2019年9月30日月曜日

RWC、アイルランドに勝利

 28日のアイルランド戦、掛川市の宿舎を出発前に、ジョセフHCは英語の俳句でこう言ったとの報道がある。「誰も日本が勝つことを信じていない。接戦になるとは思っていない。でも信じられるのは自分たちだけだ」と。
 FWのパワーは世界屈指であって、RWC開始前は世界ランキング1位。勝つとは思っていなかった、接戦となる可能性もまずないだろうと思っていた。
 ライブでは見ることが適わず、ハーフタイムになってテレビをオンにしたら9-12、おぉ凄い、善戦している、・・・もしかしたらと期待が浮かんできた。リプレイを見るとアイルランドの2トライは早い時間でのキック・パスとショート・パントからであり、これが意外だった。というのは、FWの力を前面に押し出したモール・トライやスクラム・トライではなかったからで、アイルランドは日本のFWをはじめとするディフェンスに苦労しているのではないかと直感したからであって、また3PGが日本の得点であることから防禦でもアイルランドは苦労しているのではないかと思った。戦前、アイルランドは、SOが前戦から変わっていることがどう影響するかとの新聞記事もあったが、多分影響はあったのだろう。
 2nd ハーフに入ってからはもう興奮しっぱなし。福岡の逆転トライは日本のスタイルを発揮したものだし、何よりもスクラムが互角以上だし、ディフェンスが激しく、またタックル後のセットが早い。時間が経つにつれアイルランドの動きは精彩を欠いてきているし、福岡のインターセプトで勝利を確信した。
 29日、あらためて通しで試合をフル観戦した。素晴らしい試合だった。(早稲田が大学選手権で優勝した次に大興奮した。)


 試合後、アイルランドの選手達が整列して、退場する日本選手たちを拍手で送り出す。そのシーンに素晴らしい、美しい、感動するシーンだとの声(twitter)があるとのニュースがあるが、(水を差すような言い方になるが)、これはラグビーではよく見られるシーンである。別に珍しくもない。言いたいことは、一つには、このシーンは試合で負けたアイルランド選手たち固有の素晴らしさではなく、ラグビーというスポーツに通底する、ラグビーの精神の素晴らしさであるということ。二つに、花道を作ったことを強調して称え感動することに、安易に感動を求めて同調する風潮を感じてしまうことである。

 フィジーに勝利したウルグアイはジョージアに完敗し、2度目の歓喜ということにはならなかった。ランキング5位と6位のウェールズvsオーストラリア戦はランキング通りに29-25と接戦。まだまだ魅力的な試合が続く。

2019年9月28日土曜日

江戸破礼句の一端

 <蕣露庵主人 『江戸破礼句・梅の寳匣』(三樹書房、1996年)>:江戸の庶民は、ラジオもテレビもない夜、行灯の薄明かりのなかで(60wの1/50ほど明るさでしかない)、そしてその灯りとて安価な魚油からでは臭いにおいが籠る。毎日顔を合わす夫婦ともなればそうそう会話も弾まない。なれば、早々に眠りについてしまった。紐育の大停電で出産が増えたように、することが限られれば自ずと身近なところに手を伸ばすことになる。暇つぶしと快楽は常に身近にある。(・・・ここまでは本書以外を参考)。「人間は夫婦の性に現実を過ごし、淫蕩な性は観念の中で処理する」ことであって、ある種の文化はそこに生まれる。

 本書から幾つかの(好みの)川柳を抜粋してみる。

 富士山山頂の浅間神社の主祭神は木花之佐久夜毘売命、通称さくや姫、裾野は広大で、裾野の各所には江戸期より観光名所であった「風穴」「氷穴」「人穴」がある。この現実を川柳にうたった。
   さくや姫裾を廣げて穴を見せ

