2020年4月29日水曜日

9月始業? 明治史研究の概説書

 いつまでこの緊急事態宣言状況が続くのであろうか、一旦設定された5月6日に解除されることはまずないだろう。高校入学式が未実施の、娘の長男はいつになったら通学するようになるのだろうか、いっそ欧米並みに9月始業に変更したらどうだろうか、などと漠然と思っていたら、いきなりニュースで流れるようになった。やはり多くの人は同様な考えをするものである。変更についていろいろ困難さは伴うであろうが、その困難さを前面に出して否定的する人も多くなるであろう。困難さを多く口にすることは実行しないことを主張することと同様で、そもそも変化を望まない人は難しさばかりしか言わない。個人的には9月始業がいいと思うのだが。

 草毟りの2回目を実施。今回はこれで終わり。草毟り後、連れ合いが見たらやはり毟りすぎの箇所があった。

 <小林和幸 『明治史研究の最前線』(筑摩書房、2020年)>:先回の『近現代日本史と歴史学 書き換えられてきた過去』もそうであったが、本書にも深入りしなかった。それは、歴史学の変遷を知ることに焦点をあてていないからである。過去の歴史が時代によってどのようにメスを入れられているのか、また新たな発見があったとしても、結局のところ、自分の関心は現在の時代でどのように過去を見て今を見るのかと言うことに尽きるのであって、例えば戦後に明治時代をどのように見ていたのかということも、その戦後の時代を見ることに重きをおくからである。しかし、本書は分かりやすく説明されており、明治という時代を広範囲に俯瞰するのには良書と思う。

2020年4月26日日曜日

雑記

 近くの100円ショップに行った。入ったら怒鳴り声が聞こえ、目を向けたらかなり高齢の男性が4点支持の杖を右手に、カウンターの前で男性店員さんに声を張り上げて怒っている。その声はよく通り、結構長い時間よく通る声が店内に響き渡り、店員はすみません、はいと返事を繰り返し、10分前後も続いていたと思う。何に怒りを向けていたのかは分からないけれど、この老人、ほかの客の不愉快さを招き、店内の空気を汚している自覚はないのだろう。

 昼、眠くなってきたので眠気覚ましに草むしり。やり始めると止まらなくなり約2時間、花壇一箇所を残して終了。手を付けた花壇では、いつものことではあるが、抜くべきものと残すべきものとの区別に自信がなく、もしかした間違って抜いてしまったものもあるかも、あるいは抜くべきものを残したのかもしれない。動物に限らず植物も生きているものは取り扱いが難しい。もちろん人間および人間社会も。

 まだまだ続く新型コロナウイルス、何となく来年になっても続くような気がする。アベノマスクは我が家に配布されても開封することはないであろう。カビや髪の毛や変色など、目に見える品質異常があったかぎりそれへの対応はなされるのであろうが、目に見えない品質はどのように保証されるのであろうか。
 能力のない医者のように“特に異常はみつかりません、暫く様子をみましょう、何かあったらまた来て下さい”のような対策。何かあってからでは遅いのである。敵が攻めてきているときに様子見でその攻め具合を眺め、何かあってから対策を検討しても遅いだけであろう。様子見とは、それを発する人間の「何もなければいい」という楽観的願望の色合いが濃いし、能力不足も背景にある。
 また、「一致団結して・・」、「みんなで・・」の主張があるが、この同調性を前面に出す情緒的対応願望、具体的には何をどうしようとしているのか理解できない。これらの主張で、事が上手く運ばないときにはまずは身を安全地帯に置き、「いままで経験したことのない」や「想定外」とか「集団責任」とかを言いだし、本質を見えなくする方向に進むものである。

2020年4月24日金曜日

電話再診、歴史学の本

 初めての電話再診-処方箋の発行。1km弱の近くにあるとはいっても今は総合病院の中には入りたくないので電話で済ませた。電話が混んでいると事前に教えて貰っていたが2回目で通じて、診療科に回され、医師がすぐに出てくれ、終わるまでには5分も要しなかった。午後になって薬局に行くとすでに薬は準備されており、ここでも短時間で済んだ。次の再診の7月でも電話で済ませればと思う。

