2020年5月31日日曜日

明日から6月

 明日から6月、2月18日を最後に公共交通機関の利用や大型店での買い物などをしていない。生活範囲が極端に狭くなってさすがに閉塞感は否めない。まだまだ続くような気がする。家で飲むことしかしていないと矢張り店で出す酒のつまみが欲しくなるし、若いアルバイトの女の子にハイボールのお替わりを頼みたくもなる。しかし、同じように閉じこもった生活をおくっている連れ合いを家において1人で外に飲みに行くのには罪悪感があるし、たとえ友人に誘われても電車に乗って夕方から飲む気持ちにはならない。

 <駄場裕司 『天皇と右翼・左翼 -日本近現代史の隠された対立構造』(ちくま新書、2020年)>:対立構造が、横軸に天皇家と伏見宮系、縦軸に親英米と反英米の4つの事象で区分され、そこに人物名や組織名が当てはめられる。そういう単純なものなのかと違和感は残る。
 緒方竹虎や笠信太郎時代の朝日新聞、60安保闘争時の朝日新聞と産経新聞の立つ位置、ブント全学連闘争の目的、宮中某重大事件や美智子妃排斥の宮中の動き、そこに絡む朝日新聞、等々はスキャンダル誌を読むようで楽しめた。昭和に入ってからの人物は誰も彼も少なくとも名前は知っており、彼らがどういう人脈の中におり、また姻戚関係にあるのかが描かれ、面白くはあるが、それらを知ったところで酒場談義の中で衒学的にしゃべる雑学の類でしかない。

2020年5月26日火曜日

緊急事態宣言解除

 緊急事態宣言解除される。でも2週間後の状況を見極めてから自分自身に解除可否判断をしたい。

 <古谷田奈月 『神前酔狂宴』(河出書房新社、2019年)>:神社に併設されている高堂会館、そこに派遣されている浜野。高堂会館に出張奉仕する椚神社併設の椚会館の人たち。
 神社に併設されている会館で働く人たちとは、神(天皇)のいる国に住んでいるこの国の人びとを彷彿させ、その人びとは意識せずとも神を意識せざるを得ず、本に描かれる狭い世界がこの国を暗喩しているようである。
 会館で結婚式をあげる新郎・新婦は神前で何を誓うのか、永遠に誓えるのか、そこに疑念を持ち、親兄弟と疎遠にしてさして向上心もない主人公/浜野と、それを取り囲む人たち全てが滑稽である。棘があるようでなく、皮肉を充たすわけでもなく、毒もなく、炊ききれない米を食しているような感あり。

2020年5月25日月曜日

ベストセラー小説一冊

 土曜日(23日)、前立腺炎の再診で今回はこれで御仕舞い。踵の痛みもなくなったし、まずは一区切りがついた。

 <凪良ゆう 『流浪の月』(東京創元社、2020年)>:立ち寄った書店にたくさん平積みになっているし、新聞での宣伝も目立つし、ついふらふらとベストセラーの誘惑に負けて手に取りレジに向かってしまった。
 主な登場人物は、父親が死に母親が出奔し伯母の家に預けられた更紗、ロリコン(実は肉体的成長に障害があった)佐伯文、母が男と旅行してその間は更紗に預けられる梨花、DV男の亮、文が手を出してこないことに悩む谷。物語のバックにいるのは、マニュアル通りに育てようとする文の母、世間的同調の中に押さえ込もうとする更紗の小学校の担任と伯母。そしてスキャンダラスな物語に寄生する世間。
 伯母の長男中学生の猥褻行為もあって、更紗は避難的に文のところに入り込み、それが幼児誘拐事件になってしまう。そして事実を探らずに短絡的に間違った方向に結論を見出す警察、面白おかしく勝手な解釈で文を犯罪者とし更紗を被害者として記事を流してしまうマスコミ、そのマスコミに依存して執拗に誹謗中傷を垂れ流す世間という名の人びと。
 愛とか恋とかでなく、自分の居場所を互いに認める文・更紗そして梨花。世の中がどう中傷しようが誹謗しようが、それに抗うのではなく、馬耳東風的に流してしまって世間の喧噪から離れてどこかに居場所を見つける。大上段に愛とか恋とかを求めるのではなく、全ての生活様式を、息づかいを相互に受け容れる優しさというのか、それが文・更紗・梨花のいる場所である。世間と相容れない主人公たちの唯一安心できる世界がそれなのであろう。
 ミステリーっぽく展開する物語で引き込まれて読んだが、何か物足りない。それは、子を棄てる(子から逃げる)母親の描写がなく、また、不条理な世間に対し主体的に抗わない、怒らない、主人公たちの姿勢にある。彼女・彼が求めるのは、世間に抗うのではなく、そんな世間は打棄っておき、あるいは逃げてしまい、自分たちだけの小世界を守ることなのである。20~30代の男女のメルヘン的要素の入った現実逃避行物語。