 鼈甲細工は簪・櫛・笄、そして張形にも及ぶ。そこで一句、
   鼈甲はいづれ毛の有る所へ差し

 浦島太郎の物語は著名だが、年老いた姿で描かれていない部分もあり、それを追補すると、
   浦嶋がへのこ即刻ちぢれ込み

 夫婦の歴史から人生への諦観を並べる。
   新(あら)世帯恥ずかしそうに紙を買い  ・・・ 始まりは新鮮
   女房と乗合にする宝船          ・・・ 姫はじめも共に味わい
   女房の味は可もなし不可も無し      ・・・ 繰り返せば倦きも出て来るし
   穴を出て穴へ入(いり)また穴の世話   ・・・ 思い起こせば人生は、、、
 無論、最後の穴は墓穴である。

 きりがないので、最後に一句、
   女の小便、徳川御三家
 徳川御三家の紀州・尾州・水戸であり、それを声に出すとキシュー・ビッシュー・ミトミトミトとなり、女の若い・年増・老女のなにに引っかけている。

 一冊まるごと上記のような破礼句が掲載されており、その情景を想像すると実に楽しめる。世の中の政や賢しらなことを笑い飛ばしてしまうことに快感を覚える。
 結びとして、一句。見れば白く、触れば冷たい昔のひとときを思い出すかも。
   地黄飲む側に大根美しい

 本書はどこかの駅構内で催された古書展で衝動買いしたもの。蕣露庵主人は近世庶民文化の研究者として著名な渡辺信一郎の別名である。

日本思想史の新論ヵ

 <中野剛志 『日本思想史新論 -プラグマティズムからナショナリズムへ』(ちくま新書、2012年)>:日本の開国とは、研究者によって異なるが、ほぼ共通する時期は幕末維新期と敗戦期にある。そして開国の歴史観として、「江戸時代と戦前の日本は「閉じた社会」という負の側面」であり、「明治時代と戦後の日本は「開いた社会」という正の側面」があって、「最大のヒールこそ、戦時中のイデオロギーとして作用した水戸学の尊王攘夷論」とされる。これらを踏まえて、本書の目的は、「戦後日本を支配してきた開国物語を破壊しようという企て」である。TPPという誤りまで引き起こすことになったのは、「戦後日本人が信じてきた開国物語の何かが、根本的に間違っていたのである」と著者は断言し、「伊藤仁斎、荻生徂徠、会沢正志斎そして福沢諭吉。この4人の思想家を直列させたとき、我々は戦後日本を支配してきた開国物語の呪縛から解放され、実学という日本の伝統的なプラグマティズムを回復し、そして日本のナショナリズムを健全な姿で取り戻すことができるのである」と論述する。あとがきにては、「「国の思想」をもたない戦後日本人の精神に都合のよいような解釈をした結果」、「現代の思想家たちの多くが、伊藤仁斎の「義」の概念を見逃したり、会沢正志斎の国体論の本質を捉え損ねたりしてい」て、「国という身体が死んでいるから、歴史を観る「眼」も死んでいる」と述べる。
 しかし、「実学という日本の伝統的なプラグマティズム」は何なのかよく分からない。「古学」がどうプラグマティズムと結びつくのかも分からない。さらに、「皇統が連綿と続いて途絶えていないことを以て」「日本の国柄の優越性を誇った」仁斎のナショナリズムを、正志斎は「一元気論と結びついて頂点に達」せたとする。そもそも、私的には、江戸時代が閉じた社会であるとか、明治時代が開いた社会とは思っていないし、明治によって日本の進むべき道を歪めたとも思っている。その大きな画期は明治20年前後にあると思っているし、その基底は、簡単に言えば、後期水戸学の流れにあると思っている。
 あとがきに、「河原(宏)や佐藤(誠三郎)には、過去から受け継がれてきた日本の「国の思想」が、確かに息づいている」、「だから、彼らの歴史を観る「眼」も生きている」とあるにはへえっと嘆息を漏らすだけである。

