2016年2月29日月曜日

管球アンプキット音出し、早稲田ラグビースタッフ新体制

 年齢を重ねれば本質的には何も変わらないことを何度も何度も繰り返し見聞きする。だから、本質的に同じで表現を変えただけの台詞、悲喜劇、同じストーリーでもって「創造」を模したドラマも小説も映画も好きではない。要は決まり切ったような起承転結の構成を組み立て、涙と感動を創り出し、ハッピーエンド的に余韻を持たせる。そのような物語は好きではない。変化を模した想像力のない疑似創造性が好きでない。それらにはビジネス-生活の糧-的な匂いを感じてしまう。思索を重ね、物事の本質の深さを見つめようとし、その結果読み手側に問題を突きつける小説に惹かれる。

 <白石一文 『幻影の星』(文春文庫、2014年)>:「星」とは地球、この世の中、過去現在未来を含む生きとし生けるもの全てを意味している。この本には言葉として出てこないけれど「意識」を思い、それに併せて空間に存在している「物体」、そしてそれらを突き刺している「時間」についてイメージが膨らむ。それらを深耕すればこの世の中は「イリュージョン」とこの小説では表現する。
 主人公熊沢は東京で買って東京にあるコートが長崎で見つかり、その中に入っていたSDカードには未来の画像が入っている。一方、諫早で「るるど」でアルバイトするるり子(久美子)には今持っている携帯と同一の携帯が河原で見つかり、そこには覚えのない画像があった。3.11の原発後の現在の時間の流れのなかで、ありえない未来の出来事、そして過去の出来事を絡めて今現在の存在を問い、考え続ける。この物語(思索)を大きく蓋っているのは、『草にすわる』巻末の「あとがき」に繋がる。すなわち、「『この世界とは一体何か?』という問いは実は幻影でしかないからだ」。
 「当初避難所を訪ねた東京電力の幹部、福島県知事といったお歴々は、被災者に対して詫びや激励の言葉を掛けても、膝を折って彼らと同じ目線で言葉を交わすことはしなかった。それに比較して、天皇皇后両陛下や皇太子夫妻は、一人一人の被災者の前で正座し、顔を寄せて彼らの話をちゃんと聞き、ねぎらいの言葉を口にされていた。 (改行)(中略)一代ポット出の権力者たちと万世一系の連綿たる皇統を継ぐ人々との歴然たる器量の差を実感した。(改行)僕はといえば、皇族を皇族たらしめるのがひとえにその歴史であることにあらためて気づかされた。過去と現在とを融合させ、過去の記憶や意味を自らの記憶や意味として保持する者。そいういう存在は、いまや皇族や王族をおいてほかにはあり得ないだろう。この『時間そのもの』なのだ、と痛感したのである」(88-89頁)。このように企業人・政治家と対比して皇族を捉えることは自分にはなかった。次のような下劣な存在は「かつての復興大臣」として歴史に残る。サッカーボールを蹴って場違いのアピールをした役立たずの松本龍元復興大臣、香典問題・下着窃盗疑惑の髙木毅復興大臣等々、碌でもない輩が復興に向き合っている(いた)フリをする。
 「ただ、それよりもさらに大きな喜びは、その誰かの苦しみや悲しみを分かち合えることなのかもしれない」(90-91頁)。いとおしい者に対する気持はそれでしかないような気がする。
梅枝母智夫のエッセイが興味を持って読める。小説作法として面白い。

 NHK「コズミックフロント」シリーズ(現在は「コズミックフロント☆NEXT」を録画してよく見ている。宇宙とは何か、宇宙の外には何があるとか、同時性あるいは現在と星々との時間との関係、人智の及ばぬ世界と存在の根源、などなど思いを巡らす広がりはとどまらないし理解の及ばないことばかり。それに宇宙に目を向ける研究者たちへのある種の羨望もある。遠き星々を思い、地球の画像を見ると、「神」の存在を信じる人たちの存在は理解できる気がする。

2016年2月26日金曜日

オーディオ-自作、読書(漫画)

 アナログプレーヤーのケーブルも追加して合計10本(5セット)のRCAケーブル自作完了。追加した2本のRCA端子はTOMOCA製にしたが前の方が作りやすかった。
 久しぶりにサウンドハウスを利用したが、送料は無料で翌日に配達され、以前より対応が格段に良くなった。それにケーブルは切り売りもあり安価。

