2026年5月31日日曜日

ほぼ1ヶ月間のサボリ、その間の雑事

 5月はいろんなことに時間を取られた。

 2FのメインPCでは何の問題もなくできていたのに、1FのサブPCに構築できなかったSteinbergのSpectraLayers 11をやっとインストールした。偏に自分の知識不足であったのだが、原因が分かって対応できたときは気持ちがスッキリした。ミスをしないと知識は獲得できない。

 腰痛が1週間近く続いた。年に1~2度は生じる。歩けない、座れないなどということはないが、違和感と痛みを感じたときは消炎シップを貼り、ただ安静とする。

 EWIの宅録を2曲追加。練習を重ねれどなかなか上手くいかず、結局はある程度のところで妥協してしまうのは毎度のこと。矢張り本質的な能力不足に加えての努力不足は無論自覚する。誰かいい指導者に教えてもらえれば上達もしようが、それは色々な事情で無理なこと。自己満足の領域を高めようと続けようと思う。でも、時間をおいて自分の演奏を聴くと下手さ加減が自覚でき少しは落胆もする。
 政府答弁のように「××は不足しておりません、目詰まりしているだけです」と言いたいが、オレは謙虚だから(?)能力不足を認める。

 KoYo・TaHiと北千住で飲む。会津高校1年5組で一緒になってから61年経っても楽しく過ごせる時間を持てることはホントに幸せである。2次会は春日部の駅前。小一時間を過ごして散会。自分はバスで帰宅し、Koは大宮駅から新幹線で会津若松の自宅に向かい、Taは市川に帰る。楽しかった。Taは大好物の「かすかべ餅」を買う時間が無いことを残念がり、Koにはその美味しさを教えていなかった。なので翌日、「かすかべ餅」を二人に送る。届いてからTaは奥さんときちんと同量を分け合ったと、Koからは奥さんが喜んでいるとの連絡が来た。嬉しい。
 
 車の定期点検時に新車乗り換えの提案があり、その日に契約を交わす。早い決断に営業担当者が驚いていた。車を買うときはいつも決断が早い。車自体にそれほど深い関心はないし、検討を重ねてもそれは時間の無駄と捉えている。車体の色も営業の方の好みという推薦に二つ返事した。
 車種は変わっていないので運転に目新しさは然程ないが、ナビと接続するSDカードのフォルダー・ファイル構成に時間を要し、使用することは尠いだろうけれどスマホやモバイルプレーヤーとのBluetooth接続登録、スマホのAndroid Auto設定などを実施した。そして車内の新車の匂いを消すための対応(窓の全開)などを今も続けている。

 <適菜收 『バカと戦うためのゲーテの教え』(詳伝社、2025年)>:深い意味を簡潔に表現してくれる。自分の思いを再確認するだけで新たな気づきとか発見を見出すことはない。
 会社勤めをしているころ、嫌味な性格ではないし、そこそこに活動的で主張もするが如何せん的外れでそれを他に押しつけようとする。そういうバカには本当に辟易した。「ちょっと弁が立つチュと半端なバカが一番厄介で面倒」だとそう思っている。その人間に地位や権力/権威を与えると組織は崩れる一方である。大事なことは「自立すること、自律すること」と思っている。

 <上東丙唆祥 『人生最後の片づけ・整理を始める本』(メディアパル、2023年)>:長く使っていないもの、ちょっと気に入らない服などを棄てようとは思っているけれど、その気持ちに抗ってしまう感情も捨てきれない。そんな気持ちに踏ん切りを付けるヒントはないかと本書を手にとってはみた。が、特段に真新しいことはない。この本を買ったという行為そのものがよかったのかもしれない。少しずつ不要品や衣服を捨て始めている。

 <長瀬ほのか 『わざわざ書くほどのことだ』(双葉社、2025年)>:文章が上手い。それは著者本人が「地元の教育大学に合格できたのは自己推薦文のおかげだと思っている」し、「添削してくれた現代文の先生も「今まで読んだ自己推薦文史上最高傑作」」と言ってくれていたし、「模試でもE判定の大学に自己推薦文で受かった」と書いているから文章表現力は高校時代から優れていたのであろう。その彼女の緩やかでユーモアあふれるキャラクターが楽しませてくれる。牡蠣と日本酒を愛するところも好きである。