2019年9月27日金曜日

Rugby World Cup 2019

 日本各地でラグビー・ワールド・カップの試合が開催されている。興味ある試合はJ Sportsのオン・デマンドで観ている。各スタジアムには観客が観戦し、これは自分の予想を上回っている。三陸鉄道リアス線の車窓から眺めたことのある、端的に言って寂しい地にある釜石鵜住居復興スタジアムのウルグアイvsフィジー戦では多くの小中学生(と思われる)観客がいた。かつて存在した小中学校の跡地で開かれたワールドカップの好試合は歴史に残るであろう。前RWCで日本が南アフリカを破った試合がRWC史上最大の番狂わせと称されるのであるならば、今回のウルグアイの勝利もまた歴史上に残る大きな「番狂わせ」であろう。ウルグアイでは今後ラグビーが続く限り語り継がれる大快挙である。それに関連して、ウルグアイの名は世界中に膨らみ、同時に釜石のスタジアムの映像も何度も何度も流されるであろう。
 フィジアン・マジックの華麗なハンドリングでウルグアイを寄せつけないと思っていたが、ウルグアイの方が出足鋭く、言葉は悪いが単純で正直な真っ直ぐなラグビーを行っていたと感じ、一方フィジーは巨躯ではあるがメンバー間の連携も良くなく緻密さに欠けているような気がした。試合終了後のウルグアイの歓喜と対照的にフィジーの選手の虚脱したような姿が印象に残った。

 日本vsロシア戦での日本の戦いぶりには粗雑なプレイが目立ったが、キックのみの攻撃を仕掛けるロシアのディフェンスでは日本の展開ラグビーに抗し切れなかった。テレビ解説者が指摘していたが、あのキックのうまさに加えて左右に展開する攻撃をできるようになればロシアはかなり強くなるような気がする。松島のハットトリックは立派。次試合以降は相当マークされるであろう。途中から出た山中のロング・キックは魅力的。姫野の働きも目立った。
 次のアイルランド戦での内容で日本の真の実力が分かるであろう。少なくともベスト・エイトには進んで欲しいが、立ちはだかる国は(アイルランドは別格として)まずはサモアとスコットランド。優勝はアイルランドに期待-単にアイルランドが好きだから。ニュージーランドの次に好きなグリーンのユニフォームも、そして音楽もウィスキーも。

クミコハウス

 テレビで「世界ナゼそこに日本人」を眺めていたら、ナレーションと同時にガンジス川ほとりの「久美子ハウス」の画像が映し出されていた。見た瞬間に20年ほど前に読んだ素樹文生『クミコハウス』を思い出した。メモを記したファイルを開いたら、その本を読んだのは1999年11月12日のことであった。著者の本を最初に読んだのは評価の高かった『上海の西、デリーの東』であり、そのせいもあるのか『クミコハウス』のサブタイトルは「「上海の西、デリーの東 外伝」であった。表紙には久美子さんと思われる写真が大きくあり、テレビで見る現在の久美子さんに結び付けるには少し困難を覚えた。が、やはり、当たり前だが、丸顔のつながりは感じた。
 著者の本はこの2冊だけしか読んでおらず、『上海の西、デリーの東』には次のような読後メモを記してある。
 ・・・「これは単なる旅行記ではなく、紀行文ではなく、著者の心象を旅するにあたり、上海の西からデリーの東の地域がでてくるに過ぎない。乱暴な言い方だがそういうことだ。従って、各地のローカリティを読むのではなく、一人の人間の私小説的な内容を読むことになる。そして、内面に向けられた感性には感心はするが、アジアという場面を離れてしまえば、その感性は描ききれないし、又、深みも薄らいでくるような気がする。しかし、率直で内面を見ている姿には共感を覚える。おそらく空想癖に近いものがあり、反抗的な態度もあり、よそ目には生意気とも受け取れる不遜な面も持ち合わせているであろう。こういう人間は好きである。多分親しくはなれないであろうが、俺には常に好ましく映る人間と思える。その悩みと旅をする勇気に敬服」。『クミコハウス』の読後メモには「表紙の女性が蠱惑的」としか記していないので、多分内容的には「上海の・・・・」と同じような感想であったのだろう。
 40代後半から50代に入る頃はアジアに関する旅行記を好んで読んでいた。その頃に読んでいた本を振り返ると、現在とは随分と異なるジャンルの本を手に取っていた。当時のメモを見るとついこの間のような思いを抱く。
 冒頭のテレビ番組では『クミコハウス』については何も触れられていない。素樹文生さんは現在どうしているのだろう、Amazonを見ると2003年の著作を最後に刊行された作品はないようである。

