会社勤めをしていたあるとき、私の設計した機械ユニットの組み立て品質に疑問を抱いて製造技術者に確認したことがあった。その技術者(と称される)担当者の返答が、冶具で組み立てているから大丈夫ですというものだった。その目の前にある冶具の精度を尋ねると応えることができなかった。要は冶具という言葉に盲目的に従属しているだけで、それは例えて言えば、自分で判断できずに、AIで判断しているから大丈夫、あの人が言ってたからOKと主張しているようなものである。
先日Geminiと初めて対話(?)した。内容はある2箇所の金属鉱山に関する共通要素と人的交流に関することで、それは私が詳しく知っていることでもあったし、新しい知識や視点を得られるかもしれないという安易な気持ちであった。
Geminiは紳士的に丁寧に応じてくれ、地質学的領域については詳細に回答してくれた。しかし、一部には断定することの裏付け(出典)が不明で納得のいくものではなかった(①)。しかも別の箇所では間違いのある箇所にも気付いた(②)。①については気になったので自分で出典を探してみたらある大学アーカイブに述べられていたことと同一で、そこにも出典は明示されていなかった。②については間違いを指摘したところ、その誤判断してしまったことの背景の説明と謝罪の文章を返してくれた。・・・丁寧な文章と紳士的な応答で、欠点のない人格者と会話しているようでもあり、不思議な、ある意味気持ちが落ち着かない感情を抱いた。
自分のものではない文章を読むとき、そこには必然的に解釈というフィルターを通しているし、共感するとか拒否するとか、或は右から左に流してしまうなど、自分なりの判断を下している。バカな人はおそらくその人の薄っぺらな感覚と共鳴することだけを受け入れているのだろう。
今日(6/18)の朝日新聞「社会季評」の「読書離れ本 売れる時代」の記事が一つの指摘をしてくれている(東畑開人氏)。すなわち、「読む人の心は本の中に響くもうひとつの心と親密な語らいをしている」。「内的対話をする可能にする」「心」は「社会から離れ、一人で本を読む時間と空間を保護してくれる心だ」と。読書とは「社会からいったん離れたところでなされる個人的な営みであった」。ならば、今社会に一般化している「読書離れ」とは、「個人的なるもの全般と、そしてそれを守ると力全般が危機に瀕している兆候でもあるのではないか」。「読書離れ」を「AI」に置き換えると、本書で看破する「人間を飼い殺す」AIと繋がる。