2020年5月22日金曜日

坂口安吾

 坂口安吾は魔の退屈と歯の痛みを書いた。尿管結石と前立腺炎は味わったことはなかったのであろう。
 20日、数ヶ月ぶりに外食をした。混むのはいやなので11時の開店直後に馴染みの店に入りラーメン+α。久しぶりなのでたったこれだけで解放された幸福感を味わえた。
 ついでに、車を置いていたイトーヨーカドーの小さな書店で本を眺め、ついつい小説を2冊衝動買い。小説は読んでしまえば段ボールに放り込んでしまい、ある程度の数がまとまれば売ってしまうだけ。小説は定期的な消耗品である。ここ暫くはその消耗品に安易に手を出していることに少しばかり後ろめたく、高校校歌の「難きを忍び 易に就かず」の一節をふと思い浮かべる。

 <坂口安吾 『不良少年とキリスト』(新潮文庫、2019年/初刊1949年)>:初刊からは2編が外され、3編が追加されている。収められている全編は1947-48年の発表であるから自分がまだこの世に生まれる1~2年前。口絵の写真(銀座ルパンで林忠彦が撮影)はもう昔から見慣れているものだが、安吾の背中が写っていることは初めて知った。2018年にはじめてトリミングなしで公開されたもので、多くの人が驚いていたらしい。
 座談会に臨んでいる面々は安吾・太宰治・織田作之助・平野謙で、20歳前後に無頼派と第三の新人の作家に入れ込んでいたので、この作家・評論家たちはなじみ深く、座談会は20歳前後のかつての自分からみても既に20年ほど前のものだった。なぜ無頼派や第三の新人の本をよく読んでいたのか-太宰は数冊でやめた-今ではよく分からないが、今も関心の強い戦後、その時代の作家ということであったからであろう。
 「不良少年とキリスト」、ストレート、小気味よく圧巻、少しばかりフツカヨイの匂い。掌編の「復員」は若松孝二監督の「キャタピラー」を思い出した-復員兵の心境は真逆だが-。

2020年5月21日木曜日

急性前立腺炎、『太陽黒点』

 18日、踵の痛みが殆ど消えかけている。数ヶ月は続くと予想していたが随分と早く回復しそうである。と思ったが、夜、寒気がして早く寝る。数日前から排尿時に異常を感じてはいて、この状態が続くようなら21日に病院に行こうとしていた。しかし、19日未明から排尿時の痛みがひどくなり、5年前の急性前立腺炎が再び襲ってきてしまったのであろうと、病院に足を向けた。当初21日に行こうとしたのは昨年末より夜間頻尿で薬を処方してもらっている医師の方がいいだろうと思っていたからだが、痛みがひどくなってきたために待っていられなくなった。診断結果はやはり前立腺炎で、処方してもらった薬(レボフロキサシン500)を服用しこの日も早めに寝る。日付が変わってからが辛かった。均すと約1時間おきに尿意をもよおし便座に座るも排される尿の量は僅かばかりであり、しかも排尿直前がかなり痛い。堪らなく痛い。これが深夜1時から始まって9時過ぎまで続いた。それ以降は徐々に回復傾向となってきた。土曜日に再診。
 19日、上記の如く体調が良くないせいでいつもよりは食事量が減り、その結果であろう1.3kgの体重減となった。昨年11月に風邪を引いて寝込んだときは1.5kg落ちたから、これは病の効用と言ってもいいだろう。課題はその落ちた体重を維持できないこと。

 <山田風太郎 『太陽黒点』(角川文庫、2010年/初刊1963年)>:渡辺京二さんの本を読んでいて、その中に本書がでていた。山田風太郎の代表的ミステリーと称されている本書は知らなかった。何故か坂口安吾の『不連続殺人事件』(昭和23年刊)を思い出すのは、自分が若いときから、敗戦直後から十数年間の時代に強い関心を持ち続けているからであろう。
 昭和38年に刊行された本なので描かれる時代風景はもちろん今から見ればセピア色。本書のキーワードは「遠隔操作」「誰カガ罰セラレネバナラヌ」その後景にあるのは前の戦争。殺人(交通事故として扱われる)に至るまでのシナリオには無理があるが、無理の中にも筋が通っていて、さもありなん、と思えばいいだろう。登場する人物の状況、閉塞性、戦争の引きずられ方、どれも同時代的に感情移入できる。が、彼らに共感するものではなく、一言で言えば、閉塞性の中で人が愚かさをかき混ぜていると、突き放した気持ちにもなる。