2019年9月19日木曜日

新書2冊

 <野島博之 『謎とき日本近現代史』(講談社現代新書、1998年)>:コンビニの週刊誌の隣にでも並んでいるような、いかにも安っぽい安易な書名ではある。「○○はなぜ××たか」という9遍の章立てで、単に歴史的エピソードを説明するのではなく、「日本近現代史のかかえる「なぜ」をキチッと提示」している。しかし、新書版に収めるには無理があり、内容が表面的論述に感じられ、批判的な姿勢に欠けている。例えば、「天皇はなぜ戦犯にならなかったか」の章での「免責の論理」にはアメリカを視座とした背景を端的にわかりやすく述べられているが、日本側の立場からの記述はない。戦争に負けたからと言って、勝った側の判断だけでなく、負けた側から見た天皇の「戦犯」への見解を少しはあってはよいのではないか。
 著者は予備校の講師であるから、もし本書で書かれる「なぜ」が大学入試に出題されたならば、模範的解答はこうなる、というスタンスがあるのではないかと感じたのはひねくれた読み方かもしれない。
 本書の参考文献に記載されていた『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』(百瀬孝)を古書店から取り寄せ、ついでに『事典 昭和戦後期の日本―占領と改革』(同)も他の古書店から購入した。ハンドブックのように使える。質的には異なるが、『江戸編年事典』(稲垣史生)・『武家編年事典』(同)も酒精のグラスなどをかたむけながら、時折目を通すのも、想像・空想・妄想・夢想をとばせる愉しいひとときではある。

 <田尻祐一郎 『江戸の思想史』(中公新書、2011年)>:江戸期の著名な思想家たちがほぼ網羅されたあとで、最終章に論じられる「民衆宗教の世界」(如来教・天理教・金光教・富士講など)はそれまでの章立てとは異質であるし、また、関心は薄い。どうしても明治へと続く思想の流れを意識してしまうので、後期水戸学を中心とする江戸後期からの論述に集中してしまう。当たり前のことだが本書の登場する人物たちは何度も何度も他書でも読んでいるので、自分の理解の度合いを復習するように読んだ。
 以前、法政の通信教育のリポート作成や単位修得試験のために歴史の本をよく買い求めていた時期があり、部分的に目を通していたのであるが、年数をあけてから初めて全編を通して読んでいることが多い。このような形での読書が続いている。数年間は、未読の本の在庫整理のような、このような状態が続くであろう。

 基本的に線を引きながら本を読むこととしているが、小説やエッセイの類いはキレイなままに読むことも多い。そのような本の数がたまると段ボールに入れて古本買取業者に送る。数日前にも30冊ほど処分した。巡り巡って誰かがまた手に取るのであろう。
 書き込みをして、かつ不要と判断した本、あるいは引き取り価格がゼロ円の本は廃棄してしまう。いままでに廃棄した本はかなりの量になる。以前は壁の本棚にすべて取っておいたけれど、15-6年前に大量に処分してからは、取っておく本は極めて少なくなった。年齢を重ねるとなおさらにそうなってきた。ただ、LPやCDはそうならない。もっと年齢を重ねたらまとめて処分する、あるいは家族に残すなどの手段を講じねばなるまい。

