2018年12月30日日曜日

早稲田実業完敗、コーンウェル終了

 30日、早稲田実業は残念だが流経大柏に0-53と完敗。個々の力、接点への集散のスピード、攻撃の多様性やランニングスピード等々に大きな差があって、ディフェンスが機能しなかった。唯一の得点チャンスも圧力を受けてのノックオンで叶わなかった。この負けによって早実はより強くなると思う。
 桐蔭や東福岡、大阪桐蔭はやはり強さが抜きん出ている。東北・北海道で残っているのは黒沢尻工業のみ。Bシードの佐賀工業と日本航空石川は初戦敗退。

 <パトリシア・コーンウェル 『審問(下)』(講談社文庫、2000年)>:ケイ・スカーペッタ、シリーズ本作の後は『黒蠅』、『痕跡』と続き、最新作は24作目の『烙印』となるのであるが、・・・もう読むことはない。つまらないという事ではない。楽しく読めたのだが約25年間にもわたるシリーズにはもう付き合う気力がない。そもそも18年間も放っていたのだから以前読んだストーリーを覚えていない。

子ども達のアルバイト、高校ラグビー

 27日、娘とその子ども達にゲーム兼アルバイトを提供。それは焼酎の空き瓶に溜め込んでいた小銭や小額紙幣を数えさせて賃金を支払い、且つ予想金額との差異に応じてボーナスを出すというもの。身近な親戚がいないためにお年玉の実入りが少ない娘の子ども達にとっては楽しい遊びであったようだ。

 花園での高校ラグビーが始まり、幾つかの試合を観戦。『ラグビーマガジン』の付録にある花園ガイドを冊子を手許において観戦するのはいつものこと。
 早稲田実業が1936年度以来79大会82年ぶりの出場となり、1928年度(この時は準優勝)以来の87大会90年ぶりに勝利した。名護高校との対戦は最初こそ固かったようだが55-3の完勝。藤島大さんと矢富勇毅の解説もラブビーへの思いが込められて好ましかった。
 試合は中央突破や左右への展開などがふんだんにあって楽しめた。また、往年の早稲田大学ラグビーで活躍した選手の人たちの名前があり、それもまた気持ちが弾んだ。No.8相楽の父は現役早稲田大学の監督であることは周知されているが、ほかにはFB小泉(剛)、SO守屋(泰宏)、CTB植野(貴洋)、WTB今駒(憲二)はいずれも父親は大学でアカクロを着ている。括弧内は父親の名前。
 早稲田実業ラグビー部の3年生11人はすべて早大入学が決まった。全員が大学ラグビーを続けるのか否かは分からないが何にしても来季早稲田大学ラグビーは楽しみである。ラグビー中継中、スタンド観戦をする相楽監督や今駒さんが映し出されていた。
 次戦はBシードの流経大柏。初戦に続いてセカンドジャージかと思っていたがアカクロ着用となった。早実が目標としている、初戦および2回戦シード校からの勝利を実現してほしい。
 秋田中央は石見智翠館に完敗、山形中央は大敗、青森北も負け、仙台育英は記録的な零敗(0-81)、福島の聖光学院も負けて東北勢ではBシードの黒沢尻工業が静岡聖光学院と初戦を迎える。埼玉の深谷高校、富山県/魚津工業も負けてしまった。

2018年12月27日木曜日

早稲田ラグビー年越し、印刷博物館、草津温泉、文庫本

 22日、今季初めての秩父宮で大学選手権早慶戦ラグビー。胃がキリキリと痛くなるような、後半慶応を追いかける早稲田のアタック時にノックオンの笛がなるとため息が出て、今季もここで負けるのかという諦め、いや大逆転があるかもしれないとの期待、その両方が錯綜するなか、慶応のペナルティ。岸岡がタッチに蹴ってついにはノーサイドのホーンがなり、早稲田攻撃のラストプレイに入る。胸の鼓動が高鳴り、ミスをするなと只管ねがい、約5分後に右に展開して佐々木が隅に飛び込んでトライ。5年ぶりの年越し。対抗戦で帝京に完敗し、ゲームの入りの悪さを実感したが、その帝京戦の後半からは予想外に早稲田のラグビーは変化し、強くなった。対抗戦で慶応・明治を倒し、選手権第1戦で再び慶応に勝利し、次戦はまたもや明治。結果はどうなるか分からないが、5年ぶりに準決勝を観戦できる。

