2016年2月4日木曜日

本2冊

 <適菜收 『現代日本バカ図鑑』(文藝春秋社、2016年)>:週刊文春に連載されていた「今週のバカ」を収録している。週刊文春を購入するのは年数回程度でこのコラムは知らなかった。俎上に乗せられる多くは政治家であり、この本を読まずとも自分はバカと思っている人たちが多い。
 「バカとは知識がないことではありません。バカとは価値判断ができないことです」から始まる。自分のサラリーマン経験などからもバカに向き合うのに疲労した思いが強い。バカを批判してもそれを理解できないからバカは耐力がある(打たれ強い)、説得もできない。活動的なバカは周囲に害毒を振りまくし、少し知恵があるバカは手に負えなくなる。知恵が付いたバカはあざとい行動を取り、それが表面的には比較的まともに見えるから、周囲のバカが追従することも多い。バカは本質論を嫌って(自問できないで)いて、表面的な感情論に依拠して論を立てる。
 政界の動きをみてもあざとさを感じてしまい、ほとほと厭(嫌)になる。テレビをみれば馬鹿馬鹿しいことを正論めいて発するバカコメンテータもいれば、毒にも薬にもならない悪ふざけをしているコメディアンがさも世の中を睥睨するようにエラソーなことを喋り、そしてまたそれをマスコミが取り上げる。政治家が劣化したというけれどその政治家を選挙で選んでいるのは一般の人間であり、結局、この国が総体的に劣化したということであろう。そもそも選挙ってのは優れた手段である筈はない。ベストなシステムとして使われる「民主(的)」という用語もホントは常に疑っていなければならないものである。
 こんなことを書いていても何も変わることはないので、少なくともバカをバカと感じる感性は鋭敏にし、なぜバカはバカなんだと考える想像力は豊かにしていきたいものである。

 <石田衣良 『水を抱く』(新潮文庫、2016年)>:6年前に『sex』を読んで以来の著者2作目。この本は「婬らな純愛小説」の宣伝文に惹かれて購入したのであるが、つまらなかった。俊介の元恋人は性的欲望の強い女で、ストーリーのメインとなるナギはセックスに逃げ込む色情狂であり、常軌を逸したセックス依存症である。この女を婬らと言うのには抵抗がある。婬らと言うのは隠微ななかにも美的なものの存在をうかがわせるものであると思うのだが、この小説にはそれを感じない。そもそも著者の描写力は浅い。何故に依存性を強くしているのかが語られないままに物語はすすめられるのだが、最後に明かされる理由というのが陳腐である。登場人物の内省的描写はなく、人生の深淵への入口さえも描かれはしない。純愛の純愛たる純粋性、一途さもロマンもない。せいぜい安っぽい三流ポルノ映画の原作にはなりえる程度の薄っぺらな小説。著者の本はもうこれでお終い。

 気になる本は常にメモしている。勢いで購入しても読む時間がなく放っておくことも多いし、そもそも関心の向く方向が発散気味であり、読む本の数よりも買ってしまう数の方が多い。こんな状態に反省もあり、積ん読状態にある本を先月はリストを作って整理した。それはダブって買わないためでもあるし、読む方向性を少しでも絞り込み、衝動的に購入しないためにブレーキをかけようとするものでもあった。
 そんな状態にあるのに、楽天のポイントが結構たまっていたので、メモしていた中から3冊の本を2日前に注文した。1冊はすぐにでも読んでみたいと思っていた小説だった。そしてそれらが今日一括で宅配された。開けてみて、あれっと思った。何故ってその小説は既にいま読んでいる。楽天ブックスに発注してから本屋に2回散歩に行き、そこでその小説を見たときに、発注済みであることを失念して購入してしまったらしい。ぼけてきたのか、忘れっぽくなったのか、少し自己嫌悪。