2020年5月16日土曜日

AV女優の本、女性作家のハードボイルド

 <沙倉まな 『春、死なん』(講談社、2020年)>:木更津工業高専生だったときの19歳頃にAVデビューしたとのことで、本作には『群像』に掲載された「春、死なん」と「ははばなれ」の2編が収められている。文章は上手いと感じたが、小説としてはどうかなと思う。書名となっている表題作はいろいろと詰め込みすぎて発散気味になり、ばらばらのまま非現実性を現実っぽくみせて着地させたようになっている。70歳の男性に焦点を絞っているようだが、そこに死んだ妻や、温和しげな息子と輪郭が不明瞭な嫁、中途半端な孫、かつて一度同衾した1歳年下の女、それらがバラバラになっている。もう一編はつまらない。
 工業高専在学の女性が性行為の躰をカメラの前に曝す心境は全く理解できないし、想像も出来ないが、そのような女性がどのように文才を発揮しているのか、帯に書かれた高橋源一郎の「どれもありふれた光景のはずなのに、どうして、こんなにも新鮮なんだろう」が読書欲を刺激し、書店で衝動買いした1冊。

 <柚月裕子 『凶犬の眼』(角川文庫、2020年)>:10日に衝動買いした4冊を4日間で読んだ。小説や軽い本は早く読み終えてしまう。
 本書の作者の本は『孤狼の血』から始まり、本書はそのシリーズの2作目。広島県の架空の地における警官とヤクザの物語。
 3作目が刊行されているが文庫本になるまでは読まない-本作のように文庫化にあたっては加筆修正があるかもしれないし-。

2020年5月14日木曜日

踵の痛み、音楽ミステリー

 二日前の早朝から左足踵がかなり痛い。歩き時も左足を引きずってしまう。腫れはないし、原因はさっぱり分からない。ぶつけたのかも知れないがその覚えがない。暫くすれば治るだろうと鎮痛薬服用と経皮鎮痛剤貼付を施しているが3日目の今日も症状はよくならない。近くのよく行っている整形外科医院に行ったが生憎と休診日だったことに気付いた。昼から酒を飲んでいたら少し痛みが軽くなったような気がする。酒は百薬の長なのか、否、単に酔いが痛みを緩和してくれるのか。病院に行くのは明日の痛みの程度次第。

 <深水黎一郎 『最高の盗難 音楽ミステリー集』(河出文庫、2020年/初刊2017年)>:「ストラディヴァリウスを上手に盗む方法」「ワグネリアン三部作」「レゾナンス」(純文学的短編)で、前者2つで描かれる4編はこの表題に沿うミステリーっぽい物語。悪く言えばクラシック音楽のマニアックな知識を大きく広げてそこに推理小説の味付けをしているだけ、というようなもので、よく言えばクラシック音楽を広い意味で-聴くだけでなく読むこと見ることなどを含んで-楽しみ、さらに好きなミステリーも加えてクラシック音楽愛好の世界をさらに拡げている。
 本書に書かれている音楽知識やエピソードには知悉していないが、読むことには抵抗はない。つまり、作曲家や土地、楽器、作品名は知っているし、聴いたこともあるが、それらを解説できるほどには詳しくはない。だからであろう、それらに関して細やかに記述されると少し面倒くさくなり倦み気味になる。
 ワーグナーに関しては、48年ほど前に購入したベーム/バイロイト祝祭管弦楽団の「ニーベルングの指輪」-16枚組LPセット(0239の番号が付されている)-に始まったが、そこからは未だに展開していない状態だし、その「指輪」にしてももう何十年も通しで聴き直していない。よってかつて友人が教えてくれた「ワーグナーの毒」に染まることもなく未熟なままでいる。

2020年5月12日火曜日

最後のトリック、暇潰しの一冊

 政府がらみのニュースを見ていると実に不快な気分に陥る。だから繰り返しては見ない。物事をキチンと理解しようとしない、否、もともと理解できる能力も、理解しようとする能力も有していない、こういう人たちはとても打たれ強いし、焦点のずれた言葉を弄ぶ。