 <監修:堀元見・漫画:服岡太朗 『超知的!しもねた部』(新潮社、2026年)>:「原案:『読むだけでグングン頭が良くなる下ネタ大全』」とあった。ということは昨年5月末に読んだ「読むだけで・・・」の中から抜粋してJKを主人公に知的下ネタを描いたマンガかとすぐに記憶が浮かび上がり、このマンガの頁を進めた。明確には覚えていないけれど既視感があふれ、JK3人が交わす会話が冗長的に感じられ、それでも最後まで流した。結局は前掲の「読むだけで・・・」を辞書を並べた棚から引っ張り出しパラパラと思い出し読みをした。1年前に記した感想の「時間と空間が広がっていて、出典を明示しており下ネタを真摯に面白く解説している。とても楽しめる。よくぞこれだけ調べ、それぞれの事柄をうまく繋げて解説していると感心する」と再び思った次第。

2026年5月4日月曜日

つる薔薇、漫画と小説

 玄関のそばの通路に電柱が立っており、東京電力にその場所を貸している。無機的なコンクリートの柱が何の意味も感じさせずに不愛想に立っているのが殺風景であり、引っ越してきて家を建て直すときにその電柱の根元につる薔薇を植えた。今では2メートル近くに成長し、電柱を抱きかかえるように枝葉を伸ばしている。
 そのつる薔薇の手入れは伸びた枝を切り落とすだけで、放っていても枯れることもなく20年ほど緑の葉を保ち続けている。毎年白い小さな花を咲かせ、気持ちを柔らかくしてくれる。いつもはほんの少しの数しか咲かないが、今年は沢山咲いた。こんなに多く咲いたのは初めてこと。最初はいつものように限られたところにだけ咲くのかと思っていたが、日にちが経つに連れて全体に散らばるように蕾が増え、嬉しくなっていた。

 <いしいひさいち 『剽窃新潮』(新潮社、2025年)>:登場人物の自己認識のない屈折した心理とそれを真摯に笑う編集者と読者。素顔を出さない“いしいひさいち”は何故か“やくみつる”が頭に浮かぶ。

 <いしいひさいち 『ROCAコンプリート』(徳間書店、2025年)>:ROCAシリーズ完全版、といってもこの本を発注するまでROCAを知らなかった。何かに夢中になって一途になり、夢を叶え、それを支える碌でもない人が温かい。町を俯瞰する最後の絵が素敵。

 <児島青 『本なら売るほど (3)』(KADOKAWA、2026年)>:古本屋-古書店と呼称するのがいいのかもしれない-が居住する町から消えて久しい。いやいや書店が少なくなっている。自宅から徒歩数分の、よく通っていた書店がなくなって随分と経つし、駅まで歩く途中にあった書店も昨年閉じてしまった。駅近くにある書店は文房具も売っていて、棚に並べられる本の種類は中途半端だし、レイアウトも好みでない。車で20分ほどかけることになるショッピングモールの中にある書店は比較的大きいが、ちょいと立ち寄ってという手軽さの距離にはない。で、この漫画に描かれる古本屋さんがある町とそこに立ち寄る人々が羨ましくもある。

 <飯島和一 『南海王国記』(小学館、2025年)>:時代は17世紀、明を倒した清朝に対し、台湾を拠点として抵抗を続けた鄭成功の生涯を広大なスケールで描く。鄭成功は長崎生まれで母は日本人、国姓爺とも称した。この程度の知識しか持ち合わせていないが飯島さんが活写する世界を味わおうと期待した。しかし、中国南海史が年月に沿って歴史描写のように淡々と語られ、そこには人物の心理描写がなく会話も官僚の無味乾燥なやりとりと思え、次第に読むのがつらくなってきた。極端に言えば、歴史の詳説解説書を読んでいる感じである。・・・という読中感でもって飯島さんの本では初めて途中で投げ出した。

