2019年12月29日日曜日

まだ続く数学の軽い本、etc

 27日に肺炎球菌ワクチン接種。先月の風邪以来、病院に5回も行っている。病院に行くと病気になりそうな気分に陥る。

 国書刊行会を図書刊行会と、何十年も間違って覚えていた。最近の新聞記事で国書刊行会とあるのを見て、これは誤植だと思って確認したら、自分の頭の中にこそ誤植が刷り込まれていた。

 高校生だった頃、会津若松・神明通りの荒井書店で受験数学参考書を立ち読みしていたら、「1 3 4 6 8 10 12」の数列の中から一つの数値を空白にし、それを解いてうめる問題がコラムに載っていた。解こうと頭を回転させたが解けない。難問であった。同じ問題が「大学への数学」の投書欄にも載っていたことがある。そしてそこには解答とともにコメントも付されており、それは「東京の大学に進もうと思うなら、東京で見られるテレビ・チャンネルくらいは覚えておきなさい」というようなものであった。
 この問題の解答を見たときは、トリックにストンと嵌められた感覚があった。1968(昭和43)年に首尾よく東京には出たものの、そのテレビ・チャンネルを回して「1 3 4 6 8 10 12」の数列に触れることはなかった。テレビがなかった。

 <神永正博 『直感を裏切る数学 「思い込み」にだまされない数学的思考法』(講談社ブルーバックス、2014年)>:”モンティ・ホールの穴”、”バースデイ・パラドックス”、”4色問題”など幾つかは既に知っているテーマもあるけれど、中には何度か読み直さないと理解できないものもあり、そして、分かった気持ちになってもそれを説明できるかと自問すると、きっちりとは分かっていないことを分かってしまう。
 だが、美しい数式や図形に触れると、それらの世界をコントロールしている何かがあるような気にもなってしまう。それもまた不思議。

 <細矢治夫 『三角形の七不思議』(講談社ブルーバックス、2013年)>:三角形の形・組合せ・数学的意味、内接円・外接円・傍接円、三角関数等々、やはり、その不思議さと美しさで楽しめる。

2019年12月25日水曜日

読む数学、材料力学

 <瀬山士郎 『読む数学記号』(角川ソフィア文庫、2017年/初刊2013年)>:
 <瀬山士郎 『読む数学 数列の不思議』(角川ソフィア文庫、2014年/初刊2008年)>:
 <瀬山士郎 『読む数学』(角川ソフィア文庫、2014年/初刊2006年)>:
 中学・高校時代、数学は好きだった。微積と数列・級数は特に好きだったので、これら「読む数学」では微積や展開式ではついつい鉛筆を手に取って証明式を確認したりして楽しめた。高校時代、数列・級数はパズルを解くようで面白かったし、群数列を一般式にするときなどは快感を覚えたこともあった。一方、どうも好きになれなかったのは順列・組合せや集合・確率で、数学らしからぬ(?)数学記号に馴染めなかったし、試験に出るといやな思いをしていた。
 テイラー展開やマクローリン展開、指数関数と三角関数の関係などなど、何十年ぶりに公式を追いかけて見るとその美しさにはやはり魅入られる。

 大学時代から、そして就職してからも機械設計時によく使用したテキスト、『材料力学 (標準機械工学講座)』がどうしても欲しくなり、探したら運良くヤフオクで見付け1000円で手に入れることができた。昭和45年(1970年)4月の版(10版)で、おそらく自分が使用していた版の次に出版されたものであろう。予想よりもはるかに程度がよく、このテキストを保有していた人はあまり勉強もせずにいたのであろうか。著者の奥村敦史は平塚らいてうの子(奥村博史長男)であることは学生時代から知っていたし、確か振動学の授業も受講していたと思う。早稲田の「材料力学」は授業による講義はなく、テキストを7分割して、自学習し、口頭試問を迎えられると自覚した時点で面接を申し込み、それを7回繰り返していた。だからこそテキストを何度も開くことになった。一度他の出版社の「材料力学」を購入したことがあったが、内容が薄くてすぐに放ってしまった。逆に言うと、奥村著のこの『材料力学』は基本原則から説いており、内容が濃いと思っていた。テンソルを勉強したのは専らこのテキストであった。
 頁を開くとどの頁にも見覚えがあり、50年前の自分が、そして勤務先での設計計算の情景が脳裏に浮かぶ。この古いテキストを手にしたからといっても、今の生活に役立つこともないが、時間の合間にクイズやパズルを解くような気分でテンソルに触れ、負荷のかかった梁のSFDやBMDを描き、積分や微分の方程式をたてて解いてみたくなる。錆び付き、枯れかかっている頭に僅かに潤滑油と水分を差すことになるかもしれない。

2019年12月17日火曜日

続けて数学の本

 13日、市立医療センターにて再診。次の再診はなく、一旦終了。
 16日で大掃除は終了。

 <吉田武 『大人のための「数学・物理」再入門』(幻冬舎、2004年)>:全55篇。数学・物理の専門用語はかつて見たものであり、一度はその定理・数式などを紙に書いたこともある。だから、そこに見え隠れする科学史、ニュートンなど著名な数学者・物理学者の私生活・性格に関する記述、また諸処に記される著者の科学に対する考え、後半に多く現れてくる教育や社会への苦言・警鐘など、どこか掌編のノンフィクションを読んでいるように楽しめた。

 <桜井進 『数学のリアル』(東京書籍、2008年)>:現実社会での数学に関するエピソード集といったところ。内容的には簡素。

 <竹内薫 『素数はなぜ人を惹きつけるのか』(朝日新書、2015年)>:素数の世界が沢山記されている。前に読んだ『素数はなぜ人を惹きつけるのか』をより高度に解説しているような内容。興味のない方は数式を飛ばして構わないとしているが、飛ばしても数式から離れることはできない。だからなのか、頁を進めるうちに少々倦いてくる。

2019年12月12日木曜日

年末の掃除開始、小説、素数

 日曜(8日)より大掃除を開始。以前よりは手抜きをし、何日かに分けてやることとなる。タイミング良く家を建築した業者の15年点検が9日に入り、知らなかった掃除・メインテナンスのポイントを教えて貰う。立て替え住み始めてから12月で丁度15年たち、翌1月に生まれた娘の長男もいまは高校受験の真っ直中、時の進みの早さを実感する。

 <塩田武士 『騙し絵の牙』(角川文庫、2019年、初出2017年)>:大泉洋のイメージを取上げての「あて書き」の小説とのことである。頁に挟まれる大泉洋の写真がどうしても目に入り、主人公のイメージが彼と重なる。例えばTVドラマ「ノーサイド・ゲーム」の主人公のように。
 何の予備知識もなしに読み始め、作者が塩田武士だから『罪の声』のようなミステリーかと思ったが、出版業界を舞台にした多重的な生き方をするしたたかなサラリーマンの、従順であるようで最後には業界や出版社に牙をむく-というより後ろ足で砂をかけるというほうが相応しいか-したたかな生き様。小説家の技を見せる見事な小説という、評価の高い小説であるらしいが、自分の好みの枠からは外れる。

 <竹内薫 『素数はなぜ人を惹きつけるのか』(朝日新書、2015年)>:『騙し絵の牙』を読んでつまらなかったとの思いもあり、生ものの人間社会の物語から離れて、無機的な物語に気が向いてしまい、手許に積んである数学関係の一般啓蒙書を開きたくなった。暫くはこれらの数学の物語を読むことに浸ってみようと思う。手始めはありきたりの「素数」からスタート。比較的容易な「素数」の入門書を開く。
 ゴールドバッハ予想、素数ゼミやら、ζ関数やら、双子素数、また、オイラー・ガウス・リーマンなどと名前だけは知っている数学用語・数学者がでてきて、何年も前の、数学の教科書を手にしていたころに微かに戻っているような気がする。

 大学時代からサラリーマン時代になっても使用していて、ボロボロになった背表紙をガムテープで補強しても愛用していた「材料力学」の参考書(奥村淳史著)はいつ棄ててしまったのであろう。設計実務から離れたときか、あるいはリタイアしたときであろうか。書き込みもあり、設計時の計算書も挟んでいたので、今になって懐かしく、取っておけば良かったと悔まれる。手に入るならばこの教科書を開きたくなる。

2019年12月4日水曜日

早稲田完敗、『聖なるズー』

 蓮田に出かけていてラグビー早明戦のライブ観戦はできず、速報版で確認。勝利するときは接戦、負けるならば明治が帝京に勝ったときと同じように完敗し、そのときはFWと接点で負けるパターンかと思っていたが、結果は後者となった(36-7)。慶応・帝京と戦ったときの早稲田・明治のそれぞれのスコアの現実がそのまま早稲田の完敗に繋がっている。
 帰宅後、録画は見ずに直ちに消去。報道で知る限りやはりFWで負けた。いまのラグビーはFWで優位に立たないと勝利はものに出来ない。そしてセット・プレーとプレース・キックの精度。
 大学選手権ではCTB中野が戻ってくるだろうし、相良も戻るであろう。今の早稲田は強くなったといわれたFWは実はそれほどでもなく、集散の早さとスピーディーな展開をしなければならないであろう。明治は準決勝で当たるだろう東海大戦が最初の山、早稲田はやはり準決勝での天理大(もしくは帝京)。決勝は早明戦となって欲しい。

 <濱野ちひろ 『聖なるズー』(集英社、2019年)>:2019年開高健ノンフィクション賞受賞。19歳から「性暴力を含む身体的・精神的暴力」を受け続け、離れるべき賭けとして結婚をして、首尾良く別れることができるまでほぼ10年を要している。警察に3回以上も連絡をしても真摯に取上げてはくれない、窓から逃げ出したこともあるという。性行為は暴力がやみ、眠りにつくための手段でしかなかった。そのような状況で、二つの疑問がまずは頭から離れなかった。一つはなぜ逃げ出せなかったのであろうか、ということ。世の中のDV被害者がその現実から離れられない、逃げ出せない理由を想像する能力が自分には欠けているのだろう。いまでもよく分からない。もう一つは大学入学時の19歳で何故にそのような男をパートナーに選んでしまったのか、それは本書では描かれないが、自分には判然としない。人が暴力的に他者を支配するというその精神性も全く理解できない。一方、そのような暴力状況下にあれば、愛とかセックスのもつ意味が分からなくなるのは当然であろうことは想像に難くなく、愛やセックスに自分としての納得できる解釈ができずにその後の人生に引きずってしまうことは十分に理解できる。そして著者は39歳で大学院に入り愛やセックスを研究する場に身を置いた。著者が体験した愛や性を直接的に研究するのではなく、動物性愛という迂回路を選んだことは賢明な選択であったと思う。
 主にドイツに滞在して「聖なるズー」に触れる。著者の個人的セクシャリティとは別に、先ずは「動物性愛」とは何なのかも知らないし、「獣姦」の言葉くらいしか知らないので、本書は異端の世界に性的嗜好を抱く人びとのその異端たる意味をルポするのかと最初は単純にそう思った。もちろん、「bestiality」も「zoohilia」も本書ではじめて目にした。読み続けるうちに、一般的なおぞましいイメージとは全く違い、主に犬を対等なパートナーとして愛や性を語る「ズー」たちに嫌悪感や差別感は抱かず、単に一つの愛・性のパターンの一つとしか思えない。一般的にいわれるLGBTQにプラスされるもので、行ってみればLGTQZと称されてもいいのかもしれない。本書が優れているのは、愛・セックスに真正面に向き合い、かつ著者自身のそれを追求していることである。彼らは動物たるパートナーに対等に向き合う。逆に言えば、人間社会において対等な関係を構築できないのかもしれない。
 性とは、一側面としては相手を選ばない本能的なものでもある。反面、相手にたいする愛の表現、相互確認・コミュニケーションである。「ズー」たちはその両者を理解した上でパートナーに寄り添っているのであろう。もの言わぬ動物へ注ぐ人間の愛情とはどう理解したらいいのだろう。あるズーは、パートナーが言葉を発すればよりコミュニケーションがとれる可能性を言っていたが、これには疑問がある。言葉を発しないからこそ人間が相手の気持ちや意志を汲取って表現するということもあるのではないだろうか。会話をするということは一種の制限された環境下に身を置くことでもあるし、相手に愛情を抱くが会話が出来ないという場合、相手を含めたその人の空間で自由になれるということでもある。
 本書を読み始めたときに最初に抱いたことが、読み進める中で変化していくことを自覚した。そしてまたドイツがなぜにXplorer Berlinのような催し物を開催できるのか、日本では頻繁に目にするペット・ショップがなぜにドイツにはないのか、動物性愛の法律があるのか(日本にはない)、歴史的な背景にそれらがうかがえて興味深い。
 愛とは、性とは、ズーを通して思考するノンフィクションとして優れた一冊である。衝撃的な一冊である。そして、著者の行動力と冒険心、探究心と思考力に敬服する。

2019年11月30日土曜日

安易なミステリー、ルシア=ベルリン

 黄斑変性症の再診。様子見で来年4月頃にまた診ることになる。視力低下などの症状悪化があれば手術することになる。診察室は暗く、髪の長い女医さんはマスクをしていたが、多分美人であったと思う。「老化による」と冠が付せられるような症状には悔しさもあるがこれだけは不可避なことでやむを得ない。
 人生の終盤に向けての色々な整理しなければならないことが、意識の底に沈殿し始めている。

 <山邑圭 『刑事に向かない女』(角川文庫、2019年)>:体のいい、安易な2時間ミステリー劇場の人物配置とストーリー構成といったところ。

 <ルシア=ベルリン 『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』(講談社、2019年)>:触れると火傷をしそうな、あるいは日焼けして赤く水ぶくれを起こしそうな皮膚感覚、初めて入り込んだ小説空間で刺激的。解説にあるように、「ルシア・ベルリンの小説は帯電している。むきだしの電線のように、触れるとビリッ、パチッとくる」、それがぴったり当てはまる。著者の実生活から描かれているであろう短編小説集。鉱山町、アメリカ、南米、アル中、むき出しの感情、人種。雑然としていて汚れていて、底辺層の生活空間があり、ざらざらして重い暑さを感じる。子どもをひっぱたき、親に疎んじられ、かつてドキュメンタリーで見た南米の貧しい生活圏での人びとの日々を思い出させた。しかし、悲惨ではない。日々の生活と闘うでもなく、いがみ合う訳でもなく、流れて日々を過ごす。小難しい哲学も政治も世間への同調もなく、強いられる秩序もなく、目の前の現実の生活がある。人生を語ることもなく、情愛に溺れることもなく、人にすがることもなく、もちろん世間におもねることもない。いい小説に巡りあった。

2019年11月25日月曜日

小説2冊、酒がうまくない

 <佐藤正午 『月の満ち欠け』(岩波文庫、2019年、初刊2017年)>:一人の女、瑠璃が月の満ち欠けのように繰り返し男3人たちを照らし、あるいは消える。途中で読むのが苦痛になる。要は全く好みでないし、小説構成も好きでない。つまらない小説。一人の女が非現実的に現れ、それぞれの男たちの人生に絡む。何が愛なのか、これが愛なのか、男たちの空虚な人生。
 ふと思った。「月」は「lunatic」、もしかしたら「月の満ち欠け」に人間の狂気の満ち欠けをメタファーしているのか、と。本書を最後まで読んでいないので、どこかにそれらしき表現があるのかもしれないし、ほかの誰かも同じような感じ方をした人がいるのかもしれない。本読まずの読者の単なる妄想かもしれない。

 <ジュンパ=ラヒリ 『わたしのいるところ』(新潮社クレストブックス、2019年)>:孤独の中で「わたし」をみつめる。長編小説とうたっているが、個々に繋がりのない46篇の掌編エッセイという感。街中で、バールで、友人たちとの交流のなかで、独白的に自分を見つめる。感じるのは静謐の中での孤独-寂寥や孤立の孤独ではない-。無謀にも、このような日常にある(あった)刻を切り取って、そこにある(あった)自分を見つめてみたいという衝動に駆られる。
 ジュンパ=ラヒリ、かの名作『停電の夜に』以来、11年ぶりに読んだ。

 一昨日、昨日と飲んだワインもウィスキーも何故かうまいという感じがしなかった。で、今日は好物を肴にしてビールと山形の日本酒を飲んでみたが、なぜなんだろう美味しく感じられない。多分、風邪がまだ少し続いているからその所為であろう。どうしようもなく酒が不味い、飲めないことが1-2年に1-2回ほどはある-「酒は健康・体調のバロメータ」である。「今日も元気だ○○がうまい」と心底感じるときが最も健康で幸福なときであろう。それが刹那的ではなく持続すればいうことなし。

2019年11月23日土曜日

続く風邪、10日振りの酒精、早慶戦、小説3冊

 風邪というのか、まだ喉の違和感や咳は続いている。病院で処方された薬もなくなり、龍角散・浅田飴を試すが、龍角散がもっとも効果的。ただし、服用するときに時折白い粉を飛ばしてしまうのが癖になっていていただけない。

 ラグビー観戦時に久しぶりにアルコールを飲む。実にほぼ10日振り。しかし、「うまい!」という感じにならないのは間を空けすぎたせいなのか、体調不良なのか、甲州白ワインだったせいなのか、よくわからない。

 関東大学ラグビー対抗戦。早稲田の敗戦はまったく予想しておらず、当然の如く勝利したが、スッキリしないもたついた内容であり、且つ結果だった(17/3T1G-10/1T1G1PG)。雨だったので、慶明戦のようなスコア(3-40)は難しいとは思ったが、快勝と言うにはほど遠い内容だった。慶応のフェーズを重ねる攻撃には良くディフェンスしていたと思う。雨のせいであろうハンドリング・エラーが気になった。慶応はこれで大学選手権出場は実質的に消滅した。21年振りらしい。1年生が多いので来季以降のチームであろう、栗原ヘッドコーチは終わりかな。
 高校ラグビー/花園の出場校が出そろった。東北では青森山田が初出場でフレッシュ。関東では浦和高校が3回目。埼玉県の決勝が浦和vs川越東と両校進学校であるのが興味深い。早実は決勝で零敗。学院は最近上位に出てこない。地方予選決勝で、石見智翠館と出雲が130-0、佐賀工業と鳥栖工業が209-0。決勝といっても参加校は2校しかないので寂しい限り-参加校が少ないのは両県だけではないが-。花園開幕までJSportsオンデマンドで主な地方予選決勝を観戦するのが楽しみとなる。

 <誉田哲也 『背中の蜘蛛』(双葉社、2019年)>ある雑誌を買いに行き、ついでに久しぶりに書店内をぶらつき衝動買い。
 ネット監視システムでの防諜、平たく言えば国家警察による盗聴監視システム構築のなかで起きた犯罪解明。捩れた捜査と、それに翻弄されながらも警察内部のタレコミをあばき犯人逮捕へと結びつけていく。

 <ベルンハルト・シュリンク 『朗読者』(新潮社クレストブックス、2000年)>:15歳の少年ミヒャエルが経験した初めての恋愛、少年に寄り添い奔放とも思える21歳年長のハンナ。愛を交わし、ベッドで少年は本を朗読する。ハンナは朗読してくれる少年を「坊や」と呼ぶが、突然に失踪してしまう。ミヒャエルがハンナに再会するのは、ハンナがナチ強制収容所の戦犯として法廷に立つ裁判所であった。ハンナが突然に失踪したのは、電車の車掌から昇進になるときであり、ジーメンスに転職してからさらに強制収容所に移ったのも彼女は読み書きができなかったからであった。要は、自分の名をサインする以外の読み書きを求められる立場に押し上げられることを忌避するがためであった。文盲であるが故にハンナは裁判の事前書類を読んで準備するることもできなかった。彼女は頑に文盲であることを隠し続ける。「彼女は裁判で闘っていただけでなく常に闘ってきた」、「何ができるかを見せるためでなく、何ができないかを隠すために」。
 重い量刑を科せられ、刑務所にいるハンナにミヒャエルはカセットテープを介して朗読を続ける。そして彼女はテープに録音されたものと同じ本を対照させながら読み書きを覚え始める。字を読む能力を身につけた彼女はミヒャエルからの手紙を待ち続けるが、ミヒャエルはカセットテープだけを送り続ける。ミヒャエルは、老いた彼女が出所後に住むべきアパートも仕事も準備するも、ハンナは出所直前に自殺してしまう。
 ミヒャエルは結婚するも離婚し、数々の女性と関係を持つも続かない。その後背にはハンナの存在がある。彼女との交わり、匂い、柔らかさ、肌などと対照してしまう。文盲であることのハンナの苦悩と彼女の世界。歴史の中での長い年月。15歳の少年が包み込まれる、二人の柔らかな恋愛。一人称で緻密な内面描写。ハンナが文盲である原因は一切書かれないが、恐らくは貧しさからであろう。想像するしかない彼女の辛苦と、隠すことで辛うじて守れる彼女の自立的生活、朗読してもらうことで得る世界への広がりと、刑務所で開こうとする希望への扉。その彼女の人生に対するミヒャエルの戸惑いと葛藤。・・・一度しかなく、振り返っても取り返すことのできない人生、抗うことのできない社会と個々の営み、これらを含めて運命とでもいうしかないのであろうか。
 映画「愛を読む人」(なんと安易なタイトルか)をかつてテレビで観たときは大きな感動の記憶はなかったが、小説を読んだとき、文章は映像を超え、感動した。終盤のハンナの刑務所内の描写では涙が出てきた。素晴らしい小説。もう一度映画を観てみようと思いDVDを発注した。どのように鑑賞する自分がいるのか、それも興味あることである。

 <クッツェー 『恥辱』(ハヤカワepi文庫、2007年、初刊2000年)>:1999年ブッカー賞。舞台は南アフリカ。「恥辱」は、大学での生徒と関係を持った大学教授が味わっている恥辱であり、彼の最初の妻との間の娘が襲われ妊娠して味わっている(と彼が考えている)恥辱である。
 南アフリカを舞台とする小説は初めて。大学教授が大学を去って娘のところに居を移してからの情景は初めて感じるものであった。町から遠く離れた住居と農園、アフリカ人との微妙な関係、暴力性云々。

2019年11月22日金曜日

本2冊

 <鹿島茂 『SとM』(幻冬舎新書、2008年)>:風俗的世界のSMを描いたものではない。(西欧的)SMの起源をキリスト教に求め、SMを文化的側面で論じる。西欧のSMと日本のSMの相異-鞭と縄、苦痛と恥など、なるほどと頷かされることも多い。少なくとも「ほんとうのSMには挿入は必要がな」く、「SMはセックスの中の一ジャンルではない」そうである。著者の見解がなんとも的を射ているような気がする、即ち、パラドックス的にいえば、「日本人にとって、最大の苦痛は、自由を与えられること」で、「日本人というのは、西洋人と違って、苦痛を介して神に出会うということはなくて、自由の拘束を介して共同幻想に至る、そう結論していいのかもしれませんね」と。

 <永野護 『敗戦真相記』(パジリコ、2012年、初刊2002年)>:「予告されていた平成日本の没落」とあるがこれをサブに付す意味が分からない。
 著者は有名な「政商」として戦前の番町会に名を連ねており、戦後は公職追放となり、出所後の岸信介を会長とする東洋パルプを設立し、1956年には参議院議員に当選。戦前戦後に衆議院議員を2期務めたこととなる。戦前は翼賛政治会・翼壮議員同志会に、戦後は自由党・自由民主党に所属し、岸信介の指南役ともいわれ第2次岸内閣の運輸大臣に就任した。大臣就任早々、日本社会党から不信任案を突き付けられたという逸話も残る。以上はwikipediaより引用してまとめた。
 2002年になってこの本を出す意味が分からない。結果に接して過去をあるいはその原因を解説・評論するのはいいでしょうけれど、あなたはその時は何を目的に何をしていたのでしょうか、そして敗戦の原因に「人物がいなかった」「江戸の武士道を踏まえない、明治の教育が悪かった」「情報に疎かった」「海軍と陸軍が連携していない」「自己本位の自給自足」「マネージメントの差」などなどと表層的な事象を解説しているが、真に考えねばならないのは何故にそうなったのか、だからそれをどう改めて日本というシステムを見直さねばならぬのか、というような事だと思うが、それらにはまず言及していない。
 本書の価値は、戦前戦後に政治に参画し、戦前は政商とも言われた、要は政財界の中枢にあった人物が敗戦直後の昭和20年9月に広島で講演し、自省のない己を高みに置いて評論家風に戦争の開始原因や敗戦自由を述べているという事実だけである。

直近の2週間

 ここ2週間の経過を備忘録的に記しておく。

 8日に成田を発って、総勢6名でホーチミンへ向かう。4年前の6月に次いでベトナムは2回目。ハノイの時ほどには高温ではないが蒸していることには変わりない。機中で新書を一冊読了。翌9日はホーチミン市内観光。何もかもが雑然とこぢんまりとしている感がある。この日の昼食で既に春巻きとフォーに倦きてくる。物価の安さに驚くが、それだけ人々の収入も低いということにほかならない。10日はカンザー国立公園にてマングローブ林観光。展望台から眺める景観は壮観であるが、かつては米軍の攻撃によって裸同然に枯れていた。その記録写真を見ると複雑な思いがする。サイゴン川のディナークルーズ、料理は横に措いて夜景は奇麗であった。
 ホテルに帰ってから早稲田vs帝京の結果を確認。辛勝ではあるが早稲田が9年ぶりに帝京に勝利。ベッドの上で小さくガッツポーズ。帰国後に早く録画を見たくなる。
 11日はクチの観光。生憎の雨ではあるが然程強い雨ではなく助かる。地下道は狭く、南ベトナム解放民族戦線、よくぞ戦えり、という思いもある。20代と思しきベトナムのガイドの男性が「ベトコン」と口に出していたことに違和感を覚えた。「ベトコン」って、自由主義陣営からみた蔑称だと思っていたが、いまはそんなことではなくなったのか。あるいは誤解だったのか。昼食兼夕食で日本のチェーン店である寿司店にはいる。美味この上なし。30歳の長身の店員さんが素敵だった。もう一度写真を見るとやはりカワイイ。今後どのような人生を刻んでいくのであろうか。12日帰国。