 友人が送ってくれた紫檀の角材(断面30mm×15mm)を利用してスピーカーのインシュレータ(スペーサー)を数10個製作。手持ちの工具では綺麗な直角に切断することができないがやむを得ない。それに面取りも1個1個手作業でやるのでとても市販品のような整った形状にはならない。また加工冶具も作り、思った以上に時間がかかった。工作機械があればと何度思ったことか。
 スピーカーの下には8mm袋ナットや比較的安価な市販品を使用していたが、この紫檀スペーサーの方が美的にもいい。時間をかけて作ったので、その分だけでも音は良くなっているはずだ。

 管球アンプ(FA105)のキット、Z800-FW168HRのスピーカーユニットとエンクロージャーのキット、それに『Digi Fi』付録スピーカーのボックス(奥澤製)がまとまって宅配された。リビングに置いたら、先週から一部工作場と化しているリビングは尚更に雑然としてきた。作業テーブルを置き、その上に半田ごてや工具類を並べ、工具箱もフロアにあり、もの作りの匂いのする好きな雰囲気になってきた。

 先ずは『Digi Fi』付録スピーカーを作った。付録にあったコンデンサーを間に入れてツイーターは逆相接続し音を出した。『Stereo』付録の2wayスピーカーと比較すると音がこもっている感じがする。カーテンの後から出ているような音になっている。コンデンサーの種類を換えたりすれば音質も変わるのだろうけれど、その領域に入ったら底のない泥沼が待っていると思うので一切やらない。他のスピーカーでも音を出してみたが、自分の好みはエッジのはっきりした中高音にあると再確認した。まあ部屋の環境も良くないし、音質に拘る条件下にない。
 そういえば20代に会社の寮にいた頃は友人知人たちがそれぞれにオーディオ装置を構えていた。先輩の部屋にあったパイオニアのスピーカーから出る音は平面的に感じられ、同期入社の友人が買ったビクターの音には低音だけのビクターと評し、自作スピーカーにいそしんでいた先輩の部屋での音は聴くに堪えなかった思い出がある。オレはというとさっぱり知識がなかったので同期のクラシック好きの友人にオーディオ機器を選んでもらっていた。

 <都留泰作 『ムシヌユン 2』(小学館、2015年)、『ムシヌユン 3』(同、2016年)>:第1巻を引っ張り出してきて再読し、その後に3巻まで読んだ。先が全く見えず、不思議な世界、それでいて生きている人間たちの魅力もある漫画である。帯には「亜熱帯 x SEX x SF!」とある。著者は文化人類学者で漫画家、理学博士で富山大学人文学部准教授を経て現在は京都精華大学マンガ学部准教授。『ナチュン』も読みたくなった。全6巻をそのうちに・・・、紙ベースでは入手できないかも。

 <谷沢永一 『もう一度読みたい昭和の性愛文学』(KKロングセラーズ、2016年)>:大学教授にして文芸評論家として名前を知っていた。富島健夫と広山義慶-両者とも懐かしい名前である-のエロ小説引用が多い。もっとアカデミックに性愛文学と世相あるいは社会を論じるのかと思っていたが、引用が多く、昔の一時期に売れていた性愛小説の性愛場面を紹介しているだけという感が強い。

2016年2月16日火曜日

オーディオ関連のもの作り

 図面(部品加工図・装置やケーブルのL/O-レイアウト図など)を書き、ものを作るのは楽しい。もっぱら自室のオーディオ関係が主体であり、ここ数日も今度こそ最終にしようとしてL/Oを変更した。2セットのスピーカーを作る予定があり、それを見込んでの変更。ゴチャゴチャしていたケーブル類も少しは整理して、もうこれで最終とするつもり。
 昨日はラックとして使用するための木製ボックス(単に4枚板構成の安価品)2個を組み立て、購入したばかりのライン-アンプセレクターやアンプ-スピーカーセレクターを含めて全ての機器を並べ直したら初期構想以上に収まりがよくすっきりした。満足。

