2019年9月28日土曜日

日本思想史の新論ヵ

 <中野剛志 『日本思想史新論 -プラグマティズムからナショナリズムへ』(ちくま新書、2012年)>:日本の開国とは、研究者によって異なるが、ほぼ共通する時期は幕末維新期と敗戦期にある。そして開国の歴史観として、「江戸時代と戦前の日本は「閉じた社会」という負の側面」であり、「明治時代と戦後の日本は「開いた社会」という正の側面」があって、「最大のヒールこそ、戦時中のイデオロギーとして作用した水戸学の尊王攘夷論」とされる。これらを踏まえて、本書の目的は、「戦後日本を支配してきた開国物語を破壊しようという企て」である。TPPという誤りまで引き起こすことになったのは、「戦後日本人が信じてきた開国物語の何かが、根本的に間違っていたのである」と著者は断言し、「伊藤仁斎、荻生徂徠、会沢正志斎そして福沢諭吉。この4人の思想家を直列させたとき、我々は戦後日本を支配してきた開国物語の呪縛から解放され、実学という日本の伝統的なプラグマティズムを回復し、そして日本のナショナリズムを健全な姿で取り戻すことができるのである」と論述する。あとがきにては、「「国の思想」をもたない戦後日本人の精神に都合のよいような解釈をした結果」、「現代の思想家たちの多くが、伊藤仁斎の「義」の概念を見逃したり、会沢正志斎の国体論の本質を捉え損ねたりしてい」て、「国という身体が死んでいるから、歴史を観る「眼」も死んでいる」と述べる。
 しかし、「実学という日本の伝統的なプラグマティズム」は何なのかよく分からない。「古学」がどうプラグマティズムと結びつくのかも分からない。さらに、「皇統が連綿と続いて途絶えていないことを以て」「日本の国柄の優越性を誇った」仁斎のナショナリズムを、正志斎は「一元気論と結びついて頂点に達」せたとする。そもそも、私的には、江戸時代が閉じた社会であるとか、明治時代が開いた社会とは思っていないし、明治によって日本の進むべき道を歪めたとも思っている。その大きな画期は明治20年前後にあると思っているし、その基底は、簡単に言えば、後期水戸学の流れにあると思っている。
 あとがきに、「河原(宏)や佐藤(誠三郎)には、過去から受け継がれてきた日本の「国の思想」が、確かに息づいている」、「だから、彼らの歴史を観る「眼」も生きている」とあるにはへえっと嘆息を漏らすだけである。

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