 早稲田勝利の高揚した気分のままに秩父宮から飯田橋に向かい、印刷博物館に入った。目的は企画展示「天文学と印刷」。つまらなかった。天文を印刷した古書の頁が開かれていても、それだけでは何も心が動かない。パネルや動画で天文学の発達を簡易的に説明されていても、内容的に薄っぺらであって、美味いはずの饅頭の表皮を舐めるだけの感じである。印刷のメカニズムの展示があるが、既知の知識以上のものはない。グッズ販売も狭くて意外性のあるものがなく、落胆。幸いだったのは入場券がシニアは無料だったことだけ。

 24-26日は草津温泉。初日はさっさと温泉につかり、あとは寝るまでほぼ飲み続けた。二日目は湯畑周辺をぶらり。夜は酒を抑え、文庫本を読む。三日目は少しだけ足を伸ばして「亀屋」に饅頭を買いに行き、同い年の店主や素敵な奥さんとの楽しい話を交え、湯畑付近で昼食としたギネスのビールとカレードリアはとても美味しかった。

 <パトリシア・コーンウェル 『審問(上)』(講談社文庫、2000年)>:1993年から2000年にかけてケイ・スカーペッタ シリーズを9冊、アンディ・ブラジル シリーズを2冊読み、本作『審問』を買ってから多分17年間ほど放っておいた。積ん読消化、あるいは未読本整理の意味をも含め、約17年ぶりにスカーペッタ登場のこの小説を手に取った。本作はシリーズ11冊目であり、現在は24冊刊行されている。『審問』から上下巻になったので、億劫になって長期間読もうとしなかったと思う。メインストーリーの周縁描写が多くあり、速い展開を待つ気分にもなるが、スカーペッタに関る人たちとの交流を悉に描くことで物語に厚みを増し、読者を引き込むのだからやはりベストセラーを生み続ける作家であることに得心する。
 草津温泉のホテルで深夜に読了。下巻を持ってこなかったことを後悔した。

2018年12月21日金曜日

雑記、文庫本1冊

 18日、下駄箱の清掃と整理。下駄は家族で2足しかないから靴箱と呼ぶのが適切だろうが口に出るのは”下駄箱”。

 19日、玄関内外のタイル床をクリーニング。

 20日、年賀状の印刷と投函。午後はTa・Co兄妹と一緒に自宅でしゃぶしゃぶ昼食。豚肉を6パック完食。この兄弟の偏食は面白い。兄は果物がダメで野菜はオーケー、妹の方は果物オーケーだが野菜が嫌い。この日、娘の子ども達を相手に飲むのも妙であるが、彼・彼女が来ると嬉しいのでついついビール1缶と葡萄酒(今回は白)を1本空ける。
 昼食後はトランプ。ゲームは自製のゲームで、ルールは至って簡単だが、算数の知識は必要。骰子を2個振って出た数字2つを各自勝手に四則演算し、その計算結果に合致させるよう持ち札3枚までの数字を四則演算し場に出す。出された結果は相互に確認する。手持ちのカードを早くなくすのが目的。これは昨年の末か今年初めころから時折やっている。小学3年のCoちゃんは計算が速くなったが、一番速いのはやはり中2のTa。

 21日、スーパーでレジの前に並んでいたら目の前にかつての同僚であるHoさんがいる。2-3歳年長の小柄な体がさらに小さくなり、よぼよぼ状態に足を突っ込んだ爺さんに見えた。向こうは後を向くことがなかったのでこっちに気付かなかった。買ったものを袋に入れているときは少しだけ距離をおいて横にいたのだが、それでもその年寄振りに驚いてしまい、声をかける気にならなかった。自宅から500mほど離れた所でまだお袋さんと二人なのか、あるいはもう一人暮らしになったのかなとふと思う。生涯独身のままでいることは確からしい。