2026年4月24日金曜日

泣きっ面に蜂、『秘剣の名医』

 2月に1Fで使用しているノートPCが故障して修復不可となって1.5ヶ月前ほどに新規に購入したばかり。今度はiPad miniの画面タッチが反応しなくなった。これは瀕死の重傷でブート時のPINコード入力が出来ない。何もかもタッチ操作ができない、文字入力ができない、よって通常の電源オフもできない。強制リセット-再起動しても駄目、放電させてやり直してもダメで、完全にお手上げとなった。しょうがないので新規にRobtompの12インチAndroidタブレット(安価)を購入。国産品にしようか、著名メーカー品にしようか、等々と悩んだがこの中華品に落ち着いた。決め手は価格、FHD+、Widevine L1認証、標準的なRAM容量&メモリー容量、GMS認証、etc。数日稼働させているが快調である。
 泣きっ面に蜂で、今度は最近購入したイヤホンを破損させてしまった。4,000円強と安価なものだが音質が気に入って4.4mmバランス対応のリケーブルも追加購入し、50時間を超えるエージングもしたばかりであった。タブレットのType-CにDACを介して音を出した途端にとんでもない爆音でドライバーが破壊されたようである。原因はDACにあり、色々調べたら、このEarFun UA100の初期設定が音量90%/ゲインHighで、それを知らずに使用したらとんでもない音量がイヤホンに流れてしまった。新しいタブレットのボリュームが大きくなっていたことも絡んでいた。この現象に困っていた人がいて対処方法がネットに書き込まれていた。それはAndroidにEddict Playerをインストールし、音量半減とゲインLow設定をすることでOKとなるとのことだった。確かにそれで対処できた。しか~しだ、ユーザーマニュアルにはそんなことは一言も書いてないではないか、このヤロー。

 <永井義男 『秘剣の名医 二十 幕府検死官 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2026年)>:18年前の事件が気がかりになっている同心の意を汲んで人を訪ね回り、現在の事件に結びつけてすべてを明白に解き明かす。沢村伊織は推理を働かせ辰治親分とお蝶が動き回る。今までも辰治とお蝶は登場していたが2人が互いに交流するのは今回が初めて。伊織の妻お繁が妊娠した。

2026年4月14日火曜日

マンガと乙川さんの小説

 勝手気儘に自分の時間を取ることがはできない。自由とは、制限ある中で自分をどう拡げるのかその精神のあり方である、と考えているので、今の制限の中で作り出す自由を楽しもうと思っている。無論、現実との葛藤、浮き出る我儘などはあるが、それは外に出さないで受容することに努めている。
 以前よりは読書に割く時間は減っている。それでも関心ある本は買ってしまう。また、楽譜は作れどもEWIで演奏する曲は減る。なれども目標としていた100曲は先日達成した。課題は一向に上達していないEWI演奏だし、積ん読量もまた減らないことである。

 <畑中純 『まんだら屋の良太 愛蔵版1』(新潮社、スマートゲート,2023年/初出1979年~)>: 初出は1979(昭和54)年だから戦後昭和の中期の匂いがプンプンする。過去に触れたであろう空気感とバカバカしい懐古感というのが正直なところである。自分が30歳頃のことを振り返れば、何か違うような時代感覚という感じもしないではないが、多分描かれているのはもっと前の昭和30年前後という感覚を覚えた。すぐに消える一過性のノスタルジア。
 4月1日の朝日新聞「「ねじ式」の衝撃、表現者の心を鷲掴み つげ義春さん追悼 美術史家・明治学院大教授、山下裕二」の記事で興味を持って読んだ。

 <乙川優三郎 『立秋』(小学館、2024年)>:親の代から受け継いだ貸しビル業の生業で文筆にも時間を割く、裕福な光岡の漆工涼子との10年に及ぶ触れ合いを描く。
 家業は妻佳枝に任せ、奈良井の漆工である涼子とは塩尻の宿で逢瀬を重ねる。東京では美人で無愛想な寿美のバーに通う。光岡・涼子・宿の女中・寿美と言葉を交わす頁が多く、彼・彼女等の思慮や言葉が静謐の中に深く、艶やかな空気感に包まれる。いつもながら乙川さんの世界に引き込まれる。
 乙川さんの小説に登場する人物の世界がそれぞれに沈静で、例えば画家・木地師・染織・書評・装飾など美術・工芸・文筆などの芸術・文化に生きる人たちが多い。著者の芸術を見る眼差しと批評眼、文章で表現する描写力にはいつも感歎し、語彙の豊富さにはメモを取りながら小説の頁を開いている。
 しかし、今回のこの小説では主人公光岡に好感がもてなかった。涼子との会話の中に光岡の一段上から物事を見る視線とある種の不遜さを感じ、簡単に言えば鼻持ちならない人物を見てしまった。自然や目の前の人に向ける視線は静かで深みがあるのだが、発する言葉に共感を持てなかった。裕福で文才があり傲岸でもないのだが好きになれない人物とでもいえばいいのだろうか。
 乙川さんの小説には珍しい官能的な描写があることに些か戸惑った。炬燵の中で爪先をのばすシーンもある。次の文章に出遇ったときに新鮮な驚きがあった。「光岡は立った勢いで背後から涼子の両肩に手を置き、じきにそうすることが挨拶でもあるかのように片手を浴衣の中に滑らせていった。つんとした膨らみは無防備で、その先に弄びたくなる突起が待っていた。涼子は浴衣の上から自分の手を彼の手に重ねてじっとしながら花火を見ていた」。記憶は曖昧であるが、20歳前後に読んだ『忍ぶ川』(三浦哲郎)の裸で寄り添うシーンが頭に浮かんだ。