 12日、夜より体調がおかしい。風邪を引いたようだ。この日より殆ど寝込んでしまう。病院に行こうと動けるようになったのが15日になってから。車に乗るのを避ける。連れ合いはタクシーを呼ぼうとするも外で拾えばいいやと家を出る。しかし、タクシー数台には無視され、結局ふらふら歩きながら市立医療センターまで歩く。歩くのがこんなに辛いとは予想していなかった。春の人間ドックの結果も持っていき、風邪薬と他の治療薬を処方してもらい、タクシーで帰宅。この日も早めにベッドに入る。
 16日、今度は連れ合いも風邪で寝込んでしまう。動かずに食事も細くなり、ホーチミンに行く前より2kg体重が減っている。喜ばしいことではあるが、風邪がなかなか治らない。『朗読者』を読了。傑作。ついつい映画の『愛を読むひと』を発注。
 17日、二人とも風邪であることは変化なく、連れ合いはほぼベッドに横になっている。自分はといえば何もする気力がなく、録画してある映画三昧。好きな笛木優子さん(当時は夕子)『新・雪国』を観るも、駄作も駄作。笛木さんの演技も良くなければ、映画の構成もひどいし、ストーリーそのものも最低のレベル。よくぞこんなできの悪い映画を公開したものではある。
 18日、高校同窓会の新年会案内を発信。よくなったと思った咳の状態が前日より悪化。久しぶりにTSUTAYAに雑誌を買いに行く。ミステリーを衝動買い。
 19・20日と録画を見たり、衝動買いしたミステリーを読んだりでその日が終わる。何日になったら体調が回復するのだろう。
 21日、久しぶりにちょいと歩数を重ねる。駅前の銀行までの往復。疲れはしないから少しは動いた方がいいのかもしれない。帰国した日の夕方にビール500cc飲んだ以降、アルコールを全く飲んでいない。今年になって2番目の長期断酒。

2019年11月6日水曜日

「酒」と「酔」の文庫・新書

 <重金敦之 『ほろ酔い文学事典』(朝日新書、2014年)>:作家が描いた酒の情景。ビール・ウィスキー・ワイン・スピリッツ(ハードリカー)・カクテルとリキュール・紹興酒・日本酒と章が立てられているが、ワインに最も多くの頁が割かれている(94頁で全章の37%)。ワインはそれだけ多くの人に飲まれ、よって多くの作家が飲み、呑まれ、文学と化したのであろう。本書を読んで諸処に書かれ、初めて知る薀蓄やエピソードにはその都度頷く。この手の本の楽しみはそこにある。例えば、「多くの人は年数の多いほどシングル・モルトはうまいと思いがちだ。でもそんなことはない。年月が得るものもあり、年月が失うものもある。エヴァポレーション(蒸発)が加えるものもあり、引くものもある。それはただ個性の違いに過ぎない」(ラフロイグの蒸留所のマネージャーが村上春樹にそういった。『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』)。「年月が得るものもあり、年月が失うものもある」、いい言葉だ。
 知らないカクテルや酒のつまみを試してみよう。薄切りした大根orラディッシュに塩を振ってビールのつまみ、ビールには生味噌も合うらしい。「レッドアイ」(トマトジュースにビール)や「スプリッツァー」(またの名を「貧乏人のシャンパン」)、「Death in the Afternoon」(午後の死、ヘミングウェイ・カクテル)もやってみたい。
 最後にもう一つ。「生きることは、滅びに近づいていることだ。美酒への欲望も女性への欲望も、同じ延長線上をたどっていく」(そのままの引用ではない)。開高健は短編小説「ロマネ・コンティ・一九三五年」で描いた。己の人生は、少なくとも、幸か不幸か、「美酒」や「女性」について滅びの延長線上をたどっていない。

 <飯野亮一 『居酒屋の誕生』(ちくま学芸文庫、2014年)>:表紙には「江戸の呑みだおれ文化」。江戸にタイムスリップし、床几に腰掛け、街並みと人の行き交いを眺めながら、尻の橫に置かれた角盆の上の肴をつまみながら酒を飲んでみたいものだ。
 居酒屋でテーブルor食卓に置かれた肴に箸を向け、徳利の首を摘まんで酒を飲むという、時代劇でのこのあり得ないシーンがいつか改められるのを待ってテレビを眺めるのもまた一興であろう。

2019年11月5日火曜日

ラグビー、筑波と慶応の敗戦

 RWCが閉幕し大学ラグビーが再開。

 帝京が最後の最後にスクラムからサインプレイを華麗に展開し、14番が同点トライ。筑波は帝京の左から右へのパス展開に追いつけずに14番をフリーにしてしまった。コンバージョンで逆転しノーサイド(24-22)。筑波がもうちょっとスクラムで圧力をかけられれば、と思うと全く惜しい敗戦であった。
 同時刻に試合をしていた慶応vs日体大。慶応が前半35分ほどまで17-0までリードし、後半になっても一時は27-12まで差を広げ、残り5分ほどまでは27-18。まさか慶応が負けるとは思いもしなかった。しかし残り5分ほどの間に日体大の2T1Gで逆転され27-30で敗戦し2敗目となった。慶応は筑波戦でも最後の最後に逆転されてノーサイド、今回も逆転されてコンバージョン・キックでノーサイド。今回は相手陣内10m付近からフェーズを重ねられての逆転トライ。ありきたりの言葉で言えば、慶応は勝利に向かっているときに詰めが甘い、集中力がなくなる、だからディフェンスが甘くなる、といったところであろう。慶応初の留学生の効果もなかったのか。試合全般を通して両校とも雑な攻防と感じた。
 筑波(現在1勝3敗)の残り試合の対戦相手は青学・日体・成蹊で、一方慶応(現在2勝2敗)は帝京・早稲田・明治。慶応の大学選手権出場はまずあり得ないと思う。栗原HCの来季継続はあるのかな。

 一方、我が早稲田は成蹊大相手に120(18T15G)-0。久しぶりの100点超えは措いて零封が嬉しい。トライを決められそうになったのは1回のみで、それもインゴールでの防禦であったがグラウンディングさせずに凌いだ。SH小西、FB松下、吉村(左CTBと交替)のプレイを初めて観たが、時間が短く吉村の動きはよく確認できない。Man Of the Matchは6番の1年相良。梅津がFBに入り、久しぶりに動く姿を追いかけた。同じく東北出身の三浦はメンバーから外れた。SH斎藤、SO岸岡はうまい。桑山の故障は大したことがなければいいが。成蹊大キックオフのキャッチングがうまくいっておらず課題。

 法政は、残っている対戦が東海・大東文化・流経で大学選手権出場の可能性は殆どない。

 RWC、南アの優勝で閉幕。イングランドとの決勝は終始南アのペースで、南アのFWの強さがイングランドを圧倒した。プレース・キックの精度の高さ、FWの強さの重要性がまざまざと見せつけられた。決勝を見る限り日本はイングランドとも互角に戦えるであろうと思う。

2019年10月31日木曜日

志水さんの最新小説

 <志水辰夫 『新蔵唐行き』(双葉社、2019年)>:『疾れ、新蔵』(2016年)の新蔵が、行方不明となった主家の若旦那を捜し求め、アヘン戦争が始まる唐に行く。舞台は主に寧波や杭州湾周辺。長崎からは唐人の父親に会いに行く少女ななえも同行する。実在する紅弊・青弊を彷彿させる黄弊と紫弊が描かれ、その抗争のなかで、黄弊の頭領となったかつての若旦那と新蔵は再会する。ななえを父親に会わせ、アヘン中毒になっていた若旦那をも救う。
 長崎から福江島、杭州と海上に船を走らせ、中国の東シナ海が脳裏に浮かぶ。時折地図で地理を確認しては物語のイメージを膨らませた。
 本作は著者の3年ぶりの出版で、読むのは38作となった。志水さんも齢80を数年前に超え、あとどれくらいの新作を楽しめるのだろう。

思想史のテキスト

 <渡辺浩 『日本政治思想史 [十七~十九世紀]』(東京大学出版会、2010年)>:近世・近代思想史の最良のテキスト。以下、理解したところを短く乱暴に、本文から適宜文章を引用してまとめると以下のようになる。
 「常備軍が官僚制であり、官僚制が常備軍」であった徳川期は泰平の世にあって、「「御恩」と「奉公」という二つの絆で結合する主従関係」にあった武士たちは、武威による功名心とそれに基づく忠義の賛辞を得ることは困難となり、戦が無い時代には追腹することと化したが、それも禁止となった。主家に忠義を尽くすこと、それは「イエ」を基底とする家業(家職)に仕えることであり、小さな組織(百姓・町人)から武士・大名まで、さらには大きな組織=国家まで、それが徳川の政治体制でもあった。
 戦のない武士たちは何によって主家に忠義を尽せば良かったのであろうか、戦闘に臨めない武士たちは、「武士道」を背負うが、その「武士道」は「ほとんど武士らしさを擬装する演技と化した」。武士が儒学を取り入れるのは、「実態と遊離した戦闘者としての名誉意識を、儒学的な「士」としての誇りが補」われることであり、また、儒学は、武士の世界の秩序維持=服従に役立つ面があり、統治のためのガイドでもあった。大きく括ると儒学、少し砕くと陽明学や朱子学。熊沢蕃山や林羅山の師である藤原惺窩が出現し、伊藤仁斎によって古義学が提唱され、幕政を主導し吉宗の時に失脚した新井白石と続き、「徳川儒学史は、彼の出現によって様相を一変」されたとする荻生徂徠が現れる。個人的に面白い人物と思ってしまうのは「直耕」を唱え、「字・書・学問ハ、転道ヲ盗ムノ器具」と説いた安藤昌益である。異端の思想人であり、その思想に共感はしないが、異端故に妙に興味を惹かれる。何が彼をそうしたのかという視点である。
 現在も崇められることの多い本居宣長、「素直な心情と率直な暴力の美しい国・日本、という自画像」を描く賀茂真淵が登場し、「現状への不満と対西洋危機感に駆られ、宣長からも学びつつ「皇国」意識を強調し、士気の高揚と政治的統合のひきしめをはかった思想運動」である水戸学へと進み、そこはもう明治に突入するも同じようなものである。
 幕府が諸外国の開港・開国要求には武力では抗し切れない、抗するには言語しかない。そこに持ち出されるのは、「隣誼」「礼」、「民」への配慮であり、それは儒学的な「道」である。「言語によって外国人をも納得させようと決めた以上、普遍的な規範や価値を持ち出すしかない。そして彼等にとっては、儒学的な「道」しか万国に普遍妥当するであろう規範は無かったのであ」った。
 一方、「外国を意識するほど、皇統の連続が貴重に思え」るのであり、そこには国学と水戸学の影響があった。幕政と禁裏、二つの権威は「二大政党に似て、政権党への不満の結果、在野党の人気が実績でなく期待によって高まるというダイナミズムが働」く。そもそも、冒頭に記した「イエ」や「集団(町村・寺社・「仲間」・「座」)」は「「歴史的「由緒」や「筋目」を誇る形でなされ」、なれば「最古・最強の「由緒」「筋目」「格」を持つ禁裏がじりじりと権威を高めるのは当然である。多分、禁裏は近世後半の全国的「由緒」競争の最大の勝者だったのである」。こうして明治以降、「禁裏の一層の輝きは、「日本」とは天皇を戴く特別に優れた国、「皇国」だ、という自意識を強め」、やがて「一木一草に天皇制がある」(竹内好)の観念が堅固に築かれた。
 現在にも当てはまる指摘を引用しておく。即ち、「一般的に、専制的権力が成立し、安定すると権力が一々指示する必要は減る。その意向を忖度して、「自主的」に随従するようになるからである。それは、「無為にして治ま」った状態ともいえる。しかし、権力が拡散した状態とも見える。特に権力の要求が固定すれば、各人は安んじて先例通りに動くことになる。それは、最強の専制とも見え、合意に頼る統治とも見えよう」。現在だけではなく、古の時代も、中世も近世も、まして明治新政府からは尚更にそうであったと思える。

2019年10月28日月曜日

スピーカー・エンクロージャ製作

 スピーカーZ601-ModenaのユニットをZ-ModenaからFostex/FE83NVに変え、Z-Modenaが遊休品となった。ユニット交換は、好奇心から価格的にグレードアップしてみただけで、前のユニットに不満があった訳ではない。また、Z600-Modenaのフロント・バッフルが1セット余っていた。
 上記遊休スピーカーとバッフルを使用してスピーカーを1セット作った。但し、コスト抑制のために板材は物置に眠っている端材を使用し、ターミナルも既に保有しているものを使用した。肝心要のエンクロージャ本体は塩ビ管ソケットで、外側には布を貼った。吸音シートもポリエステルの安価なもの。よい音を出すための設計計算や調整は一切していない、というか知識も能力ももっていない。
 音は中・高音が目立ち、乾いた音となる。アコースティック・ギターやエレキギターのメロディーが(意外にも)澄み切った音に聞こえる。


2019年10月24日木曜日

22日祝日、永井さんの文庫本

 22日、近くの郵便局に葉書を10枚買いに行った。平日なのに閉っている。臨時休業なのか、でもそれならば何らかの休業通知の貼り紙くらいあるだろうと入口に行くも何もない。しようがないのでコンビニで購入。帰宅して連れ合いに、今日は全国的に休みだっけ、と聞いたら少し間をおいて返事があった。天皇即位の儀式の日で祝日になっていたことを知らずにいた。
 世界中の多くの国で、儀式では礼服に勲章・褒章・綬(呼称が正しいの自信はない)をつける。厳かなのであろうが、何か違和感というか滑稽というか、そんな感じが拭えない。逆に、自国の伝統に一貫するサウジやブータンに凜々しさ、清々しさを感じる。
 日本での儀式は古式に則って行い、各国からの来賓を迎えるときは西洋式になる。和洋折衷の最たるものか。

 <永井義男 『本当はブラックな江戸時代』(朝日文庫、2019年)>:「美化されがちな江戸時代を軽妙洒脱に徹底検証!」と帯びにある。徹底検証はちょいとオーバーだが、時代劇や江戸人情小説で描かれがちな時代描写や人間模様は、それは幻で、現在の目で作られたものですと、と言っている。そのような認識は当然にあって別に驚きもせず、へぇ~っとも感じない。ブラックな面も今の目で見るからブラックなのであって、当時はそれが現実であった、ということでしかない。識字率が高いというのも、対象となる「字」はどこまでさしていたのかと問えば、「識字」のレベルが疑われよう。たしか、寺子屋ではくずし字の読み方を教えるのが基本であったと何かで読んだ。武士にしても殆どは組織の中でぬるま湯につかりボーッとしていたろうし、アーネスト=サトウが指摘するように殿様には馬鹿が多かった。権威だけを持たせて馬鹿であれば、実務を担う者たちは何事に付け実務をやりやすかったに違いない。
 永井さん、江戸を説明する本はもういいから(本来の)小説を書いて下さいよ。

2019年10月21日月曜日

日本酒の近現代史

 <鈴木芳行 『日本酒の近現代史 酒造地の誕生』(吉川弘文館、2015年)>:世界各地にその地特有の酒があり、「すぐれた酒を持つ国民は進んだ文化の持ち主である」(坂口勤一郎『日本の酒』)のであり、日本酒の歴史は文明の歴史であり、もちろん誇るべき文化である。伏見・灘・西条・・・・と銘酒の産地はあるが、個人的には、東北で生まれ育ったせいか、秋田や青森、山形、会津の酒にはやはり手が先に伸びる。
 本書の著者は、国税庁税務大学校税務情報センター租税資料室に勤務した人であり、税金に裏付けられた日本酒の歴史は詳しい。なれど、酒を味わい、また酒に溺れて身を滅ぼし、酒を友に旅をして人生を送る、といったような側面で酒の歴史や人びとの暮らしに触れようとするには、例えば小説や個人史などのような本を開かなければならない。
 日本の酒が「日本酒」と呼称されるようになるのは幕末・維新の頃であり、「日本酒」と呼ばれることが一般的に広く行き渡るようになるのは前の東京オリンピックの頃である。「日本」が意識されるのは海外を意識する時期と符合し、己を知り意識するのは常に相対的なものでしかないということなのであろう。

続いた不具合、「犾」、南ア戦

 不具合はまだ続いて,今度はテレビドアホンが呼称。門扉近くに取付けてあるカメラ付き玄関子機からの音声が聞こえなくなった。断線などはなく、親機から子機への音声は正常だし、親機でのテレビモニターも正常。約15年間も使っていたので寿命が来たようだ。何年も前に生産中止になっているし、しょうがないので新品をネットで購入。玄関子機+モニター付親機のセットよりもモニター付子機が2倍ほどの価格であるのに合点がいかないが、多分需要の違いによるスケールメリットの差異であろう。
 コンセント電源接続ではなく埋め込み電源直接接続なので、本来は電気工事士の有資格者が作業を行うことになっているが、ブレーカーで該当箇所の電源を落とし自分で実行した。資格はないけれど知識は有していると自負している。
 もう故障は起きないで欲しいが、こればっかりは自分ではどうしようもない。

 『アイヌ民族の軌跡』を読んでいたときに気になった漢字が「犾」、弘前藩の史料にこの文字があって「えぞ」と呼んでいたらしいく、「「犾」は、本州アイヌを含むアイヌの人びとの呼称として用いられていた」とのことである。津軽の竜飛岬近くの宇鉄周辺には、かつては「犾村」が存在していたとのことである。「犾」、獣偏に犬、これで「えぞ」と呼称していたとは、アイヌの人びとへの蔑視を感じる。
 この漢字、使用しているATOKでは「ギン」と入力すると「犾」に変換される。しかし、『字通』にない。「㹜」はある。「㹜」は「ギン・かむ・あらそう」であり、意味は①かむ、犬がかみあう、②あらそう、うったえあらそう、ことである。「㹜」は「犾」の異体字とする記載がweb上にはあったが、真偽は分からない。手許にある『異体字解読字典』にはどちらも載っていない。アイヌの居住地は北東北地方・北海道であり、中央(京や江戸)では一般的でなかったろうから「犾」もごく限定された使い方であったろうと推測する。それにしても「犾」を「えぞ」と読むのには激しい差別を感じてしまう。誤解・曲解だろうか。

 RWC準々決勝、日本は南アフリカに負けた。3-26。特に2ndハーフだけを見ればスコア以上の完敗と思えるが、逆な見方をすれば南アフリカをジリジリさせた日本の健闘を称えるべきであろう。それにしても、スクラムやモール、ラインアウト、ディフェンスの早さと強さには大きな差がある。でも、アイルランドを破り、スコットランドに勝ち、予選グループを1位で通過し、ランキング6位まであげたことは素晴らしい。
 日本でRWCをやっても観客は入るのか、日本が予選を通過するのは五分五分くらいだろう、などと開催決定時はネガティブな想像をしていたが、全くそうではなかった。日本でRWCを開催したことは大成功といっていいだろう。国内のラグビー人口は増えると思う。準決勝・決勝の試合が楽しみである。

2019年10月18日金曜日

『江戸の図像学』、『アイヌ民族の軌跡』

 <浪川健治 『アイヌ民族の軌跡』(山川出版社/日本史リブレット、2004年)>:日本の歴史の中で、いわゆる本土以外の地は、中央から見て開発対象の地であった。小笠原は1926年に東京都に組み込まれる(東京府小笠原支庁)までは小笠原島庁の管理下であったし、琉球は沖縄県とされたが、敗戦後に米国統治下にあり、返還後は沖縄開発庁から沖縄振興局と名を変えて中央からの視線を向けられている。そして、かつてのアイヌ民族の地で会った蝦夷はどうかというと、これまた中央には北海道庁が1947年まであり、その後は北海道開発庁が18年前まであった。現在でも政府には「沖縄及び北方対策担当大臣」がおかれ、かつての振興・開発とは意味合いを異にするものの特別な地であることには変わりない。
 アイヌの人びとは江戸幕府によって「蝦夷人」「夷人」と呼ばれてきたが、西洋との接触の中で「夷人」が西洋人を貶む言葉としても用いられてきたために、1856年(安政3)に「土人」と呼称するように改められた。以後、「旧土人」と記載された法律が1889年(明治32)から1997(平成9)まで約100年間にわたって効力をはたらかせ、アイヌの人びとに対し、「生産・生業と文化の諸側面において民族文化を否定し「日本」文化への吸収をはか」ってきた。「旧」が付いても付かなくとも、「土人」という蔑みの呼称は沖縄で機動隊員が口にし、現在でも本土人の心の深層にこびりついている。
 日本の歴史関連の本を読んでいると、北海道や琉球の歴史がストンと抜けていて、要はその地の歴史を知らないことが多い。それは多分に、各地の歴史は中央の歴史の延長線上で捉えられるが、海で隔たった地においてはその延長線が跡切れ、繋がるときには中央政府の圧政としての側面が強調される。圧政と暴虐に抗しては敗北し、懐柔され服従されるというパターンを思うと、結局は彼我の「力の差」がそうさせたことである。対抗するには組織的戦力の構築と増強しかない。その意味で、昔の時代における中央政府に抗う暴力は安易には否定できない。
 それにしてもと思う、北海道や沖縄の歴史はどうも負の側面から描かれることが多く、それ自体がもう中央の高みに視座を置いている、ということなのであろう。

 <田中優子 『江戸百夢』(ちくま文庫、2010年、初刊2000年)>:表紙には書名の橫に「近世図像学の楽しみ」とあり、江戸期の国内外の絵画や彫刻などを見ての著者のエッセイといった風。歴史を知悉し、芸術品への鑑賞眼があり、人間の営みを深く考えて寄り添う、そのような人がものすることのできるエッセイ。そもそも図像学とは何かとWikipediaを開くと、「絵画・彫刻等の美術表現の表す意味やその由来などについての研究する学問」とある。絵画や彫刻を見ても、ぼんやりと眺めておしまいといった態度しかとれない己にとっては、なるほど、殆ど縁のない学問ではある。

ラグビーの本

 <李淳馹(リスンイル) 『ラグビーをひもとく 反則でも笛を吹かない理由』(集英社新書、2016年)>:RWCが毎日のニュースを賑わしている。32年前(1987年)に読んだ傑作『オフサイドはなぜ反則か』(中村敏雄)には僅かな記憶しかない。が、ラグビーの歴史に触れ、イギリスと日本とでは大きく違う環境や設備を知り、オフサイドの「サイド」は陣地のことであり、ラグビーは多勢で長時間にわたって楽しむお祭りであったことを知った。この新書が発刊されたとき、興味があってすぐに買い、しかし数頁読んでは他のことに気を惹かれ放っていた。今回のRWCもあり再度手に取った。著者は刊行当時、関東ラグビーフットボール協会公認レフリー。
 ラグビーのルールが規定された理由、そして繰り返される変更の理由が論理的に丁寧に述べられている。もちろん、その基底にはラグビーの「文化」があり、初めて知ったことも多かった。例えば、「ラグビーは、ルール(規則)ではなく、ロー(法)の下でプレーされる」ということ。なれば、ルールとローの違いとは何かと考えることになる。「Rule by Law」(法治主義)と「Rule of theLaw」(法の支配)の違い、分かりやすい。
 また、レフリーとアンパイアの違い、レフリーとジャッジの意味などはなるほどと思わされた。「いいレフリーは、反則をポケットにしまうことができる」という金言に対し、笛吹童子のごとく「ルール」へのジャッジをすることが多い(日本の)レフリーは秩父宮などで何度も目にしている。
 アドバンテージがあるからこそプレーの継続が図れ、プレーヤーとレフリーのコミュニケーションも、レフリーが選手に声を掛けるのも、反則を予防し、プレーを楽しみ継続させることにあることを再確認した。「相手側から利益を奪ったか」否かをレフリーは判断して仲裁役を務める。ラグビーのプレーとはボールに触れることであり、それを理解することでゲームの流れをより楽しめる。観戦しているとノット・ロール・アウェイが判然としないことがあるが、タックルとは、タックルされたとは、またタックラーとはどういう定義なのかを読むと、より具体的に理解は深まった(ような気がする)。
 『ラグビー憲章』にある5つのキーワード、とてもいいし、それを理解することでさらにラグビーは楽しめるし、オン・プレーの時も、ノー・サイドになったときも、選手たちの姿や言葉・行動に感情を入れ込むことが可能となる。それは、品位Interrity)・情熱(Passion)・結束(Solidarity)・規律(Discipline)・尊重(Respect)。

2019年10月17日木曜日

酔っ払いの本と鍛冶屋の本

 <大竹聡 『酔っぱらいに贈る言葉』(ちくま文庫、2019年)>:帯に書かれているように、この文庫本は酒飲みの酔っ払いたちに向けられたのではなく、「愛すべき酒呑まれたちへ」贈る言葉を詰めたものである。家人あるいは友人たちに酒に強いと言われる(た)己ではあるが、本書に登場する酒好きな人たちに比べれば「ひよっこ」のようなものである。
 「この店のビールはうまいから帰りに六本包んでくれ」(内田百閒)などと粋な台詞を口にした覚えもなく、「恋人は一瓶のワインであり、女房はワインの瓶である」(ボードレール)と人生を振り返れるほどにワインはまだ味わえない-日本酒とウィスキーは楽しめるがワインはアルコール入り蒲萄ジュースのようにしか感じ取れずにいる。
 かつて、酒の飲めない部下の女性に、「人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ」(若山牧水)の如きことを口に出したら、彼女からは「酒の苦しみを知らなくて幸いです」と返された。
 年齢も重なり、アルツハイマーにはなりたくないし、また「アル中ハイマー」にもなりたくない。
 本書にあったレシピ、フライパンで強火で手早く焼いた葱に醤油と七味唐辛子を加える、これが美味そう。油を使わずに葱を焼き(ガスで焼くのは駄目)、塩をかけてつまむのは以前より好物であり、葱のレパートリーが一品ふえた。そして、本書での「本格派レモンサワー」にはまっている-400ccのグラスにキンミヤ焼酎を90cc入れ、氷をグラスいっぱいに入れ、レモンを加えて炭酸を注いでステアせずに飲む。すべてを冷やしておいてこれを作ると実にうまい。

 <遠藤ケイ 『鉄に聴け 鍛冶屋列伝』(ちくま文庫、2019年)>:書名に惹かれて購入。まえがきの「僕」を多用する文章に馴染めない気分となり、その後の鍛冶作業にまつわる描写は、専門技術的であり、活字を追う気持ちが萎え、さらには手書きのスケッチが何とも見にくい(多分『ナイフマガジン』に連載されていたときはカラーであったと思う)。一体何を期待してこの本を開こうとしたのか自問してみると、鍛冶職人の生活史や人生観などに触れたかったのだが、それには殆ど触れることなく頁がすすみ、描かれるのは鍛冶職人の鍛冶工程が多く、結局そこには興味が湧かず、駈け足で活字を眺めて終えてしまった。

2019年10月15日火曜日

PCデスク補強、台風、続く不具合、RWC

 PCデスクに活用した譜面台は脆弱なものではなく、パイプも太く剛性のあるものなのだが、プラスチック部品も使ってあるせいで、いわばピッチングとローリングの動きがあって気になる。ヨーイングも多少あるがPC操作上は気にならない。ために、これら二つの動きを抑制すべくステーを追加し、またマウスのスペースも追加。延べ2日を要した。

 台風19号が襲ってくるための準備。広い範囲で災害が起きているが、幸運にも風が強かったというだけで済んだ。いままでも台風や大雨といった天候でも殆ど何も影響を受けていない。でも、各地では亡くなった人もいるし、多くの箇所で水害の被害も発生している。某政治家が「この程度の被害で済んでよかった」というような言葉を発したらしいが、怒りを感じる。否、それを通り越して呆れてしまう。端的に言えば、彼の政治屋たちはあらゆることに対して感性が鈍くかつ想像力が欠乏しているのだろう。