 オーディオケーブルが今日(16日)届いたので別途端子とハンダが到着したらまずはRCAケーブルを8本、合計長12mを自作する。よく分からないままにケーブルをモガミ2549にし、RCA端子は安価な秋月電子通商のもの。数十年使用してきた半田ごてもグレードを上げて新調した。
 その次は雑誌DiGiFi付録の2wayスピーカー。近いうちに届くはずのエンクロージャーはサイズを優先して小さなものにした。多分簡単に終わるであろう。それと相前後して管球パワーアンプのキット品を作り上げる。これまた間もなく配送される予定の管球アンプキット。管球アンプは初めてであり、音がどう違ってくるのか興味があったことと、自分で作り上げたいことがある。デザインも性能も高評価なトライオードなどには手が出なく、持っているオーディオ機器のレベルと合わせてサンハヤトのもの(FA105)にした。10年近く前から販売されているらしいが、価格的にこれでよしとした。楽しみ。しかし、オーディオ機器の価格の広さにはいつも驚く。雑誌にて新製品紹介がよくあるが、とても手が出ないし、それに価する耳も部屋も持っていない。
 最後は「数百万のハイエンドスピーカーに採用されているユニットを使用」したスピーカー。今月下旬になれば送られてくる。いままで手を着けたオーディオ関係のなかでは最も高価で、数年前から欲しくて欲しくてしようがなかった。人生も残り少なくなってきたので楽しんでもいいだろう、エイヤッと購入を決めた。自分のオーディオ機器は言ってみれば初級クラスのものでしかないが、もうこれでおしまい。音楽を鳴らしていると色々試したくなるのはしようがなく、やはり「オーディオとは畢竟物欲」(『レコード芸術2015年10月号』211頁)なのであろう。40数年前から使っているDIATONEや昨年組み立てたスピーカー、雑誌の付録のスピーカー(3セットになろうとしている)、なにが違うのと言われるけれど、音質が変わるのが面白いし、それに、何よりも作る楽しみがある。

2016年2月14日日曜日

独り言

 朝、テレビのスイッチをオンにすると、朝っぱらから何とかエイコウが女に二股だとか五股だとかを流し、ベッキーの復活を口にする芸能人のコメントが映し出される、ドイツの鉄道事故でコメンテーターが安全を確認して欲しいですねなどとたわい無いことで評論する、そんなことどうだっていいじゃないか、長い時間をかけて報道する価値なんてないじゃないか、くだらない、・・・・と苛立つ。

 家にいることが多く、テレビをつけていることも多いが、朝昼夕と同じ画像で同じトーンのニュースが流されるのにウンザリし、他のチャンネルに代えても同じようなものだし、もしかしたらオレを含む一般大衆の思考能力を貶めるためにくだらん報道を繰り返しているのかなんて妄想もしたくなる。

 イクメン議員の不倫が「ゲス不倫」などという下卑た言葉を被し、さも大事件・大不祥事のように報道されているが、批判するならばそいういう議員がなぜ存在しているのか、そのシステムにも触れたらいいじゃないのか。地元の人たちの声を流しているがそれは大して意味を持たない。何故って不倫議員もバカ面小百合議員も歯舞を読めない沖縄北方担当相も、号泣議員もみんな選挙で選ばれている。そのバカ議員を組み入れる組織があって、彼等彼女等を支え応援する人たちがいて、そして選挙で投票する人たちがいる。そのシステムに目を向けないといつになってもこのバカさ加減は繰り返される。また、「我々選んだ側にも責任がある」なんて小賢しく言うコメンテーターもいるが、ならばその責任の先にある責任の取り方や責任の重さ、或いはどうすればいいのかにも触れるべきであろう。「我々もキチンと見ていく必要があります」なんていう言葉は何の意味も持たない、(テレビ出演による)あざとい小遣い稼ぎの言葉でしかない。
 当議員の謝罪会見で「女性と3回会われたということですが、(後略)」との質問があった。3回という数字を出すならば「何回ぐらい(性)行為したのですか」の類の質問もして欲しかった(と思うのはオレだけかな)。

 などと愚痴っているところに、環境大臣がバカな発言。「『反放射能派』と言うと変ですが、どれだけ下げても心配だと言う人は世の中にいる。そういう人たちが騒いだ中で、何の科学的根拠もなく時の環境大臣が決めた」(信毎web)だと。その後、記憶がないとか、やっぱりあったからと発言を撤回し謝罪した。一連のバカさ加減に思うことは多くあるけれど、かつて彼女の発言をもとにして作られたTシャツを彼女自身が着てくれないかなぁ。それは、2010年に自民党が作ったTシャツで、そこには現環境大臣の直筆サイン「この愚か者めが」と彼女の顔写真を入れてある。似合うと思うのだが。