2026年4月12日日曜日

1960年代の映画2本

 久しぶりに字幕での映画、1966年制作の『太陽の爪あと』を観た。1960年代に多かった「太陽」の冠が付いた映画の一つで、それらの映画は思い出すだけで幾つかあげられる。すなわち、『太陽がいっぱい』(1960)、『太陽は傷だらけ』(1963)、『太陽のかけら』(1965)、『太陽の中の対決』(1967)、『太陽はひとりぼっち』(1962)、『太陽が知っている』(1969)などで他にもあるかもしれない。ポップスでも「太陽を探せ」、「太陽の下の18才」、「太陽にあたって」、「太陽に歌えば(太陽に歌って)」、「孤独の太陽」、「太陽の中に」、「太陽の彼方に」等々。原題と結びつく邦題があれば、全く結びつかないものもある。石原新太郎原作で「太陽族」なる言葉を流行らした映画『太陽の季節』(1956)の影響で「太陽のなんとか」が多かったのかもしれない。
 今回観た映画も原題は『The Shuttered Room』で、原題は映画のストーリーと謎ときに結びつくが、『太陽の爪あと』ってのはなんかねーという違和感を引きずる。内容は特に優れているということもなく、また駄作という思いでもなく、閉ざされた部屋に訳ありの人物が幽閉されているのだろうと察しは付く。見終わってしまえば陳腐な映画作りという感想も引きずる。5点満点の3.5点。23-4歳頃のCarol Lynleyは魅力的だった。

 続けて1964年の『震えて眠れ』(Hush... Hush, Sweet Charlotte)を観た。若いときからPatti Pageの歌を知ってはいたし、映画があることも知っていたので、正直やっとこの映画を観たという思いである。62年前の映画作りの古さは無論あるが、その古さに郷愁めいたものもなく純粋に当時の俳優の容子や台詞回しが楽しめた。現代の映画を観ることは殆どないし、見ようと思うのは1960年や70年代のものである。Marilyn Monroeの12枚組DVDは持っているしAnn-MargretのDVDも棚に並んでいる。やはり自分の若い頃を懐かしむ気持ちと、今の時代に馴染めない自分が混在しているのかもしれない。

2026年3月29日日曜日

金子文子、『クニオ・バンプルーセン』

 3月25日『朝日新聞』朝刊の「天声人語」冒頭に次の文章が掲載されている。すなわち、「金子文子が大逆罪で死刑の判決を受けたのは、1926年の3月25日、ちょうど100年前のきょうである。恩赦で無期懲役に減刑された後も、頑として転向を拒んだ反骨のアナキストは獄中で自死した」と。これを読んで些か違和感を覚えた。金子が「自死」と発表されたのはあくまで刑務所側からの発表であって、縊死であったことは間違いないかもしれないが真相は謎の域を脱していないはずである。それともそれは自分の誤解・曲解か。Webで見ると自死したとの記事が多いが、自分では得心していない。斎藤美奈子もある本の書評で、金子は「獄中で謎の死をとげた」と書いている(『朝日新聞』2019年7月)。
 乱暴な援用かもしれないが、拷問死したことが定説となっている小林多喜二も警察発表では「心臓麻痺による死」であった。