 <ピエール・ルメートル 『天国でまた会おう(下)』(ハヤカワ文庫、2015年)>:『その女アレックス』を読んでその面白さに惹かれ、続けて買ったのがこの小説。カミーユ警部シリーズに先に手が出てしまいこの小説は放ってしまっていた。「”史実”に基づいたこの小説が含む虚構」(作者あとがき)は、作者が「初めてミステリーというフィールドから離れて書いた小説」(解説者)でフランスでは”冒険小説”とも呼ばれているらしい。物語は、主人公と副主人公が詐欺を計画し、卑劣漢の元中尉は汚いやり方で財を築こうとするが、やがてその阿漕な手段は表沙汰になる。中尉は富豪の娘と結婚をし、物語の終わりになって、その富豪は車ではねる相手が息子であることを知る。主人公は詐欺で得た大金を持って恋人と共にベイルートに逃れる。
 ミステリーから離れた小説というけれど、詐欺を仕掛け、その詐欺にはまった富豪の犯人捜しはやはりミステリーの要素が詰まっている。善人は登場しない、皆それぞれに現状から脱却し安寧な生活を得ようとしている。彼らの周りの出来事は人間の欲望がそのまま素直に表出しているだけであり、時には皮肉っぽく描写されている。帯にある「恐怖、禍々しさ、情感、荘厳、卑しさ、そして滑稽さまでもが、ここでは見事に一つになっている。--<ル・ポワン誌>」という評がぴったりくる傑作であり、人間観察ができる小説である。書名は事実からの引用-敵前逃亡の汚名で銃殺刑となり後に名誉回復となった兵士が妻に残した言葉-である。

2018年12月18日火曜日

酒、音楽、ミステリー

 17日、ウィスキーを2本買いに行ったが、出羽桜純米酒をみたら急に日本酒が飲みたくなり、それも買ってきた。ビールで喉をなめらかにした後にこの山形県天童市の酒を飲む。4合瓶半分までいかなかった。
 自室で本を読みながら音楽を聴くも、あるスピーカーからの音が劣っているような気がしてしようがなかった。音源の質が良くなかったのかもしれない。何故なのかと追求し始めるときりがないし、音ではなく音楽を聴くんだと自分に言い聞かせ、音楽のジャンルを変え、スピーカーも変え、アンプも変更し、今度は満足。やはりというのだろうか、一番高価なスピーカーが一番いい音を出す。先日はリビングのBose 5.1chでCDを聴いたら、音質が気になってしようがなかった。このセットではやはりクラシックは合わない、サラウンドで映画を観るだけでいい。尢も、最近はリビングでAVアンプをオンすることもかなり少なくなったし、古くなったAVアンプを買い換える欲望も失せている。

 <ピエール・ルメートル 『天国でまた会おう(上)』(ハヤカワ文庫、2015年)>:時は1918年、西部戦線前線から始まる。中尉が自軍兵士2人を背後から撃って戦死と見せかける。遺体の異常を見つけた主人公は中尉に穴に落とされてしまい、土で埋められる。そこを救ったのが副主人公とも言える兵士で、彼は爆発で顔に穴があき、脚が不自由になり、モルヒネで命を維持する。戦争が終わったあと、二人と中尉、副主人公の父や姉との相互関係が展開し始め、下巻へと続く。ゴンクール賞受賞作で、下巻への期待が膨らむ。「それじゃあ、さよなら、天国でまた会おう、セシル。ずっとあとで」と37ページに書名の言葉が出てくる。

2018年12月17日月曜日

深酒、ミステリー、ラグビー

 15日、息子一家、娘の子ども二人、そして連れ合いの合計7人で外で昼食。娘はアルバイト、彼女の連れ合いは出張。息子の嫁さんは家族の中での飲み友達であるが、妊娠・出産・育児で約3年間ほどは一緒に飲めずにいた。帰宅後、テーブルの上に4本のウィスキーを並べ,、久々の酒を楽しんだ。子ども達は早々に渡されたクリスマスプレゼントで遊んでいた。
 酔ってしまって寝てしまい、息子達が帰ったのも分からない。夕方からテレビで録画を見るもまたも眠ってしまい、結局はベッドに早く入ったが、今度は午前2時前に目が覚めてしまい、朝の6時頃まで本を読み、読み終えてからはまた眠りに入った。
 飲んでいる途中で観た社会人ラグビー、予想以上の大差で神戸製鋼がサントリーを下して18季ぶりの日本選手権および15季ぶりのトップリーグ優勝。サントリーは何もさせてもらえなかった、できなかった。55-5はサントリーにとって屈辱的な大敗であろう。

 <ピエール・ルメートル 『傷だらけのカミーユ』(文春文庫、2016年)>:『その女アレックス』『悲しみのイレーヌ』と続く(オリジナルの発刊順は逆)カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズの最終作。極上のミステリー、一気に読んだ。犯罪発生から解決までの3日間が描かれ、特に3日目はぐっと引き込まれ、前日までは予想もつかなかった展開が繰り広げられる。スリリングなストーリーももちろん楽しめるし、文章に深味があってそれもまた楽しめる。すぐれた小説を読んだ後は気持ちも晴れやかになる。

