2020年5月5日火曜日

サン=ジョルジュ、『近世史講義』

 30年ほど前に砂川しげひささん-昨年亡くなってしまった-のクラシック関連の本を何冊か読んでいた。そこに書かれていたサン=ジョルジュの協奏交響曲作品13に惹かれて何度か購入しようとしたが叶わなかった。『なんてたってクラシック』(73頁)と『聴け聴けクラシック』(105頁)に紹介されている(他にも書かれているかもしれない)。
 30年ほど前から今に至るまでこの曲のことは記憶に残り、何度か思い出しては手に入れようとするも販売しておらず、サン=ジョルジュはNAXOSのヴァイオリン協奏曲2枚を購入しただけでいた。今回もなんとなく思い出してネットで探したらCDが見付かった。ERATOの“CONCERTO POUR LA REINE MARIE-ANTOINETTE AU PETIT TRIANON”(邦題は”ヴェルサイユ宮殿、小トリアノン宮における王妃マリー・アントワネットのための音楽会“)で、本に書かれていた内容と多分同じ演奏で、1964年録音のパーヤール指揮パイヤール室内管弦楽団。
 届いてからすぐに聴いて、出だしからすぐに好きになった。軽快で明るく、屈託がなく、丁度いまの青空の季節にピッタリする。アルバムに収められたゴセックとショーベルト-シューベルトではない-の曲も邪気のない軽やかで楽しめる(両作曲家の名前はここで初めて知った)。

 <高埜俊彦・編 『近世史講義-女性の力を問い直す』(ちくま新書、2020年)>:「はじめに」に書かれた文章を要約すると、本書の内容は次のようなものである。すなわち、江戸城や大名家の奥向きの女性がそこで果した重要な役割を描き、天皇家や公家に存在していた女性の実態を探っている。また、村落の百姓家に居住する女性の権利や処遇を論じ、長崎の遊女たちの生き方、吉原の遊女にとっての近代、山伏などの宗教者と巫女の関わり、同化政策を受けたアイヌの女性たちをも論じている。
 14の「講義」を順番に並べると、「織豊政権と近世の始まり」「徳川政権の確立と大奥」「天皇・朝廷と女性」「四つの口」「村と女性」「元禄時代と享保改」「武家政治を支える女性」「多様な身分」「対外的な圧力」「寛政と天保の改」「女性褒賞と近世国家」「近代に向かう商品生産と流通」「遊女の終焉へ」「女人禁制を超えて」。
 特定の切り口で長い江戸期の歴史が短く論じられることに読み手としては発散気味となり、関心は特定の講義に向いてしまった。
 読んだ感想を乱暴に言えば、男性中心の社会・仕組みの中で女性は都合よく利用されていたが、一方では権力を握ることも少なくなく、女人禁制をもなきものとし、あるいは遊女の如く存在を認められていた世界もあった。
 明治に入って社会(世間)の見る視線が大きく変化したものがあれば、一方では今にも根付いている文化もある。例えば、江戸期における遊女へは同情や共感があったが、明治に入ってからは蔑まされるようになり、その視線は基本的に今にも繋がる。買う側の男はある意味不可視化されていることは江戸期も現代も基本的には変わっていない。また、綱吉の時代で制度化された「令」がトリガーとなり「穢多」の蔑称が用いられ、血の穢れの延長線上に女人禁止-土俵に上げさせない、富士山に登らせないなど-が一般化した。もっと古い時代からの因習と思っていたが、意外にも歴史は浅かったとの感が強い。
 苦界に生きる女性たちが江戸期は被害者側的・受動的であって、そこに社会の同情や共感はあったのだが、明治になって制度上では遊女屋がなくなり、女たちは自らの意志で売春を営む者として見られるようになる。実態に変化がなくても、社会(世間)が彼女たちを見る価値観は制度によって変化させられている言えないだろうか。本質、実態を見ているつもりの眼が、その時々の法律や情勢によって変化してしまうということはいつの世にもあることではないだろうか。もちろん今の世でも。いま現在新型コロナウイルスで「自粛警察」なる空気がある、何か同じ匂いがしてしようがない。

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