 <成田龍一 『近現代日本史と歴史学』(中公新書、2013年)>:副題は「書き換えられてきた過去」。本書は、「戦後直後からの歴史学を第一期、続く1960年代からの高度成長期の歴史学を第二期、そしてその後、現在にいたるまでの歴史学を第三期として、それぞれの時期の歴史学の特徴と、それが提出する歴史像」(“あとがき”から引用)を紹介し、比較的入手しやすい多数の参考文献があげられている。広い範囲を駈け足で走るがために、全体を掴もうとすると疲弊する。結局のところ、今現在の自分に問いかけながら、関心ある歴史分野の対象を絞って参考文献に眼を通し、自分なりの歴史解釈をしながら今の世を見つめ、そこに向けての感性や想像力を築いていくしかない。

2020年4月18日土曜日

古本の買い取り依頼、MS Office不具合

 古本買取店に本を引き取ってもらった。今年になって2回目。ネットを利用して本を送付する買い取り店は、最初は関西のA、次に隣接町のBと変遷し、丁度1年前から現在も利用している業者は信州にあり、そこでの利用は今回で6回目となって合計冊数は210を超えた。処分する本は内容の軽いものや当てが外れた本、そして小説が中心。理由は、それら以外は書き込みをして本を汚してしまうから。
 バーコードのないものや書き込みをしている本については、そのうちにゴミと同様に扱って廃棄処分となる。これは所謂終活の一端ともいえ、本以外のものも、何年がかりになるか分からないが、未練を断ち切って少しずつ廃棄を進めなければならない。多分、一般的に見てものがありすぎる。

 サブPCにてMS Officeが立ち上がらなくなった。自動的に更新モードに入るのだがエラーが発生してしまう。結局はネットで検索して同様の不具合を体験した人のwebを参考にして解決した。Webでは修復に1時間ほど要したとあったので、数時間の時間を覚悟したが意外にも短時間で終わった。よく分からないが、officeを再インストールしたようである。Windows使い始めの昔(Windows 3.1の頃?)はDOS/Vに入っていろいろとやったのだが、今は全くわからない。身の回りのテクノロジーはどんどん高度化・複雑化していく一方、こっちのもろもろの理解力は年齢と共に劣化している(多分といいたいが)のだからしようがない。

 新型コロナウイルスに感染しても70歳以上は軽症でも入院できるらしいから、少しは安心なのか(笑)。

2020年4月17日金曜日

新型コロナウイルス、『ファクトフルネス』、『最期の言葉の村へ』

 毎日増える新型コロナウイルス感染者、実態の見えない感染者数と感染経路。いつまで続くのだろうか。もう2ヶ月近くは電車・バスにも乗らず、飲食店にも入らずにいる。
 アベノマスクでこの日本の政治の絶望さと滑稽さを味わい、いったいこの国の政治を動かしているモノは何だろう、日本人特有のものなのかともどかしい気持ちになる。モリカケやサクラ、山口某の事件などなど、一連の隠蔽や忖度などが姿を変えてアベノマスクや給付金の迷走、感染対策の遅れなどに繋がっている気がしてならない。本質的な何かがあるのだろう、きっと。
 消毒・殺菌の補充に微酸性次亜塩素酸水を買ってきた。持参した2リットルのペットボトルに入れてもらい、300円の安さ。

 <ハンス=ロスリング 『ファクトフルネス』(日経BP社、2019年)>:クイズ13問で正解したのは6問であり、やはり思い込みがかなりある。
 若い人たちや、ビジネスの渦中にある人にとって本書は有用なテキストであるが、リタイアした無職の高齢者にとっての本書の位置づけは次のようなものである。すなわち、世の中の政治やニュースで腹を立てたり不愉快になったりするとき、その事由を正しく掴み、疑問点がどこにあるのかを自分でキチンと理解すること、それへの手助けになる。変だと思う感性と、どうしてなんだろうと考える想像力を養うためには本書に書かれているファクトフルネスはとても大切なことである。頭の中をリフレッシュした気分になった。