 16日、ポストと駐車場以外には外には出ず、家の中で一日中過ごす。大学選手権が本格的にスタート(九州代表・中部四国代表・東北北海道代表のトーナメントは「本格的」から除外している)。もしかしたらと筑波大に期待するも大東大に完敗。慶応は圧勝するかと思ったが、意外にも21-20まで京産大と接戦となる。しかし、その後は突き放して43-25。京産大はFWDは強いし慶応を苦しめているが全体的には、ディフェンスが、特にタックルが甘いと感じた。明治は予想通りに立命館に圧勝。前半5トライで最終的には10トライまで行くかと思ったが、後半は16番以降の選手を次々に出し、終わってみれば50-19とスコア的には少々物足りない。22日は早稲田vs慶応。今年最初の秩父宮となる。対抗戦に続いて早稲田の勝利、すなわち久々の年越しをしてほしい。

2018年12月15日土曜日

雑記

 13日、ベッド周りをほんの少し改善。午後、車のリコール対応点検。駐車場に車を入れるとき女性が待っていてくれたが、いつも会話を交わす会津に所縁のある星さんではなくちょっとばかり残念だった。整備を担当された方も初めての人だった。リコールのサービスということで洗車をしてくれて有り難い。綺麗になったのは数ヶ月ぶり。
 Surface3を暫く放っておいたら充電量が5%まで減ってしまい、立ち上がらない。何度か立ち上がってもすぐに途中でダウンしてしまい、純正の製品で暫くUSB充電するもなかなか充電されず、時間をかけて20数%の充電量でwindows更新をしたらあっという間に5%に低下してしまい、それからはまた同じ事の繰り返し。数時間充電するも充電がなされず、今度はANKERのPowerPortとワッテージの高いUSBコードで高速充電し、100%までフル充電したらSurface3は正常に動作するようになった。純正のUSBコードのコネクターは接点復活材で清掃し、常時繋げておくようにした。教訓は、①充電状態を常時維持しておきバッテリー低下を防止する。②高速充電可能となるよう器材を保有しておく-追加購入。③接点復活材があなくなったので追加購入して常備しておき、オーディオのみならず機械的接続部分は随時清掃できるようにしておくこと。大体こんなところか。

 14日、散髪。数年前までは何度か若き日のような長髪にトライするも、髪が伸びてくるとうっとうしくなり結局は耳に少しだけかかる程度にしていた。最近はそれも煩わしくなり、借り上げ一寸手前のところまで短くしている。白い部分が増えてきた。散髪店では女性一人と男性二人のスタッフがいて、今回も女性担当とはならなかった。それどころか、担当した年配の男性からはうっすらと煙草の臭いがする。左手の指に挟む煙草の臭いが手に染みつき、櫛を持つその手からにおってくるものと推定。かつては自分も煙草を吸っていたが、他人の煙草の臭いは好きじゃない。
 午後IdMi氏来訪。
 娘の娘が久々に泊まることになった。連れ合いは一緒に風呂に入り、お揃いのパジャマを着て、一つのベッドに入り、今もリビングで話をしており、彼女の至福の時間が続いている。.娘の娘は明け方にベッドから落ちて苦笑いをしていた。
 朝日新聞に渡辺京二さんの言葉が連載されている(「語る-人生の贈りもの-」)。自室の棚を見れば渡辺京二さんの著作がほぼすべて(再刊や再編集は除く)並んでいる。18冊は未読であり、暫くしたら集中して読もうと思っている。年齢を重ねた著者の余命も少なくなるばかりで、もしかしたら存命中に読みおえることができるかなんて不埒な考えが出てくる。既読の本も、読んだ当時は雑な読み方をしていたので再読せねばと思っている。しかし、ほかにも積んだままになっている本がかなり多いので、それこそ、その再読が実現するのかちょいと疑わしい。

2018年12月13日木曜日

寒い、ミステリー1冊

 11日、連れ合いは昨日から明日12日まで友人2人と小旅行。独りでいる家は冷え込んでいるのに、自室の足元暖房のセラミックヒータが故障し、温度が上がらない。先月19日に購入したばかりで、販売店に行くも交換品がなく、購入費用返却を提案された。しようがないので購入費用を返してもらい、違うものを買おうと、品揃えが豊富で500円券も持っている家電量販店に出向いた。10%割引適用のポイントカードは家においたままなので、一旦自宅に戻り、出直した。故障がなければ2時間近くも余分な時間を費やせずに済んだのにと、愚痴の一つも零したくなる。午後は、貝と鯖の刺し身で日本酒3合ほどで時間を潰す。