 ポータブル・チャージャーの充電部に不具合が発生。USB端子挿入部のぐらつきと接触不良。ポータブル機器の不具合は、頻繁に抜き差しをするこういった機械的接触部における不具合-部品と電子基板の半田付け部分の不具合-から発生することが多い。どのような機械あるいは機器でも広義のマン・マシン・インターフェース部分で生じるし、だからこそその部分の設計は難しい。
 大容量のチャージャーなので何のツールもなしで修復するのは危険。よってディスチャージして廃棄。

 不具合は続くもので、今度は長年使用していたヘッドホンの名器であるSONY MDR-CD900STの右側から突如音が出なくなった。コードをいじると音が鳴ったり鳴らなかったりするとか、あるいは音が途切れるとか雑音がするなどの現象は一切なくいきなり音が出なくなった。断線ではなくドライバーの故障かと思ったが、まずは電線チェックをすれども異常なく、やはりドライバーの故障と思われる。このヘッドホンはパーツが売られているし、ドライバーも販売されているのであるが、いかんせんヘッド部の人工皮革が部分的にボロボロになりかけているし、ウレタンリングは形がなくなっている。ドライバーに付け加えてヘッドバンドやドライバー、ウレタンリングを購入してまで修復する気にはならず、バラバラにして廃棄することとした。オーバーヘッドのヘッドホンはSENNHEISER・FOSTEX・AKGのものがあるので、それでよし。

 さっき、さらにオーディオで不具合発生。キットを手作りした真空管アンプを通すと左側スピーカーから音が出ない。ゴチャゴチャしているコード類の接続状況を確認し、他のアンプからの音出しも確認し、たどり着いた原因は不具合発生アンプの左側スピーカー端子の内部接触不良。要はキット組立時の自分の作業品質不良に帰因する。
不具合は何故にこうも連続するのだろうか。

 13日のRWC、日本はスコットランドに28-21で勝利し、予選プールを1位で通過し、初のベスト8に進出。最初にトライを取られたときはこのままずるずると負けパターンに入ってしまうのではと不安になるが、同点になった時点で少しは安堵し、逆転したところでは勝利の可能性を強く感じた。FWは強いし安定している。4Tのどれもが素晴らしく美しい。オフ・ロードパスは何度見ても感動する。キックパスによるトライも絵に描いたようだし、後半直後の福岡の独走トライで4Tとなり、ボーナスポイントも確保し、これで勝利を確信。日本が勝ったのはもちろん嬉しいし素晴らしい勝利なのだが、ラグビーの試合としても傑出した試合だったと思う。

2019年10月6日日曜日

雑記、RWC サモア戦


 窓際においてあるスピーカーのレイアウトをまたまた変更。PCの左右間隔が離れ過ぎていること、PCを操作する位置から聴く音楽の左右バランスが歪んでいること、サブ-ウーファを中央に持ってきたいこと、等々でレイアウトを変更。そのために、譜面台に手を加えてPCデスクを作成。これだけで随分と良くなった。

 4日、17時より梅島で飲む。飲む量は減り、カラオケも1時間だけで終わりとし、21時少し過ぎには春日部駅改札を出て自宅に向かった。以前のように寄り道をすることもなく帰宅。

 5日、RWCサモア戦。テレビのライブ観戦。前半は反則が多く、ためにPGの繰り返しとなって試合はつまらなかった。コンテスト・キックの多さも楽しめない。2ndハーフの後半になってやっと面白くなり、日本がボーナス・ポイント(BP)を得るための4トライ目となる攻防ではテレビ画面に釘付けとなった。
 今後、アイルランドvsサモアではアイルランドが完勝するだろうし、スコットランドは日本戦4日前のロシア戦で快勝するだろうから、日本が決勝トーナメントに進むには、日本vsスコットランドの結果次第となる。もし、日本が引き分けor勝利となると予選1位となる。負けてもスコットランドが3トライ以内でかつ差が7点以内ならば2位通過となり、双方4トライ以上の戦いでも7点差以内ならば1位通過となる。
 それにしても日テレの放送において、芸能人の何の変哲もないしゃべりは余計な時間費消で嫌気がさすし、さらには試合解説者(永友)の饒舌さには辟易とした。消音にして観戦するのが最良である。

2019年9月30日月曜日

RWC、アイルランドに勝利

 28日のアイルランド戦、掛川市の宿舎を出発前に、ジョセフHCは英語の俳句でこう言ったとの報道がある。「誰も日本が勝つことを信じていない。接戦になるとは思っていない。でも信じられるのは自分たちだけだ」と。
 FWのパワーは世界屈指であって、RWC開始前は世界ランキング1位。勝つとは思っていなかった、接戦となる可能性もまずないだろうと思っていた。
 ライブでは見ることが適わず、ハーフタイムになってテレビをオンにしたら9-12、おぉ凄い、善戦している、・・・もしかしたらと期待が浮かんできた。リプレイを見るとアイルランドの2トライは早い時間でのキック・パスとショート・パントからであり、これが意外だった。というのは、FWの力を前面に押し出したモール・トライやスクラム・トライではなかったからで、アイルランドは日本のFWをはじめとするディフェンスに苦労しているのではないかと直感したからであって、また3PGが日本の得点であることから防禦でもアイルランドは苦労しているのではないかと思った。戦前、アイルランドは、SOが前戦から変わっていることがどう影響するかとの新聞記事もあったが、多分影響はあったのだろう。
 2nd ハーフに入ってからはもう興奮しっぱなし。福岡の逆転トライは日本のスタイルを発揮したものだし、何よりもスクラムが互角以上だし、ディフェンスが激しく、またタックル後のセットが早い。時間が経つにつれアイルランドの動きは精彩を欠いてきているし、福岡のインターセプトで勝利を確信した。
 29日、あらためて通しで試合をフル観戦した。素晴らしい試合だった。(早稲田が大学選手権で優勝した次に大興奮した。)


 試合後、アイルランドの選手達が整列して、退場する日本選手たちを拍手で送り出す。そのシーンに素晴らしい、美しい、感動するシーンだとの声(twitter)があるとのニュースがあるが、(水を差すような言い方になるが)、これはラグビーではよく見られるシーンである。別に珍しくもない。言いたいことは、一つには、このシーンは試合で負けたアイルランド選手たち固有の素晴らしさではなく、ラグビーというスポーツに通底する、ラグビーの精神の素晴らしさであるということ。二つに、花道を作ったことを強調して称え感動することに、安易に感動を求めて同調する風潮を感じてしまうことである。

 フィジーに勝利したウルグアイはジョージアに完敗し、2度目の歓喜ということにはならなかった。ランキング5位と6位のウェールズvsオーストラリア戦はランキング通りに29-25と接戦。まだまだ魅力的な試合が続く。

2019年9月28日土曜日

江戸破礼句の一端

 <蕣露庵主人 『江戸破礼句・梅の寳匣』(三樹書房、1996年)>:江戸の庶民は、ラジオもテレビもない夜、行灯の薄明かりのなかで(60wの1/50ほど明るさでしかない)、そしてその灯りとて安価な魚油からでは臭いにおいが籠る。毎日顔を合わす夫婦ともなればそうそう会話も弾まない。なれば、早々に眠りについてしまった。紐育の大停電で出産が増えたように、することが限られれば自ずと身近なところに手を伸ばすことになる。暇つぶしと快楽は常に身近にある。(・・・ここまでは本書以外を参考)。「人間は夫婦の性に現実を過ごし、淫蕩な性は観念の中で処理する」ことであって、ある種の文化はそこに生まれる。

 本書から幾つかの(好みの)川柳を抜粋してみる。

 富士山山頂の浅間神社の主祭神は木花之佐久夜毘売命、通称さくや姫、裾野は広大で、裾野の各所には江戸期より観光名所であった「風穴」「氷穴」「人穴」がある。この現実を川柳にうたった。
   さくや姫裾を廣げて穴を見せ

 鼈甲細工は簪・櫛・笄、そして張形にも及ぶ。そこで一句、
   鼈甲はいづれ毛の有る所へ差し

 浦島太郎の物語は著名だが、年老いた姿で描かれていない部分もあり、それを追補すると、
   浦嶋がへのこ即刻ちぢれ込み

 夫婦の歴史から人生への諦観を並べる。
   新(あら)世帯恥ずかしそうに紙を買い  ・・・ 始まりは新鮮
   女房と乗合にする宝船          ・・・ 姫はじめも共に味わい
   女房の味は可もなし不可も無し      ・・・ 繰り返せば倦きも出て来るし
   穴を出て穴へ入(いり)また穴の世話   ・・・ 思い起こせば人生は、、、
 無論、最後の穴は墓穴である。

 きりがないので、最後に一句、
   女の小便、徳川御三家
 徳川御三家の紀州・尾州・水戸であり、それを声に出すとキシュー・ビッシュー・ミトミトミトとなり、女の若い・年増・老女のなにに引っかけている。

 一冊まるごと上記のような破礼句が掲載されており、その情景を想像すると実に楽しめる。世の中の政や賢しらなことを笑い飛ばしてしまうことに快感を覚える。
 結びとして、一句。見れば白く、触れば冷たい昔のひとときを思い出すかも。
   地黄飲む側に大根美しい

 本書はどこかの駅構内で催された古書展で衝動買いしたもの。蕣露庵主人は近世庶民文化の研究者として著名な渡辺信一郎の別名である。

日本思想史の新論ヵ

 <中野剛志 『日本思想史新論 -プラグマティズムからナショナリズムへ』(ちくま新書、2012年)>:日本の開国とは、研究者によって異なるが、ほぼ共通する時期は幕末維新期と敗戦期にある。そして開国の歴史観として、「江戸時代と戦前の日本は「閉じた社会」という負の側面」であり、「明治時代と戦後の日本は「開いた社会」という正の側面」があって、「最大のヒールこそ、戦時中のイデオロギーとして作用した水戸学の尊王攘夷論」とされる。これらを踏まえて、本書の目的は、「戦後日本を支配してきた開国物語を破壊しようという企て」である。TPPという誤りまで引き起こすことになったのは、「戦後日本人が信じてきた開国物語の何かが、根本的に間違っていたのである」と著者は断言し、「伊藤仁斎、荻生徂徠、会沢正志斎そして福沢諭吉。この4人の思想家を直列させたとき、我々は戦後日本を支配してきた開国物語の呪縛から解放され、実学という日本の伝統的なプラグマティズムを回復し、そして日本のナショナリズムを健全な姿で取り戻すことができるのである」と論述する。あとがきにては、「「国の思想」をもたない戦後日本人の精神に都合のよいような解釈をした結果」、「現代の思想家たちの多くが、伊藤仁斎の「義」の概念を見逃したり、会沢正志斎の国体論の本質を捉え損ねたりしてい」て、「国という身体が死んでいるから、歴史を観る「眼」も死んでいる」と述べる。
 しかし、「実学という日本の伝統的なプラグマティズム」は何なのかよく分からない。「古学」がどうプラグマティズムと結びつくのかも分からない。さらに、「皇統が連綿と続いて途絶えていないことを以て」「日本の国柄の優越性を誇った」仁斎のナショナリズムを、正志斎は「一元気論と結びついて頂点に達」せたとする。そもそも、私的には、江戸時代が閉じた社会であるとか、明治時代が開いた社会とは思っていないし、明治によって日本の進むべき道を歪めたとも思っている。その大きな画期は明治20年前後にあると思っているし、その基底は、簡単に言えば、後期水戸学の流れにあると思っている。
 あとがきに、「河原(宏)や佐藤(誠三郎)には、過去から受け継がれてきた日本の「国の思想」が、確かに息づいている」、「だから、彼らの歴史を観る「眼」も生きている」とあるにはへえっと嘆息を漏らすだけである。

2019年9月27日金曜日

Rugby World Cup 2019

 日本各地でラグビー・ワールド・カップの試合が開催されている。興味ある試合はJ Sportsのオン・デマンドで観ている。各スタジアムには観客が観戦し、これは自分の予想を上回っている。三陸鉄道リアス線の車窓から眺めたことのある、端的に言って寂しい地にある釜石鵜住居復興スタジアムのウルグアイvsフィジー戦では多くの小中学生(と思われる)観客がいた。かつて存在した小中学校の跡地で開かれたワールドカップの好試合は歴史に残るであろう。前RWCで日本が南アフリカを破った試合がRWC史上最大の番狂わせと称されるのであるならば、今回のウルグアイの勝利もまた歴史上に残る大きな「番狂わせ」であろう。ウルグアイでは今後ラグビーが続く限り語り継がれる大快挙である。それに関連して、ウルグアイの名は世界中に膨らみ、同時に釜石のスタジアムの映像も何度も何度も流されるであろう。
 フィジアン・マジックの華麗なハンドリングでウルグアイを寄せつけないと思っていたが、ウルグアイの方が出足鋭く、言葉は悪いが単純で正直な真っ直ぐなラグビーを行っていたと感じ、一方フィジーは巨躯ではあるがメンバー間の連携も良くなく緻密さに欠けているような気がした。試合終了後のウルグアイの歓喜と対照的にフィジーの選手の虚脱したような姿が印象に残った。

 日本vsロシア戦での日本の戦いぶりには粗雑なプレイが目立ったが、キックのみの攻撃を仕掛けるロシアのディフェンスでは日本の展開ラグビーに抗し切れなかった。テレビ解説者が指摘していたが、あのキックのうまさに加えて左右に展開する攻撃をできるようになればロシアはかなり強くなるような気がする。松島のハットトリックは立派。次試合以降は相当マークされるであろう。途中から出た山中のロング・キックは魅力的。姫野の働きも目立った。
 次のアイルランド戦での内容で日本の真の実力が分かるであろう。少なくともベスト・エイトには進んで欲しいが、立ちはだかる国は(アイルランドは別格として)まずはサモアとスコットランド。優勝はアイルランドに期待-単にアイルランドが好きだから。ニュージーランドの次に好きなグリーンのユニフォームも、そして音楽もウィスキーも。

クミコハウス

 テレビで「世界ナゼそこに日本人」を眺めていたら、ナレーションと同時にガンジス川ほとりの「久美子ハウス」の画像が映し出されていた。見た瞬間に20年ほど前に読んだ素樹文生『クミコハウス』を思い出した。メモを記したファイルを開いたら、その本を読んだのは1999年11月12日のことであった。著者の本を最初に読んだのは評価の高かった『上海の西、デリーの東』であり、そのせいもあるのか『クミコハウス』のサブタイトルは「「上海の西、デリーの東 外伝」であった。表紙には久美子さんと思われる写真が大きくあり、テレビで見る現在の久美子さんに結び付けるには少し困難を覚えた。が、やはり、当たり前だが、丸顔のつながりは感じた。
 著者の本はこの2冊だけしか読んでおらず、『上海の西、デリーの東』には次のような読後メモを記してある。
 ・・・「これは単なる旅行記ではなく、紀行文ではなく、著者の心象を旅するにあたり、上海の西からデリーの東の地域がでてくるに過ぎない。乱暴な言い方だがそういうことだ。従って、各地のローカリティを読むのではなく、一人の人間の私小説的な内容を読むことになる。そして、内面に向けられた感性には感心はするが、アジアという場面を離れてしまえば、その感性は描ききれないし、又、深みも薄らいでくるような気がする。しかし、率直で内面を見ている姿には共感を覚える。おそらく空想癖に近いものがあり、反抗的な態度もあり、よそ目には生意気とも受け取れる不遜な面も持ち合わせているであろう。こういう人間は好きである。多分親しくはなれないであろうが、俺には常に好ましく映る人間と思える。その悩みと旅をする勇気に敬服」。『クミコハウス』の読後メモには「表紙の女性が蠱惑的」としか記していないので、多分内容的には「上海の・・・・」と同じような感想であったのだろう。
 40代後半から50代に入る頃はアジアに関する旅行記を好んで読んでいた。その頃に読んでいた本を振り返ると、現在とは随分と異なるジャンルの本を手に取っていた。当時のメモを見るとついこの間のような思いを抱く。
 冒頭のテレビ番組では『クミコハウス』については何も触れられていない。素樹文生さんは現在どうしているのだろう、Amazonを見ると2003年の著作を最後に刊行された作品はないようである。

2019年9月19日木曜日

新書2冊

 <野島博之 『謎とき日本近現代史』(講談社現代新書、1998年)>:コンビニの週刊誌の隣にでも並んでいるような、いかにも安っぽい安易な書名ではある。「○○はなぜ××たか」という9遍の章立てで、単に歴史的エピソードを説明するのではなく、「日本近現代史のかかえる「なぜ」をキチッと提示」している。しかし、新書版に収めるには無理があり、内容が表面的論述に感じられ、批判的な姿勢に欠けている。例えば、「天皇はなぜ戦犯にならなかったか」の章での「免責の論理」にはアメリカを視座とした背景を端的にわかりやすく述べられているが、日本側の立場からの記述はない。戦争に負けたからと言って、勝った側の判断だけでなく、負けた側から見た天皇の「戦犯」への見解を少しはあってはよいのではないか。
 著者は予備校の講師であるから、もし本書で書かれる「なぜ」が大学入試に出題されたならば、模範的解答はこうなる、というスタンスがあるのではないかと感じたのはひねくれた読み方かもしれない。
 本書の参考文献に記載されていた『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』(百瀬孝)を古書店から取り寄せ、ついでに『事典 昭和戦後期の日本―占領と改革』(同)も他の古書店から購入した。ハンドブックのように使える。質的には異なるが、『江戸編年事典』(稲垣史生)・『武家編年事典』(同)も酒精のグラスなどをかたむけながら、時折目を通すのも、想像・空想・妄想・夢想をとばせる愉しいひとときではある。

 <田尻祐一郎 『江戸の思想史』(中公新書、2011年)>:江戸期の著名な思想家たちがほぼ網羅されたあとで、最終章に論じられる「民衆宗教の世界」(如来教・天理教・金光教・富士講など)はそれまでの章立てとは異質であるし、また、関心は薄い。どうしても明治へと続く思想の流れを意識してしまうので、後期水戸学を中心とする江戸後期からの論述に集中してしまう。当たり前のことだが本書の登場する人物たちは何度も何度も他書でも読んでいるので、自分の理解の度合いを復習するように読んだ。
 以前、法政の通信教育のリポート作成や単位修得試験のために歴史の本をよく買い求めていた時期があり、部分的に目を通していたのであるが、年数をあけてから初めて全編を通して読んでいることが多い。このような形での読書が続いている。数年間は、未読の本の在庫整理のような、このような状態が続くであろう。

 基本的に線を引きながら本を読むこととしているが、小説やエッセイの類いはキレイなままに読むことも多い。そのような本の数がたまると段ボールに入れて古本買取業者に送る。数日前にも30冊ほど処分した。巡り巡って誰かがまた手に取るのであろう。
 書き込みをして、かつ不要と判断した本、あるいは引き取り価格がゼロ円の本は廃棄してしまう。いままでに廃棄した本はかなりの量になる。以前は壁の本棚にすべて取っておいたけれど、15-6年前に大量に処分してからは、取っておく本は極めて少なくなった。年齢を重ねるとなおさらにそうなってきた。ただ、LPやCDはそうならない。もっと年齢を重ねたらまとめて処分する、あるいは家族に残すなどの手段を講じねばなるまい。

2019年9月16日月曜日

マラソン、大学ラグビー

 東京オリンピックのマラソン日本代表を決定するMGC、特に男子の方についてはこれほど楽しめたマラソンも過去にはないと思えるほどであった。最後の1km付近では大迫がんばれと声を出したが3位となった。でもおそらくはオリンピックには出られるであろう。今後の選考レースで日本記録を出すことはかなりのハードルの高さであろう。でも選考レースは記録狙いとなりそれもまた楽しめそう。
 ふと思った、マラソンで日本記録を出したランナーはその後の活躍の度合いが薄い。児玉・犬伏・藤田・高岡・設楽・大迫、日本記録を持っているからと言って安定的にメジャーな大会で勝つことは別物なのであろう。
 もちろん女子もぶっちぎり優勝は素晴らしいが、観戦を楽しむ側としてはもうちょっとせって欲しかった。でも優勝者は暑いコンディションの中での好記録はそれだけに今後も期待できる。

 関東大学対抗戦ラグビー、早稲田vs筑波、スコアを見れば52/8T6G-8/1T1PGと早稲田の完勝。内容的には早稲田はもっとトライできたであろうと早稲田OBとしては欲が深い。慶応に勝った筑波がどう戦うのか、接戦になるのかと想いもした。しかし、鋭い走りを見せる左WTBはボールを持っても簡単に潰され、同様に左CTBはいいパフォーマンスを見せるも、チームとして早稲田の堅固なディフェンスを崩せない。一方、早稲田のトライは素晴らしかった。トライをした河瀬や古賀・安倍はもちろん勝れているのだが、CTB中野・桑山、特に中野はやはりすごいと思う。
 もう一つのOBである法政が専修に70分にトライを決められ逆転負け(25/4T1G1PG-26/4T3G)、残念。しかし、この試合は内容的に粗い。逆転トライをされた時の法政のディフェンスはトライされてもしようがない。両校とも大学選手権出場を目指すレベルでしかない。
 ワールドカップが近づいているせいか、サンケイスポーツのラグビーのニュースもその関連が主であり、大学ラグビーの記事は全く少なくなった。寂しい。

2019年9月14日土曜日

2冊の歴史(!)書、雑記

 以下の2冊で「性」を取上げた一通りの読書はすべて読み終え、これで了とする。二ヶ月間弱に渡って本線から外れた軌道を明日からは元に戻すこととする。

 <乃至政彦 『戦国武将と男色 知られざる「武家衆道」の盛衰史』(洋泉社歴史新書、2013年)>:「武士の男色」は、「①戦場から生まれた、②嗜みであった、③多くが男色で出世した」、との通説があるが、本書ではこれらを悉く批判し論破する。そして、戦国時代の武家男色の変遷を明示する。時代背景と共に男色の歴史を知るのは面白い。但し、個々の武士が誰々と交情したなどの史実的エピソードには興味はない。個々人の性行と性交、そして成功はどうでもよいことである。

 <金文学 『愛と欲望の中国四〇〇〇年史』(詳伝社黄金文庫、2010年)>:漢字や熟語を中心にして再読。例えば、「翻曇覆雨」の意味を漢和辞典で確認したり、『論語』の「吾未見好徳如好色者也」に孔子の嘆きを思い、『孟子』の「好色、人之所欲」「食色、性也」に人間の普遍性を感じ、「談虎色変」と「談性色変」を繋げてみたり、である。
 明初期の『雪波小説』にある「妻不如妾,妾不如婢,婢不如妓,妓不如偷,偷得着不如偷不着」から、よく言われる「一盗ニ婢三妾四妓五妻」が解釈された。一般的には「一盗ニ婢三妻」と略されている。
 漢字の遊びも描かれている。私的に言えば、”上で「呂」、下が「中」”という時代もあったが、”上で「品」、下が「串」”は経験がない。
 「張仁封」の笑話は面白いし、新婚初夜を終えた娘が母に語る「突き」の話も下ネタでの笑える話に使える、少々身につまされることではあるが。
 「緊・暖・香・乾・浅」とその反語「寛・寒・臭・湿・深」、また、「大・硬・渾・堅・久」と反語「小・軟・短・尖・彎」は、古から変わらぬ願望と眼前の現実ではある。下ネタの歴史や背景を知ることもまた面白い。

 韓国では疑惑ある側近の法相任用が話題(課題)になり、日本国内でも「タマネギ」なるタイトルを付してテレビなどで多く取上げられている。一方、台風が直撃して千葉県が被害甚大となっているさなかの11日には新内閣改革人事が発表され、こちらも側近が大臣、幹事長代行、政務官などのポストに就いた。日本のテレビではそれらが取上げられず、多くは小泉に関する話題となっている。隣家の芝生の状態はよく見えるのかもしれないが、自家の芝生をはあまり見ようとしないようである。所詮は大衆迎合、マス・プロパガンダ、そしてそれらを後景あるいはBGMとして一つの軌に沿ってしまう報道になっていると思える。
 今日(9/14)の新聞に載っていた投稿、「『側近重用』 負けません -日韓」、皮肉が効いて佳作。

2019年9月12日木曜日

平戸・雲仙・長崎

 9月4日から7日までの3泊4日のパックツアー。長崎での天候が心配だったし、自宅から羽田までの電車内は少し寒さをも感じたので、自宅から持ってこなかったことを後悔しながら、空港のユニクロで撥水機能のあるジャケットを連れ合いと共に購入。しかし、結局は天候に恵まれ、旅行を終えて帰宅するまで一度も使うことはなかった。今回の旅行の中で最も高価な買い物となってしまった。

 初日の大宰府は6年前(2013年)11月以来であるが、そのときは大宰府自体には入ることをしなかったので、ある意味初めての大宰府といったところ。
 平戸は初めて。夕食はビュッフェ方式であるが、自分で焼く肉や美味しかった寿司を何度も食べ、また飲み放題としたアルコール類も結構飲んでしまい、かなりの過食となってしまった。それでも部屋に入ってからは事前に購入しておいた焼酎を追加で飲んで眠りに入った。

 2日目は生月島で海を眺め、平戸で寺院と協会が重なって見える坂を上り、ザビエル境界を仰ぎ見、佐世保に移動してから日本本土最西端の神崎鼻でまたも海を眺め、昼食。中国人が沢山いた九十九島を遊覧し、雲仙温泉へ移動。6年前は熊本から船で雲仙に渡ったが今回はバスで移動。温泉はいかにも温泉という楽しみがあったが夕食は美味しくなかった。昼食はまあ普通であったが、遊覧後に供された佐世保バーガーは美味しかった。

 3日目は諫早湾干拓堤防道路を経由して長崎に入った。右の車窓から開門反対の立て看板が見えた。反対を唱えて現状に満足している人たちもいれば、元の状態に戻せと訴える人たちもいる。頭で考えているのか、胃袋で考えているのか、賛否どちらにもそれぞれの正当性はあるのであろう。最高裁判決が13日に下される。何にせよ、国のやることに異を唱え覆すのには厖大なエネルギーを要する。多分開門は認められないであろう。
 長崎港には立ち寄ったことはあるが市内に入るのは初めてのこと。ごくごくつまらない眼鏡橋付近を歩き、中華街で各自昼食ということであったが、連日の過食で食べる気にならず、コーヒーだけで済ました。
 自由時間の時間潰しのために長崎市で最も大きなベルナード観光通りや浜町アーケードを歩く。デパート(長崎浜屋)では長崎県産品まつりを催しており、そこで試食品を頂戴したりして結構楽しめた。
 出島はつまらない。暑いので早々にバスの中に入ってしまった。平和公園にも行ったが、閑散としている。戦争の悲惨さを伝え平和を祈る設備や公園にはいつも心の中がざらつく。戦争は嫌だし、亡くなった人の悲しみも痛切に感じるしのであるが、施設を作ってそれで一つの区切りにしてしまう人間社会のやるせなさというか物足りなさ、大きな問題・課題の深部に入りきれない表層的な(表層的にしか表現できない)この社会の宿命のようなものを考えてしまう。
 この日は高台にあり、長崎の夜景を楽しめるホテルに宿泊。焼酎を飲みながら文庫本のミステリー小説を読んでから寝た。

