2019年6月28日金曜日

渋谷と上野へ。「主戦場」を観る、クリムト展はやめる。

 火曜日(25日)、7時半ころに家を出て久し振りに渋谷へ向かう。この日の第1の目的はシアター・イメージフォーラムにて映画「主戦場」を観ること。100人ほどの定員に1/2から1/3の観客であった。平日の午前ということもあろう、同年代の人たちが多かった。約2時間の上映時間、まとまりよく編集されていると思った。インタビューを受けた人たちの主張・思いに真新しいものはない。今までに本・雑誌・新聞・テレビ等で触れている内容と変わりはない。あるとすれば、口を開き、目を動かす表情が確認できること。
 どうみても主張を裏付ける論理性に矛盾があり、自家撞着に陥っていると捉えられる人たちがいるのであるが、それを言ってもしようがないことである。文書が存在しないと強弁しても、それは敗戦直後に公文書廃棄の命令を出しているのだから、あったとしてもないのが当然であり、そういう意味では公文書の存在を争っても意味のないことである。似たようなパターンは現在でも(モリカケや年金報告書等の例に)あることである。事実は何だ、真実はどこにあるのか、という問題よりもホントの問題は、なぜこのような問題が生じてしまうのか、生じえざるを得ないのかということであると思ってしまう。こう思うこと自体が、人によっては現実逃避、問題のすり替えというのかもしれない。しかし、どうしてもそう考えてしまう。

 この日の第2の目的は東京都美術館にて開催されているクリムト展を観ること。しかし、チケットを購入するに要する時間が20分、帰宅後の用事に間に合わせるには時間がギリギリとなってしまい、余裕がない。並ぶことが嫌いで、それに打ち勝つだけのモチベーションもなかった。以前持っていたクリムトの画集も古本屋に売ってしまったし、気持ちが失せてしまった。

 この日は歩いた距離に伴って左足踵がひどく痛んだ。映画を観て渋谷まで歩いている途中で痛みに堪えられず途中で鎮痛剤をのんだ。自宅~春日部駅、表参道~映画館~渋谷駅、上野駅~東京都美術館~アメ横~上野駅、春日部駅~自宅、これだけの距離を久し振りに歩いて(以前だったらなんとも感じなかったが)、翌日の痛みもかなりひどかった。

2019年6月24日月曜日

3冊の本

 <伊藤聡 『神道とは何か』(中公新書、2012年)>:サブタイトルに「神と仏の日本史」。著者の立場は、「神道とは神祇信仰(あるいは神[カミ])と仏教(およびその他の大陸思想)との交流のなかで、後天的に作り出された宗教である」とする。これはもちろん他の研究者にも見られ、浅薄な知識しか持ち合わせない自分もそう思っている。「神道」のテキストを読み続けて自分なりにその全体像というか、歴史的変遷は分かってきた(つもりで)ある。明治維新期以降の「国家神道」は別個である。

 <義江彰夫 『神仏習合』(岩波新書、1996年)>:手にしたのは第17刷。本書は、今まで読んでいる神道関連のテキストの多くに参考文献としてあげられている。それだけの名著なのであろう。神仏習合に至るまでの祭政状況、都と地方の相違が詳述されていて理解しやすい。本書で神仏習合の第4段階とされる本地垂迹説・中世日本紀が(これまでのテキストに比して)少し浅く論じられている。あれっ、ホントにそうなのかと思った箇所があったのは、多分に佐藤弘夫『神国日本』に影響されているからであろう。

