2019年9月3日火曜日

大学ラグビーのスタート、本2冊

 例年より早く、そして菅平での開幕となった大学ラグビー、早稲田初戦のJ Sportsテレビ中継はないだろうと思い込み、オンデマンドでの観戦となった(内容は同一)。早稲田は日体大に68/10T9G-10/1T1G1PGで快勝と言いたいが、出だしにトライされ、パスミスの多さがあってそうは言えない。早い球出しと早い展開を意図しているであろうが、パスがきちんと通らない。FWD(特に第1列)が安定的に強さを出せるのかが課題か。長田が肩を痛めて退いてからは14人で戦っていた。
 始まったばかりでまだまだこれからであることはいずれの大学にも言えることである。明治は練習試合の慶応戦・対抗戦の筑波戦ともに失トライが多く、予想よりもピリッとしない。慶応(対青学戦)ももっとトライを取れていいはずと思うのだが。

 <下川耿史 『混浴と日本史』(ちくま文庫、2017年、初刊2013年)>:「混浴の日本史」ではなく、『混浴と日本史』。著者のいろいろな著書から抱くイメージとは異なり、くだけた内容ではなく、混浴を視座にしての日本史概観といった硬質な(ちょっと軽い)一冊。
 メモ替わりのキーワードを思いつくままに・・・普通の混浴と歌垣の混浴、禊と混浴、功徳湯と混浴、坊さんと尼さんの混浴での乱行、温泉人気、江戸の男性過多と湯女の拡大、江戸開府から130年間ほどの女湯の非存在、混浴禁止令への農民の抵抗、混浴を失くすと女は女湯ではなく男湯に入る、明治になっての違式詿違条例・・・。
 やはり日本の混浴文化は明治になって大きく変化した。その点については中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか』、百瀬響『文明開化 失われた風俗』が詳しい。混浴では男(女)は女(男)の裸を見ていない、混浴の裸を見て非難した西欧人は体の線を強調した服を着ており、その西欧人の姿を見て日本人は体の線をあらわにしたはしたなさを感じた。即ち、日本での混浴は(例外はあるにしても基本的には)性行為と結び付けずに、西欧人は裸と性行為をつなげるために混浴を非難した。逆に、日本人は体の線を表す服装を身にまとった女性に性行為を想像し恥辱を感じた、と思っているのだがどうだろうか。

 <今村夏子 『むらさきのスカートの女』(文藝春秋9月号、2019年)>:「むらさきのスカートの女」を「黄色いカーディガンの女」が観察し続けて語る。最初はむらさきに異常性を見るが、頁を進めるに連れて黄色いほうがストーカー的で、二人は同一人物なのか、あるいは入れ替わるのか、ミステリアスでトリッキー。補色関係にあるむらさきと黄色を配置することにこの小説の構造的卓越性を感じる。ありうるかもしれない非現実性のなかに現実を描いていて、決して好きではないこの小説に妙に惹かれる。
 いつものように単行本ではなく、全文掲載の『文藝春秋』で読んだ。選評では本作品ではなく、古市憲寿「百の夜は跳ねて」への評価(酷評・避難)により注目した。

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