 最終日は黒崎教会に立寄り(バスから降りなかった)、夕陽が丘そとめで時間を少々とって福岡空港に向かった。夕陽が丘そとめの眼下には遠藤周作文学館があり車が何台か駐車していた。『沈黙』は学生時代に読んだが、十分な咀嚼ができなかった思いがある。同じ時期に読んだ『わたしが・棄てた・女』も記憶に残っている-特に安旅館で女に嫌悪感を抱くシーンが-。
 今回のパックツアー、福岡からの添乗員さんが素晴らしい人だった、テキパキと動き、細かいところに気がつく人で、今までの中でトップ。我々もその心遣いに感謝することがあった。
 福岡空港ではラーメン店と明太子などの食品を並べる店がやたらと目についた。ここでも昼食はごく簡単に済ましてしまった。旅行したときにプレゼントとして購入するご当地ベアはついに目にしなかった。
 前日の長崎繁華街のデパートで試食したカレーライスの美味しさが忘れられず、全日空で羽田に到着後にカレー屋さんに入った。何度も立ち寄っている好きなカレー屋さんは日航側のターミナルにあり、そこまで歩くのは面倒になり、比較的近場の店に入ったが、そこそこおいしかった。
 自宅に着いたのは19時少しまえ。やはり自宅に入るとほっとして落ち着ける。読みかけの本を読んでこの日はお終い。

2019年9月9日月曜日

悪文、本2冊

 9月4日『朝日新聞』「多事争論」(国分編集委員)の文章の冒頭は「7年前に政権の座を失った立憲民主党や国民民主党など旧民進勢力が、再結集をにらんで動き始めた」。これは悪文の典型的パターンの一種。「政権を失った立憲民主党」と「国民民主党など旧民進勢力」とも読め、立憲民主党は政権を取ったことがあると早とちりしそうでもある-現実ではあり得ないであろうが-。誤解の与えない正しい文ならば、「7年前に政権の座を失った、立憲民主党や国民民主党など旧民進勢力が、再結集をにらんで動き始めた」とすべきであろう。要は「、」を一箇所に追加するだけ。あるいは「立憲民主党や国民民主党など、7年前に政権の座を失った旧民進勢力が、再結集をにらんで動き始めた」のほうがより分かりやすい。かつての朝日新聞記者だった本多勝一の『日本語の作文技術』を読んでいないのか、なんてふと思ってしまった。この類の文章はよく目にする。

 <下川耿史 『教科書では教えてくれない 18禁の日本史』(宝島社、2017年)>:男と女、男と男、要は教科書には出てこない、親しい友人としか話題には乗せられない、歴史上の性(性交)のエピソード集。女と女はまず書かれないから、その関係はなかったのかあるいは記録がないのか、余程の秘め事だったのか。
 人間どうしの下半身の交わりは基本的に何の変化もなく、どのように性的欲望を満たすのか、そのための方法はいかようだったのかという史実・伝説が全ページを蓋う。かくして同じ事は過去から未来へと永遠に語り伝えられる。上杉謙信はどうだったのか、道鏡の何のサイズはすごかったとか、森蘭丸と織田信長とか等々の話である。

 <東野圭吾 『危険なビーナス』(講談社文庫、2019年、初刊2016年)>:40歳前後の独身男性獣医師の伯朗、最後になって姿を現す異父弟の明人、その妻でカーリーヘアー美人の楓、動物病院の美人助手の蔭山元美、伯郎の母の再婚相手先である矢神一族。物語の核を成すのは(後天性)サヴァン症候群、フラクタル図形、ウラムの螺旋など。そして素数に関係して謎のままに消失する絵である”寛恕の網”。
 素材の組み合わせや構成の巧さはやはり素晴らしいとは思うのだが、フラクタル図形とウラムの螺旋への展開はこじつけている感じがするし、明人の行方不明の謎ときをする楓と伯朗の探偵ぶりにはいじりすぎという感が強い。登場人物では伯朗の助手が魅力的である。

2019年9月3日火曜日

大学ラグビーのスタート、本2冊

 例年より早く、そして菅平での開幕となった大学ラグビー、早稲田初戦のJ Sportsテレビ中継はないだろうと思い込み、オンデマンドでの観戦となった(内容は同一)。早稲田は日体大に68/10T9G-10/1T1G1PGで快勝と言いたいが、出だしにトライされ、パスミスの多さがあってそうは言えない。早い球出しと早い展開を意図しているであろうが、パスがきちんと通らない。FWD(特に第1列)が安定的に強さを出せるのかが課題か。長田が肩を痛めて退いてからは14人で戦っていた。
 始まったばかりでまだまだこれからであることはいずれの大学にも言えることである。明治は練習試合の慶応戦・対抗戦の筑波戦ともに失トライが多く、予想よりもピリッとしない。慶応(対青学戦)ももっとトライを取れていいはずと思うのだが。

 <下川耿史 『混浴と日本史』(ちくま文庫、2017年、初刊2013年)>:「混浴の日本史」ではなく、『混浴と日本史』。著者のいろいろな著書から抱くイメージとは異なり、くだけた内容ではなく、混浴を視座にしての日本史概観といった硬質な(ちょっと軽い)一冊。
 メモ替わりのキーワードを思いつくままに・・・普通の混浴と歌垣の混浴、禊と混浴、功徳湯と混浴、坊さんと尼さんの混浴での乱行、温泉人気、江戸の男性過多と湯女の拡大、江戸開府から130年間ほどの女湯の非存在、混浴禁止令への農民の抵抗、混浴を失くすと女は女湯ではなく男湯に入る、明治になっての違式詿違条例・・・。
 やはり日本の混浴文化は明治になって大きく変化した。その点については中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか』、百瀬響『文明開化 失われた風俗』が詳しい。混浴では男(女)は女(男)の裸を見ていない、混浴の裸を見て非難した西欧人は体の線を強調した服を着ており、その西欧人の姿を見て日本人は体の線をあらわにしたはしたなさを感じた。即ち、日本での混浴は(例外はあるにしても基本的には)性行為と結び付けずに、西欧人は裸と性行為をつなげるために混浴を非難した。逆に、日本人は体の線を表す服装を身にまとった女性に性行為を想像し恥辱を感じた、と思っているのだがどうだろうか。

 <今村夏子 『むらさきのスカートの女』(文藝春秋9月号、2019年)>:「むらさきのスカートの女」を「黄色いカーディガンの女」が観察し続けて語る。最初はむらさきに異常性を見るが、頁を進めるに連れて黄色いほうがストーカー的で、二人は同一人物なのか、あるいは入れ替わるのか、ミステリアスでトリッキー。補色関係にあるむらさきと黄色を配置することにこの小説の構造的卓越性を感じる。ありうるかもしれない非現実性のなかに現実を描いていて、決して好きではないこの小説に妙に惹かれる。
 いつものように単行本ではなく、全文掲載の『文藝春秋』で読んだ。選評では本作品ではなく、古市憲寿「百の夜は跳ねて」への評価(酷評・避難)により注目した。

2019年8月29日木曜日

残暑気払いと文庫本一冊

 25日、高校同窓生11人(自分も含む)で大宮”いかの墨”にて残暑の暑気払い。事前の暇潰しには6人でまずは12時から鉄道博物館。初めての来館だった。14時40分ころに大宮で二手に分かれ、4人で暑い中を歩いて氷川神社へ向かった。娘が七五三の時に訪れて以来だから34年振りかと思う。境内の中で眼に入る風景の記憶は全くなし。大宮駅の待ち合わせ場所に向かう途中で、看板にあったビールの価格がとても安価なのでその店に入る。名前はSako's Bar、店の女性とも会話を重ね、居心地のいい時間と空間だった。ビール2杯とちょっとしたつまみで800円は安すぎ。
 時間ぴったりまで待たされて”いかの墨”に入る。なかなかの人気店のようで、予約で待つ客が何人も外で立っていた。この店、連れ合いが友人たちと利用したときに美味しかったというのでこの日の予約を入れたもので、彼女の推薦通りに美味しかった。再度利用してもいいかと思う。大宮は東北方面の新幹線を利用する同窓生には利便性のよい場所でもあるが、横須賀からの参加者にはちょいと気の毒。数ヶ月後の新年会の補欠候補にはなり得る。参加者の評判も良かった。楽しかった。
 カラオケに行って、春日部経由で帰宅する友人と春日部でまた飲んで、歩いて帰って帰宅後からは殆どバタンキュー状態。

 <本多孝好 『MISSING』(双葉文庫、2001年、初刊1999年)>:購入した本文庫は第26刷で2003年の発行。何回か頁を開いたことはあるが結局随分と長くほったらかしにしていた。5編の短編集で書名の通りに、人の死によって自分を見つめる。「眠りの海」は自殺できなかった男と、彼の両親を交通事故死においっやった切っ掛けとなったかつての少年との出会い。「祈灯」は事故で死んだ妹の名をなのる姉が主人公の妹から幽霊ちゃんと呼ばれて兄妹で親しく付き合い、幽霊ちゃんは死んでしまう。「蝉の証」は老人ホームでの老人の死とそれに絡む祖母たちやルー・リードが好きな女性との出会い。「瑠璃」、情緒不安定なルコと5歳年下の従弟の少年との交流。ルコは自殺して半年後に手紙を残す。「彼の棲む場所」、18年ぶりに出会った小中高の同級生が、高校時に自殺した野球部員を通して自分を語る。記憶に残るのは「眠りの海」と「瑠璃」であろう。文庫の帯にある「感涙の処女短編集」とあるが、「感涙」は的外れ。

2019年8月25日日曜日

雑記、本4冊(春画・吉原・売春)

 何の変哲もない日々の繰り返し。録画した番組をテレビで見て、一日おきぐらいにアルコールを身体に取り入れ、本を読んでメモを記し、と言ったところ。
 早稲田ラグビー、夏の練習試合で天理大に勝った(33/5T4G-14/2T2G)。そして21日は帝京に勝利(31/5T3G-21/3T3G)、これはオンデマンドで観戦。岸岡も斎藤も体が大きくなった気がした。後半は帝京に押され気味と感じたが、負けるよりはもちろん勝つ方がいいに決まっている。しかし、今の段階ではまだまだ先は読めない。ただ、天理戦も帝京戦もBチームが完敗しているので、層の薄さを感じてしまう。
 車の点検。会津に関連して会話をするようになっていた若い女性(星さん)がいなくなっていた。逆に初めてみる女性スタッフが二人いたので定期的な異動でもあったのかもしれない。
 プリーツタイプのブラインドの昇降コードがまたもや破損および動きの不具合。前回修理したところとは別のところのコード被覆が切れてしまい、昇降がスムーズでないしストッパーも効かない。しようがないのでまたもや一日かけて修復したが、他にも原因があることが最後に判明した。それは昇降回転力伝達のカップリング状部品が完全に破断しており、機械工学の初歩の教科書に出てくるような45度の破断面であり、これはもう修復不可能。部品を取り寄せる気にもならない。このブラインドは15年の寿命だった。動きの伴う部品の選択ミス-要は設計不良-であり、耐久試験などやっているのだろうかと疑問を抱く。販売価格を安価にするために安易な設計をしているとも捉えられる。

 <田中優子 『春画のからくり』(ちくま文庫、2009年)>:幸田露伴『五重塔』などを例に出し、「中心を空洞にしてその周りにぎっしりと表現をまとわせ、読む者がその中をただよう文章」は「日本の散文が達成した高度な文章の方法」であったと説き、春画は特定の部分を際立たせて見せるために、ほかの部分や背景を隠す。覆っている衣装や背景を微細に描く。そして見る側に、物語を思い描かせる。また、春画は隠れて覗き見をするものではなく、複数の人間が見て笑い興じるものにある、とする。なるほどと思うが、絵画的表現に関する鑑賞力が自分には欠如しているため、江戸期の春画における技法を読んでも退屈してしまう。そんなことを改めて自覚した。

 <永井義男 『お盛んすぎる 江戸の男と女』(朝日新書、2012年)><永井義男 『江戸の売春』(河出書房新社、2016年)>:江戸期の吉原や売春に関する雑学、エピソード集といった趣であって、江戸に生きた人びとを下半身から軽く推し量る、といった内容。2冊には共通する内容が少なくない。
 江戸の春画では男女はなぜ着物を着ていたのか、(田中優子とは違って卑近な見方をしており、)そこには絵師の技量の発揮があり、庶民の住環境があったと書いている。だが、それは本書を読まずとも推測できることである。また、花魁は、例えば「3回目でようやく肌を許す」などと通説があるがこれは史料の裏付けもない俗説でしかないとしている。ならばなぜその俗説が流布するのかといったことも知りたくなるが、そこには深く入っていない。
 ヨーロッパにも売春はある。江戸期の日本との違いは、ヨーロッパでは個人が売春をするが、江戸期日本では個人の意志ではなく、女衒を通して遊女屋に売られてきた幼女が売春のシステムに組み込まれていた。唐突に泉谷しげる「うられうられて」が頭の中に流れる。
 「芸者は芸を売っても体は売らない」に、仕事への誇りや精神の気高さを説く人がいるが、それは間違いであって、単に「遊女の領分を侵してはならない」という戒めであった。そもそも(という言い方は好ましくないが)、誇りとか精神を声高に説く人にはその人の軽さや浅薄さを感じる。

 <小谷野敦 『日本売春史』(新潮選書、2007年)>:副題に「遊行女婦からソープランドまで」。
 「私は歴史学者ではないから、自分で新しい史料を発見することはできない。飽くまで、滝川を中心とした先学の史料を用いて、私なりの歴史を記述するということになる」とまえがきで述べているように、多くの「先学」の史料や論文を提示し、批判し、著者の見解が記述される。著者の他の著作にもみられるように批判は激しい。本書では特に網野史学を批判する。直接的に「歴史」」に関連しないものも含め、多くの書物からの引用もあり、個人的には、発散するが故に著者のエッセイのように思える箇所もあり、通常のアカデミックな「歴史」テキストとは言い難い。それでも読み続けてしまうのは著者の博覧強識に圧倒されるからである。

2019年8月13日火曜日

両の手で 頬を包める優しさに 「お」と「こ」はそっと「まん」を守れり

 8月末から大学ラグビー・シーズンが始る。そろそろと思い、『J SPORTS オンデマンド』ラグビーパックを購入。シーズン終了まで継続し、今季は多分自宅での観戦だけになろう。年齢を重ねてくると、ラグビー会場まで足を運ぶ時間も節約したくなってきている。

 <松本修 『全国マン・チン分布考』(インターナショナル新書、2018年)>:女陰語・男根語の語源を探る。真摯でかつ論理的でありとても面白かった。言語学や語彙史をよく知ってはいないのだが、アンケートで調べ上げた言葉の分布を明らかにし、中心(京都)から地方への広がりを歴史的文献や辞書などから明らかにすることは科学的であり、説得性がある。特に、第7章「「マラ」と南方熊楠」にて「マラ」の漢訳梵語魔羅説を明快に否定し、その根拠も明示している。各辞書の根拠の曖昧さを論破し、併せて辞書編纂者を強く批判している。その論理性や既存語源説の不備をも指摘しているのは、良質のミステリーを読んでいるにも似た爽快さを感じた。
 それまでの著作本で得た印税収入をすべて研究に費やし、また、豊富な人脈もあって、深さ(歴史)と広がり(地理)を増す。日常使うことがなく、学術的には誰も研究せず、ある種の嘲笑さえ向けられるへその下の局部名称。著者はそれらにこだわるのは、人間生活への愛おしさを抱いているからに違いない。
 俵万智さんが本書(と著者)に寄せた短歌が秀逸。

  両の手で 頬を包める優しさに 「お」と「こ」はそっと「まん」を守れり

 分布図を眺めていて、かつて幼い頃に住んでいた秋田県での「マン・チン」呼称名を懐かしく思いだし、小学2年で福島県奥会津に移転したときにはそれまでの言葉とは異なることを知った。もちろん「チン・マン」以外の言葉についても同じで、東京にでてきたときも富山に職を得たときも新しい言葉を知ってきた。方言は楽しい。
 普段口にしない言葉であるからこそ、本書で展開される「チン・マン」語彙に人間社会の豊かさが感じられる。
 本書で抵抗を覚える点は以下;
①友人・知人等の人脈の広さには感心するのだが、私的な思いを語りすぎてうっとうしさを感じる。研究書ならば、まして本書の内容は人々の生活に密着するのであり、だからこそ私的な部分は簡素にするか無機的な記述するほうが好ましい。
②上記にも通じるのであるが、ドラマ的感動の場に著者が漬っていて、それは学術的内容とは無関係であろう。

2019年8月12日月曜日

オーディオ・レイアウト、『日本春歌考』

 現在のオーディオ・レイアウト左半分。写真にない右側はライト側のスピーカーとサブウーファ。装置の結線は結構複雑なので、もう動かす気持ちはないし、故障でもしない限り新規購入もしない。

 <添田知道 『日本春歌考』(刀水書房、1982年)>:初刊は『日本春歌考 庶民のうたえる性の悦び』(光文社カッパブックス、1966年)で、本書は『添田唖蝉坊・添田知道著作集 5』として1982年に出版された。初刊と異なる点は、「「春歌」次第書」と大島渚の解説(「「春歌」、「そして「猥歌」」)が追加されていることで、この二つは本文と同様に興味ある内容となっている。
 「春歌」という言葉は江戸時代に用例はなく、「売春婦」「売淫」もなく、近松の浄瑠璃に「ばいた(売女)」が見つかる程度と述べられている。大島が「カッパの本はすべて知識のカタログに過ぎない」と断じているのは得心する。一方で「カッパ」の本を開いたのは随分と昔のような気がする。
 春歌、替え歌が沢山載せられている。知っている、口遊んだことのある歌もある。懐かしくもある。「<チン>と<マン>はこよなく、美しい<音の符>である。<ソソ>にしても同じ、つつましい美であ」って「本然の美」であり、だからこそそこには、「性」の延長線上にあるおおらかな生活、背後にある時代を感じる。
 因に大島渚は映画『日本春歌考』(1967年)について、「この本が出たあとすぐ題名を借りて映画をつくった」と書いている。

2019年8月10日土曜日

『エロマンガ表現史』、『戦後エロマンガ史』

 7日夜、MuKoからメールが入り、急遽8日に暑気払いという名目で、前回3月と同様に柏にて飲むこととした。ビールから始まりハイボール、焼酎ボトル、最後は日本酒と痛飲。

 <稀見理都 『エロマンガ表現史』(太田出版、2017年)>:2018年3月に北海道にて、本書が「青少年健全育成条例」規定によって「有害図書類」に指定され、ニュースになっていた。有害図書に指定されると、「青少年(18歳未満の者)への販売、貸付、贈与、交換等は固く禁止され」、書店などには「規則で定める方法で、他の図書類と区分して陳列し、青少年による購入等を禁止する旨の表示をしなければ」ならなくなり、陳列方法の具体例も提示されている。また、本書が「有害図書類」に指定された際の議事録は残されていなかったと報道されていた。議事録は残されていなかったのか、あるいはそもそも記録する行為がなかったのかもしれない(-日本は英米に比して公文書作成・保管・管理の重要性認識が極めて低い)。
 本書を読むと、よくもまあこれだけの「エロマンガ表現」が考えられるものではあると、感心、敬服する。欲望を圧する規制があると(ハードルを設けられると)、それを超えようとする、あるいはくぐろうとする智慧が働くのは人間本来の必然的行為であって、そこに創造性が発揮される。
 章立てを追ってみる。・・・男の視座からの「おっぱい表現」の変遷が説かれ、さらに「乳首残像」が誕生し拡散する。北斎の「蛸と海女」が想像できる「触手」が発明され、不可視の結合構造とそこからの外界をも見る「断面図」が深化し、女性の表情に「アヘ顔」が登場し、日本に豊富なオノマトペにも通じる「くぱぁ、らめぇ」の音響が発せられ、性器を直接に描けないものだからデフォルメし他のものに置き換える(貝とかオットセイなど)。等々エロマンガのエロたる表現が解説される。
 書店内をぶらつくにのは好きなのであるが、「有害図書」の類いが並んでいるコーナーには過去も現在も殆ど足を向けたことはなく、「エロマンガ」がかくも激しいものであるとは思わなかった。そして、海外にも日本の「エロマンガ表現」が拡大しているとは驚いた。アメリカから日本に移住してエロマンガ作家になっている人がいることにも、へぇっ、と思う。
 「エロマンガ表現史」が日本の世相・社会・政治などの同時代史と関連付けられて言及されていることが予想よりもはるかに少なく、結局は「エロマンガ」世界の枠の中だけで渦巻いているようで物足りない。その点では、「小難しいことをいう」『増補 エロマンガ・スタディーズ』のほうに読書意欲が強かった。

 <米沢嘉博 『戦後エロマンガ史』(青林工藝社、2010年)>:[エロマンガ前史]にてカストリ雑誌や夫婦雑誌、「奇譚クラブ」やSM雑誌などの出版が記述され、[戦後エロマンガ史]にて1951年から1991年までの厖大なエロマンガ週刊誌などの出版経緯が延々と続く。雑誌名、作家とその作品名がずらりと書き連ねられ、活字を追うのは苦痛になり、結局は刊行物のエロマンガ絵を駈け足で眺めたに等しい。行為の本質は何も変わらないのに、よくもまあこれだけのバリエーションが創り出されているものだと、半ば呆れ、半ば感心する。
 著者は、「マンガ研究の基礎資料の収集と評論活動などの幅広い業績に対して」手塚治虫文化賞を受賞し(他にも日本出版学会学会賞や日本児童文学学会賞、星雲賞を受賞)、14万冊の蔵書を明治大学に寄贈・寄託し、「米沢嘉博記念図書館」が運営されている。

2019年8月6日火曜日

暑い

 暑い。外に出るのも、まして歩くのも厭になる。

 家人の部屋のエアコン室外機が太陽光に曝されており、物置にあるありあわせの材料で日よけを作った。これで少しは省エネ&熱効率が良くなる(のかもしれない)。

 午前中はエアコンをつけることはないのだが、午後からは稼働しっぱなし。寝室に移動すると自室と家人の部屋それぞれで運転し朝まで動いている。25℃に設定し布団の中に身を入れると快適に眠れる。ときおり誰もいなくなった1Fリビングのエアコンの電源を切るのを忘れ、そんなときは朝起きてから下に起きるとひんやりし、尚更に外に出るのが厭になる。

 今日も暑い。この暑さの中で甲子園の野球が始まった。

2019年8月5日月曜日

エロマンガ入門テキスト、「表現の不自由展・その後」中止

 <永山薫 『増補 エロマンガ・スタディーズ』(ちくま文庫、2014年、元版2006年イースト・プレス)>:「「快楽装置」としての漫画入門」が副題。文化的に広い意味を有する漫画の中で、一つのジャンルを確立している「エロマンガ」を概観し、フツーの漫画しか知らない者にとっては、異世界を刺激的に知らしめてくれる好著。東浩紀が解説し評価しているように、内容的には研究書のようであり、思索的で、諸処に記される指摘は、なるほどそうなんだ、と説かされる。例えば、表現規制を求める側の論拠、あるいは表現規制強化に反対するロジックなどは簡便なテキストを読んでいるようである。
 東の解説文から引用して本書を端的にまとめてしまうと、それは、「性愛と暴力が分かちがたく結びついていること、他者の主体性の否定が快楽の源泉になりうること、つまりは「性の快楽は他者をモノ扱いすることに(も)あること」を、道徳的な糾弾の対象としてではなく、単なる文化史的な事実として、無数の表現を例にじつに雄弁に描き出すことができている」のである。日本のエロマンガは海外にも影響を与えている一方で、児童ポルノは大きな問題になっていて日本は欧米から非難されている。そこに考えねばならないことは、「キリスト教は性に関する罪は大きくて、セックス自体は罪ではないけれど、女性を人格として見ないでモノとして見るのは、非常に大きな罪です」(『性と国家』)ということであり、文化や宗教の相違とそこにある集団としての人間をもみつめなければいけない。
 本書は真摯に取り組まれているのであるが、多く掲載されているエロマンガの絵はかなり刺激的で、ある意味おぞましく、漫画文化の広がりというよりは異常な嗜好性を思ってしまい、そのようなマンガが連綿と買い求められていることは文化的頽廃と受け止めてしまう。また、所謂「萌え」系というのであろうか年端もいかない少女を多く絵柄にしていることはとても強い違和感を覚える。それは何もエロマンガに限らず、今の世に蔓延しているとも思える.幼児性にも繋がっているような思いもある。
 表現の自由のあり方、難しい問題である。

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(津田大介芸術監督)の企画展「表現の不自由展・その後」が中止された。電話やファックスなどによる顔の見えない抗議の殺到や脅迫もあり、さらには政治の側からの展示内容への反対表明。この国の「守らなければならないもの」というのは一体何なのだろう。規制されたなかでの秩序、強制される道徳・倫理、・・、いやーな感じがしてならない。
 己の感情をいっぱいなかに練り入れて、歴史だ伝統だとか道徳とかの外皮で包み込み、見た目の美しさの包装紙で飾り立てる、そこには他のモノを認知し、それぞれを尊重し、自立・自律するという思考性が薄いのだろう。あるいは、他者を自己に向けて同調させなければならないという、ある種の集団依存性があると思える。
 「行政の立場を超えた展示」とか、「国のお金も入っているのに、国の主張と明らかに違う」と発現する政治業の人たちは、「政府が右というを左といえぬ」といったかの愚人と同じ思考性(志向性)なのであろう。

2019年8月2日金曜日

一時の寄り道

 日本の、「神道」を中心とした宗教史を概観しようとテキストを読み続けたが、自分なりの、浅いなりにも「神道」の概ねの理解はできたつもりでいる。今後は特定の時代において宗教が果した役割とその位置づけ、あるいは特定の宗教-例えば法然・親鸞・儒教・道教など-をもうちょっとだけ入り込もうと思う。最終的には日中戦争/太平洋戦争/大東亜戦争の敗戦後に入りたいのであるが、その前段階としての、いわば戦争準備期間の歴史を踏んでいおくのは必須であろうと思い、なかなか先に進めないでいる。それに「寄り道」することも多々なので歩みは遅い。購入しておいたテキスト類も少なくないのだが手つかずのままでいる。
 で、ここで一息ついて、極めて庶民的な下半身中心の本を一気に読了しておこうと思う。そのものずばりの妄想拡大のエロ本、官能小説などではなく、それなりに評価を得ているマジメな社会学的な本である(なかには興味本位のものもあるが)。

 <佐藤優・北原みのり 『性と国家』(河出書房新社、2016年)>:「性」とタイトルにあるが、「性」的な側面から捉えているにすぎなく、本質は「国家」のあるいは世の中の歪みを論じている。物事の捉え方、考え方が参考になる。佐藤優氏の批判的発言は鋭い。