2019年9月16日月曜日

マラソン、大学ラグビー

 東京オリンピックのマラソン日本代表を決定するMGC、特に男子の方についてはこれほど楽しめたマラソンも過去にはないと思えるほどであった。最後の1km付近では大迫がんばれと声を出したが3位となった。でもおそらくはオリンピックには出られるであろう。今後の選考レースで日本記録を出すことはかなりのハードルの高さであろう。でも選考レースは記録狙いとなりそれもまた楽しめそう。
 ふと思った、マラソンで日本記録を出したランナーはその後の活躍の度合いが薄い。児玉・犬伏・藤田・高岡・設楽・大迫、日本記録を持っているからと言って安定的にメジャーな大会で勝つことは別物なのであろう。
 もちろん女子もぶっちぎり優勝は素晴らしいが、観戦を楽しむ側としてはもうちょっとせって欲しかった。でも優勝者は暑いコンディションの中での好記録はそれだけに今後も期待できる。

 関東大学対抗戦ラグビー、早稲田vs筑波、スコアを見れば52/8T6G-8/1T1PGと早稲田の完勝。内容的には早稲田はもっとトライできたであろうと早稲田OBとしては欲が深い。慶応に勝った筑波がどう戦うのか、接戦になるのかと想いもした。しかし、鋭い走りを見せる左WTBはボールを持っても簡単に潰され、同様に左CTBはいいパフォーマンスを見せるも、チームとして早稲田の堅固なディフェンスを崩せない。一方、早稲田のトライは素晴らしかった。トライをした河瀬や古賀・安倍はもちろん勝れているのだが、CTB中野・桑山、特に中野はやはりすごいと思う。
 もう一つのOBである法政が専修に70分にトライを決められ逆転負け(25/4T1G1PG-26/4T3G)、残念。しかし、この試合は内容的に粗い。逆転トライをされた時の法政のディフェンスはトライされてもしようがない。両校とも大学選手権出場を目指すレベルでしかない。
 ワールドカップが近づいているせいか、サンケイスポーツのラグビーのニュースもその関連が主であり、大学ラグビーの記事は全く少なくなった。寂しい。

2019年9月14日土曜日

2冊の歴史(!)書、雑記

 以下の2冊で「性」を取上げた一通りの読書はすべて読み終え、これで了とする。二ヶ月間弱に渡って本線から外れた軌道を明日からは元に戻すこととする。

 <乃至政彦 『戦国武将と男色 知られざる「武家衆道」の盛衰史』(洋泉社歴史新書、2013年)>:「武士の男色」は、「①戦場から生まれた、②嗜みであった、③多くが男色で出世した」、との通説があるが、本書ではこれらを悉く批判し論破する。そして、戦国時代の武家男色の変遷を明示する。時代背景と共に男色の歴史を知るのは面白い。但し、個々の武士が誰々と交情したなどの史実的エピソードには興味はない。個々人の性行と性交、そして成功はどうでもよいことである。

 <金文学 『愛と欲望の中国四〇〇〇年史』(詳伝社黄金文庫、2010年)>:漢字や熟語を中心にして再読。例えば、「翻曇覆雨」の意味を漢和辞典で確認したり、『論語』の「吾未見好徳如好色者也」に孔子の嘆きを思い、『孟子』の「好色、人之所欲」「食色、性也」に人間の普遍性を感じ、「談虎色変」と「談性色変」を繋げてみたり、である。
 明初期の『雪波小説』にある「妻不如妾,妾不如婢,婢不如妓,妓不如偷,偷得着不如偷不着」から、よく言われる「一盗ニ婢三妾四妓五妻」が解釈された。一般的には「一盗ニ婢三妻」と略されている。
 漢字の遊びも描かれている。私的に言えば、”上で「呂」、下が「中」”という時代もあったが、”上で「品」、下が「串」”は経験がない。
 「張仁封」の笑話は面白いし、新婚初夜を終えた娘が母に語る「突き」の話も下ネタでの笑える話に使える、少々身につまされることではあるが。
 「緊・暖・香・乾・浅」とその反語「寛・寒・臭・湿・深」、また、「大・硬・渾・堅・久」と反語「小・軟・短・尖・彎」は、古から変わらぬ願望と眼前の現実ではある。下ネタの歴史や背景を知ることもまた面白い。

