以前よりは読書に割く時間は減っている。それでも関心ある本は買ってしまう。また、楽譜は作れどもEWIで演奏する曲は減る。なれども目標としていた100曲は先日達成した。課題は一向に上達していないし、積ん読量もまた減らないことである。
<畑中純 『まんだら屋の良太 愛蔵版1』(新潮社、スマートゲート,2023年/初出1979年~)>:
初出は1979(昭和54)年だから戦後昭和の中期の匂いがプンプンする。過去に触れたであろう空気感とバカバカしい懐古感というのが正直なところである。自分が30歳頃のことを振り返れば、何か違うような時代感覚という感じもしないではないが、多分描かれているのはもっと前の昭和30年前後という感覚を覚えた。すぐに消える一過性のノスタルジア。
4月1日の朝日新聞「「ねじ式」の衝撃、表現者の心を鷲掴み つげ義春さん追悼 美術史家・明治学院大教授、山下裕二」の記事で興味を持って読んだ。
<乙川優三郎 『立秋』(小学館、2024年)>:親の代から受け継いだ貸しビル業の生業で文筆にも時間を割く、裕福な光岡の漆工涼子との10年に及ぶ触れ合いを描く。
家業は妻佳枝に任せ、奈良井の漆工である涼子とは塩尻の宿で逢瀬を重ねる。東京では美人で無愛想な寿美のバーに通う。光岡・涼子・宿の女中・寿美と言葉を交わす頁が多く、彼・彼女等の思慮や言葉が静謐の中に深く、艶やかな空気感に包まれる。いつもながら乙川さんの世界に引き込まれる。
乙川さんの小説に登場する人物の世界がそれぞれに沈静で、例えば画家・木地師・染織・書評・装飾など美術・工芸・文筆などの芸術・文化に生きる人たちが多い。著者の芸術を見る眼差しと批評眼、文章で表現する描写力にはいつも感歎し、語彙の豊富さにはメモを取りながら小説の頁を開いている。
しかし、今回のこの小説では主人公光岡に好感がもてなかった。涼子との会話の中に光岡の一段上から物事を見る視線とある種の不遜さを感じ、簡単に言えば鼻持ちならない人物を見てしまった。自然や目の前の人に向ける視線は静かで深みがあるのだが、発する言葉に共感を持てなかった。裕福で文才があり傲岸でもないのだが好きになれない人物とでもいえばいいのだろうか。
乙川さんの小説には珍しい官能的な描写がることに些か戸惑った。炬燵の中で爪先をのばすシーンもある。次の文章に出遇ったときに新鮮な驚きがあった。「光岡は立った勢いで背後から涼子の両肩に手を置き、じきにそうすることが挨拶でもあるかのように片手を浴衣の中に滑らせていった。つんとした膨らみは無防備で、その先に弄びたくなる突起が待っていた。涼子は浴衣の上から自分の手を彼の手に重ねてじっとしながら花火を見ていた」。記憶は曖昧であるが、20歳前後に読んだ『忍ぶ川』(三浦哲郎)の裸で寄り添うシーンが頭に浮かんだ。