 <毛利眞人 『ニッポン エロ・グロ・ナンセンス 昭和モダン歌謡の光と影』(講談社選書メチエ、2016年)>:レコードを中心とした昭和初期の昭和モダンと称せられる時代がうかがえる。当時の歌手たちは戦後の歌謡界でも活躍し、遠く離れた時代の歌手という感じはない。
 「エロ」がタイトルに付され、著名な作詞家(詩人)もそれらの唄を作り、エロとかグロとかイットとかナンセンスとかの文字をちりばめたレコードを数多く出している。大正デモクラシーから昭和モダンの時代は、エアポケットに入った、一瞬の無重力、開放的な(悪く言えば享楽的な)時代と個人的には思っていて、それらが端的に表現されていたのがエロ・グロ・ナンセンスであった。これらの言葉が気軽に発せられていたことに驚きもする。いまならコケティッシュとかセクシーとでも表現する言葉が当時はエロ・グロであったのであろうか。
 カジノ・フォーリーの日本女性の写真を見ると、多分にその短躯・短足のせいか滑稽で、アメリカの、クララ・ボウなどのフラッパーの写真を見ると、その厚化粧がなんとも言えず時代を感じさせる。
 時代が進めば、いまのAKB48もジャニーズ事務所のグループも相当に滑稽に見えてしまうだろう。世に媚びた人たちの姿はいずれは滑稽に見えるしかないと思っている。
 本書、事象の羅列、紹介といったふうであり、当時の社会や人々への生活、一般化への思考が浅く、全体的にはカタログのような一冊。

2019年8月1日木曜日

ブラインドの修理

 プリーツタイプのブラインドの昇降コードが破損し、ごまかしごまかし使用していたが、とうとう限度に達した。破損は、昇降コードの被覆部剥離から始まり、それは昇降の円滑な動きを妨げる。最初は被覆部を部分的に削除し、コードの芯だけで耐えさせていたが、ついにはその芯が切断される。切断部は繋げれば良いのだが、昇降時の動きに支障-動きの引っかかり-が出てくる。このような状態がほぼ1年近く続いていたが、限界となった。
 カーテン屋さん経由でメーカーに修理を出せば、予想だが数万円の費用はかかるであろう、それにこのような単純なメカニズムの不具合を自力で修理できないのでは、かつての機械設計従事者の沽券にかかわる。自分で直そう、そして家人に自慢してやろう、家族にも凄いねと言わせよう、と少しは思った。
 大きなDIYのカーテン屋さんにまずはコードの有無を確認したが、予想通り在庫していない。注文すれば1週間はかかる。結果、ネットで探し、1mm径芯あり8打コードを発注、送料込みで2041円。発注翌日に配達された。最長でも5-6mほどしか使わないはずなのだが注文したコードはなんと50m、短いものを探すもかえってかなりのコスト高になる。まあやむを得ない。
 そして修復に取りかかる。1.8m幅で2mほどの高さのブラインドはプリーツタイプとあって結構取扱が面倒。取り外しは経験済みだがいかんせん忘れている。結局は、都度要点はスマホで写真を撮りながらほぼ9割方分解し、結果だけ言えば完璧に修復できた。最初は午前中だけ、2日目は夕方と2日間に渡り、絡み合うコードと格闘し、分解とコード交換-これが面倒-、長さ調整等々と述べ約6時間ほどは要したであろうか。
 繰り返しになるが、修復後は完璧、自分の技術力を自慢すれど、家人は理解せず。過去にも家のものを何度も修復をしているので当たり前と思っている節がある、これも自慢でしかないか。
 部品代約2千円、技術料(プロならば)時間あたり1万円として2時間を見込み2万円、輸送費+利益管理費で総合計3万円の費用、と乱暴に見積もる。それを自分でやったので半額にして1万5千円とするも、家人は”あらそう”と言うだけ。随分と重宝できるオレなのだが、所詮それは己惚れなのであろう。いいたいことは、「完璧な修理」という自画自賛だけ。
 でも、分解-部品交換-再組立、という工程のなかで、ここはこうすればアセンブリーのコスト低減につながるかも、部品の形状変更で金型コスト低減になるだろう、とかなんとか思いながら作業をするのは楽しかった。もし修理に失敗してもその原因のごまかしというか、逃げ場を予め想定しながら進めるのはちょいと不真面目ではあるが。

2019年7月30日火曜日

悪口雑言・罵詈誹謗あるいは揶揄(再掲)

ブログを始めた頃に一度載せたが、少しだけ追加していたので再掲する。サラリーマン時代の想い出。


  • [戦略]:①毎年恒例で策定されるが、実行に移された試しがないもの。②グループを率いる能力に欠けるが、そこそこの地位に置いておくマネジャーのために事務局が設置される。③開発内容が決まっているが、トップにアピールするために、あとづけで作成される、装飾を施した書類の一般用語。
  • [人事評価]:部下に対する印象が公にされる、罪悪感の伴わない管理者の行為。
  • [合意]:責任者を不在にさせるための戦術。
  • [スローガン]:本質を見せなくする、誰もが反対できない短縮言葉。
  • [重点実施項目]:当初はやる気をアピールするために並べるが、期末になると実績を取り繕うことに懸命になる目標。
  • [マネジャー]:①年功で付与されるが、一方では「マネジャーなんだろう..」と脅迫できる(される)宮仕えの集合体。②任用されて喜ぶが、何れ脅迫される立場。③入ってくる新人の数よりも、新たに任用される数が多い役職名。
  • [週報]:トラブルは柔らかくオブラートに包み、いいことはストレートに書く技術を求められる文書作成術の題材。
  • [唱和]:バカは明るく胸を張っていつもよりは高いトーンで大きな声で発し、ヒネクレ者は俯き加減に小さな声で発する。独立心のある者は黙する。並みの人間は自分にしか聞こえない声で一応は同調しているポーズをとる。
  • [タスク・フォース]:①担当する能力ある適任者がいないため、しかたなく組織されるチーム。人材不足の露呈。②チームを組むことでひとまずは目的を達成した気分になる方便。③上位者が実績を出すために行使する権限で、能力ある者をこき使う手段。
  • [仮説]:トラブルを出してその原因を探り対策を練るときに、最初に立てる推定原因。しかし、上手く行くことを期待し、担当者の都合の良いことを並べることでひとまずは<見通しがある>と思いこむ自己暗示の手段。
  • [計画]:①上手く行くことだけを前提にして立案する予定表。②現実に即して立案すると上司にしかられる予定表。
  • [会議]:①上位者の意図していることを参加者の合意結果とすり替えるセレモニー。②声の大きいものが生き生きとしてくる舞台。③普段はおとなしく碌な仕事をしていない者が唯一存在をアピールできる舞台。
  • [共通化設計]:①出る杭を打ちのめすための武器。②新たな発想を潰し込むためのスローガン。③創造性のない者に対して救いとなるスローガン。④陳腐化への入り口。⑤長く続ければ、コスト競争で何時かは負けることになる標語。
  • [標準化]:画一を尊ぶ行為の総称。
  • [トップ交渉]:①実状を知らない上位の人間が講じられる唯一の交渉術。②無知であることが武器になる交渉力。
  • [徹底的]:目的達成の具体的手段がないときにプレゼン資料に記載される常套句。<徹底的にコストダウンを実現し...>
  • [協業]:目的達成の具体的手段がないときにプレゼン資料に記載される責任回避の常套句。<関連部門と協業し××を実現する。>
  • [運営会]:①常任参加者の多くが開催されないことを、或は早く終わることを望んでいる会合。②上位の運営会で公知された事柄を有難く拝聴する儀式。
  • [組織変更]:①組織長が最初に示威し、実態は何も変わらないが変革を装う手段となる管理手法。②日本における内閣改造の本質を企業内で露呈する行為。
  • [品質会議]:品質向上への取組を形骸化させる場。
  • [原価会議あるいは原価低減会議]:単純な原価構造を複雑に取り組むことを決定する場。
  • [スタッフマネジャー]:①チームワークはできないがそこそこの仕事はできる高齢のマネジャーに役割を設定する組織管理手法。②実務者に迷惑をかけるマネジャーの総称。
  • [拡大SRM and/or拡大FRB]:①メンバーとなっているお偉い方々が衒学的になる場。②通常のSRM/FRBをお偉い方のために繰り返す儀式。③開催されることで実は問題解決が遠回りになってしまう会議。そして責任の所在が曖昧になる場。  (SRM=Sunrise Meeting:品質保証テストなどで毎朝開かれる状況および対策確認の寄合。FRB=Failure Review Board:商品の市場導入後に開かれる不具合/対策&効果確認会議)
  • [キャリア開発面談]:①誰しもが迷惑がっているが、人事担当者が実績行為を誇示する活動。②老弱男女が一律に将来を語る場。その実だれも本気では語らない場。
  • [商品安全設計]:①すべてに優先すると宣言される常套句。②商品安全事故が消滅しないことを認識する標語。
  • [共有化]:①共有はある目的のための手段でしかないが、共有化しておこうと活動すること自体が優れているとまま誤解される。②自らの判断を回避する手段
  • [組織改編]:①往々にして怪しげな変化、怪変。②思わしくない結果が出たとき、全ての問題を包括する改善策。1年も経つと策にならないことが露呈する。
  • [流行語]:トップが使う言葉・用語は企業内で感染する。感染することが良きこととされる。1年も経つと触れるのを躊躇うようになる。
  • [社内満足度アンケート]:①感性・想像力・分析力・判断力欠如における行動パターン。②満足度をあげることより、調査実施有無が評価される。
  • [ルール]:複雑化し、肥大化する。

2019年7月26日金曜日

歴史の新書-神道・儒教・仏教

 <井上寛司 『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書、2011年)>:原始信仰(アニミズム)から律令制時代の神道、中世での神道、○○神道から国家神道、伊勢神宮から靖国神社まで、身近にある神社もすべて「神道」という名で一束に括られてイメージされているのが一般的である。しかし、勿論そんなことはない。その「そんなことはない」とキチンと言えるだけの体系的知識を得るには分かりやすいテキストである。「太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の民族的宗教である」とされることについての批判が展開する。神道が歴史的に論じられるとき、敗戦前の国家神道で閉じられることが多いのだが、本新書は現代までが対象となっており、柳田國男を論じている点は自分にとって新しいことであった。

 <森和也 『神道・儒教・仏教』(ちくま新書、2018年)>:副題に「江戸思想史のなかの三教」、一般的な新書の2~3冊分の厚さがあり、それだけに細部にわたって宗教家の著作などに基づいて三教が論じられる。宗教家・思想家の個々の思想について深く知りたいとは思っておらず、歴史のなかにおける宗教の果した政治的役割や民俗学的な民衆への影響などの理解を深めたいと思っているので、一通り眼は通したが、本書は江戸を串刺しにするというよりも、串刺しにされた個々を微細にときほぐしているようで、かつ高度な内容でとっつきにくかった。

 <阿満利麿 『仏教と日本人』(ちくま新書、2007年)>:人びとのなかで仏教がどう捉えられ滲透してきたのか、死をどう捉えて他界を認識してきたのか、身近の仏教が説かれる。例えば、地蔵について、地獄のイメージについて、僧侶の肉食妻帯や葬式仏教などについて説かれている。
 著者の本は未読の、あるいは途中まで読んで寄り道してしてしまった本が何冊もある。そもそもの始まりは通教での仏教史のリポートを作成するにあたって法然をその対象にしたことからだった。それらの完読していない本が、終わらない夏休みの宿題のようにいつもプレッシャーになっている。

 <松尾剛次 『葬式仏教の誕生』(平凡社新書、2011年)>:副題に「中世の仏教革命」とあり、棄てられていた「死」が弔われるようになったのが中世。そこに介在するのが仏教で、鎌倉期の新しい信仰と葬送が説かれ、江戸期には儒教あるいは神道がメイン信仰になっていても葬式だけは仏教であった。その形態は現代に繋がっている。石造の墓の構造説明には関心が薄いが、それ以外は解りやすい。
 過日、義父の命日に墓に行って来た。花を供えて線香の煙を漂わせるなかで、不信心な己をいつものようにあらためて自覚してしまう。さらには、その不信心さに後ろめたさを抱いていないことでもある。

2019年7月19日金曜日

1Fテレビ周りのL/O変更

 1Fのテレビ画像にたまにブロックノイズが見られることがある。原因は分からない。それどころか、HDDへの録画番組に見られるのか、そうでないのかも把握できていない。CATVセットトップボックス(STB)からテレビへのHDMIケーブルは自分で購入したものでグレードは高い。でも、J:COM 純正のもの(これもグレードは高い)に変えておいたほうが無難だろうと交換作業に入った。
 ところが、純正品は1.5m長で前より50cm短くなり、僅か10数cm不足で配線できない。しようがないので、レイアウト(L/O)変更とした。右側にあるSTB・BD/HDDレコーダー・BDプレイヤーと、左側にあるAVアンプの位置を入れ替えた。これでSTB-TV間のHDMI配線はいいのだが、今度はAVアンプとレコーダー・プレイヤー間のオプチカル・ファイバーが届かなくなった。75Ω同軸や電源コードのはいまわしなどにも長さ不足が生じ、結局は全ケーブル・コードの取り外しと再結線をする羽目になり、19日午前10時ころから食事も摂らずに5時間半もの時間を要した。2-3時間で終わると思っていたが甘かった。
 その後のブロックノイズは確認できていないが、L/O変更は今日のことなので、まだ確認したとは言えないレベルである。もし以前と同様となっても、発生は頻繁ではないので今度はうっちゃっておくしかないだろう。

2019年7月14日日曜日

『神道の逆襲』

 <菅野覚明 『神道の逆襲』(講談社現代新書、2001年)>:視座を神道において仏教を、あるいは儒教や朱子学を語るというような内容を想像(期待)していた。が、これは間違いであった。「逆襲」の意味とは、著者のまえがきによれば、「神道に向けて言われているようよう」な、「冷たい理解に対するささやかな異議申し立てを意図して書かれた」ものである。著者は神さまとはこういうものであると捉えており、それが時には牽強付会のように思えてしまう。鉄腕アトムが悪いロボットを破壊するのは「武力による祓えなのではなかったろうか」とか、『ひょっこりひょうたん島』の「ひょうたん島」は『古事記』の「多陀用幣国(ただよへるくに)のイメージを引くものだとするにあたっては、ついていけない。
 神道が詳細に説かれているのだが、それには関心が薄い。神道だけでなく仏教や儒教など、特定の宗教そのものの教義や歴史には深く入らないようにしている。
 帯には、日本人にとって「神さま」とは何だろう、とあるが、ここでいう「神さま」とは日本で生まれた「神さま」のことで、デウス・Godの「神」ではない。

2019年7月12日金曜日

きだみのる、赤松利市

 <きだみのる 『気違い部落周游紀行』(冨山房百科文庫、1981年、初刊1948年)>:”きだみのる”の名は中学か高校のときにテレビで知ったような気がするが、もしかしたら、三好京三が1975年に『子育てごっこ』で直木賞を受賞したとき、その養女がきだみのるの子で、学校に通わずにもいて話題になったため、そのときの記憶がとどまっているのかもしれない。もちろん本書をはじめ、「気違いシリーズ」も知っていたが、昨年に新聞か雑誌で”きだ”の名が出ていて、今になってはじめて手に取って見た。気違いは無論精神疾患のことを指すわけでもなく、部落も単に集落を意味している。
 内容的には、今の人間社会で見聞きし、体験する人間模様や世間の本質は以前より変わらずにあるということ、敗戦前後の村にもあったということである。

 <赤松利市 『鯖』(徳間書店、2018年)>:漁師たち、魚(鯖ヘシコ)で中国展開を図る中華系ビジネス・ウーマン、割烹を経営する女性、日本海の孤島とそこを望む陸地を舞台にして繰り広げられるノワール。貧困と暴力と現実からの脱出、酒と鯖、歪んだ劣等感をもって向けられる他人と自分。楽しめた。作者は帰国子女で英語もでき、サラリーマンから経営者、土木作業員、無職で住所不定(今はネットカフェからは出ているらしい)、等々の常人では想像できない人生を積み重ねた人らしい。第1回大藪春彦賞(2017年)を『藻屑蟹』で受賞した1956年生まれの新人。
 本書のパターンの小説は何度も読むと多分あきてくる。あと1冊、デビュー作の『藻屑蟹』を読んでみようか。

2019年7月11日木曜日

オーディオ機器のレイアウト変更

 数年ごとに衝動的に湧き出てくる自室オーディオ周りのレイアウト(L/O)変更。どう変更しようかと構想を練ること数日。結局はその構想はすべて破棄し、延べ約8時間かけてL/Oを変えた。ラック類はすべて重ね置きし、背後のケーブル類のごちゃごちゃ感が緩和されたしアクセスも良くなった。アナログ・プレイヤーとHDプレイヤーは右側から左側への変更し、これはケーブル類の引き回し変更を伴い時間がかかった。メインスピーカーの外側に位置させていたサブウーファを内側中央付近に持ってきてまとまりを良くした。使用頻度が極端に少ないスピーカー3セットは自室から除外。為に全体的にはスッキリとした雰囲気が出てきた。もうこれで最後かとも思う。欲を言えば、あるメーカーの大口径ウーファ2台が欲しいのだけど、サイズが大きくて自室では置き場所がないし、アンプ類も追加せねばならない。これは諦めるしかない。金額的には手の届く範囲内にあるのだけれど....。

2019年7月8日月曜日

雑記

 3日、年1回しか行かない市役所で、かつての勤務先でのトレーサーであったDoちゃんにばったり会った。彼女とは20年振りくらいになろうか。

 4月の人間ドックで2年続けて右目黄斑部の僅かな異常が指摘され、4日にやっと眼科クリニックに行った。昨年春以来となり、そのときからの変化が確認された。薬の服用は必要ないが11月に再診することになった。右目でまっすぐなラインを見ると僅かに部分的に歪みが自覚できる。これも加齢に伴うものであろう。年齢を重ねると失うものがあり、新たにまとわりつくものがある。

 参議院議員選挙が公示された。各党の総裁/代表/委員長/幹事長が「訴えたいこ」を記したボードを持った写真が新聞をかざっている。そのボードの言葉をひろってみる。<>は補助的に付記してみたもの。
 自民党総裁は「<安倍>政治の安定」、公明党は「<創価学会員の>小さな声を聴く力」、立憲民主党は「<立憲民主>生活防衛」、国民民主党はモリカケ問題を揶揄しているのか「(加計)家計第一」、共産党は「<我が党員の>くらしに希望を」、日本維新の会は「身を切る改革 消費税凍結<、ありふれているけれど維(これ)新たなり>」、社民党は「憲法を活かす(我が党を)支えあう社会」
選挙、自分の議会議員選挙への姿勢は45年前から一定である。

2019年7月7日日曜日

とりとめのない読書4冊

 <三橋順子 『新宿「聖なる街」の歴史地理』(朝日新聞出版、2018年)>:Wikipediaによれば、著者は「日本における性別越境(トランスジェンダー)の社会・文化史研究家である。戸籍上の性別は男性」とある。評価が高い本書を知った1年程前、表紙の艶やかな諸肌を脱いだ後ろ姿も相俟って、本書を著す女性は、知的で理性的で凛としている人をイメージした。だから、頁を開いて暫くしてから著書は戸籍上は男性であることを知って、当初抱いたイメージは崩れはしないけれど意外な思いを抱いた。高等教育のカリキュラムには載らないであろう売買春の現代史を、地図・公文書・文献・出版物・実体験をベースにして、よくぞこれほど調べ上げたものである。性を核に据えた傑れた現代史テキストであるし、生活文化史・社会史である。

 <中山康樹 『ロックの歴史』(講談社現代新書、2014年)>:1951年頃に「ロックンロール」という呼称が生まれ、当初のブラック・ミュージックから白人的要素が混じり、1964年にビートルズがアメリカに上陸して「ロック」となり、その後アメリカではポップス系がメインとなり、ロックはイギリスで展開する。フォーク・ロック、ハード・ロック、グラム・ロック、そしてプログレッシブ・ロックへと展開している時代は、まさに自分の10代後半から20代後半の時代であった。
 ロックンロールのプレスリーは好みでないし、ビートルズやアニマルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクス、ゾンビーズ、デイヴ・クラーク5などにはロックという呼称よりもポップスという感覚に自分はなっている。そもそも「ロック」という区分がよく分かっていないし、分かろうともしていない。ジャンル分けに意味を感じ取っていない。例えば、内田裕也が「ロック」と口に出して片膝をついても何か滑稽さを覚えてしまうのだから。
 クリフ・リチャード&シャドウズをブリティッシュ・ロックの嚆矢とし、本新書はイギリスでのロックがの変遷を中心に描かれている。レコードや曲の逸話を斜め読みしながら、昔のグループや曲を懐かしんだ。
 ビートルズが日本でまだ有名になる前の1962年、「トニー・シェリダンとビート・ブラザース」の名で「マイ・ボニー」が「マイ・ボニー・ツイスト」との邦題で発売された、このことは初めて知った。ツイスト全盛期のころである。

 <飛田良文 『明治生まれの日本語』(角川ソフィア文庫、2019年、初刊2002年)>:21語の成り立ちが文献に裏付けられて丁寧に説明されている。その丁寧さは簡略化され、より多くの言葉が取上げられ、「明治生まれのことばの語源辞典」というようなものを期待していた。

 <池井戸潤 『ノーサイド・ゲーム』(ダイヤモンド社、2019年)>:社会人ラグビーを軸にした企業小説。書名に惹かれて手にとった。左遷させられた主人公がラグビー部のGMとなり、ラグビー部運営改革と会社組織の不正を正す。併せて現実の日本ラグビー協会を思わせる日本蹴球協会の改革にも乗り出す。著者の他の小説にあるパターンが予定調和的に展開される。ラグビー部監督や選手たちの描写を読んでいると、清宮監督や大田尾、小野晃征が浮かんだ。
 まもなくドラマ化されてテレビ放映される。小説とドラマの違いを見るのも楽しみになるであろう。と思ってキャスティングを確認してみたら、原本には登場しない人物がかなり設定されている-主人公の妻や監督の娘、飲食店の女将等々。キャスティングの失敗ではないのかと思うケースも多々あるが、それは本を読んで登場人物のイメージを自分勝手に作り上げたからであろう。まぁ、原本と映像化されたドラマは別物ということである。廣瀬俊朗と齊藤祐也が出演する。

2019年7月5日金曜日

三陸へ2泊3日

 29日(土)、7時25分のバスに乗ったのは遅かった。もし8分後のバスだったら大宮での新幹線乗車には間に合わなかった。いつもと違って時間に余裕を持たせることが頭から抜けていた。
 仙台までは途中停車がなく、仙台から一ノ関までは各駅停車。一ノ関からはバスで釜石へ向かい、そこでたっぷりの時間があり、どうせホテルでの夕食は魚づくしになるであろうからと魚介類は避けてゆっくりと昼食。釜石は小さな駅で賑わいはまったくない。ラグビーの街をうたう建物の文字などが妙に寂しげである。この駅は45年前に通過あるいは乗り換えているのだが全く記憶がない。
 釜石からは三陸リアス線で宮古へ。人気があり、電車内は立っている人も多い。運良く海岸側の席を二つとれた。45年前には宮古から釜石まで、詳しく書くと宮古~陸中山田、岩手船越~釜石まで、旧JR山田線に乗ったことがあるが、逆にたどる今回は車窓から眺める風景に以前の記憶はなく、それに駅周辺の建造物はみな新しいし、重機がたくさんあって土木工事中の地域も多い。あの震災で、歴史の中に連続する時間が跡切れ、町並みや家屋が新しく作り直されることは、生活そのものの連続性が断ち切られてリセットされる(する)ことであり、悲惨さと諦めと未来への希望とが混濁して複雑な気持ちになってしまう。
 北山崎へ向かう途中から雨脚がひどくなり、霧で視界も悪くなり、50年ぶりに訪れた北山崎では下車することもなく落胆した。もう再訪することもないであろう。
 この日は田野畑村の海沿いのホテルに宿泊。案の定魚料理が多い。油目の刺身を追加するが、油目とは鮎並、美味いとは感じなかった。

 2日目は北山崎断崖クルージングが予定されていたが、あいにくの雨と視界不良で運行中止。昨日に続き今回一番楽しみにしてた50年ぶりの北山崎への期待は悉く外れてしまった。ここ数年間のパックツアーでは雨が多い。多すぎる。
 次は龍泉洞。意外な狭さにここも期待外れ。確かに地底湖の透明度はすごいし奇麗。だが、以前訪れたあぶくま洞や沖縄の鍾乳洞、石垣島の鍾乳洞、飛騨鍾乳洞の方が楽しめた。おそらく歩く距離の違いがそうしているのだろう。就寝前の焼酎かウィスキーを割るために龍泉洞の水は買っておいた。
 しかし、ホテルでも土産物店でも意外だったのが焼酎が売られていないこと。日本酒とワインはかなり多いが焼酎がない。夕食後に飲もうと買った焼酎は鹿児島のものだった。地元の粕取り焼酎を少しは期待したがそれもなかった。岩手・宮城では焼酎はあまり飲まれないのかもしれない。
 この日は1969年および1974年以来となる浄土ケ浜にも行ったが、奇麗に整備された道路や土産店がすっかりつまらなく感じた。こんな景観を若い頃は楽しんでいたのかと、そんなかつての自分にも落胆の思いを抱いてしまった。
 南三陸町の大きなホテルに宿泊。予定変更で早い時刻にチェックインしたので、夕食前から焼酎を飲んでいた。この日は午後4時頃から寝るまでよく飲んだ。

 最終日3日目は7月1日で今年も恰度半分がすぎた。陸前高田の工事中の風景に言葉を失ってしまう。道路橫のボードに進捗率5%とあるように目の前に建物はほとんどなく、平地で、工事中の重機が立ち並び、テレビなどで観た情景よりもはるかに衝撃的であった。遠くにはレプリカと化した「奇跡の一本松」を眺めた。一人参加の75歳の男性が東京オリンピックなんてよくやるよな、この風景を見て復興オリンピックなんてよく言えるよね、と話しかけられた。同感。この地に住んでいた人たちは東京オリンピックに向けて昂る声に何を感じるのだろう。
 帰りの新幹線の時間に合わせたのであろう、やたらに自由時間がたっぷりあった。松島で3時間近くをぶらぶらして時間つぶし。土産物店で便器の前に立っていたらコップ酒を目の前において用を足していた人がいた。その人は同じツアーに参加している男性(老人)4人グループの一人で、トイレを出てからはベンチに座って4人で飲んでいた。この4人組、どこにいてもよく飲んでいた。初日の新幹線、三陸リアス線でもコップ酒から日本酒の大きな紙パックも手にし、飲んでいた。夕食時ももちろん飲んでいたし、さほどに昼から(もしかしたら朝から)飲んでいる人たちは初めてみた。