2016年2月9日火曜日

早稲田ラグビー新体制および推薦合格者発表

 早稲田ラグビーHPにて来季新体制と推薦合格者がアップされた。
 監督は公に流れている通り山下大吾。コーチ等の布陣はこれからだろうが熱い指導を望みたい。主将は、大した理由もなく予想していた通りに、桑野。
 推薦合格者は例年になく多い人数で、期待が弾む。12人中6人はU18 TIDキャンプメンバーであり(早実の森島も含めれば7名)、内2名(岸岡SO-東海大仰星・中野CTB東筑)はセレクション合宿参加メンバーに選ばれている。箱館ラサールから3名も入学予定であり、うち2名は創造理工学部であり、旧理工学部機械工学科出身の自分としては応援したい気持になっている。CTB出身の監督のもと、大型CTB中野や桑山弟にも大きく期待したい。12人の内FWBは4人で第一列は一人もいないのが気になるが、何はともあれ来季に期待。
 来季は秩父宮や他の競技場に足を運ぶ回数を多くしたい。

白石一文 『幻影の星』

 年齢を重ねれば本質的には何も変わらないことを何度も何度も繰り返し見聞きする。だから、本質的に同じで表現を変えただけの台詞、悲喜劇、同じストーリーでもって「創造」を模したドラマも小説も映画も好きではない。要は決まり切ったような起承転結の構成を組み立て、涙と感動を創り出し、ハッピーエンド的に余韻を持たせる。そのような物語は好きではない。変化を模した想像力のない疑似創造性が好きでない。それらにはビジネス-生活の糧-的な匂いを感じてしまう。思索を重ね、物事の本質の深さを見つめようとし、その結果読み手側に問題を突きつける小説に惹かれる。

 <白石一文 『幻影の星』(文春文庫、2014年)>:「星」とは地球、この世の中、過去現在未来を含む生きとし生けるもの全てを意味している。この本には言葉として出てこないけれど「意識」を思い、それに併せて空間に存在している「物体」、そしてそれらを突き刺している「時間」についてイメージが膨らむ。それらを深耕すればこの世の中は「イリュージョン」とこの小説では表現する。
 主人公熊沢は東京で買って東京にあるコートが長崎で見つかり、その中に入っていたSDカードには未来の画像が入っている。一方、諫早で「るるど」でアルバイトするるり子(久美子)には今持っている携帯と同一の携帯が河原で見つかり、そこには覚えのない画像があった。3.11の原発後の現在の時間の流れのなかで、ありえない未来の出来事、そして過去の出来事を絡めて今現在の存在を問い、考え続ける。この物語(思索)を大きく蓋っているのは、『草にすわる』巻末の「あとがき」に繋がる。すなわち、「『この世界とは一体何か?』という問いは実は幻影でしかないからだ」。
 「当初避難所を訪ねた東京電力の幹部、福島県知事といったお歴々は、被災者に対して詫びや激励の言葉を掛けても、膝を折って彼らと同じ目線で言葉を交わすことはしなかった。それに比較して、天皇皇后両陛下や皇太子夫妻は、一人一人の被災者の前で正座し、顔を寄せて彼らの話をちゃんと聞き、ねぎらいの言葉を口にされていた。 (改行)(中略)一代ポット出の権力者たちと万世一系の連綿たる皇統を継ぐ人々との歴然たる器量の差を実感した。(改行)僕はといえば、皇族を皇族たらしめるのがひとえにその歴史であることにあらためて気づかされた。過去と現在とを融合させ、過去の記憶や意味を自らの記憶や意味として保持する者。そいういう存在は、いまや皇族や王族をおいてほかにはあり得ないだろう。この『時間そのもの』なのだ、と痛感したのである」(88-89頁)。このように企業人・政治家と対比して皇族を捉えることは自分にはなかった。次のような下劣な存在は「かつての復興大臣」として歴史に残る。サッカーボールを蹴って場違いのアピールをした役立たずの松本龍元復興大臣、香典問題・下着窃盗疑惑の髙木毅復興大臣等々、碌でもない輩が復興に向き合っている(いた)フリをする。
 「ただ、それよりもさらに大きな喜びは、その誰かの苦しみや悲しみを分かち合えることなのかもしれない」(90-91頁)。いとおしい者に対する気持はそれでしかないような気がする。
梅枝母智夫のエッセイが興味を持って読める。小説作法として面白い。

