2019年6月2日日曜日

散髪、バラ園、新書2冊

 5/30、髪を切りに近くの1000円カットに行く。2ヶ月ぶり。椅子には10人くらい並んでいてそれも年配の方たちばかり。平日のせいかと思ったが、暫くして気がついた。この日木曜日は65歳以上のシニアはポイント倍増なので多分そのためであろう。前日の夜更かしで椅子に座っていると睡魔が襲う。たかだか10分くらいで熟睡した感じになった。

 31日、伊奈町のバラ園に行く。初めてニューシャトルに乗る。内宿で降車し徒歩約10分。バラ園は予想以上に広く、多種の薔薇が咲いていた。ピークを過ぎたのか散りかけているものもあった。約1時間園内をぶらつき、帰路につく。大宮LUMINEでは以前入った店で遅めの昼食。その後バッグを見たいという連れ合いの要望で”そごう”に入り、こっちは山野楽器でCDを眺めようとするもそのエリアは大きく縮小され、以前は輸入盤クラシックが多くあったのが皆無と言っていいほどになくなっていた。もう立ち寄ることはないだろう。帰宅後ウィスキーとジン、そして錦織の緊迫した全仏テニスでまたも寝不足となる。

 <佐藤弘夫 『神国日本』(ちくま新書、2006年)>:蒙古襲来(元寇)のとき、「神風」と称せされる台風が襲って蒙古軍は海に沈み日本に勝利をもたらした、というのが昔教わったこと。今提示されている史実は、最初のときは台風は吹いていないし日本軍は大敗し、2度目は台風がきて日本は勝利した。「神風」は日本書紀にすでに現れており、元寇の「神風」はあとづけの「日本=神国」を装飾したものであろう。
 以下、本書の<はじめに>と<あとがき>に述べられていることを引用しながら、本書の内容(目的)をメモしておく。
 戦後になってまともにすすめられるようになった「神国思想」研究は、「まずは日本において初めて本格的に神国思想が興隆した時代とされる鎌倉期に向けられることにな」った。ために戦後、「最初に学界を支配した学説は、神国思想を古代的な支配勢力の反動的なイデオロギーとみるものであり」、「日本=神国の主張」が熱心に説かれたのも、主として京都の公家政権側においてで」あると捉えられた。よって、「神国思想は、時期的には鎌倉時代-中世に説かれたものであっても、古代以来の残存勢力(朝廷)が自己の立場を正当化するために唱えた「古代的」思想と考えられた」。しかし、その後、「武家政権と並んで鎌倉期の公家政権を中世王権と見る立場が学界の常識とな」り、神国思想も「「中世的」な理念と規定されるに至」った。しかし、「古代的な神国思想とはなにか」、「中世的な神国思想とはなにか」に対し、「学界はまだ統一的な解答が提示することができないままでいる」のであって、著者は「本格的に神国思想が勃興したとされる鎌倉時代(中世)を中心に、その思想の形成過程と論理構造が、「前代の(古代)の神国観念とどのように異なるのか、また、神国思想が「鎌倉時代以降、近代に至るまでどのように変化していくのか」」を論じる。すなわち、「大方の人が抱いているものとは違ったイメージを提示することによって、その常識を打ち破ることを第一の課題」とし、同時に、「「神国」というもっとも「日本的」と思われがちな概念が、実は神道・仏教といった要素に還元しえない独自の論理構造をなしていることを明らかにすることによって、研究の方法に関わる問題提起を」本書で試みている。
 いつもより時間をかけ、鉛筆片手に線を引きまくり、論理的な内容に引き込まれ、充実した読後感がある。思えば、「神国」という観念は他の観念-儒国・仏国-と相対することで生まれたことであり、神(神話)の時代から日本は「神国」であるというのは論理的に成り立ちはしない。神国思想と天皇は不可分であり、(日本の)人間社会とは結局は大きくは変わることができないものの上に立っている。

 <山極寿一・小原克博 『人類の起源、宗教の誕生』(平凡社新書、2019年)>:サブタイトルには「ホモ・サピエンスの「信じる心が生まれたとき」。帯には、「人類史と宗教をめぐり白熱する議論!」、「ゴリラとチンパンジーに宗教はあるのか? 神と暴力の起源とは?」とある。対談の本は概して面白いとは感じておらず、今回もさほどには期待していなかった。ただ、「宗教の誕生」に惹かれたために読んだ。読み終えてはやはり対談は面白くない、ややもすれば話す内容が発散しがちになって雑談になりがちだという思いが残る。もっとも印象に残るのは、集団から離れたあとになって集団に戻ることが出来るのは人間社会であり、ゴリラやチンパンジーにはそれはないということ。それは食を得るための環境のせいでもあり、ひいては信頼感に繋がるということで、得心する。
 人がなぜ祈り、恐れ(畏れ)、神を持たざるをえないのか、という疑問に対し、「宗教」という言葉で括ってしまうと、疑問の向く方向を逸らしてしまい、疑問に境界線を設けてしまう気がしている。また、ロゴスが基底にある神概念と、自然を基底におく神概念は一緒くたに「宗教」と束ねてしまうことにも違和感を抱く。

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