 雨にたたられ、期待していた景観を目にできず、時間はたっぷりあって、以前訪れた景勝地などには興味が薄く、極端に言えば、いつもの日常を離れて電車に乗って温泉に入り上げ膳据え膳で食事を摂り、ゆったりした3日間、そういった旅行だった。

2019年6月28日金曜日

渋谷と上野へ。「主戦場」を観る、クリムト展はやめる。

 火曜日(25日)、7時半ころに家を出て久し振りに渋谷へ向かう。この日の第1の目的はシアター・イメージフォーラムにて映画「主戦場」を観ること。100人ほどの定員に1/2から1/3の観客であった。平日の午前ということもあろう、同年代の人たちが多かった。約2時間の上映時間、まとまりよく編集されていると思った。インタビューを受けた人たちの主張・思いに真新しいものはない。今までに本・雑誌・新聞・テレビ等で触れている内容と変わりはない。あるとすれば、口を開き、目を動かす表情が確認できること。
 どうみても主張を裏付ける論理性に矛盾があり、自家撞着に陥っていると捉えられる人たちがいるのであるが、それを言ってもしようがないことである。文書が存在しないと強弁しても、それは敗戦直後に公文書廃棄の命令を出しているのだから、あったとしてもないのが当然であり、そういう意味では公文書の存在を争っても意味のないことである。似たようなパターンは現在でも(モリカケや年金報告書等の例に)あることである。事実は何だ、真実はどこにあるのか、という問題よりもホントの問題は、なぜこのような問題が生じてしまうのか、生じえざるを得ないのかということであると思ってしまう。こう思うこと自体が、人によっては現実逃避、問題のすり替えというのかもしれない。しかし、どうしてもそう考えてしまう。

 この日の第2の目的は東京都美術館にて開催されているクリムト展を観ること。しかし、チケットを購入するに要する時間が20分、帰宅後の用事に間に合わせるには時間がギリギリとなってしまい、余裕がない。並ぶことが嫌いで、それに打ち勝つだけのモチベーションもなかった。以前持っていたクリムトの画集も古本屋に売ってしまったし、気持ちが失せてしまった。

 この日は歩いた距離に伴って左足踵がひどく痛んだ。映画を観て渋谷まで歩いている途中で痛みに堪えられず途中で鎮痛剤をのんだ。自宅~春日部駅、表参道~映画館~渋谷駅、上野駅~東京都美術館~アメ横~上野駅、春日部駅~自宅、これだけの距離を久し振りに歩いて(以前だったらなんとも感じなかったが)、翌日の痛みもかなりひどかった。

2019年6月24日月曜日

3冊の本

 <伊藤聡 『神道とは何か』(中公新書、2012年)>:サブタイトルに「神と仏の日本史」。著者の立場は、「神道とは神祇信仰(あるいは神[カミ])と仏教(およびその他の大陸思想)との交流のなかで、後天的に作り出された宗教である」とする。これはもちろん他の研究者にも見られ、浅薄な知識しか持ち合わせない自分もそう思っている。「神道」のテキストを読み続けて自分なりにその全体像というか、歴史的変遷は分かってきた(つもりで)ある。明治維新期以降の「国家神道」は別個である。

 <義江彰夫 『神仏習合』(岩波新書、1996年)>:手にしたのは第17刷。本書は、今まで読んでいる神道関連のテキストの多くに参考文献としてあげられている。それだけの名著なのであろう。神仏習合に至るまでの祭政状況、都と地方の相違が詳述されていて理解しやすい。本書で神仏習合の第4段階とされる本地垂迹説・中世日本紀が(これまでのテキストに比して)少し浅く論じられている。あれっ、ホントにそうなのかと思った箇所があったのは、多分に佐藤弘夫『神国日本』に影響されているからであろう。

 <- 『私の天皇論』(月刊「日本」1月号増刊、2018年12月)>:18人の著名人たちのそれぞれの「天皇論」、あるいは思い。

2019年6月20日木曜日

CATV STB変更

 リビングに置いてある4K対応テレビは単に2Kからのアップコンバートで見ていて、テレビ放送に組み込んでいるCATVのSTB(セットアップボックス)はまだ4Kに対応していなかった。また、2台のBD/HDDレコーダーの古い方はBS・CS専用録画に特化していたが、時々ブロックノイズが見られるようになった。じゃぁということでHD録画対応の4K対応STBへの切替をすることとした。
 最終判断をするまでやったことは、テレビのHDMI仕様確認、使用しているHDMIケーブルのグレードチェック、レコーダーのDLNA対応可否、STB仕様と操作方法の事前確認など。そしてHDMIケーブルをすべてグレードアップしたら現状のシステムでも画質が向上した。その上でSTB交換依頼をし、昨日(6/19)終了。作業しやすいように準備しておいたので、交換・確認作業は短時間で終わった。
 4K放送の番組はまだ少なく見ることも殆どないが、チェックするために見た4Kの画質はやはり素晴らしい。あと大きな変更点はBS・CSの2番組同時録画が可能となったこと、同じくその録画時の他番組視聴が可能になったこと、iLink接続不可となったこと(ケーブルも2本不要ととなった)、CS・BS放送のBD作成には一旦STBから外部接続レコーダーへのダビングが必要となったこと。古い方のBD/HDレコーダーは地上波専用となってしまったこと(使用機会は大幅減)など。
 今後は8K放送も実用化されるであろうが、自分がこれ以上グレードアップさせることはまずないだろう。それに用語理解の時間がかかり、そろそろ限界に近づきつつあるような気もしている。特に、長年にわたって買い求めた機器の現状デジタル環境への適用可否判断に時間を要し、場合によっては出費が重なることにもなる。尢も、これはビジュアル系のみでなくオーディオ関連についても同じ事で、年齢的にもこ文明の利器への対応はもう了とする頃合いなのかもしれない。

2019年6月9日日曜日

三島の映画、若尾文子など

 日中一度も外に出ないこともある。音楽を聴くあるいはLPを聞きながらwaveとして取り込む、本を読む、読んだ本の重要ポイントを抜き出してPCに書きとどめる、録画したドラマや映画を眺める、スマホで単純なゲームをする、アルコールを飲む、こうして時折ブログの記事を書く、等のパターンしかない。いずれも二つのことを並行している。テレビを見ながら本を読むということに、あるいはPCのキーボードをたたきながら、目や耳を他のことにも向けることに連れ合いは感心したり呆れたりしている。何か一つのことだけに没頭することに時間が勿体ないという気持ちがある。

 金曜日(7日)、一人でいて焼酎を飲みながら録画した映画を観た。興味本位で三島由紀夫が主演する「からっ風野郎」、1960(昭和35)年の作品。内容的にはつまらないものであるが、三島は時折上半身裸の筋肉美を晒して自己顕示欲を充たしているようでもある。鋪装されていない道を車が走り、きちんとしたネクタイ背広姿のヤクザに妙に律儀さを感じたり、綺麗とは言えない室内の壁や家具に60年程前の日本の状況を思う。
 三島の大根役者ぶりは嗤うしかないが、共演している26歳頃の若尾文子は奇麗だった。彼女が演じるもぎりの仕事は月5000円の給料であったこと、ウィスキーを「舶来」と称して飲むシーン、赤籏とストライキと労働歌インターナショナル、ヤクザの強襲、官憲に捉まる労働者、何もかもが既視感のある情景である。若いときの若尾文子の、「十代の性典」あたりから「処女受胎」あたりまでの、映画の中の彼女を眺めたい。

2019年6月6日木曜日

寄り道の新書2冊

 <永井義男 『春画でたどる東海道五十三次』(河出新書、2019年)>:サブタイトルに「江戸の宿場の「性」模様」。テーマを決めて読書を続けるなか、ちょいと道草して一休みといったところ。
 文明は常に変化し、一方、文化には変化しない基層がある。そして、男と女の肉体のありようは変わりはしないのだから、性を楽しむパターンは一様に繰り返す。体位を変え、場所を変え、対象を変え、方法を変え、接触する体の部位を変え・・・・、それは今でも同じ事。

 <藤平育子他 『世界が見たニッポンの政治』(文芸社、2018年)>:3人の共著。文芸社が出版元なのでこれは自費出版。海外メディアの見た日本政治の切り取り。英語原文との併記なので英語の勉強にもなる-今さらそんなことはしないが。
 日本は海外の、特に英米人の評判を気にし、批判的な内容には目をつぶり心地よいものを持ち上げる傾向がある。本書ではそのような批判的な記事を幾つか材料にして引用・翻訳している。このように見られているのだろうと予想は付くので、特に真新しい内容はない。日本では海外の右側政党や団体を直截に「右翼・極右」と書くが、国内のそれには和らいだ表現を使う。しかし、海外では日本のそれを「右翼・極右」とストレートに捉えている。

2019年6月4日火曜日

ミステリー1冊

 <葉真中顕 『凍てつく太陽』(幻冬舎、2018年)>:第21回大藪春彦賞受賞、第72回日本推理作家協会賞受賞。物語の現在は昭和19年から始まり、昭和21年で頁が閉じられる。舞台の地は、室蘭・札幌・網走監獄、過去と現在にアイヌの畔木(くろき)村、そして、飢餓から撤退までのガダルカナル島。人物は、大和人の警察刑事と特高刑事と不正義を働く軍人、土人と蔑まされるアイヌ人あるいはその血をひく特高刑事、タコ部屋で抑圧される労働者と大和人に追従する鮮人たち。太陽とは暴走する研究者と軍人が造ろうとするウラン爆弾。
 面白くはあるのだが、物足りない。言葉を悪く使えば、所詮日本歴史の暗部を道具立てとしたエンターテイメント小説であり、その暗部を鋭くつき深部にはいることはない。しかし、エンディングで近い将来を語り合う人たちは土人であり鮮人であり、大和人はいない。そこに著者のスタンスを遠回しに柔らかく表現していると捉えた。

 本書の出版元でもある幻冬舎の社長が「特定の作家」の実売部数をツイッター上で公表し、作家や評論家から批判があがったことはつい最近のこと。著者は日本推理作家協会賞贈呈式にて見城社長を批判している。ついでに書くと「特定の作家」が批判を繰り返し、現在も書店で平積みになっている『日本国紀』については読む気もしない。
 Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2019年6/4号にて「特集:百田尚樹現象」が掲載されている。また、朝日新聞2019年/5月30日「論壇時評」「超監視社会 承認を求め、見つける「敵」」にて津田大介氏も彼を論じている。論壇で問題視されるほどにイヤーな世の中になっている。

2019年6月2日日曜日

散髪、バラ園、新書2冊

 5/30、髪を切りに近くの1000円カットに行く。2ヶ月ぶり。椅子には10人くらい並んでいてそれも年配の方たちばかり。平日のせいかと思ったが、暫くして気がついた。この日木曜日は65歳以上のシニアはポイント倍増なので多分そのためであろう。前日の夜更かしで椅子に座っていると睡魔が襲う。たかだか10分くらいで熟睡した感じになった。

 31日、伊奈町のバラ園に行く。初めてニューシャトルに乗る。内宿で降車し徒歩約10分。バラ園は予想以上に広く、多種の薔薇が咲いていた。ピークを過ぎたのか散りかけているものもあった。約1時間園内をぶらつき、帰路につく。大宮LUMINEでは以前入った店で遅めの昼食。その後バッグを見たいという連れ合いの要望で”そごう”に入り、こっちは山野楽器でCDを眺めようとするもそのエリアは大きく縮小され、以前は輸入盤クラシックが多くあったのが皆無と言っていいほどになくなっていた。もう立ち寄ることはないだろう。帰宅後ウィスキーとジン、そして錦織の緊迫した全仏テニスでまたも寝不足となる。

 <佐藤弘夫 『神国日本』(ちくま新書、2006年)>:蒙古襲来(元寇)のとき、「神風」と称せされる台風が襲って蒙古軍は海に沈み日本に勝利をもたらした、というのが昔教わったこと。今提示されている史実は、最初のときは台風は吹いていないし日本軍は大敗し、2度目は台風がきて日本は勝利した。「神風」は日本書紀にすでに現れており、元寇の「神風」はあとづけの「日本=神国」を装飾したものであろう。
 以下、本書の<はじめに>と<あとがき>に述べられていることを引用しながら、本書の内容(目的)をメモしておく。
 戦後になってまともにすすめられるようになった「神国思想」研究は、「まずは日本において初めて本格的に神国思想が興隆した時代とされる鎌倉期に向けられることにな」った。ために戦後、「最初に学界を支配した学説は、神国思想を古代的な支配勢力の反動的なイデオロギーとみるものであり」、「日本=神国の主張」が熱心に説かれたのも、主として京都の公家政権側においてで」あると捉えられた。よって、「神国思想は、時期的には鎌倉時代-中世に説かれたものであっても、古代以来の残存勢力(朝廷)が自己の立場を正当化するために唱えた「古代的」思想と考えられた」。しかし、その後、「武家政権と並んで鎌倉期の公家政権を中世王権と見る立場が学界の常識とな」り、神国思想も「「中世的」な理念と規定されるに至」った。しかし、「古代的な神国思想とはなにか」、「中世的な神国思想とはなにか」に対し、「学界はまだ統一的な解答が提示することができないままでいる」のであって、著者は「本格的に神国思想が勃興したとされる鎌倉時代(中世)を中心に、その思想の形成過程と論理構造が、「前代の(古代)の神国観念とどのように異なるのか、また、神国思想が「鎌倉時代以降、近代に至るまでどのように変化していくのか」」を論じる。すなわち、「大方の人が抱いているものとは違ったイメージを提示することによって、その常識を打ち破ることを第一の課題」とし、同時に、「「神国」というもっとも「日本的」と思われがちな概念が、実は神道・仏教といった要素に還元しえない独自の論理構造をなしていることを明らかにすることによって、研究の方法に関わる問題提起を」本書で試みている。
 いつもより時間をかけ、鉛筆片手に線を引きまくり、論理的な内容に引き込まれ、充実した読後感がある。思えば、「神国」という観念は他の観念-儒国・仏国-と相対することで生まれたことであり、神(神話)の時代から日本は「神国」であるというのは論理的に成り立ちはしない。神国思想と天皇は不可分であり、(日本の)人間社会とは結局は大きくは変わることができないものの上に立っている。

 <山極寿一・小原克博 『人類の起源、宗教の誕生』(平凡社新書、2019年)>:サブタイトルには「ホモ・サピエンスの「信じる心が生まれたとき」。帯には、「人類史と宗教をめぐり白熱する議論!」、「ゴリラとチンパンジーに宗教はあるのか? 神と暴力の起源とは?」とある。対談の本は概して面白いとは感じておらず、今回もさほどには期待していなかった。ただ、「宗教の誕生」に惹かれたために読んだ。読み終えてはやはり対談は面白くない、ややもすれば話す内容が発散しがちになって雑談になりがちだという思いが残る。もっとも印象に残るのは、集団から離れたあとになって集団に戻ることが出来るのは人間社会であり、ゴリラやチンパンジーにはそれはないということ。それは食を得るための環境のせいでもあり、ひいては信頼感に繋がるということで、得心する。
 人がなぜ祈り、恐れ(畏れ)、神を持たざるをえないのか、という疑問に対し、「宗教」という言葉で括ってしまうと、疑問の向く方向を逸らしてしまい、疑問に境界線を設けてしまう気がしている。また、ロゴスが基底にある神概念と、自然を基底におく神概念は一緒くたに「宗教」と束ねてしまうことにも違和感を抱く。

2019年5月28日火曜日

飲んで寝て、そしてLP

 25日、午前中に草むしり。その後はビール・ウィスキー、そして昼寝。
 26日、改めてPCとフォノ・イコライザDACの設定を確認し、久しぶりにLPからKronos QuartetのJazzを流し続ける。ついでに泉谷しげるの初期のLPをデジタル化してPCに取り入れる。
 27日、昼からウィスキーを飲んで寝入ってしまう。昼寝のためにまたもや夜更かしモードに入ってしまった。この日の深夜は、SkriabinのLPを聴き続け、これらもデジタル化を進める。1970年代のLPはジャケットは劣化しているものの盤面には傷もなく良好な音楽が流れる。LPも古ければ、プレイヤーも古く、デジタル化にともなう機材だけが比較的新しい。しかしながらアナログ・レコードのクリーニングは面倒で、昔からいろいろな手段を講じるが完璧さには今もって近づけていない。安価なカートリッジおよび別のカートリッジの交換針を発注。
 今日28日も昼にビールと焼酎で短時間の昼寝モードに入ってしまった。これから少し、ジンライムでも飲もう。

2019年5月24日金曜日

雑記

 23日、13:00から高校同窓会旧トップ幹事3人で酒&カラオケ、楽しめた。久しぶりの新宿ではJR駅から上に出るときに方向を間違ってしまう。たまには都会に出て人の多さの中に融け込むことも必要かも。
 電車以外はすべて歩いたこと、復路の電車ではずっと立ち続けていたことなどから、翌朝は歩くのも不自由なほどに左足踵の痛みがひどかった。そのうちに痛みは気にならなくなるのだが、いつまで続くのだろうか。
 
ヘッドホン・スタンドが完成。あり合わせの布、螺子類使用のためもあり完成度は低い。


2019年5月23日木曜日

宗教史などのテキスト3冊

 小説・マンガ以外の本を読んだ後は、その本に書かれている要点を再度拾いながら、なるべく書き落とすように努めている。そうでもしなければ上面の文字追いになってしまう。だからそのようなテキストは-自分にとって参考にならないとした本を除いて-、2度読みすることになる。
 それとは別に、すべての読書については、簡単な感想や、そのときの思いなどをメモ書きし、何を読んだのか振り返られるようにしている。しかし、いろいろと時間がかかりすぎるのは、読解力や文章力のなさであり、いまになって「少年易老學難成」を真に思う。

 <末木文美士 『日本宗教史』(岩波新書、2006年)>:通信教育をしていた頃、宗教史の講義の参考書、またはリポート作成のために読んだ。そのときは多分に駈け足で要点に線引きする程度の読み方だった。そのときとは違って、今回は神道を中心に置き、自分なりの納得を得たい、あるいは自分なりに考えを構築したいという(妄想的な?)目的をもっている。それは著者の文章を借りて書けば、次のようなものである。すなわち、自分なりの「思想史/宗教史の最大の課題は、表層から隠れて蓄積してきた<古層>を」”理解”して、「その<古層>がいかにして形成されてきたかを」”知って自分なりの考えをまとめておきたい”と思っていることである。(引用はまえがき3頁)。だから、日本の宗教に関するテキストは(日本独特の神道を中心にして)少しばかり読み続ける。もちろん専門的に深くは入り込む気持ちはなく、あくまで文庫や新書レベルでしかない。先に待っているのは積ん読状態になっている、敗戦前後にかかわる本で、いまはこれらを読むための準備というか下地をつくること。

 <武光誠 『神道 日本が誇る「仕組み」』(朝日新書、2014年)>:読む価値はなし。あるとすれば歴史の流れを表層的に図表化していること。

 <岡村道雄 『日本の歴史① 縄文の生活誌』(講談社学術文庫、2008年、初刊2002年)>:2000年に出版された約10日後にかの有名な遺跡(旧石器)捏造事件があり、2002年に改訂版刊行となり、本書はその改訂版の文庫化したものである。30年間くりかえされた捏造について、本書のあとがきに著者の思い(苦悩)が述べられている。
 本書では、それこそ「生活」を中心にして読んだ。重点は、縄文人の遊動から定住へ、そしてそこでの祭祀、である。ただし、「草木・動物から雨・風・火・水などにいたるまで、あらゆる自然物・自然現象や、人工物である道具や家・建物・水場などの施設にも精霊が宿ると考え、その威力を崇拝する「アニミズム」があった」(219頁)とする記述にはすんなりとは入り込めない。それは、前記の末木『日本宗教史』に指摘される内容に得心しているからである。すなわち、「アニミズム論にしても、そもそも一草一木に神が宿るという発想が日本にあったということ自体が、成り立たない。歴史的に知られる範囲では、神は特殊な自然物(山、岩、巨木など)に下ってきたり、蛇や狐などの特殊な動物が神、あるいは神の使いとされるのであって、あらゆる自然物がそのまま神というわけではない」(4頁)。

2019年5月21日火曜日

雑記

 Φ4.4、およびXLRのバランス接続に対応し、かつ今まできいたことのない平面駆動型振動板のヘッドホンFOSTEX/T60RPを購入。Φ4.4とXLRのケーブルも手に入れたがケーブルの短さと硬さがちょいと不満。オーバーイヤーのものはこれで4台目。適宜使い分けているが、総合的にはやはりSENNHEISER/HD650が、インナーイヤーはCampfire Audio/NOVA CKが持っている中では抜きん出ている。どちらも古い。高級品と言われるものでも聴いてみたいが、上を見ればきりがないし、結局は下を向いて咲く百合の花ヵ。

 20日、木材の丸棒、板材を素材としてヘッドホン・ハンガーの製作に取りかかる。せめて卓上旋盤やボール盤、贅沢を言えば卓上フライス盤があればいいのだが、それは思っても詮無きこと。手持ちの大工道具だけでは出来映えに不満が残る。凝り性の性癖と現実的諦めに折合をつけながら進めるが、最後はまあいいや、になってしまうのは仕方がない。材料加工の完成まで約5時間も要した。サンドペーパーをかけても切り口はそこそこにしか滑らかにならないし、接着組み合わせの突き合わせ部がキレイではないので、布貼りあるいは丈夫な紙貼りにする-醜さを隠す厚化粧。

 ドラマ「死命」の録画を見ていたらバックに大好きな「亡き王女のパヴァーヌ」が何度か流れていた。ほかのドラマでの喫茶店のシーンでは「ジムノペディ」が流れていた。好きな曲。

 加藤典洋さんが亡くなった。まだ71歳。最初に読んだ著作は『日本の無思想』。次が(多分入院中に読み始めたが理解が浅く再読した)『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』、続けて『日本という身体 「大・新・高」の精神史』。そして一般的なパターンに入り込んだのは『敗戦後論』で、もちろん高橋哲哉『'戦後責任論』へと続いた。十数年前の事である。

2019年5月18日土曜日

Doris Dayなど

 Doris Dayが亡くなった。高校2年のとき、下宿の自室の壁には彼女の大きな写真を貼っていた。彼女のLPレコードも持っていた。Marilyn Monroeも好きで週刊誌などの頁を切り取って持っていた。Marilyn Monroはいまでも好きで、PCのスクリーンセーバや壁紙にも時折設定している。
 Doris Dayは97歳で亡くなり、36歳で没したMarilyn Monroeは生きていれば93歳。若い頃は自分と同年代であるよりは年上の、しかもかなり年上の女優を好きになることが多かった。今、Monroe以外にスクリーンセーバにしているのは、Andrea Osvart、Ann Margret、Jane Fonda、Grace Park、Mary Joe Fernandez、Meg Ryan、Naomi Osaka、・・・多岐にわたる。日本の女優さんも年上から若い人まで範囲は広い。ここでは省略。

宗教・神の本2冊

 <中村圭志 『信じない人のための<宗教>講義』(みすず書房、2007年)>:三大宗教を中心とした宗教学入門書。世界の宗教に対する基本知識は持っているが、宗教全般を語るには知識不足、あるいはもうちょっと宗教全般に共通する普遍的なもの、あるいは差異を知るための入門書、という位置づけ。日本における宗教の歴史と他の宗教との比較という点に関心がある読み手には物足りない。もっとも、一冊で広範囲に宗教の本質を知ろうとすること自体には無理があることも確かなので、あとは読み手がどの宗教を知りたいのかを問われることになる。

 <大野晋 『日本人の神』(河出文庫、2013年、初刊1997年)>:国語学者が「カミ」「神」を論じる本書は、歴史学者あるいは宗教史分野の学者が著す本とは切り口が異なり、新鮮である。しかし、「日本語カミ(神)に当たる単語が古代のタミル語の中から見出された」とする本書の主要点は、『古典基礎語辞典』に詳述されており(本書巻末にも掲載されている)、その辞典が自室の書棚にあるのに「カミ」「ホトケ」の頁を開かなかった自分の愚かさに落胆してしまう。
 古代日本語と古代タミル語の酷似性については批判的な学者も多いらしいが(wikipedia)、その内容に踏み込んでしまうと、本来の目的からの脱線も甚だしいので、そこに分け入ることはしない。
 古代タミル語は南インドの語であり、「カミ」以外の宗教的言葉にも酷似性があるとする点については説得される。もちろん、南インドの言葉がどのようにして日本に伝わったのか-逆はないだろう-、人間の移動と交流はどうであったのか、さっぱり分からないし、想像すら及ばないが、そのことを思うだけで楽しい。
 「カミ」と「神(カミ/シン)」は意味が異なる。「カミ」は、阿満のいうところの自然宗教であり、それは①唯一の存在ではなく多数存在し、②具体的な姿・形を持たず、③カミは漂動し、来臨し憑代に付いた。「カミ」は④それぞれの場所や物を領有し支配する主体であり、⑤超人的な威力を持つ恐ろしい存在であり、⑥人格化されることがある。このカミから一気に「神道」に進むのには無理がある。
 知りたいことは「カミ」が外来宗教とどのように、何を目的として混じり合い、相互に混じり合い、重なり合い、大平洋・大東亜戦争に結びつき、今に繋がり、この今の日本を流れているのか、ということ。それは丸山真男の<古層>、あるいは<執拗低音>を知ることだと言ってしまえば事足りるのかもしれないが、そんな単純なものであるはずもない。
 ザビエルはDeusを最初は「大日」と訳したが、結局は「デウス」とした。ヘボンもGodを「神(しん)」と訳さずに「ゴッド」としておけばよかったのに、と思う。

2019年5月11日土曜日

本の売却

 マンガ本を中心に、そして古い算学の小説をすべて、最新の小説も含めて合計90冊強を古本屋に売却。予想よりも高額であった。査定には市場性、本の外的品質、査定額も明示されており信頼できる。といってももう暫くは売却はない。今後読む本は発刊時期が最近ではなく、市場性も殆どないと思われるし、第一に線引きや書き込みをしてしまうので引き取り対象外となることが多い。今回処分した「算学」の小説の大半は値がつかなかった。
 マンガは『瞬きのソーニャ』2冊だけを手許に残し、あとはなくなった。『キングダム』も最新54巻まで読んだが、もう止めた。『ペリリュー』も『プレイボール2』も止めた。『北北西に曇と往け』も『ものするひと』も数ヶ月前に古本屋に買い取って貰っているし、もうシリーズ物のマンガはなし、今後も多分読まないであろう。齢を重ねるとともに読む本のジャンルも変わるのは当然として、ここ数年でも大きく変化した。