 <ドン・クリック 『最期の言葉の村へ-消滅危機言語タヤップを話す人々との30年』(原書房、2020年)>:原題は「A Death in the Rainforest How a Language and a Way of Life Came to an End Papua New Guinea.
 世界の中で最も多くの言語を有するパプアニューギニアにおいて、ほかの言語とは関連性を持たないタヤップ語を話すガプンの村。2014年時点で村人は200人あまりでタヤップ語を話すのは45人ほど。そのタヤップ語も各人のバージョンがある。
 著者はその村に30年間関わり続け、延べ3年近くをその村で過ごした。白人が来てパプアニューギニアに文字が作られ、ガプン村では他地域との交流ができると、次第にトク・ピシン語が使われるようになる。キリスト教もその言語が使われる。要は交流の拡がりに伴ってタヤップ語は縮小する。日本における標準語と方言の関係性が頭に浮かぶ。
 ガプンの村はニューギニア奥地の熱帯雨林の中、人里離れた湿地帯で暮らしており、そのようにさせた要因として日本軍が関係している。日本軍がガプンのある地域に出現すると、行政官として入植していたオーストラリア人は姿を消し、当初は日本軍に協力的であった村人であったが、補給路を断たれた日本軍は凶暴になり、村人の恐怖の対象となった。村人は村を捨てて熱帯雨林に逃げ、日本軍は激怒して無人の家を焼き払い、村人は戻ることはなかった。不安の中にあっては理不尽に怒りが高まり、そうすると何をし出すか分からないという日本人のパターンが表出したのであろう。
 言語が消失するのはしようがないことであろう。著者は、「タヤップ語の喪失を嘆くのは、現在の状況においては禿げ頭の人間が櫛を失くすことを嘆くのと似ている」とうまい表現をしている。
 写真や地図を一切載せないのは何か意図があるのだろうか。

2020年4月12日日曜日

71歳

 71歳になった。正しく表現すれば意に反して(!)71歳にもなってしまった。70歳前後の老人がテレビに出ていると“あぁオレもあのような老人になってしまったのだ”と思い入る。若い頃、この年齢の自分の姿・顔立ちなど想像することもなかった。

 午後に眠くなる。まして昼に飲んだ後は確実に眠ってしまい、深夜2時近くまで起きている羽目に陥る。昼に寝なければいいのだがそれがなかなかできない。今日(11日)は絶対に眠るまいと体を動かすことにして、1Fと2Fともに便器と便座をクリーニングした。始めてしまうと徹底的にやりたがる性分なので、自賛するほどに-ほぼ新品と見間違うほどに-奇麗にした。

2020年4月6日月曜日

新書2冊

 新型コロナウイルス感染者が増え続けている。特に東京での増加カーブがいつ右下がりになるのか気になる。住んでいる春日部市でも4/5現在累計14人となった。
 2月18日を最後に電車に乗っていない。スーパーマーケット以外には人のいるところには殆ど行っていない。散髪に行くのもやめている(昔のような長髪にチャレンジしようヵ)、飲食店にも行っていない。
 政府の動向を思うとイライラしてくるので考えないようにしている。特にアベノマスクで苛立ちが更に強くなった。