 韓国では疑惑ある側近の法相任用が話題(課題)になり、日本国内でも「タマネギ」なるタイトルを付してテレビなどで多く取上げられている。一方、台風が直撃して千葉県が被害甚大となっているさなかの11日には新内閣改革人事が発表され、こちらも側近が大臣、幹事長代行、政務官などのポストに就いた。日本のテレビではそれらが取上げられず、多くは小泉に関する話題となっている。隣家の芝生の状態はよく見えるのかもしれないが、自家の芝生をはあまり見ようとしないようである。所詮は大衆迎合、マス・プロパガンダ、そしてそれらを後景あるいはBGMとして一つの軌に沿ってしまう報道になっていると思える。
 今日(9/14)の新聞に載っていた投稿、「『側近重用』 負けません -日韓」、皮肉が効いて佳作。

2019年9月12日木曜日

平戸・雲仙・長崎

 9月4日から7日までの3泊4日のパックツアー。長崎での天候が心配だったし、自宅から羽田までの電車内は少し寒さをも感じたので、自宅から持ってこなかったことを後悔しながら、空港のユニクロで撥水機能のあるジャケットを連れ合いと共に購入。しかし、結局は天候に恵まれ、旅行を終えて帰宅するまで一度も使うことはなかった。今回の旅行の中で最も高価な買い物となってしまった。

 初日の大宰府は6年前(2013年)11月以来であるが、そのときは大宰府自体には入ることをしなかったので、ある意味初めての大宰府といったところ。
 平戸は初めて。夕食はビュッフェ方式であるが、自分で焼く肉や美味しかった寿司を何度も食べ、また飲み放題としたアルコール類も結構飲んでしまい、かなりの過食となってしまった。それでも部屋に入ってからは事前に購入しておいた焼酎を追加で飲んで眠りに入った。

 2日目は生月島で海を眺め、平戸で寺院と協会が重なって見える坂を上り、ザビエル境界を仰ぎ見、佐世保に移動してから日本本土最西端の神崎鼻でまたも海を眺め、昼食。中国人が沢山いた九十九島を遊覧し、雲仙温泉へ移動。6年前は熊本から船で雲仙に渡ったが今回はバスで移動。温泉はいかにも温泉という楽しみがあったが夕食は美味しくなかった。昼食はまあ普通であったが、遊覧後に供された佐世保バーガーは美味しかった。

 3日目は諫早湾干拓堤防道路を経由して長崎に入った。右の車窓から開門反対の立て看板が見えた。反対を唱えて現状に満足している人たちもいれば、元の状態に戻せと訴える人たちもいる。頭で考えているのか、胃袋で考えているのか、賛否どちらにもそれぞれの正当性はあるのであろう。最高裁判決が13日に下される。何にせよ、国のやることに異を唱え覆すのには厖大なエネルギーを要する。多分開門は認められないであろう。
 長崎港には立ち寄ったことはあるが市内に入るのは初めてのこと。ごくごくつまらない眼鏡橋付近を歩き、中華街で各自昼食ということであったが、連日の過食で食べる気にならず、コーヒーだけで済ました。
 自由時間の時間潰しのために長崎市で最も大きなベルナード観光通りや浜町アーケードを歩く。デパート(長崎浜屋)では長崎県産品まつりを催しており、そこで試食品を頂戴したりして結構楽しめた。
 出島はつまらない。暑いので早々にバスの中に入ってしまった。平和公園にも行ったが、閑散としている。戦争の悲惨さを伝え平和を祈る設備や公園にはいつも心の中がざらつく。戦争は嫌だし、亡くなった人の悲しみも痛切に感じるしのであるが、施設を作ってそれで一つの区切りにしてしまう人間社会のやるせなさというか物足りなさ、大きな問題・課題の深部に入りきれない表層的な(表層的にしか表現できない)この社会の宿命のようなものを考えてしまう。
 この日は高台にあり、長崎の夜景を楽しめるホテルに宿泊。焼酎を飲みながら文庫本のミステリー小説を読んでから寝た。