2019年5月4日土曜日

『日本精神史』と『日本風景論』

 <阿満利麿 『日本精神史 自然宗教の逆襲』(筑摩書房、2017年)>:就職したばかりの頃、和辻哲郎『日本精神史研究』を購入したが、仕事が忙しくなりかけていたこと、さらにはこちらの方が主な原因であるが、仏像や美術、和歌などの芸術的側面からの論理展開の壁が厚く-要は興味が薄く理解能力もなく-頁を進めることができず放り出してしまった。本書はサブタイトルに「自然宗教の逆襲」とあるように宗教を軸にしており、美術や彫刻や和歌などの人的創造物を媒介させておらず、もちろん思考を巡らせねばいけないのであるが、余計な廻り道をせずにストレートに入ってきた。今後も迷ったときなどに振り返るテキストである。
 本書は、「日本社会のなかで主体性をもって生きるには、やはり、どうしても『無宗教』的精神を一度徹底的に論破し、『無宗教』的精神に代わる普遍的な宗教精神と向き合う必要があるのではないか」という観点に立ち、「『無宗教的』精神を相対化し、あるいは否定して、新たな主体性の根拠を提示できる普遍的宗教」について、かつては日本に存在していたその「普遍宗教」が「普遍性を喪失してゆく過程」に力点をおいている。以上は「まえがき」より。
 「凡夫」も「普遍的宗教」もその概念はストンと腑に落ちるし、「自然宗教」からの展開にも得心する。しかし、「本願」そのものと「専修念仏」にいたるプロセスが消化不良である。否、そうではなくそのプロセスに踏みだすのに(無宗教的に)抗しているのかもしれない。なぜなら、現世は、すべてを含んで、出来不出来は別として、完成されているのであって、その出来不出来を問うても詮なきことであって、それを大きく括って大きな物語として語ろうとしてもそれは不可能なことである、という観念を抱いているからである。だからできることは自分自身がこの世をどう捉え、そのなかで自分は何者なのかという自己の思考に浸りきりしかない、そう思っている。思考のプロセスの媒介として、法然の本願や専修念仏がなぜあらねばならないのかが解っていないし、またそれを排除する論理も持ち合わせていない。本棚で横になっているテキスト類をきちんと学習せねばならない。
 本書の表紙カバーには小熊英二『<民主>と<愛国>』のそれと同場面の写真が使われている。1947(昭和22)年12月広島、天皇が壇上に立ち右手に帽子を持って掲げ、群衆が天皇を仰ぎ見ている。群衆の背後には破壊された原爆ドームがある。本書では左側後方に鳥居があるが、小熊の著書にはそれがない。阿満の天皇へのスタンスを象徴的に表しているようである。

 <志賀重昂 『新装版 日本風景論』(講談社学術文庫、2014年、初出1894年)>:明治27年から版を重ねている。著者は日本の地理学の大家であり国粋保存主義者。古典日本文学を多く引用して自然を紹介しその美を賛える。3度にわたって世界を旅しており、日本を賛美する。諸論では「要するに英国の人、その国にありては紅楓を描写するあたわざるもの、英国の秋たるなんすれぞ日本の秋と相対比するに足らんや」(14頁)と、また「・・・、シナ人、朝鮮人は『鶯花』の真面目を知覚せざるもの。欧米諸邦にいたりては、初め春に梅花なく、晩春に桜花なきところ、その春なる者、畢竟言うに足るなきのみ」(22頁)とも。梅があって桜を出せば、富士山にも論を述べ、「富士美は全世界『名山』の標準」(103頁)と言い放つ。火山の項においては、「日本は、ラボックのイギリスに艶説するところをことごとく網羅しつくして、これに加うに天地間の『大』者たる火山のいたるところに普遍するをみる。一活火山だにあるなきところにおいてすらなおかつ『全世界中の多様多変なる風景を呈出す』と艶説す、なんぞいわんや日本をや。浩々たる造化がその大工の極を日本にあつめたりと断定する、いよいよますます僭越にあらざるを確信す」(180頁)、続けて、「ああ造化の洪炉や、火山、火山岩を多々陶冶して日本人に贈賜す、これを歌頌せずこれを賛美せざるは、咄々日本人の本色にあらず」(195頁)と日本の自然とそれに向き合う日本人の芸術性に枠をはめる。「日本は山岳国なり、ゆえにこの国に生産せし民人は、平常その雄魁にしてかつ幽黯なる形容を覩目し、また風雨晦明、四時の変更万状なるを観察し、自ら山岳をもって神霊の窟宅となすの乾燥を涵養す。・・・・(諸山があげられる)・・・みな神もしくは仏を祀り、・・・・特に火山はもっとも雄魁変幻に、自然の大活力を示現するをもって・・・・・(諸山があげられる)・・・・の大権現、明神もしくは神社なるもの、みな火山をもって神仏の棲息場のごとく仮定するがゆえのみ」(270頁)と論じる。しかし、火山からこのように神仏へ論を広げるのは些か短絡的と思える。
 「この江山の洵美なる、生殖の多種なる、これ日本人の審美心を過去、現在、未来に涵養する原力たり」(337頁)から、「近年来人情醨薄、ひたすら目前の小利功に汲々とし、ついに遙遠の大事宏図を遺却し」(337頁)ている時代を歎き、だからこそ「日本風景の保護」(337頁)を強く主張した。
 1863(文久3)年に生れ、札幌農学校に学んだ著者が日清戦争のただなかに刊行された本書。文章を読むのに、また熟語を理解するのに肩が凝る。まして引用されている歌や漢文には眼は素通りする。それでも明治27年に刊行された時代は江戸の文化が薄らぎ、世界に肩を並べ追い抜かんとする勢いの中にあって、このような著作が刊行され、版を重ねたことに、明治という時代を微かにではあろうが時間できる。その意味において好著である。

2019年4月29日月曜日

南会津・白河への旅行、「平成の・・・」、ミステリー1冊

 25-26日は高校同級生9人による南会津・白河への旅行&宴会。往路はTaHiと在来線(東武線と東北本線)に乗り、新白河駅12:40集合時間より1時間早い到着を目指し、春日部駅で彼と合流。ボックス席ではないため、持参のアルコールを飲み始めたのは乗客が少なくなり、目の前が空席になってから。ボックス席になったのは黒磯で乗り換えてからで、そこでようやく1升瓶の栓を開けた。新白河駅で5人が集合し昼食(白河ラーメンが不味かった)。12時40分に全員が集合。3台の車に分乗し高原口から出発。
 初日のルートは、戸赤ジロエモン滝-戸赤の山桜(まだ殆ど咲いていなかった)-塔のへつり-日暮の滝観瀑台-観音沼森林公園-甲子大橋/剣桂展望台(通過してちょい寄りしただけ)-宿。西郷村五峰荘では18時45分から宴会。この宿は規模が小さく(全17室)、他の団体客もいなく、綺麗で、18歳の女性スタッフが可愛く、快適であった。部屋飲みを経ても持参の3升は空にはならなかった。
 2日目は朝から雨。ルートは、座頭ころばし展望台-雪割橋展望台(事前に調べていた風景と違い建築中の橋が増えていた)-白河小峰城-南湖公園-すずき食堂で昼食(ラーメン)-白河関跡-ここでKaMaは自宅まで近いので帰路に着く-新白河駅で解散。
 新白河駅は電子マネーに未対応。出るときはスタッフに決済してもらう。入るときは切符を現金で買えと言われ、電子マネーを使うときは対応している駅で一旦改札を出て買い直すしかないと言う。TaHiの機転で新白河では最低料金140円の切符を買い、久喜駅で改札橫に行くといとも簡単に処理してくれた。新白河駅での対応に不満だったが、地方に行くときには要注意。

 「平成の・・・」「平成最後の・・」がやたらにテレビで流れる。天皇が変わる、併せて元号が変わるということにさほどに意味を見いだせないから、この騒ぎが理解できない。慶応-明治の変わりは日本史上の大きな画期であるが、それ以降は単に天皇と元号が変わるということでしかない。

 <真保裕一 『おまえの罪を自白しろ』(文藝春秋、2019年)>:衆議院議員の孫が誘拐され、解放の条件は該議員に対して「おまえの罪を自白しろ」。国会議員と長男の県会議員、次男の秘書、女婿の市会議員、政治家や警察の言動が描かれる。職務に真摯に向き合う県警刑事が犯人を追い、彼以外には正義は見られず、自己保身と権謀が蠢く。誘拐犯人に大義名分はなく、犯罪隠蔽が目的。政治家どもを登場人物にすればこういうパターンがもっとも当てはまるのであろうが、すっきりとした読後感はない。

2019年4月23日火曜日

スマホ不具合、人間ドック、小説、マンガ

 21日、以前より度々おきていたスマホのトラブルでauショップへ行く。不具合は、相手からかかってきた電話でこちらからの声が相手には聞こえないこと。その後、こっちからかけても聞こえない場合があることが判明した。auショップでは再現できなかったが、結局SIMカード交換で様子をみることになった。月に1回ほどの頻度でこのトラブルはあるらしく、SIMカード変更で対応しているらしい。
 22日、人間ドック。毎年この時期になって病院に行くと1年の移ろい、季節の変わりを感じる。帰宅途中に大滝酒造で日本酒九重桜を2本購入。帰宅後8日ぶりに飲酒。日本酒ではなく、だらだらと6時間ほどかけてアルコール入り蒲萄ジュース-通称ワイン-を1本空けた。スマホ、今度はメールが見られないし送れない。SIMを認識しないのでauサービスが全く機能しない。webでは問題ないし、電話もOK。しかしスマホのメールはサーバーまでは届くので、送った方は届いたものと認識してしまい、これは非常にまずい。
 23日、またもやauショップへ行く。再度SIMカードを交換し正常となる。SIMカードの不具合はままあるらしいので今回はそれに当たったらしい。なんでこんなに度重なるのか、と愚痴るが致し方ない。ビールを飲んでハイボールを飲んで昼寝して、といつものパターンの午後。これをブログにアップしたらまた飲もう。

 <原泰久 『キングダム 54』(集英社、2019年)>:まだまだ朱海平原の戦いは続き、やっと最終日に入る。王賁は討たれ瀕死の状態に陥る。延々と続く戦いの場面には倦いてきた。最近公開された実写版の映画には興味なし。

 <ちばあきお+コージィ城倉 『プレイボール2 5』(集英社ジャンプコミックス、2019年)>:夏の予選3戦目の相手は聖陵高校。1年生イガラシが先発になるが、彼の心の中は井口への対抗心で一杯になる。好投を目の前にして谷口のプランはずれ始める。

 <柚月裕子 『慈雨』(集英社文庫、2019年、初刊2016年)>:足利事件(DNA鑑定不一致による冤罪)にヒントを得てこの物語を創ったものと思う。退官した元刑事が夫婦二人で四国88箇所お遍路で寺を巡る。歩き始めてまもなく群馬県で少女誘拐陵辱殺人事件が起きる。それは16年前に発生した事件と酷似している。16年前に担当したその事件では逮捕され刑務所に入った男の無罪を確信したが当時は沈黙を守り、その罪の意識に辛苦し贖罪の意味を込めて四国を巡っている。かつての部下であり、養女の恋人でもある刑事と、その上司でもあり主人公の上司でもあった課長と連絡を取りながら現在の事件と過去の事件を推理し、解決へとたどり着く。
 軽自動車をトラックに乗せる手段が具体的に描写されていないのが不満。また、寺巡りでの描写が続き少しばかりうっとうしい。
 ハードボイルドを期待して読んだがそうではなく、若干肩すかしを食らった思いがある。終わってみれば、主人公の真摯さ、気遣いがあり明るい妻、娘への愛情溢れる思い、前向でできのよい元部下、等々の人物配置で、最後は慈しみのある雨の中を歩き始めるところで物語は閉じられる。よく練られた感動ミステリーとでも言うのだろうが、イステリーに組み込まれた陳腐な安手の人間ドラマともいえ、物足りない。

辺境人の質問

 ブラックホール撮影成功に関してアメリカ政府の国立科学財団にて会見が開かれ、そこで高校生の女性が次の質問をした。
今回のことは、科学界の国境を越えた協力による大きな功績だと思いますが、今後こうした共同作業は科学界においてひとつのモデルとなるでしょうか。なるとすれば、どういう課題があり、私たちには何ができるでしょうか。
次に質問したのはNHK記者の質問。
私は国際共同研究に関して質問があります。今回の成果が突出した共同研究であることは理解しております。それぞれの国、特に日本がどんな貢献をしたのかについてお聞かせください。
そして、
NHK記者の質問の最後の言葉「especially Japan」の言葉が場内に響いた瞬間、場内のあちこちから他国の記者の笑い声が漏れた。
「Japan Today」は4月12日に「NHK reporter laughed at for asking black hole team for more on Japan’s contributions」と見出しをつけたニュースを配信。
一方、女子高校生は
パネラーから「That’s a great question」との言葉をもらっていた。
以上、引用は「LITERA」から。

 この記事を読んだときに思い出したのが読み終えたばかりの内田樹『日本辺境論』に書かれていた内容で、上記同様に引用する。
「日本は世界に冠絶するすばらしい国だ」と揚言する人がたまにいます。けれども、かれらはつい日本がいかにすばらしい国であるかを挙証してしまいます。
「世界に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない」、それが辺境の限界です。
要は、辺境人の視座は世界観に立つ位置にはなく、世界の中でどこの位置に立っているのかを確認したいと言うことである。でもそれをただ「日本メディアのお粗末さ」を指摘するのではなく、そういう性癖でものを見てしまうのだと自覚することであろう。例えば「わが日本は世界各国とともに貢献したと思うけれど、今後起こりえる課題に対し、どのように立ち向かっていけばよいのか」というような質問ならば少しは場内の笑いを抑制できたのかもしれない。

2019年4月19日金曜日

新書(3/3)

 <内田樹 『日本辺境論』(新潮選書、2009年)>:大別すると3つの幹があって、①日本には建国の理念が(アメリカと違って)なく、②日本は(中華思想の蕃国である)東夷の辺境にあり、③日本語は表意文字と表音文字の特殊性がある、というもの。納得できる論理展開である。しかし、戦艦大和で死んだ青年士官が残した言葉についてはすんなりと受容できないで抗う気持ちがある。それは別のノートにメモしておいた。
 建国理念がないから日本は建国を神話に遡るしかないし、文明の中心にあった中華からは遠く離れた辺境の蕃国であるから(しかも朝鮮とは違って海を隔てた遠いところ)、新しいものを素直に受容し、独自に加工してきた。それはそうだろうと思う。
 いいのか悪いのかではない。日本は右を見て左を見て「きょろきょろ」として我が身の立つ位置を確かめ、外部からくる新しいもの、あるいは支配的な権力を素直に受け容れ、屈託のない態度で無防備になり、親密さを示す。例えば古くは、中国からきた漢字を真名とし、本来の土着的言葉を仮名としてしまう。また、(これは記されていないが)敗戦後1ヶ月後には『日米会話手帳』を発刊し、ベストセラーになったし、明治維新時や敗戦直後には外国人の男性に対して売春組織を早々に作りだした。
 これが日本人だと言い切るのには一部の階層でしかないサムライを代表させ、全日本人を包括する日本人や日本文化については原典や祖型がないので、同一の主題を繰り返して回帰する。だからなのだろうか、自分もまたその回帰する主題について本を読み続けてしまう。
 「「何が正しいのか」を論理的に判断するよりも、「誰と親しくすればいいのか」を見きわめることに専ら知的資源が供給され」、「自分自身が正しい判断を下すことよりも、「正しい判断を下すはずの人」を探り当て、その「身近」にあることを優先する」。このように「外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている」。そのような人間を著者は「辺境人」と呼んでいる。この行動パターンは勤めていた会社で何度も体験的に見てきた。
 また、設計的実験的に多湿状態下で製品に不具合が生じるのは予想できていて、実際にフィールドでトラブルが多発したとき、該システムを担当していた設計者はこのように言っていた、「予想はしていたが、フィールド・ローンチ時にそれを言える空気ではなかった」と。これは敗戦時に東京裁判で被告席に立たされた旧日本軍人が言っていた「個人的には反対していたが、ああせざるを得なかった」という発言と同質である。
 書けばきりがないし発散してしまう。
 「日本は辺境であり、日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できるというのが本書で」著書が「説くところであり」、「本書が行うのは「辺境性」という補助線を引くことで日本文化の特殊性を際立たせることで」、「この作業はまったく相互に関連性のなさそうな文化的事例を列挙し、そこに繰り返し反復してあらわれる「パターン」を析出することを通じて行われ」ている。いきなり日本は辺境であるとドスンと眼の前におかれ、あとはその「辺境性」たる事例をあげているので明快で分かりやすい。しかし、前提をドスンと置いてあとはその前提に即した事例を展開するのであれば分かりやすいのは当たり前とも言える。本書において反論するのは難しいだろう、なぜなら日本は地政学的に(中華に比して)辺境ではないとは言えないだろう。部分的な箇所を取って非難するかもしれないが(例えばヒムラーの言質を取上げている箇所)、著者は、「はじめに」の最後に、予想される批判を述べ、その上で「どのような批判にも耳を貸す気はない」と宣言している。この姿勢、武道家らしいのか、刀を抜く前に雑魚を叩っ切っている。

新書(2/3)

 <佐伯啓思 『反・民主主義論』(新潮新書、2016年)>:民主主義ってそんなに素晴らしいのか、民主主義の最たるものの多数決って暴力の一形態ではないのか、そんな思いは小学生の頃から抱いていた。それは、生徒会長を選ぶ選挙を控え、このクラスからは誰を選ぶのか多数決で決めようと担任教師から指図があった。誰々さんがいいとかの意見の発言は多少はあったとは思うが、なぜこのクラスで一人を推薦し、決めなければいけないのか、1人ひとりが別々に決めればいいだろう、と違和感を強く覚えたことを今でも記憶している。
 また、給与所得者であったころ、企業内でも「民主的に」業務配分を行い、「個々が納得できるように」業務を説明して欲しいなどと、まだ経験の浅い設計者が上司に申し入れていたことがある。自分の配下ではなかったが、乱暴に言えばむかついた。多分に「民主的に」という言葉に自己陶酔していたと思う。自己能力の未熟さを棚に上げて、どこかで聞いたかっこよさそうな「民主的」を唱えれば強い武器を持ったと勘違いして自己を高みにおけるという満足感は得たのであろう。
 本書では民主主義を核として、政治・憲法(護憲)などが論じられる。
 誰だったか覚えていないが、政治における選挙とは美人投票のようなものだ、誰が一番美人とされるかその候補者に投票する、といったことのようだった。いい得て妙である。その選挙を実行する多くの大衆とは、「多様な意見に基づく議論でもなければ、熟慮や熟議でもない、どこかで聞いた話や、ちょっとした情緒的なフレーズに飛びついてそれを政治的意志と思い込んでいる巨大な集団」であり、その選挙でもって「民主的」に選ばれる政治家というのは、「世評や人気に依存」しており、耳あたりのいい空疎な言葉を発し続けるのであろう。だからちょいと政治的な事象に触れると浅薄な言葉が口から出てしまい、その失言とか、自らの言うバカさ加減も自分では理解できずに、「民主主義」の原則に則って役職を離れたり辞職するのであろう。プラトンの批判「衆愚政治」はいまも払拭できないでいる。
 「日本には、アメリカのような、民主的な世界秩序を形成するという歴史的使命のごとき大きな世界観も歴史観もありません」は、次に読んだ内田樹『日本辺境論』とも繋がる。

新書(1/3)

 令和の大合唱。西暦から元号に変換する作業が追加され面倒になる。「令和」を最初に目にしたときは瞬時「りょうわ」と読んだが、はて「りょうわ」なのか「れいわ」なのか、どう読むのか戸惑った。今後はいろいろな手続きをするときの生年月日を記入する欄にM・T・S・Hに加えてRが追加されるだろう。年代の運用主体を元号とし、提出書類にMTSHを印刷してある役所や企業では、書類フォームの新規製作が必要となる。何という無駄であろうか。
 先日自動車運転免許更新で警察署に行ったとき、提出書類に生年月日を記入する欄があり、とっさに元号ですか西暦ですか、とたずねたらどちらでも構わないと言われた。国家の公的機関の最たるところで元号と指示されなかったことに少しばかり意外な思いを抱いた。

 <中島義道 『反<絆>論』(ちくま新書、2014年)>:東北大震災の後からあちらこちらで「絆」が人の口から発せられ、メディアでも何度何度も報道され、いまになっては人間の麗しい活動の象徴として定着した感がある。身近にいる中学生の部活報告のレジメにも「強い絆をもつことができました」のような意味を書いて体育館に展示していた。
 悲惨な状況下で立ち直ろうとしている人びとに向かい、この一文字で未来を総括してしまうような言動に違和感を覚え、ましてそれを集団で唱えることに尚更にある種のキモチワルサを感じる。それは、「<絆>とは麗しいことばである。だからこそ、そこには人を盲目にする暴力が潜んでいる」のだし、「あのとき死んだ一人ひとりが、それぞれただ一度の死を死んだことが覆い隠され」てるからである。「<絆>は本来、けっして無条件に善いことを意味していないのに、今回すっかり相貌を変えて絶対的に善いことになっていまった感があ」り、「絆」という言葉に内包される意味の拡がりが狭まってしまった。「言葉がこういうふうに変貌するとき、そのマイナス面が消し去られ、すべてが明るい光のもとに照らされてあるとき、われわれは警戒しなければならない」。
 個々の視点を無視して、あるいは気付かないふりをして、みんな一緒に頑張ろう、みんなも頑張っている、あの人も頑張っている、さあ、皆で強い絆で先に進もうと唱えるこの方向性にはちょっと待ってよと抗いたい。これを声高に唱える人は、恐らく「「こうすべきだ」ということと「私はこうしたい」ということの恐ろしいほどの重なり」を自覚せずに、「意識の下層での「自己満足」」を吐露しているのだろう。
 本質を突いていると感じ入った言葉は、「お互いの「わがまま」を認め合う精神」で、続けてこう記している、「自分の「わがまま」を抑えつけていると、他人の「わがまま」も受け容れがたくなってくるであろう」と。いい言葉である。

2019年4月17日水曜日

情報誌購読継続中止、マルムスティーンの最新CD購入

 かなり前から送付されていた情報誌の購読継続をやめた。人間の営む状況は様々に様相を変えてはいるが殆どは本質的に同質の繰り返しでしかなく、ならば、身の周りの現実は一つの完成形であろうと受容するしかない。人びとの欲望や善意など、人間のあらゆる営みの基底は、少なくとも自分が意識する時代から今日まで何も変わることはなく、物質文明の発達に伴いそれらに融合させて外貌を変化させているだけである。だから現在諸処で生じる事件と言われるものもその表層を知るだけでいいのではないか。仔細を知ったところで何になるのだ、という思いである。それらを知ろうとする時間と費用は別のところ-例えば本質的なものやそのあり方-に向ける方がよい。この年齢になると残っている時間は然程ないのだから。

 Yngwie Malmsteenの最新アルバムBLUE LIGHTNINGを購入。随分前にチェコフィルと共演した「エレクトリック・ギターとオーケストラのための協奏組曲 新世紀」以来のCD。近寄りがたい、別世界に響き渡る超絶演奏に距離を保ちながら聴いてみる。While My Guitar Gently Weep、Paint It Black、Smoke On The Waterなど往年のヒット曲のカバーもあり、原曲とは異なる演奏を味わう、ある種のカタルシス作用。

2019年4月12日金曜日

本3冊、他

 <森達也 『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』(講談社文庫、2018年、初刊2013年)>:この世の色々な世事についての評論。書名の箇所だけを取上げれば、「死刑制度が被害者遺族のためにあるとするならば、もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのですか」という問いかけである。
 犯罪者に対し厳罰化に進まないノルウェイの考え方、死刑を実施している州の死刑への対応、それらに比して明治以来絞首刑が維持されている日本とこの国の最近の厳罰化への傾向について考えさせられる。死刑に関しては、仇討ちを認めればいいと論じていた呉智英の主張を思い出す。しかし、その際も天涯孤独の犯罪者へは誰が仇討ちをするのだろうか。
 日本では改憲が一度もなされていない、日本以外の国では何度も改憲されている、と主張する人がいるがそもそもシステムの異なる国と比較しても意味がない。改憲は常に俎上にあげられてもいいと思うけれど、今の日本でどこまで真摯に、本質的に議論できるのかは甚だ疑問である。そいう意味では今の改憲には肯けない。
 実態のない集団名で語られるものは容易に本質から目を逸らして責任もあやふやになることは日常的にどこででも、勤務先でも観察されることである。
 「表現の本質は欠落、つまり引き算にある」とすることに得心する。流れるニュースには色々な加算がなされている。コメンテーターと言われる人たちが彼らの感情や意見を加えることに苛立ちを覚えるし、面白おかしく日本語をかぶせて外国人の言葉を流すのも好きではない。本書で知ったことだが、2004年頃から北朝鮮の一般国民が金正日について「偉大なる首領さまである金正日同志」としてボイスオーバーするようになってきたということらしい。今は金正恩を語るときに必ず「我等が偉大なる指導者・・」云々と流れる。朝鮮語を知らないからそれが事実なのか否かは視聴する側としては判断できない、それどころか原語は一切出てこない。別に北朝鮮や他国に関心は希薄であるけれど、我々は一体どのようなフィルター、あるいはアンプリファイヤを通して聞かされ、見せられているのだろうか。

 <與那覇潤 『日本人はなぜ存在するのか』(集英社インターナショナル、2013年)>:書名に「日本人」とあるが、日本人固有の存在を探る内容ではない。キーワードは「再帰性」。一般的な考え方である”因果関係”で現実と認識を結びつけるのではなく、認識論的な考え方である”再帰性”で現実と認識をループさせる。日本人とは、国籍とは、日本文化とか、・・・すべては再帰的な存在であるから普遍性も絶対性も不変性もない。「「日本人とはなにか」という問題は、「人間は再帰的にしかその定義を出しえない」というもう一回り大きな問題の一部」」である。簡単に言えば、当たり前として見られていることに当たり前として断定できるものはない。現実と認識はたえずループを描いているということである。認識論の入門書。

 <北村良子 『論理的思考能力を鍛える 33の思考実験』(彩図社、2017年)>:<第1章 倫理観を揺さぶる思考実験>では「暴走トロッコと作業員」系、<第2章 矛盾が絡みつくパラドックス>は「テセウスの船」・「アルキメデスと亀」、およびタイムマシン系が載せられている。ここまでは殆ど知っている思考実験の課題であり、<第3章 数学と現実の不一致を味わう思考実験>では知っているものもあれば初めて知る問題ある。この章では「モンティ・ホール問題」(同型の3囚人問題が有名)から始まって「ギャンブラーの葛藤」「トランプの奇跡」「カードの裏と表」など確率論的な問題が中心となる。この章では頁を開いたままにし、無謀にも数学的に解こうと試みることが多くなるが、数式を使っては解けないので実際は心理的な側面で考えるのが主となる。最後は<第4章 不条理な世の中を生き抜くための思考実験>。
 小説や歴史書、評論などの活字を追うのに疲れて、あるいは倦きたときの口直しといった案配で開いてみた本。「思考実験」をウェブで探せば沢山ヒットし、好みのものを選択できるのであえてこの本は買う必要はなかったようである。