 <乙川優三郎 『クニオ・バンプルーセン』(新潮社、2023年)>:北ヴェトナム地対空ミサイルの囮でニッケルと呼ばれた戦闘機パイロットだった父ジョンは(恐らく)PTSDに罹り拳銃自殺をした。母真知子とクニオは日本に戻りクニオはグアム大学から国内の大学に編入学する。日本文学に傾倒するクニオは日本人らしからぬ体躯と色黒であり片親でもあった。故にバイリンガルで一流大学卒業でありながら大手の出版社の入社試験では面接で落ちまくった。社長含めて数人しかいない出版社泉社に入りそこで働くこととなる。翻訳出版を含む文筆作品の編集者となり、大学生で小説家を目指す田畑歩美を発掘し育成する。田畑の友人である江坂ユリとも知り合う。と、ここまでがこの小説の玄関を開けたところである。
 本読みの母真知子、大手出版社の編集者となった江坂、アニーはクニオと同じでハーフのバイリンガルであり翻訳を生業とする。優れた文筆家の三浦は、鴨川に妻と二人で暮らす。泉社社長の与田、社の先輩である白川静女子。クニオの編集者としての思いは彼ら彼女らの中で活写される。全体を通しては翻訳書や小説という書物から生み出されるクニオの文学への思い、文章の奥深さを読んでいてその世界に引きずり込まれる。それはこの小説を生み出した著者の文学に対する思い入れと思慮の深さに通じるであろう。そして三浦夫妻、与田とその内縁の妻、彼らとクニオの語らいや酒の席で交わす言葉は何というのだろうか、その一時に魅了される。所作や会話に醸し出される空間と時間に触れるだけでこの小説を読む幸福を浸ってしまう。唯々乙川さんの作り出す小説に身を漂わせ、いい小説を読んだと思う幸福感といえばいいのだろうか。充実した時間だった。
 数日おいて、真知子とアニーの会話に出てくるキャンベルのミネストローネとクロワッサンを買ってきて食した。美味しかった。また、クニオが病に罹って飲むビールのコーラ割りも飲んでみた。これも楽しめる。ただしコーラはペプシがいいだろう。

2026年3月28日土曜日

本の買取依頼、『潜熱』

 45冊の本を買い取ってもらった。古い本も入っていたので買取金額がついたのは39点。それでも1万円近くで予想以上の金額がついた。読んでは段ボール箱の中に入れておき、溜ってくると買い取ってもらうことの繰り返し。次はいつになろうか。
 『路傍のフジイ』全6巻も段ボールの中に入れていたが、もうすぐ高校2年になる孫娘が家に寄ったときにあげた。つまらなかったらブックオフにでも売り飛ばしてかまわないとの但し言葉を付けて。

 <乙川優三郎 『潜熱』(徳間書店、2022年)>:畳屋の息子の相良、母子家庭の大場、寺の跡取り息子の保科だけは住職になるべく大学に通う。高校を卒業してアルバイトで稼ぎ、相良と大庭は信州を離れて東京に出る。大庭は役者になることを目標とし、相良はコピーライターを目指す。
 物語は相良を軸としていて、彼はコピーライター→作詞家→小説家となり、仕事の成功とともに扱う文章は拡がっていく。ロッティと結婚をし、美しい娘ジェニィが生れる。相良の人生は淡々と描かれるが彼女たちはやがてアメリカに移り住んでしまう。物を書くことへの相良の探求は深まり続け、保科は亡くなり、彼を弔うために信州に足を運んで、若き頃に通っていたプラザから歩き帰る夜の静寂な道で「不意にある情景が目の前に浮か」び「これから書く小説の場面を先に見ているような感覚に陥り、しかも心情まで見えてきて」「自信して歩き」「忘れていた言葉たちが快いざわめきを醸しながらついてくる。 ・・・・・」。そして頁は閉じられる。
 大庭と同棲していた陽子との会話が、否、陽子そのものが魅力的に描写されている。しかし、この小説に物足りなさも感じた。それは「酒と女性と言葉に淫し」た相良の、その淫した描き方が浅く薄い感じがする。酒に淫した相良の内面に棘が深く刺さっていないし、女性に淫したというにはもっとドロドロした溺れるような、或は乾ききった淫しかたが深みのある文章になっていないと思った。ロッティと離れる経緯も余りにもあっさりとしているのではないかと違和感を覚えた。また、大庭が県知事になったという設定は乱暴で安易な設定とも感じた。なれど、乙川さんの小説は主人公の内面描写と、主人公の目から見る人の所作とその心の有り様の絡みには何時もながら嵌まり込んでしまう。
 自分は理工学部経由で機械製品設計に従事していたせいなのか、「潜熱」というと熱の塊が赤く溶解していく様とか、熱くなった機械部品とかのイメージが頭に浮かんでいて、ために書名の『潜熱』に些か違和感を覚えていた。改めて辞書で引くと「内にひそんで表面に出ない熱」(『新明解国語辞典』)とあった。なる程、この小説にぴったりだと得心した次第-単に自分の語彙力&感性力不足だが-。