2019年9月19日木曜日

新書2冊

 <野島博之 『謎とき日本近現代史』(講談社現代新書、1998年)>:コンビニの週刊誌の隣にでも並んでいるような、いかにも安っぽい安易な書名ではある。「○○はなぜ××たか」という9遍の章立てで、単に歴史的エピソードを説明するのではなく、「日本近現代史のかかえる「なぜ」をキチッと提示」している。しかし、新書版に収めるには無理があり、内容が表面的論述に感じられ、批判的な姿勢に欠けている。例えば、「天皇はなぜ戦犯にならなかったか」の章での「免責の論理」にはアメリカを視座とした背景を端的にわかりやすく述べられているが、日本側の立場からの記述はない。戦争に負けたからと言って、勝った側の判断だけでなく、負けた側から見た天皇の「戦犯」への見解を少しはあってはよいのではないか。
 著者は予備校の講師であるから、もし本書で書かれる「なぜ」が大学入試に出題されたならば、模範的解答はこうなる、というスタンスがあるのではないかと感じたのはひねくれた読み方かもしれない。
 本書の参考文献に記載されていた『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』(百瀬孝)を古書店から取り寄せ、ついでに『事典 昭和戦後期の日本―占領と改革』(同)も他の古書店から購入した。ハンドブックのように使える。質的には異なるが、『江戸編年事典』(稲垣史生)・『武家編年事典』(同)も酒精のグラスなどをかたむけながら、時折目を通すのも、想像・空想・妄想・夢想をとばせる愉しいひとときではある。

 <田尻祐一郎 『江戸の思想史』(中公新書、2011年)>:江戸期の著名な思想家たちがほぼ網羅されたあとで、最終章に論じられる「民衆宗教の世界」(如来教・天理教・金光教・富士講など)はそれまでの章立てとは異質であるし、また、関心は薄い。どうしても明治へと続く思想の流れを意識してしまうので、後期水戸学を中心とする江戸後期からの論述に集中してしまう。当たり前のことだが本書の登場する人物たちは何度も何度も他書でも読んでいるので、自分の理解の度合いを復習するように読んだ。
 以前、法政の通信教育のリポート作成や単位修得試験のために歴史の本をよく買い求めていた時期があり、部分的に目を通していたのであるが、年数をあけてから初めて全編を通して読んでいることが多い。このような形での読書が続いている。数年間は、未読の本の在庫整理のような、このような状態が続くであろう。

 基本的に線を引きながら本を読むこととしているが、小説やエッセイの類いはキレイなままに読むことも多い。そのような本の数がたまると段ボールに入れて古本買取業者に送る。数日前にも30冊ほど処分した。巡り巡って誰かがまた手に取るのであろう。
 書き込みをして、かつ不要と判断した本、あるいは引き取り価格がゼロ円の本は廃棄してしまう。いままでに廃棄した本はかなりの量になる。以前は壁の本棚にすべて取っておいたけれど、15-6年前に大量に処分してからは、取っておく本は極めて少なくなった。年齢を重ねるとなおさらにそうなってきた。ただ、LPやCDはそうならない。もっと年齢を重ねたらまとめて処分する、あるいは家族に残すなどの手段を講じねばなるまい。

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