2016年2月9日火曜日

白石一文 『幻影の星』

 年齢を重ねれば本質的には何も変わらないことを何度も何度も繰り返し見聞きする。だから、本質的に同じで表現を変えただけの台詞、悲喜劇、同じストーリーでもって「創造」を模したドラマも小説も映画も好きではない。要は決まり切ったような起承転結の構成を組み立て、涙と感動を創り出し、ハッピーエンド的に余韻を持たせる。そのような物語は好きではない。変化を模した想像力のない疑似創造性が好きでない。それらにはビジネス-生活の糧-的な匂いを感じてしまう。思索を重ね、物事の本質の深さを見つめようとし、その結果読み手側に問題を突きつける小説に惹かれる。

 <白石一文 『幻影の星』(文春文庫、2014年)>:「星」とは地球、この世の中、過去現在未来を含む生きとし生けるもの全てを意味している。この本には言葉として出てこないけれど「意識」を思い、それに併せて空間に存在している「物体」、そしてそれらを突き刺している「時間」についてイメージが膨らむ。それらを深耕すればこの世の中は「イリュージョン」とこの小説では表現する。
 主人公熊沢は東京で買って東京にあるコートが長崎で見つかり、その中に入っていたSDカードには未来の画像が入っている。一方、諫早で「るるど」でアルバイトするるり子(久美子)には今持っている携帯と同一の携帯が河原で見つかり、そこには覚えのない画像があった。3.11の原発後の現在の時間の流れのなかで、ありえない未来の出来事、そして過去の出来事を絡めて今現在の存在を問い、考え続ける。この物語(思索)を大きく蓋っているのは、『草にすわる』巻末の「あとがき」に繋がる。すなわち、「『この世界とは一体何か?』という問いは実は幻影でしかないからだ」。
 「当初避難所を訪ねた東京電力の幹部、福島県知事といったお歴々は、被災者に対して詫びや激励の言葉を掛けても、膝を折って彼らと同じ目線で言葉を交わすことはしなかった。それに比較して、天皇皇后両陛下や皇太子夫妻は、一人一人の被災者の前で正座し、顔を寄せて彼らの話をちゃんと聞き、ねぎらいの言葉を口にされていた。 (改行)(中略)一代ポット出の権力者たちと万世一系の連綿たる皇統を継ぐ人々との歴然たる器量の差を実感した。(改行)僕はといえば、皇族を皇族たらしめるのがひとえにその歴史であることにあらためて気づかされた。過去と現在とを融合させ、過去の記憶や意味を自らの記憶や意味として保持する者。そいういう存在は、いまや皇族や王族をおいてほかにはあり得ないだろう。この『時間そのもの』なのだ、と痛感したのである」(88-89頁)。このように企業人・政治家と対比して皇族を捉えることは自分にはなかった。次のような下劣な存在は「かつての復興大臣」として歴史に残る。サッカーボールを蹴って場違いのアピールをした役立たずの松本龍元復興大臣、香典問題・下着窃盗疑惑の髙木毅復興大臣等々、碌でもない輩が復興に向き合っている(いた)フリをする。
 「ただ、それよりもさらに大きな喜びは、その誰かの苦しみや悲しみを分かち合えることなのかもしれない」(90-91頁)。いとおしい者に対する気持はそれでしかないような気がする。
梅枝母智夫のエッセイが興味を持って読める。小説作法として面白い。

 NHK「コズミックフロント」シリーズ(現在は「コズミックフロント☆NEXT」を録画してよく見ている。宇宙とは何か、宇宙の外には何があるとか、同時性あるいは現在と星々との時間との関係、人智の及ばぬ世界と存在の根源、などなど思いを巡らす広がりはとどまらないし理解の及ばないことばかり。それに宇宙に目を向ける研究者たちへのある種の羨望もある。遠き星々を思い、地球の画像を見ると、「神」の存在を信じる人たちの存在は理解できる気がする。