 <若竹七海 『錆びた滑車』(文春文庫、2018年)>:著者の本は初めて読む。従って、本屋の店員兼女探偵である葉村晶シリーズということも知らなかった。ひねったストーリーと洒脱な文章。40過ぎの独身女性である主人公の容貌が作れなかった。それは主人公が自らのそれを語らず、周りの男も触れていないからであろう。あるいは単にこっちの想像力不足ということでもあるか。
 主人公の人との関わり方が幾層にも重ねられていて、徐々に明らかになる謎解きは面白いし、よく練られていると思う。
 鋭い感性と豊かな想像力があって、さらに筆力があるならば、本を読むよりもストーリーの構成やパズルの構想設計をやる方がずっと楽しいだろうなと思う。

2018年12月11日火曜日

CD、年末恒例ミステリーベスト、新書1冊

 10日、久しぶりに購入したCD3枚が届いた。クラシックのCD2枚と送料無料にするためのもの1枚。最近、クラシックは現代音楽のものを購入するのことが続いていたが、今回はショパンのピアノ曲(バラード/スケルツォ)とモーツァルトのクラリネット協奏曲。モーツァルトのこの協奏曲はこれで何枚目だろうか、CDとLPで20枚くらいになるのだろうか。落胆したのがついでに購入したハーモニカによる映画音楽のCD。曲によっては、ハーモニカがバックのオーケストラやピアノ伴奏に押されていて、ハーモニカの柔らかい包み込むような音が弱くて前面に出てこない。それにアレンジの所為なのか、全体的につまらない演奏で、ハーモニカ演奏もただスコアを丁寧になぞっているだけとしか感じられない。それなりに著名な日本人演奏家だが、安直な演奏で、ロマンティックな曲である筈なのに聴いていると苛立ちも覚える。久々に失敗してしまったCDである。ハーモニカのCDでは28年前に購入したボンフィーリオの1枚が愛聴盤。ヴィラ=ロボスのハーモニカ協奏曲とバッキアーナス・ブラジレイラス第5番は秀逸。
 最近はミステリーを読まないのに、年末の習慣で『このミステリーがすごい!2019』と『週刊文春』を買ってきた。国内・海外の両方でベスト21位以下(「このミス」)やベスト10以下(「文春」)のなかで2018年度に読んでいるものは『それまでの明日』(原尞)1冊のみ。ちなみに30年前の「このミス」初刊1988年版では国内ベスト10で半分の5冊を読んでいる。隔世之感あり。

 <清水唯一朗 『近代日本の官僚』(中公新書、2013年)>:帯には「エリートたちの喜怒哀楽」、「学歴エリートたちの「立身出世」」、「誕生から成長、そして、政治家の輩出へ」とある。
 明治政府誕生後のエリートとなった人たちの知識吸収に対する意欲と熱意には敬服する。欧米に留学した人たちすべてとは言わないが、例えば事例として示される小村寿太郎や鳩山和夫などの努力には驚きを覚える。一方、政府の中枢を担った薩長土肥出身者とお飾りだった皇室・公家たちの組織票を見れば、いかに小数の人たちによって明治初期の政官がドライブされたかが分かる。この日本を新しくしたい、幕府体制を排除したいと真摯に追求する思うひとも勿論いたが、各藩から選ばれた若い人たちは、留学時は出身藩の名誉と期待に応えようとする重圧を感じ、一方では選ばれた者としての誇りを持ち続け、帰国後は身の振り方と出世欲が心身を蓋っていた。明治初期、日本を牽引する人たちは、欧米からの後進性-すなわち無知-を認識し、だからこそあの混乱の時期に多勢を欧米に送り込んだ。今はどうなんだ、自国自賛があまりにもひどくはなかろうか、とふと思う。
 現在に繋がる官僚気質は、総合大学としての東京帝国大学発足時と官僚任用システム(いわゆる文官試験)が発足したあたりからである。東京帝国大学法学部学生の誇りと私学を下に見る姿勢、東大卒官僚と入省後の出世格差はそのころから始まり、いまも連綿と続いている。日本人個々の人たちは優秀である、しかし日本のシステムは低レベルにあると一般的に言われているが、それを形成したのは明治の官僚育成および任用システムが構築されたあたりからであると思う。優秀であるということの意味を問わなければならないが、それは人間の行動パターンの根源を探ることであろう。