 「忖度」副大臣が更迭され、桜田五輪担当相が辞任した。両者のニュースを見ていると呆れると共に滑稽である。桜田前大臣は言葉を発する度に、あるいは官僚のアシストを求める度に嗤ってしまうし、前の金田法相の域を超えて歴史に残るお笑い大臣として記憶に残るであろう。失言とかのレベルを超えて単にバカ、無能なだけである。まあ、両者だけでなく他にも沢山おそまつな大臣はいた。
 桜田議員の資質を問うよりも何故にあのような人が市議-県議-国会議員として選ばれるのか、そこに大きな問題がある。選挙に立候補するのはどんなバカでも勝手であると思うが、それが選ばれるという根本的欠陥が現選挙システムにあると思う。それから桜田を「裏表のないいい人なんだけど・・」と評する人がいるが、裏表がないのは換言すれば裏も表も選ぶことができない、頭の中に抽出しが一つしかない貧弱な教養と感性の鈍さ、浅い想像力の裏返しとも言える。簡潔に言えば単純無知(恥)、決して純粋無垢ではない。

2019年4月11日木曜日

雑記

 70歳になってしまった。まだ若かった頃は70歳というともうかなりの高齢で、その年齢になる自分など想像だにしなかった。いざこの年齢に達してはみても、納得するほどにこの世の中を知ったとは言えないし、だから諦観に浸る境地にも到らない。種々なことへの関心や好奇心も消失しないし、それらの範囲内ではあるが知識欲もある。できればその姿勢だけは持ち続けたいと思っている。

 秋田の酒粕焼酎Black Stoneを買って飲んでみた。アルファベットのネーミングには抵抗があるが、アルコール度数41%とウィスキーなみのこの焼酎、結構うまい。

 SoundWarriorのPS10(パワーサプライ)が3月に発売され、購入。これで城下工業のデスクトップSoundWarriorシリーズはすべて揃えたこととなる。それに伴ってレイアウトを少しだけ変更。1つの電源コードが増えた代わりに5つのそれが不要ととなり、電源配線が少しはすっきりした。
 オーディオ機器を都度買い足し、それに伴ってラックも安価に継ぎ足しているためにレイアウト全体が統一感の乏しい様相になっている。それが少しばかり不満ではあるが、こればっかりはしようがない。本来、満足とは制限された自由の中で得られるものであり、いま以上を望めばそれは身の程知らずの勝手な振る舞いになろう。

 送り返された32冊の本を前回とは異なる業者に送付した。28冊が買取対象でほぼ予想通りの金額が振り込まれた。

 相変わらずの踵の痛み。医者は体重を減らし、歩くときは痛みがひどくならないようにしろという。しかしこの弁には矛盾がある。一般的にはダイエットにはウォーキングを奨められ、逆に痛まないようにはウォーキングを抑制しろという、これって”ヤマアラシのジレンマ”に似ているか。

2019年4月5日金曜日

長編小説2冊

 <白石一文 『プラスチックの祈り』(朝日新聞出版、2019年)>:出版社のキャッチフレーズは、「作家・姫野伸昌は妻・小雪の死を境に酒浸りだったが、突如周りで不可思議な現象が起き始め、やがて自身の肉体がプラスチック化し脱落し始める。姫野は天罰と直感するが、しかしなぜ? 微かに残る妻の死の記憶──。読者に挑戦し、挑発する先の読めない展開、圧巻のノンストップ問題作1400枚超!」
 どう捉えていいのか戸惑いながらも、どう展開していくのか、作者どのように小説を閉じようとするのか、そんな気持ちを抱きながら読み続けた。
 小説の中の文章を引用して(無理矢理)姫野の思いを作文してみる。
 「いかなることにも必然は存在する」(426頁)この世界で、「自分自身の意識や認識が信じられなくなってしまえば、人はどうやって生きていけばいいのだろう?」 「自らの観察力、判断力、思考力をどの程度信頼していいのかがもう分からな」(43頁)くなる。結局のところ、「世界とは、人間ひとりひとりが手前勝手で野放図に見ている無定見な夢-60年近くを生きてきて、それが正直な実感」(282頁)である。
 「人間の記憶というのは、これだけは間違いないと信じているものであっても何らかの要望で自分の都合のいいように改変されているのが常」(492頁)であり、「記憶の操作も、全身のプラスチック化もそどのつまりは、「自己の物語」の中の「物語を書く」という中枢部分を何としても守るために起きたように思える」(590頁)。「プラスチック化という理解不能の現象が絡みつくことで、物語はかろうじて新しさを獲得し、独自性を発揮しているように思える」(631頁)。「この世界がもともとプラスチックのような、ものではないのか?」(632頁)。この世界で、「人間は、自己意識によってプラスチックをいろんな事物に仕立て上げ、それらを繋ぎ合わせることで更なる自己意識を編み上げていく。そうやって連なり続けていく自己意識を、我々は「私」と呼び「私の人生」と呼ぶ」(633頁)のである。

 <栗原康 『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店、2016年)>:この人の写真を見ると自然に伊達公子さんの顔が浮かんでくる。
 野枝は奔放でわがままで、そのうえ頭脳明晰であったろう。大杉栄と共に甘粕憲兵大尉に虐殺され(蹴られ撲られ肋骨も折られ首を絞められて)、前夫の辻潤は放浪して60歳でシラミにまみれて死んだ。野枝は18歳で辻一を産み、28歳までに三男四女を産み、末子のネストルを産んだ翌月に「国家の犬ども」(犬がかわいそう)に殺された。
 本書、独特の文体で、かつ筆者の思いが濃縮されてちりばめられ、引き込まれた。もちろんそこには既成概念にとらわれない、時代の先を進む野枝の魅力があるからである。
 「死んでしまえばもうすぎたことよ」と世を上手にわたる世知ある人はいうけれど、実際は何時までも執拗くべったりと死者をも抹殺する。野枝の墓(墓石ではなく石)は、今も今宿の世間から嫌われていて、人の訪れない山中にひっそりと隠されておかれている。もちろんそれは大杉栄とても同質の扱われ方である。
 大正時代には惹かれる。明治から昭和への、オアシスになれきれなかったけれど砂漠のなかに緑の樹木を屹立させて水を漑ごうとした、ぽっかりと空いた休憩場所のような気がする。この表現はまだ大正時代を掴みきっていないからこそ情緒的に言っているだけのことかもしれない。

雑記

 31日、上野で高校同学年同窓会の花見。客人の女性2名を加え、最後は一人が追っかけ参加して総勢9名。夜9時ちょい過ぎに帰宅。
 翌日、踵がとんでもなく痛く、足を引きずって歩く羽目に陥る。
 この日4月1日には新しい元号が発表された。興味が殆どない。外資系の会社に勤務していたせいもあり日常的に元号を使うことはなく、使うとすれば公的機関で書類を申請するときで、往々にして今年は平成何年かと確認することも多かった。元号には賛否両論がある。まぁ三者三様、十人十色、百人百様、千差万別、人によって捉え方感じ方は違う。オレはこういう理由でこう思うと言えればそれでいい。
 3日、森美術館-毛利庭園-ミッドタウン・ガーデン-北千住、と巡る。森美術館の催し物は理解できない、というか自分の興味の枠外。毛利庭園は日本人よりも外国の人が多い。三渓園を歩いた直後のこともありとても狭小と感じた。ミッドタウン・ガーデンは桜が満開で綺麗。観桜する人たちが多い。途中からまたもや踵付近が痛くなり、帰宅時はかなりの痛みがあった。暫くは歩くことは控えることとし、土曜日の上野での飲み会も断わる旨のメールを送信。
 4日、免許更新。500mほどの距離ではあるが踵が痛むことを心配して車で行く。70歳の講習は受講済みなので短時間で新しい免許が交付された。更新するたびに写真には年齢を重ねた自分がある。
 昼、食前酒として鳥飼を飲む。吟香と謳われているように香りゆたかな米焼酎は美味。しかし長く飲み続ければ倦きてくる気もする。いろいろな酒のメニューに加えておけば楽しめる酒である。
 月曜日に古本買取業者に着払い送付した段ボールが今度は元払いで送り返されてきた。買取査定システムの不具合で査定ができなくなったとのことで、おそらくは「2日で査定完了」をうたい文句にしているポリシーに反するための処置であろう。
 5日、午後は、本がつまった段ボールを別の買取業者に送った。午前中は娘の娘のピアノ発表会。例年ならば歩いて往復した会場まで今回は車で往復した。

2019年3月28日木曜日

10ヶ月ぶりに整形外科へ

 踵と足の甲に痛みが続いている。歩くと時折痛くなる。25日は三渓園に到着したときから痛みが出てきた。普通に歩けるからずっと放っていたがさすがに気になってきた。以前ジョギングをしていたときや数年前には右足の踵まわりが痛くなっていた時期があるが、今度は左足。整形外科に行ってレントゲンを撮ったら素人目にも分かる踵骨棘。たしか右踵が痛いときもそうだった。体重を下げるようにと医師からいわれたが、この年齢になると、いろいろな症状の原因には「加齢」と「体重」と言われることが多い。甲の痛みは筋ではなく骨であろうと言われるが顕著な原因は分かっていない。鎮痛剤をもらうほどではないので貼り薬のみ処方して貰い、暫くは足に負荷をかけないようにし、ストレッチも少しはやって様子をみることにする。以前同様に何とはなしにそのうちに痛みは消えるような気がするのだが・・・。

2019年3月27日水曜日

暇つぶしに三渓園へ

 25日、暇つぶしに横浜/三渓園に行く。10日程前にテレビの「路線バスで寄り道の旅」をながめていたら三渓園が映し出されていて、思い立って連れ合いと二人で行ってきた。横浜駅東口から本牧車庫前行きのバスに乗って車窓から横浜市内をながめ、約40分後には三渓園入口で下車。料金は一律216円で安価と感じる-短距離の乗車の人は高いと感じるかもしれない。

 一人700円の入園料を支払い園に入ると、カップルの結婚衣装での撮影が4組ほど目についた。気のせいなのか、花嫁の方は喜ばしい明るい表情が見られるが、なかには、早く終わらないか、というような疲労感も漂わせている花婿もいた。
 桜はまだ咲き誇っているという華やかさはなく、幾ばくかものたりない。でも近くにこのような庭園があれば散歩がてらにこの美しい景観に身を置き、つまらない世情などから距離をおいて気分を転換し、落ち着いた心持ちになれるのも比較的容易であるかもしれない。一通り池の周りを歩き、桜を眺め、大きな口を開ける鯉を面白がる-餌をもらえるものだから人がいれば開いた口を水面に出すことが習性になっている。
 園内では最初に食事を摂ったが美味しくはなかった。歩き始めのころは広い庭園と感じたが、歩を進めて一周すると大した広さでもなく、物足りなさも感じる。でも、この庭園が私的な所有物で誰もはいれない場所であるならば、それはもう一つの閉じられた広い空間である。

 東南アジアで見られる、黄色い布に身を包んだ僧侶が二人おり、団体旅行のグループからは英語の会話が聞こえ、中国の言葉があちこちから聞こえてくる。日本人よりは海外からの来園者が多いようである。だんごや屋では会計を巡って支払いに納得できずにいる中国人の若い女性がおり、店の女性は英語も通じないし、計算も出来ないようだしと困っていた。
 帰りにバスを待っていたときもバス停では数人の日本人と、多勢の中国人がいて、将来の日本ではどこでもこのような情景が日常的になるのであろう。

 往路と同じ路線のバスに乗り、殆ど居眠りしたままに横浜駅に到着し、久しぶりに賑やかな場所に立ったこともあり、東口をブラブラし、いくつかの食品を購入し電車に乗った。

 帰宅後、疲れをほぐすために(?)、13日以来に酒精を体にしみ込ませた。12日ぶりの飲酒。さほどの量は飲んでいないがいつもよりは早い眠りに就いた。

2019年3月24日日曜日

乙川優三郎の小説を2冊つづけて読む

 <乙川優三郎 『二十五年後の読書』(新潮社、2018年)>:サブタイトルのように表紙に記されている言葉は「After Years Of Wandering The First Blow」。本作品のあとに続けて『この地上において私たちを満足させるもの』が刊行された。
 主人公は響子。学生時代から付き合いのあった男に冷たい仕打ちをうけ、旅行業界紙の会社に勤務中にパラオで谷郷(作家としては三枝)と出会い、以来妻と別居している彼とは文学を介在させて関係を続けている。会社を退社してからは書評家として評価を得ている。カクテルが好きで、コンペティションに出すカクテルのアイディアも出す。谷郷は病気になった妻の面倒を見るためにイタリアに去ってしまう。その後、「男と旅と病の人生でしかなかったのかと自嘲する気持ち」になった響子は病にもおかされ、「脱力した足首をもう一方の足で摩りながら」「同時に擦り寄ってくる自滅の不安とも闘わなければならな」くなり、スールー海に向かいそこで時間を過ごす。南海の地にいる57歳の響子のもとには、小説家になって25年後の谷郷の小説が届く。その小説のタイトルは「この地上において私たちを満足させるもの」であった。
 乙川さんの小説を読むと、いつもそうだが、人物の深いところまで見通した視線でもって情景を描写し、その豊富な語彙もあって透き通った落ち着いた文章に惹かれっぱなしになる。例えば、「平凡な器に情欲と理性をそそいで掻き混ぜると後悔というカクテルになる。ふさわしいガーニッシュは逃避か盲信であろう」。物語のなかにはめ込まれたこういう文章にはなかなか出遇わない。読んでいるなかで、ときおり文字を追う目がとまる。そして読み返す。
 響子の夢の描写が楽しめた。「あるとき夏目が「漱石論」を手に大きな欠伸をし、川端がわけもなく目を剝き、太宰がふてくされるそばで遠藤と三浦がにやにやしている。司馬に噛みついている山本に向かって、そんなことより俺がどこにいるのかはっきりさせてくれ、と泥酔した野坂がつっかかかり、私の膝よ、極楽でしょう、と宇野が答える。ふくれっつらの尾崎が「雨やどり」を読み耽り、となりで向田が「人生劇場」の会話を直している。文学などそっちのけで脱走を企む壇と水上を背もたれにして、吉行と安岡が女流の着物の下を値踏みしていると、有吉が芝木と宮尾の間に割り込んできて、なんで私を見ないのよと怒り出し、俺なんか開高に山椒魚を釣られちゃったよ、と褞袍の井伏が加わり、まあまあ、みなさん、俗念は措いて愉しくやりましょう、ぼくらも歴史になっちゃんだから、と吉村が宥める」。他にも登場させてほしい作家はいるのだが、例えば太宰をを出すなら安吾や石川淳もいいだろうし、織田を加えてもいい。庄野も、そして阿川や島尾ではひねりを加味してちょいと捩ってしまう効果も期待できたかもしれない。もっとも彼らを登場させなかったのは作者の関心の強弱差なのかもしれない。
 手軽に作れるカクテル、「ワンフォースリー」を作って飲んでみよう。「ジン、ビール、コークを1対4対3にして、氷を入れた大きめのグラスにそそぐ」のだが、この場合コークはコカなのかペプシなのか、はたまたレギュラーなのかダイエットコークなのか、と迷いがふと頭に浮かんだ。
 尚、作者は本書の装幀にも名を連ねている。続けて『この地上において私たちを満足させるもの』を開こう。

 <乙川優三郎 『この地上において私たちを満足させるもの』(新潮社、2018年)>:本書の表紙には「After Years Of Wandering The Second wave」。連作短編集の形式をとっているが、実際は一遍の長編小説である。主人公である高橋光洋は、祖父母が東京から疎開して千葉に移住しそこで生れている。高校卒業後に務めた製鉄所を若くして退職し、ワンダラーとなってフランスやスペインなどを経てフィリピンでホテルに勤務する。心臓に持病があり、若いときから40歳までを人生の一つの区切りとしていた。日本に帰国してから40歳を過ぎて小説家としてデビューしている。東京を離れてからは房総に居を構えた。この経歴は著者を反映していると思われる。すなわち、著者は東京生まれですぐに千葉県に移住したこと、内外のホテルに勤務していたこと、本書の舞台の一部であるフィリピンに関しては『R.S.ヴィラセニョール』がある。また、房総を舞台にした小説を多く書いているし、作者自ら書いているように体が弱いことも本書の主人公と同様である。
 弱者に対する著者の眼差しが優しく柔らかく、読んでいてしっとりと落ち着く。底辺の経済状況にあっても政治や世知辛い世の中を上手に世渡りする人たちを責めるでもなく、愚痴るわけでもない。おかれた状況から脱却し、未来に向かって懸命に生きている人たち、直向きに生きている人たちに心を向ける。日々を生きるための生活がある。その生活の中に自分のあり方を見詰め続ける人生がある。作者はそのような生活・人生に視線を向けていると思う。
 描かれる女性たち-急逝する早苗、常に学んでいて養女になるソニア、ミャンマーから来ている賢いウェイトレスのウィンスー、みな魅力ある女性である。そして本作も前作もそうだが、描かれる女性たちは酒を楽しむ。そのような女性たちの存在が羨ましい。
 2冊続けていい小説に触れることができて、充足感に充ちている。


2019年3月23日土曜日

雑記

 22日、5年ぶり(?)に眼鏡を新調。常時使用していたうちの調光レンズの眼鏡を壊してしまったためで、新しい眼鏡は前とは違って可視光にも反応する調光レンズにした。遠視側が少しすすんでいる以外、レンズ仕様は殆ど変わっていない。

 22日の今日で一滴のアルコールも飲んでいない日は連続9日となった。そしてそのせいだけではないが、体重も約1kg強減っており安定している。両者とも維持性には疑問がつきまとう。

 ここ10ヶ月ほど、積極的にウォーキングはせず、リビングあるいは自室で同じ姿勢を続けていることが多い。自室で小説などの本を読むときは音楽も流さない。流そうとしても集中力を削がれてしまうことが多くなった。サティのいう「家具の音楽」がなかなか成立しないようになっている。音楽を流すときは必然的に軽い雑誌などを拡げるか、何もせずに目をつぶっていることとなる。
 齢を重ねると色々な場面でのキャパシティは小さくなり、集中力の束も緩くなっているようである。

2019年3月21日木曜日

花(つづき)

 庭の樹木に咲く花をアップで撮る。蕾が開いたばかりの花は瑞々しくて美しい。枯れ木に近づいている側から見れば、弾ける若さ、振り向かれる美しさというものは変えることのできない過去を眺めるようでもある。




2019年3月20日水曜日

雑感

 久しぶりに鉱山関連のブログに書き込んだ。内容は鉱山用語とも言える「硑」の字に関する簡単なメモ。

 違法薬物で俳優が逮捕され、出演作品の公開に様々な賛否が発せられている。今日は東映が手を加えずに映画を公開することを決定し、それもまたニュースとなっている。
 俳優一人が法を犯したとはいえ何故に色々な人が関った作品を埋没、否、隠してしまうのかさっぱり理解できない。甲子園野球でも一人あるいは数人の個人的不祥事(あるいは犯罪)でその高校が出場辞退となる。他のメンバーはやりきれないだろうし、原因となった人には法以上の罪科を負わせてしまう。日本人の集団主義、同調性、画一的思考性、ムラ社会、云々という理由はあるだろうが、それらをいくら説明されても理解できない。納得できない。政官の隠蔽体質と同質同類の気がする。
 また、「作品に罪はない」、「音楽に罪はない」というコメントにも違和感がある。作品を社会から抹殺することを日本の思考性のなさという人がいるけれど、それこそ、作品や音楽といった存在にその罪を語ること自体が思考性のなさを露呈していると思う。逆に言えば、もし作品に罪がある、音楽に罪があるとするならばそれははどういうことを言うのだろう。そいう例があるのならそれも語ってほしい。すべて人間が作っているのだから問われるのは人間でなければならない筈である。
 もう一つ、作品、例えば映画で言えば、主演者が犯罪を犯して非公開になるとき、そこに出演していた主演者以外の人たちはなぜ非公開とする対応への怒りの声をあげないのだろうか。映画の中で演じた彼らの矜持-映画を見てもらってこその誇り-はどういうものだろうかと疑問を抱く。

 暖かくなった。隣の土地に梅が咲いているし、自宅の庭の木々にも花が析いてきたし、桃のつぼみも膨らんできた。




2019年3月19日火曜日

ミステリー2冊

 <深町秋生 『探偵は女手ひとつ―シングルマザー探偵の事件日誌』(光文社文庫、2016年、初出2012-16年)>:舞台の中心は山形市。あとは東根や米沢、仙台は国分町がちょいと出てくる。カギ括弧で括られる会話はすべて山形弁で、警察署員もヤクザも元ヤンキーも鋭利な棘がほんわかと柔らかい真綿で包まれている。厳しい冬のシーンや美味しそうな東根のさくらんぼも描かれて山形色満載。楽しめた。この6編、テレビでのミステリー・シリーズに相応しい-是非とも字幕付きで。その際、主人公は30代後半なので山形県出身であっても、間違ってもあき竹城や渡辺えりではなく、迫力には欠けるけれど橋本マナミならギリギリ許容範囲か。

 <横山秀夫 『ノースライト』(新潮社、2019年)>:著者の本は6年ぶり11冊目。物語を思い出すキーワードは、ダム設計/渡り/ブルーノ・タウト/椅子/親子/夫婦/贖罪、そしてノースライト-北からの光を取り入れる家。読み始めてから主人公の建築に関する思いが長く綴られる。バブルが弾けて設計事務所を退所し、拾われた小さな事務所で「あなた自身が住みたい家を建てて下さい」と発注されて建てた信濃追分のY邸には誰も住んでいない。そこで見つけた椅子がブルーノ・タウトに繋がり、そこからY邸設計発注者の探索がはじまる。最期の1/3で物語は急速に進み、人が抱える贖罪・悔恨・情愛が、それこそ朝のノースライトに柔らかく暖かく包まれる。
 前半の建築に関する記述に少々倦いたりもしたが、頁を捲る手は休まずにこの長篇をほぼ一気読みした。読書の楽しみ、人に向ける著者の優しい視線が感じられた。

2019年3月15日金曜日

雑記

 11~12日、連れ合いは友人と伊東。13日は15時からMuKoと柏で飲む。彼とは昨年の2月以来で、柏の駅は10年以上振りになろうか。14日は前日の飲み疲れで何もせず。
 パリバ・オープン・テニス、錦織はベスト16に進めず、大坂と西岡はベスト8ならず。大坂さんは勝ち負けの差が大きい。勝つときは完勝で負けるときは完敗。1stサービスが入らないとあっさりと負けパターンに入ってしまう。

江戸から東京へ、新書2冊

 <横山百合子 『江戸東京の明治維新』(岩波新書、2018年)>:章立ては、第1章/江戸から東京へ、第2章/東京の旧幕臣たち、第3章/町中に生きる、第4章/遊郭の明治維新、第5章/屠場をめぐる人びと。
 江戸から東京への変化を、政治史的ではなく、生活社会史的な視点で見てみたかった。
薩摩藩がはたらく乱暴狼藉、踏み倒しにも声を潜めて様子をみていた江戸庶民は、一日で彰義隊を壊滅した新政府軍に威圧され、裃・袴で登城した武家たちの情景から、うってかわって公家たちの通勤姿を目にするようになった。大名小路に薩長が屋敷を構え、武家たちが去って人口が4割近くも減ってしまい、江戸は荒廃した。そのように様変わりした江戸で人びとが生きていたであろう時代に思いが馳せられる。本書ではそれらが小説のように具体的に活写されるわけではないが、いままでに触れた歴史書よりはその時代の人びとの生活が身近なものとして想像できた。
 より興味深く引きつけられて読んだのは「第4章 遊郭の明治維新」で、特に「第3節 遊女いやだ-遊女かしくの闘い」。越後から売られてきた”かしく”が転々と遊女屋に売られ続け、明治になって抜けだそうとして訴え続けても却下される。単にそれだけならば陳腐な悲劇の物語になるのであるが、訴えることが出来た背景、抜け出せないシステムと経営者の強かさ(狡猾さ)、等々が論じらる。次のように論じられているのは鋭いと思うし得心する。すなわち、「維新後の近代には、それまで見られた遊女への共感や同情、ある種の憧れは消え、蔑視が前面に現れてくる。そして、その蔑視のまなざしは、娼婦自身に自らの経験を消すことのできない汚点として内面化することを迫った。それは、娼婦たちを、自ら声を上げることのできない位置へと追いやっていくであろう。遊郭の明治維新は、そのような転換への出発点でもあったのである」。
 また、身分の新しいとらえ方として「身分集団」という考え方が新鮮である。いままでは支配する側とされる側という視点で見ることが多く、支配する側からの「身分的統治」に馴染んでいた。しかし、「身分集団」には強いられる自律性よりも、町中や村中に生きた人びとの自発的な自律性が感じられる。

 <松山恵 『都市空間の明治維新-江戸から東京への大転換』(ちくま新書、2019年)>:「おわりに」にて、「横山先生の御本、それに次いで本書というかたちで、できるだけ多くの人たちに手にとってらもらえたらと、切に願っている」と記しており、ここでいう「横山先生の御本」とは前記の横山百合子『江戸東京の明治維新』をさしており、それにぴったりと嵌まってしまった。横山の新書は後半は身分制へと論の転換が図られおり、松山の本書では最初から最後まで武家地がどのように変化していったのかが、地図(絵図)などの史料を用いて解き明かされる。年代の異なる地図から都市空間の移り変わりを掴み取り、そこに新政府の政策や事件を肉付けし、維新直後の江戸から東京への移行を推定していく。パズルを当てはめていくようでもありとても興味があり、自分でもやってみたい、その作業に没頭することが羨ましくさえ感じてしまう。
 「おわりに」にて、現在の政府の明治への礼賛-簡単に言えば「明治の日」制定の動き-へ筆者は強い疑問/戸惑いを呈している。その理由は明快である。「数百年にわたる江戸時代をへて始ったはずの明治という時代を」「最初からほ一色で、しかも現在(現政府の立場)からみてもっぱら輝かしい出来事の集まりと位置づけている」、そして歴史研究者の立場からは「いま起きている事態は、維新期に関するこれまでの研究蓄積の薄さが招いた結果でもあるように思われるのだ」と捉えている。明治に入り薩長中心の政権運営があり、江戸時代をネガティブに断じてそのときの政権を正当化する。それは現政権が何かにつけ、前の政権を悪夢と称し、その時からは格段に良くなっていると断定する、このパターンと酷似していると思われる。「維新期に関するこれまでの研究の薄さ」は時の政権を持ち上げ、いろいろな意味で忖度し続けた結果であろうし、そうすることで保身せざるを得なかった状況が構築されたからでもあろう。維新期は激動の時代でもあり、急進性を求まられた時代でもあり、だからこその試行錯誤もあった。そして明治20年代で江戸期徳川文化は衰退し、東京明治文化へと大きく変化したと思っている。