 <- 『私の天皇論』(月刊「日本」1月号増刊、2018年12月)>:18人の著名人たちのそれぞれの「天皇論」、あるいは思い。

2019年6月20日木曜日

CATV STB変更

 リビングに置いてある4K対応テレビは単に2Kからのアップコンバートで見ていて、テレビ放送に組み込んでいるCATVのSTB(セットアップボックス)はまだ4Kに対応していなかった。また、2台のBD/HDDレコーダーの古い方はBS・CS専用録画に特化していたが、時々ブロックノイズが見られるようになった。じゃぁということでHD録画対応の4K対応STBへの切替をすることとした。
 最終判断をするまでやったことは、テレビのHDMI仕様確認、使用しているHDMIケーブルのグレードチェック、レコーダーのDLNA対応可否、STB仕様と操作方法の事前確認など。そしてHDMIケーブルをすべてグレードアップしたら現状のシステムでも画質が向上した。その上でSTB交換依頼をし、昨日(6/19)終了。作業しやすいように準備しておいたので、交換・確認作業は短時間で終わった。
 4K放送の番組はまだ少なく見ることも殆どないが、チェックするために見た4Kの画質はやはり素晴らしい。あと大きな変更点はBS・CSの2番組同時録画が可能となったこと、同じくその録画時の他番組視聴が可能になったこと、iLink接続不可となったこと(ケーブルも2本不要ととなった)、CS・BS放送のBD作成には一旦STBから外部接続レコーダーへのダビングが必要となったこと。古い方のBD/HDレコーダーは地上波専用となってしまったこと(使用機会は大幅減)など。
 今後は8K放送も実用化されるであろうが、自分がこれ以上グレードアップさせることはまずないだろう。それに用語理解の時間がかかり、そろそろ限界に近づきつつあるような気もしている。特に、長年にわたって買い求めた機器の現状デジタル環境への適用可否判断に時間を要し、場合によっては出費が重なることにもなる。尢も、これはビジュアル系のみでなくオーディオ関連についても同じ事で、年齢的にもこ文明の利器への対応はもう了とする頃合いなのかもしれない。

2019年6月9日日曜日

三島の映画、若尾文子など

 日中一度も外に出ないこともある。音楽を聴くあるいはLPを聞きながらwaveとして取り込む、本を読む、読んだ本の重要ポイントを抜き出してPCに書きとどめる、録画したドラマや映画を眺める、スマホで単純なゲームをする、アルコールを飲む、こうして時折ブログの記事を書く、等のパターンしかない。いずれも二つのことを並行している。テレビを見ながら本を読むということに、あるいはPCのキーボードをたたきながら、目や耳を他のことにも向けることに連れ合いは感心したり呆れたりしている。何か一つのことだけに没頭することに時間が勿体ないという気持ちがある。

 金曜日(7日)、一人でいて焼酎を飲みながら録画した映画を観た。興味本位で三島由紀夫が主演する「からっ風野郎」、1960(昭和35)年の作品。内容的にはつまらないものであるが、三島は時折上半身裸の筋肉美を晒して自己顕示欲を充たしているようでもある。鋪装されていない道を車が走り、きちんとしたネクタイ背広姿のヤクザに妙に律儀さを感じたり、綺麗とは言えない室内の壁や家具に60年程前の日本の状況を思う。
 三島の大根役者ぶりは嗤うしかないが、共演している26歳頃の若尾文子は奇麗だった。彼女が演じるもぎりの仕事は月5000円の給料であったこと、ウィスキーを「舶来」と称して飲むシーン、赤籏とストライキと労働歌インターナショナル、ヤクザの強襲、官憲に捉まる労働者、何もかもが既視感のある情景である。若いときの若尾文子の、「十代の性典」あたりから「処女受胎」あたりまでの、映画の中の彼女を眺めたい。

2019年6月6日木曜日

寄り道の新書2冊

 <永井義男 『春画でたどる東海道五十三次』(河出新書、2019年)>:サブタイトルに「江戸の宿場の「性」模様」。テーマを決めて読書を続けるなか、ちょいと道草して一休みといったところ。
 文明は常に変化し、一方、文化には変化しない基層がある。そして、男と女の肉体のありようは変わりはしないのだから、性を楽しむパターンは一様に繰り返す。体位を変え、場所を変え、対象を変え、方法を変え、接触する体の部位を変え・・・・、それは今でも同じ事。