 最終日は黒崎教会に立寄り(バスから降りなかった)、夕陽が丘そとめで時間を少々とって福岡空港に向かった。夕陽が丘そとめの眼下には遠藤周作文学館があり車が何台か駐車していた。『沈黙』は学生時代に読んだが、十分な咀嚼ができなかった思いがある。同じ時期に読んだ『わたしが・棄てた・女』も記憶に残っている-特に安旅館で女に嫌悪感を抱くシーンが-。
 今回のパックツアー、福岡からの添乗員さんが素晴らしい人だった、テキパキと動き、細かいところに気がつく人で、今までの中でトップ。我々もその心遣いに感謝することがあった。
 福岡空港ではラーメン店と明太子などの食品を並べる店がやたらと目についた。ここでも昼食はごく簡単に済ましてしまった。旅行したときにプレゼントとして購入するご当地ベアはついに目にしなかった。
 前日の長崎繁華街のデパートで試食したカレーライスの美味しさが忘れられず、全日空で羽田に到着後にカレー屋さんに入った。何度も立ち寄っている好きなカレー屋さんは日航側のターミナルにあり、そこまで歩くのは面倒になり、比較的近場の店に入ったが、そこそこおいしかった。
 自宅に着いたのは19時少しまえ。やはり自宅に入るとほっとして落ち着ける。読みかけの本を読んでこの日はお終い。

2019年9月9日月曜日

悪文、本2冊

 9月4日『朝日新聞』「多事争論」(国分編集委員)の文章の冒頭は「7年前に政権の座を失った立憲民主党や国民民主党など旧民進勢力が、再結集をにらんで動き始めた」。これは悪文の典型的パターンの一種。「政権を失った立憲民主党」と「国民民主党など旧民進勢力」とも読め、立憲民主党は政権を取ったことがあると早とちりしそうでもある-現実ではあり得ないであろうが-。誤解の与えない正しい文ならば、「7年前に政権の座を失った、立憲民主党や国民民主党など旧民進勢力が、再結集をにらんで動き始めた」とすべきであろう。要は「、」を一箇所に追加するだけ。あるいは「立憲民主党や国民民主党など、7年前に政権の座を失った旧民進勢力が、再結集をにらんで動き始めた」のほうがより分かりやすい。かつての朝日新聞記者だった本多勝一の『日本語の作文技術』を読んでいないのか、なんてふと思ってしまった。この類の文章はよく目にする。

 <下川耿史 『教科書では教えてくれない 18禁の日本史』(宝島社、2017年)>:男と女、男と男、要は教科書には出てこない、親しい友人としか話題には乗せられない、歴史上の性(性交)のエピソード集。女と女はまず書かれないから、その関係はなかったのかあるいは記録がないのか、余程の秘め事だったのか。
 人間どうしの下半身の交わりは基本的に何の変化もなく、どのように性的欲望を満たすのか、そのための方法はいかようだったのかという史実・伝説が全ページを蓋う。かくして同じ事は過去から未来へと永遠に語り伝えられる。上杉謙信はどうだったのか、道鏡の何のサイズはすごかったとか、森蘭丸と織田信長とか等々の話である。

