む)の風潮に嫌気がさす。
 昨夜、某テレビ局のニュース番組を見ていたら画面の下にツイート文が流れる。他の番組でも見ることがあるが、あのツイートを流す意味が全く理解できない。不快である。チャンネルを変えたら芸人がぺちゃくちゃやっている。結局、テレビの電源を切った。

 子どもたちからの誕生日のプレゼントを早めに頂戴した。昨年は燻製を作るスモーカーをお願いし、チップも揃えたのであるが、雨が降ってきたとか、暑いから涼しくなってからとか、寒いから暖かくなってからとか言っていたら何もせず1年が過ぎてしまった。近いうちには絶対に自製の燻製で酒を飲もう。

2017年4月3日月曜日

3日間ひとり、CD

 今日(4/3)から3日間独りになった。家人が娘および娘の子ども二人とともに2泊3日で遊びに出掛けた。小学校が春休みのときはどこかに泊まりがけで出掛けることは恒例になっており、今年は横浜(関内)・八景島に宿泊して孫たちに遊んでもらう。娘が運転する車で朝9時に出掛けた。今頃は娘の長男・長女はホテルではしゃいで遊びまくっているはず。

 オレはというとCDを流して本を読んだり、この文章を書いたりしている。ここんとこ続けてCDを購入したのでそれを聞いている。2ヶ月前ほどに発注したタカーチ四重奏団のベートーベン弦楽四重奏曲全集が1週間程前にやっと届き、徐々に聞いている。ABQのCDも持っているのだが、特別価格の全集という誘惑に負けて購入してしまった。

 先月中半には、10数年ぶりにアイルランドのショップにMary MacNamara2枚とTommy Peoples1枚を発注し、それも数日前に届いた。コンサルティーナ奏者の前者のCDは4枚目、フィドラーの後者は2枚目。好きなのはMary Custyなのだが(全部持っている)、新作がない。
 アイルランド/エニスのミュージックショップから購入するのは6回目である。メッセージが記されたカードが同封されてきており、描かれているショップの外観の絵が異なっていた。書いてある文字はアルファベットに違いないのだが余りにも癖がありすぎてまだ判読できないでいる。短文なのだが、読めない文字がある。英語に堪能ならば推察もできるのであろうが、オレの英語力では無理があるみたい。小文字のdやlは激しくデフォルメされているし、u・w・m.・n(多分)はなかなか区別ができない。
 アイルランドの音楽はある本からの影響で西クレア地方を中心にして聴いている。同じようなダンス音楽でもなぜかほっとする。それに日常生活に染みこんだコンサルティーナやフィドル、その他の楽器が奏でる素樸な響きがいい。

 1年ほど前にテレビで映画「最強のふたり」を観たとき、流れる音楽が素敵でLudovico Einaudiの「una mattina」を購入し、静かに奏でられるピアノ曲に魅せられた。あとで知ったが、この作曲家/ピアニストのファンになるのはその映画の影響が極めて大きいらしい。
 読書の時や、PCに向かうときにBGMとして何度も流している。来日して今月に演奏会があることを遇々ネットで知り、またまた新たなCDが欲しくなり、3セットを発注した。到着後、通しで流していてとても素敵である。ヒーリング音楽、ミニマル・ミュージック、あるいは現代のサティとも称されているらしいが、繰り返される静かさ、清澄な空気感がたまらない。
 ミニマル・ミュージックが好きなのを再認識した。Steve Reich(未聴の「Tehillim」が欲しい)、Terry Riley(「サロメ」は長い)、Philip Glass(聴いても分からないといってヨーヨー・マ好きのN女史からCDをもらった)、Nyman(随分ご無沙汰してる)、John Adams(「Shaker Loops」で嵌まった)、等々。

 こうやって書いていると、ベートーベン、アイルランド音楽、ミニマル・ミュージックと随分とバラバラなジャンルである。まあ、聴いて魅せられれば、楽しければそれで良し。