 <藤平育子他 『世界が見たニッポンの政治』(文芸社、2018年)>:3人の共著。文芸社が出版元なのでこれは自費出版。海外メディアの見た日本政治の切り取り。英語原文との併記なので英語の勉強にもなる-今さらそんなことはしないが。
 日本は海外の、特に英米人の評判を気にし、批判的な内容には目をつぶり心地よいものを持ち上げる傾向がある。本書ではそのような批判的な記事を幾つか材料にして引用・翻訳している。このように見られているのだろうと予想は付くので、特に真新しい内容はない。日本では海外の右側政党や団体を直截に「右翼・極右」と書くが、国内のそれには和らいだ表現を使う。しかし、海外では日本のそれを「右翼・極右」とストレートに捉えている。

2019年6月4日火曜日

ミステリー1冊

 <葉真中顕 『凍てつく太陽』(幻冬舎、2018年)>:第21回大藪春彦賞受賞、第72回日本推理作家協会賞受賞。物語の現在は昭和19年から始まり、昭和21年で頁が閉じられる。舞台の地は、室蘭・札幌・網走監獄、過去と現在にアイヌの畔木(くろき)村、そして、飢餓から撤退までのガダルカナル島。人物は、大和人の警察刑事と特高刑事と不正義を働く軍人、土人と蔑まされるアイヌ人あるいはその血をひく特高刑事、タコ部屋で抑圧される労働者と大和人に追従する鮮人たち。太陽とは暴走する研究者と軍人が造ろうとするウラン爆弾。
 面白くはあるのだが、物足りない。言葉を悪く使えば、所詮日本歴史の暗部を道具立てとしたエンターテイメント小説であり、その暗部を鋭くつき深部にはいることはない。しかし、エンディングで近い将来を語り合う人たちは土人であり鮮人であり、大和人はいない。そこに著者のスタンスを遠回しに柔らかく表現していると捉えた。

 本書の出版元でもある幻冬舎の社長が「特定の作家」の実売部数をツイッター上で公表し、作家や評論家から批判があがったことはつい最近のこと。著者は日本推理作家協会賞贈呈式にて見城社長を批判している。ついでに書くと「特定の作家」が批判を繰り返し、現在も書店で平積みになっている『日本国紀』については読む気もしない。
 Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2019年6/4号にて「特集:百田尚樹現象」が掲載されている。また、朝日新聞2019年/5月30日「論壇時評」「超監視社会 承認を求め、見つける「敵」」にて津田大介氏も彼を論じている。論壇で問題視されるほどにイヤーな世の中になっている。

2019年6月2日日曜日

散髪、バラ園、新書2冊

 5/30、髪を切りに近くの1000円カットに行く。2ヶ月ぶり。椅子には10人くらい並んでいてそれも年配の方たちばかり。平日のせいかと思ったが、暫くして気がついた。この日木曜日は65歳以上のシニアはポイント倍増なので多分そのためであろう。前日の夜更かしで椅子に座っていると睡魔が襲う。たかだか10分くらいで熟睡した感じになった。

 31日、伊奈町のバラ園に行く。初めてニューシャトルに乗る。内宿で降車し徒歩約10分。バラ園は予想以上に広く、多種の薔薇が咲いていた。ピークを過ぎたのか散りかけているものもあった。約1時間園内をぶらつき、帰路につく。大宮LUMINEでは以前入った店で遅めの昼食。その後バッグを見たいという連れ合いの要望で”そごう”に入り、こっちは山野楽器でCDを眺めようとするもそのエリアは大きく縮小され、以前は輸入盤クラシックが多くあったのが皆無と言っていいほどになくなっていた。もう立ち寄ることはないだろう。帰宅後ウィスキーとジン、そして錦織の緊迫した全仏テニスでまたも寝不足となる。