 <東野圭吾 『危険なビーナス』(講談社文庫、2019年、初刊2016年)>:40歳前後の独身男性獣医師の伯朗、最後になって姿を現す異父弟の明人、その妻でカーリーヘアー美人の楓、動物病院の美人助手の蔭山元美、伯郎の母の再婚相手先である矢神一族。物語の核を成すのは(後天性)サヴァン症候群、フラクタル図形、ウラムの螺旋など。そして素数に関係して謎のままに消失する絵である”寛恕の網”。
 素材の組み合わせや構成の巧さはやはり素晴らしいとは思うのだが、フラクタル図形とウラムの螺旋への展開はこじつけている感じがするし、明人の行方不明の謎ときをする楓と伯朗の探偵ぶりにはいじりすぎという感が強い。登場人物では伯朗の助手が魅力的である。

2019年9月3日火曜日

大学ラグビーのスタート、本2冊

 例年より早く、そして菅平での開幕となった大学ラグビー、早稲田初戦のJ Sportsテレビ中継はないだろうと思い込み、オンデマンドでの観戦となった(内容は同一)。早稲田は日体大に68/10T9G-10/1T1G1PGで快勝と言いたいが、出だしにトライされ、パスミスの多さがあってそうは言えない。早い球出しと早い展開を意図しているであろうが、パスがきちんと通らない。FWD(特に第1列)が安定的に強さを出せるのかが課題か。長田が肩を痛めて退いてからは14人で戦っていた。
 始まったばかりでまだまだこれからであることはいずれの大学にも言えることである。明治は練習試合の慶応戦・対抗戦の筑波戦ともに失トライが多く、予想よりもピリッとしない。慶応(対青学戦)ももっとトライを取れていいはずと思うのだが。

 <下川耿史 『混浴と日本史』(ちくま文庫、2017年、初刊2013年)>:「混浴の日本史」ではなく、『混浴と日本史』。著者のいろいろな著書から抱くイメージとは異なり、くだけた内容ではなく、混浴を視座にしての日本史概観といった硬質な(ちょっと軽い)一冊。
 メモ替わりのキーワードを思いつくままに・・・普通の混浴と歌垣の混浴、禊と混浴、功徳湯と混浴、坊さんと尼さんの混浴での乱行、温泉人気、江戸の男性過多と湯女の拡大、江戸開府から130年間ほどの女湯の非存在、混浴禁止令への農民の抵抗、混浴を失くすと女は女湯ではなく男湯に入る、明治になっての違式詿違条例・・・。
 やはり日本の混浴文化は明治になって大きく変化した。その点については中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか』、百瀬響『文明開化 失われた風俗』が詳しい。混浴では男(女)は女(男)の裸を見ていない、混浴の裸を見て非難した西欧人は体の線を強調した服を着ており、その西欧人の姿を見て日本人は体の線をあらわにしたはしたなさを感じた。即ち、日本での混浴は(例外はあるにしても基本的には)性行為と結び付けずに、西欧人は裸と性行為をつなげるために混浴を非難した。逆に、日本人は体の線を表す服装を身にまとった女性に性行為を想像し恥辱を感じた、と思っているのだがどうだろうか。

 <今村夏子 『むらさきのスカートの女』(文藝春秋9月号、2019年)>:「むらさきのスカートの女」を「黄色いカーディガンの女」が観察し続けて語る。最初はむらさきに異常性を見るが、頁を進めるに連れて黄色いほうがストーカー的で、二人は同一人物なのか、あるいは入れ替わるのか、ミステリアスでトリッキー。補色関係にあるむらさきと黄色を配置することにこの小説の構造的卓越性を感じる。ありうるかもしれない非現実性のなかに現実を描いていて、決して好きではないこの小説に妙に惹かれる。
 いつものように単行本ではなく、全文掲載の『文藝春秋』で読んだ。選評では本作品ではなく、古市憲寿「百の夜は跳ねて」への評価(酷評・避難)により注目した。