 NHK「コズミックフロント」シリーズ(現在は「コズミックフロント☆NEXT」を録画してよく見ている。宇宙とは何か、宇宙の外には何があるとか、同時性あるいは現在と星々との時間との関係、人智の及ばぬ世界と存在の根源、などなど思いを巡らす広がりはとどまらないし理解の及ばないことばかり。それに宇宙に目を向ける研究者たちへのある種の羨望もある。遠き星々を思い、地球の画像を見ると、「神」の存在を信じる人たちの存在は理解できる気がする。

2016年2月4日木曜日

本2冊

 <適菜收 『現代日本バカ図鑑』(文藝春秋社、2016年)>:週刊文春に連載されていた「今週のバカ」を収録している。週刊文春を購入するのは年数回程度でこのコラムは知らなかった。俎上に乗せられる多くは政治家であり、この本を読まずとも自分はバカと思っている人たちが多い。
 「バカとは知識がないことではありません。バカとは価値判断ができないことです」から始まる。自分のサラリーマン経験などからもバカに向き合うのに疲労した思いが強い。バカを批判してもそれを理解できないからバカは耐力がある(打たれ強い)、説得もできない。活動的なバカは周囲に害毒を振りまくし、少し知恵があるバカは手に負えなくなる。知恵が付いたバカはあざとい行動を取り、それが表面的には比較的まともに見えるから、周囲のバカが追従することも多い。バカは本質論を嫌って(自問できないで)いて、表面的な感情論に依拠して論を立てる。
 政界の動きをみてもあざとさを感じてしまい、ほとほと厭(嫌)になる。テレビをみれば馬鹿馬鹿しいことを正論めいて発するバカコメンテータもいれば、毒にも薬にもならない悪ふざけをしているコメディアンがさも世の中を睥睨するようにエラソーなことを喋り、そしてまたそれをマスコミが取り上げる。政治家が劣化したというけれどその政治家を選挙で選んでいるのは一般の人間であり、結局、この国が総体的に劣化したということであろう。そもそも選挙ってのは優れた手段である筈はない。ベストなシステムとして使われる「民主(的)」という用語もホントは常に疑っていなければならないものである。
 こんなことを書いていても何も変わることはないので、少なくともバカをバカと感じる感性は鋭敏にし、なぜバカはバカなんだと考える想像力は豊かにしていきたいものである。

 <石田衣良 『水を抱く』(新潮文庫、2016年)>:6年前に『sex』を読んで以来の著者2作目。この本は「婬らな純愛小説」の宣伝文に惹かれて購入したのであるが、つまらなかった。俊介の元恋人は性的欲望の強い女で、ストーリーのメインとなるナギはセックスに逃げ込む色情狂であり、常軌を逸したセックス依存症である。この女を婬らと言うのには抵抗がある。婬らと言うのは隠微ななかにも美的なものの存在をうかがわせるものであると思うのだが、この小説にはそれを感じない。そもそも著者の描写力は浅い。何故に依存性を強くしているのかが語られないままに物語はすすめられるのだが、最後に明かされる理由というのが陳腐である。登場人物の内省的描写はなく、人生の深淵への入口さえも描かれはしない。純愛の純愛たる純粋性、一途さもロマンもない。せいぜい安っぽい三流ポルノ映画の原作にはなりえる程度の薄っぺらな小説。著者の本はもうこれでお終い。

 気になる本は常にメモしている。勢いで購入しても読む時間がなく放っておくことも多いし、そもそも関心の向く方向が発散気味であり、読む本の数よりも買ってしまう数の方が多い。こんな状態に反省もあり、積ん読状態にある本を先月はリストを作って整理した。それはダブって買わないためでもあるし、読む方向性を少しでも絞り込み、衝動的に購入しないためにブレーキをかけようとするものでもあった。
 そんな状態にあるのに、楽天のポイントが結構たまっていたので、メモしていた中から3冊の本を2日前に注文した。1冊はすぐにでも読んでみたいと思っていた小説だった。そしてそれらが今日一括で宅配された。開けてみて、あれっと思った。何故ってその小説は既にいま読んでいる。楽天ブックスに発注してから本屋に2回散歩に行き、そこでその小説を見たときに、発注済みであることを失念して購入してしまったらしい。ぼけてきたのか、忘れっぽくなったのか、少し自己嫌悪。