 <深水黎一郎 『最後のトリック』(河出文庫、2014年)>:「読者が犯人」が本書の惹句であるが、「読者」はこの文庫本を読んでいる読者ではなく、本書の中に描かれる小説を読む人のこと。しかし、その読者が罪を犯す訳ではなく、病的原因で死ぬ登場人物が読者を意識することで死ぬのであり、その人物が「読者が犯人」と主張するだけである。ここには道徳的にも法的にも犯罪はない、よって実際には犯人はいない。
 独創的なパズル(ストーリー)の中に個々のピース(シーン)をうまく嵌め込んでいるが、自分の趣味の枠からははみ出している。超能力や本書の骨格となる「手紙」に書かれる、普段目にしない漢字-例えば繖形・虞れ・心悸・簇がる・瞞着等々-は楽しめた。豊富な語彙に接するとわが身の語彙欠乏が嘆かわしくなる。

 <別冊宝島編集部 『教養としての日本の上級国民』(宝島社、2020年)>:イトーヨーカドーにある小さな書店で衝動買い。暇潰しの一冊。章立ては、安倍家、総理輩出の政界「名門」、財界、キャリア官僚、メディア、令和のニューエリート。閨閥の系図を見ていると、平安時代の中央政府のそれを見ているような気になるし、財閥を見ると明治の官営事業払下げを直感する。政財界の閨閥を存続させている限り、そこにあるのは男性優位の社会であり、少なくとも政界での女性活躍は遠い先のことと思う。

2020年5月10日日曜日

高校初登校、近代関連の新書

 7日、娘の長男が高校初登校。いまのところは今月いっぱいまで休校で、来週からはタブレット活用もあるらしい。本来なら国内遠隔地でのイベントなどもあるのだが諸々の行事がなくなった。海外への研修旅行もなくなるであろう。夏休みがなくなるのは本人も覚悟しているようである。
 制服姿を見せに来て、改めて大きくなったと思うし、大人になって来たと感じる。まだネクタイはちゃんと結べないようである。

 <渡辺京二 『近代の呪い』(平凡社新書、2013年)>:本書での「近代の呪い」とは①インターステイトシステム、②世界の人工化を意味している。
 近代以前、民衆の社会はその内部で強固に自立しており、その民衆社会の上に成立している藩や国家的次元での物事に、民衆は無関心であったし直接的に結合していた訳ではなかった。例えば、馬関戦争時において長州の民衆は外国軍の物資運搬をしていたし、会津戦争では民衆は藩の危機に我関せずの態度であった。英仏戦争時においても国民と国民の戦争ではなかった。このように、国家と関わらない民衆世界の自立性(自律性も)を滅したのが近代であった。
 知識層は国外の世界を見て自国の半文明性を知り、外国との経済競争勝利を目標におき、いわゆる富国強兵を目指した。国家のために民衆を教育し、国家のために民衆を動員し、結果、近代化によって国家の動向が民衆生活に直結するようになる。近代以前、民衆は自然と共生するのであるが、近代では国家経済の安定をはかり、人工的世界を築くために自然から資源を収奪するようになる。
 その近代から現在に繋がる国家に属して自分も生きているのであるし、国家に管理され、また援けられているのであろうが、自分は、自分という存在、精神的あり方を独立して持っておきたいと思う。

2020年5月5日火曜日

嬉しいマスク、明治を描く本

 自宅を設計建設した工務店から臨時の通信誌が届いた。中にはマスクが8枚入っていた。自宅には50枚強のストックがあるとはいえ、近辺のドラッグストアにはまだマスクは販売しておらず、この工務店さんからの心遣いはとても嬉しく、お礼の言葉をファックスで送信した。

 <渡辺京二 『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』(平凡社、2014年、2014年)>:明治を生きる人びとを活写しているとき、読む側としては二つの時代を読むことになる。通常はそこに描かれた明治という時代に思いを馳せる。一方では明治を見る作家が生きていた時代である。後者の場合、二つの時代に関する知識を持っていなければならないし、広範な深い思考も求められる。これが本当に難しい。それを気づかされるのは畏敬する本書の著者である。いつか読まなければならないと思いつつも放っておいた著者の沢山の本から近代を扱う本書を開き、改めてそう感じ入った。
 1~3章までは小説の作家をあつかっている。山田風太郎・坂口安吾・大下宇陀児・司馬遼太郎などである。正直なところ、対象となる作品を読んでいないのに著者の詳説を読んでもなかなか入り込めなかった。4章以降は、士族の反乱、民権運動の中で一般的には知られていない人を論じ、最終章では内村鑑三を取上げている。いずれも明治という時代の「谷間」を照射して人びとを物語る。歴史学者がものする歴史書とは異なった視座を与えてくれる。