 <中野信子 『空気を読む脳』(講談社+α新書、2020年)><中根千枝 『タテ社会と現代日本』(講談社現代新書、2019年)>:
 以下は短絡的で妄想でもあろうが、あながち的外れでもなかろう。
 日本の国土には颱風があり、川の氾濫もあり、火山噴火もあれば地震もあり、津波もあるし、豊かな四季と言うけれど快適な春と秋があるからこそ冬は尚更に厳しく、この地に住む人々は常に不安の中にあった。安心感はセロトニンの量によって左右され、少ないと不安を感じやすくなる。セロトニン分泌量を調整するのがセロトニン・トランスポーター。このセロトニン・トランスポーターの数の少ない人数が日本人には非常に高い(約97%)。よって、日本人は、どちらかといえば悲観的になりやすくて真面目で慎重で粘り強く、自己犠牲をいとわない。真面目であることは閾を超えることへの不安の裏返しだろうし、慎重であることも同じく枠外へ踏み出す事への恐怖心とも言える。要は安心感への願望の強さかも知れない。
 人は不安を覚えると何かにすがりつきたくなり互いに寄り添う集合体を作る。さらに集合体の中で経験深い人に寄るようになって、自分の身の安定性を確保する。集合体=場の中でリーダー格におもねっていれば自分の不安は希薄化され、自己安定性を高められるようになる。集合体が何を目指すのかという理念はなく、あくまでも自分の保身と安定性を得ることが主眼となる。かくして場の中にタテの関係が構造化する。見知った人で場を作るから論理よりも感情が紐帯の基礎となり、相互依存で保護され、忠誠によって温情が得られる。この「場」が「公」であれば「公」と同じ平面上に「私」がべったりと張り付き、「私」のベクトルが「公」平面に直角に交わることはない(直角に交わるとは「私」と「公」が相互に影響し合わないこと)。

 「愛、親子の情、師弟の恩、仲間同士の連帯意識、感動、自己犠牲、忠誠心、誇り、絆・・・・そういったものをふわっと感じさせるだけで、なぜ世の中の大部分の人は押し黙り、納得して、大人しくされるがままになってしまうのでしょう?ずっと疑問に思っていました」と著者(中野)は“おわりに”の冒頭に記している。同じ思いが強く、例えば、「絆」がいかにも大事な言葉として口に出され、スローガンとなっているのを見ると強い違和感を覚えてしまう。

 『タテ社会の人間関係』を読んだのは今から37年前のことで、あらためて『タテ社会と現代日本』に目を通した。真新しいことはなく、頭の中を整理するつもりだった。37年前というと34歳の頃で、それから定年退職となるまでにはいろいろと「タテ社会」の経験の積み重ねはあった。幸いというべきであろう、自分が露骨な「タテ社会」を感じて忸怩たる思いをしたということは余り記憶にない。本来は上で決まったことに従順に従うことを求められた場面があったが、その決定事項に従わず、ある意味ちゃぶ台返しをやって意志を貫いたこともあった。それは多分に、製品設計という理屈で成り立つ世界にいたからこそ出来得たものなのかもしれない(対面を重んじる上司には嫌みを何回か言われたが)。「坊主と袈裟の分離ができない日本人の知識人」は鋭い指摘であるし、覚えておかなければならない言葉である。そして「論理性」を欠くことがないようにしたいものである。

2020年4月3日金曜日

神頼み、白石一文の新刊

 東京五輪が来年7月23日開催と決定された。組織委会長は「神頼みみたいなところはあるが、そうした気持ちが必ず通じていくと思う」と語った。首相時代に「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国」と発言した人のさすがの言葉である。

 <白石一文 『君がいないと小説は書けない』(新潮社、2020年)>:作者の自伝的小説。ほぼ事実に基づいて小説を構成されているのだろうと思う。文芸春秋はA社と書かれているように出版社名はアルファベット、文学賞もそう(芥川賞はAで直木賞はNのように)、ただ人名は仮名になっていたりイニシャルに置き換えられたりと使い分けられている。
 還暦を迎える作者の「大失敗の人生」と、共に暮らす15歳年下の彼女へのある種の「依存性」が軸となって物語が展開する。(他の小説でもそうであるが)人生における様々な曲面で自他を観察し、論理的に思索・分析をし、作者の思索・哲学が論じられ、それが心地よく読める。
 本作品で25冊目、大好きな作家の1人である。