 <佐藤弘夫 『神国日本』(ちくま新書、2006年)>:蒙古襲来(元寇)のとき、「神風」と称せされる台風が襲って蒙古軍は海に沈み日本に勝利をもたらした、というのが昔教わったこと。今提示されている史実は、最初のときは台風は吹いていないし日本軍は大敗し、2度目は台風がきて日本は勝利した。「神風」は日本書紀にすでに現れており、元寇の「神風」はあとづけの「日本=神国」を装飾したものであろう。
 以下、本書の<はじめに>と<あとがき>に述べられていることを引用しながら、本書の内容(目的)をメモしておく。
 戦後になってまともにすすめられるようになった「神国思想」研究は、「まずは日本において初めて本格的に神国思想が興隆した時代とされる鎌倉期に向けられることにな」った。ために戦後、「最初に学界を支配した学説は、神国思想を古代的な支配勢力の反動的なイデオロギーとみるものであり」、「日本=神国の主張」が熱心に説かれたのも、主として京都の公家政権側においてで」あると捉えられた。よって、「神国思想は、時期的には鎌倉時代-中世に説かれたものであっても、古代以来の残存勢力(朝廷)が自己の立場を正当化するために唱えた「古代的」思想と考えられた」。しかし、その後、「武家政権と並んで鎌倉期の公家政権を中世王権と見る立場が学界の常識とな」り、神国思想も「「中世的」な理念と規定されるに至」った。しかし、「古代的な神国思想とはなにか」、「中世的な神国思想とはなにか」に対し、「学界はまだ統一的な解答が提示することができないままでいる」のであって、著者は「本格的に神国思想が勃興したとされる鎌倉時代(中世)を中心に、その思想の形成過程と論理構造が、「前代の(古代)の神国観念とどのように異なるのか、また、神国思想が「鎌倉時代以降、近代に至るまでどのように変化していくのか」」を論じる。すなわち、「大方の人が抱いているものとは違ったイメージを提示することによって、その常識を打ち破ることを第一の課題」とし、同時に、「「神国」というもっとも「日本的」と思われがちな概念が、実は神道・仏教といった要素に還元しえない独自の論理構造をなしていることを明らかにすることによって、研究の方法に関わる問題提起を」本書で試みている。
 いつもより時間をかけ、鉛筆片手に線を引きまくり、論理的な内容に引き込まれ、充実した読後感がある。思えば、「神国」という観念は他の観念-儒国・仏国-と相対することで生まれたことであり、神(神話)の時代から日本は「神国」であるというのは論理的に成り立ちはしない。神国思想と天皇は不可分であり、(日本の)人間社会とは結局は大きくは変わることができないものの上に立っている。

 <山極寿一・小原克博 『人類の起源、宗教の誕生』(平凡社新書、2019年)>:サブタイトルには「ホモ・サピエンスの「信じる心が生まれたとき」。帯には、「人類史と宗教をめぐり白熱する議論!」、「ゴリラとチンパンジーに宗教はあるのか? 神と暴力の起源とは?」とある。対談の本は概して面白いとは感じておらず、今回もさほどには期待していなかった。ただ、「宗教の誕生」に惹かれたために読んだ。読み終えてはやはり対談は面白くない、ややもすれば話す内容が発散しがちになって雑談になりがちだという思いが残る。もっとも印象に残るのは、集団から離れたあとになって集団に戻ることが出来るのは人間社会であり、ゴリラやチンパンジーにはそれはないということ。それは食を得るための環境のせいでもあり、ひいては信頼感に繋がるということで、得心する。
 人がなぜ祈り、恐れ(畏れ)、神を持たざるをえないのか、という疑問に対し、「宗教」という言葉で括ってしまうと、疑問の向く方向を逸らしてしまい、疑問に境界線を設けてしまう気がしている。また、ロゴスが基底にある神概念と、自然を基底におく神概念は一緒くたに「宗教」と束ねてしまうことにも違和感を抱く。