サン=ジョルジュ、『近世史講義』

 30年ほど前に砂川しげひささん-昨年亡くなってしまった-のクラシック関連の本を何冊か読んでいた。そこに書かれていたサン=ジョルジュの協奏交響曲作品13に惹かれて何度か購入しようとしたが叶わなかった。『なんてたってクラシック』(73頁)と『聴け聴けクラシック』(105頁)に紹介されている(他にも書かれているかもしれない)。
 30年ほど前から今に至るまでこの曲のことは記憶に残り、何度か思い出しては手に入れようとするも販売しておらず、サン=ジョルジュはNAXOSのヴァイオリン協奏曲2枚を購入しただけでいた。今回もなんとなく思い出してネットで探したらCDが見付かった。ERATOの“CONCERTO POUR LA REINE MARIE-ANTOINETTE AU PETIT TRIANON”(邦題は”ヴェルサイユ宮殿、小トリアノン宮における王妃マリー・アントワネットのための音楽会“)で、本に書かれていた内容と多分同じ演奏で、1964年録音のパーヤール指揮パイヤール室内管弦楽団。
 届いてからすぐに聴いて、出だしからすぐに好きになった。軽快で明るく、屈託がなく、丁度いまの青空の季節にピッタリする。アルバムに収められたゴセックとショーベルト-シューベルトではない-の曲も邪気のない軽やかで楽しめる(両作曲家の名前はここで初めて知った)。

 <高埜俊彦・編 『近世史講義-女性の力を問い直す』(ちくま新書、2020年)>:「はじめに」に書かれた文章を要約すると、本書の内容は次のようなものである。すなわち、江戸城や大名家の奥向きの女性がそこで果した重要な役割を描き、天皇家や公家に存在していた女性の実態を探っている。また、村落の百姓家に居住する女性の権利や処遇を論じ、長崎の遊女たちの生き方、吉原の遊女にとっての近代、山伏などの宗教者と巫女の関わり、同化政策を受けたアイヌの女性たちをも論じている。
 14の「講義」を順番に並べると、「織豊政権と近世の始まり」「徳川政権の確立と大奥」「天皇・朝廷と女性」「四つの口」「村と女性」「元禄時代と享保改」「武家政治を支える女性」「多様な身分」「対外的な圧力」「寛政と天保の改」「女性褒賞と近世国家」「近代に向かう商品生産と流通」「遊女の終焉へ」「女人禁制を超えて」。
 特定の切り口で長い江戸期の歴史が短く論じられることに読み手としては発散気味となり、関心は特定の講義に向いてしまった。
 読んだ感想を乱暴に言えば、男性中心の社会・仕組みの中で女性は都合よく利用されていたが、一方では権力を握ることも少なくなく、女人禁制をもなきものとし、あるいは遊女の如く存在を認められていた世界もあった。
 明治に入って社会(世間)の見る視線が大きく変化したものがあれば、一方では今にも根付いている文化もある。例えば、江戸期における遊女へは同情や共感があったが、明治に入ってからは蔑まされるようになり、その視線は基本的に今にも繋がる。買う側の男はある意味不可視化されていることは江戸期も現代も基本的には変わっていない。また、綱吉の時代で制度化された「令」がトリガーとなり「穢多」の蔑称が用いられ、血の穢れの延長線上に女人禁止-土俵に上げさせない、富士山に登らせないなど-が一般化した。もっと古い時代からの因習と思っていたが、意外にも歴史は浅かったとの感が強い。
 苦界に生きる女性たちが江戸期は被害者側的・受動的であって、そこに社会の同情や共感はあったのだが、明治になって制度上では遊女屋がなくなり、女たちは自らの意志で売春を営む者として見られるようになる。実態に変化がなくても、社会(世間)が彼女たちを見る価値観は制度によって変化させられている言えないだろうか。本質、実態を見ているつもりの眼が、その時々の法律や情勢によって変化してしまうということはいつの世にもあることではないだろうか。もちろん今の世でも。いま現在新型コロナウイルスで「自粛警察」なる空気がある、何か同じ匂いがしてしようがない。