2018年12月10日月曜日

雑記

 9日、美園に向かうが交通規制が多く迂廻を強いられる。迂廻しようにもかなり遠回りになるし、埼玉マラソンで混んでいるだろうからと急遽引き返し、春日部イオンに向かった。クリスマスシーズンに入っているからか、はたまたボーナスが支給された日曜日なのか、比較的イオンも比較的混んでいた。
 腕時計のバンドを修復、連れ合いのバッグのショルダーベルトに穴加工を追加して、彼女の低い身長に合わせる。
 最近、腕時計の電池交換を繰り返している。電池切れで稼働しない状態を続けるのは良くないので、交換を重ねる。工具は持っているし、こういった作業は好んでやっており費用節減に貢献はしているが、当たり前のことと受け止められているようだ。

 <三谷太一郎 『日本の近代とは何であったか』(岩波新書、2017年)>:「「老年期の学問」は、どちらかといえば、特殊なテーマに焦点を絞る各論的なレベルの発展よりも、より一般的なテーマに傾斜した総論的なレベルの発展に力点を置くべきではないかと考え」る著者による日本近代史の総論。ウォルター・バジョットの「「近代」概念」に沿った次の4つの切り口で論じる。①「なぜ日本に政党政治が成立したのか」、②「なぜ日本に資本主義が形成されたのか」、③「日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか」、④「日本の近代にとって天皇制とは何であったか」。特に関心を強くして読んだのが①と④。
 「公儀から公議へ」は幕末から新政府への連続性を簡潔に示しており、朝廷の編入は「権力と権威の一体化」もエッセンスを凝縮していて分かりやすい。④においての関心は教育勅語であって、それは、「憲法外で「神聖不可侵」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に示した」ものであり、「伊藤博文が天皇を単なる立憲君主に止めず、反宗教的絶対者の役割を果たすべく「国家の機軸」に据えたことの論理必然的帰結」であって、一方、現国会議員の一部が教育勅語を有り難がることに「理論的必然性」があるとは感じられない。
 岩倉具視全権大使たちが欧米に派遣され、なぜ米国なのかと淡い疑問は持っていた。それは法制定にしても参照したのは独英仏などであって米国はまず出てこない。しかし、米国は当時の日本からすれば欧州とは一体ではなく、寧ろ欧州からは遅れた国であったのであり、その米国が英国より独立を勝ち取ったのは、「攘夷」の成功事例としてであると捉えてもいた。皮肉っぽく言えば、黒船が来てから、日本は米国を欧米とは異なる視点で仰ぎ見て、一時的に抵抗はしてみたけれど、実は幕末からずっと現在も、日本はアメリカに追従してきた、というのは短絡的だろうか。
 ①の章末に著者の現在への主張がある。それは、良し悪しは別として当たっていると思う。すなわち、「私は、今後の日本の権力形態は、かつて蝋山政道が提唱した「立憲的独裁」の傾向、実質的には「専門家支配」の傾向を強めていくのではないかと考えています。これに対して「立憲デモクラシー」がいかに対抗するのかが問われているのです」と。

2018年12月8日土曜日

新駅名、カードの不正利用

 5日、品川~田町間に新設される駅の名称が「高輪ゲートウェイ」に決定。目にしたとき、カタカナが付されていることに違和感を抱く。Gateway、以前この名のPCを購入し、いまは破棄待機状態。この駅名に呼応してTwitter上で、既存の駅名にカタカナを組み合わせた駅名が話題を集めているらしい。「新橋アルコールターミナル」-秀逸。

 7日、クレジットカードに不正使用があり、新規カードが届いてあちらこちらに変更の手続きをした。全くもって面倒である。経緯は以下;
 ①10月下旬に海外から不正請求があり、支払いを停止し、また11月末に該当クレジットカードを無効化して新規カードを発行する旨郵送にて連絡があった。その連絡が11月半ば。不正請求元はAMAZON *MKTPLCE AU。
 ②該カードの11月使用をたまたまチェックしていたら、前月と同じような不正請求が見つかった。日付は11月24日で請求元はAMAZON *MKTPLACE EU-I。すぐにカード会社に連絡を入れた。カード会社ではまだチェックに引っかかっていなかった模様。前回の金額は2千数百円で今回は5千数百円。すぐにカードを無効化して早急に新規カード発行する旨電話で打ち合わせ実施。
 ③1日に某契約先からカード番号が認識されず、自動契約継続を中止する旨メールが入った。これは契約解除をするつもりだったので、手続きが省かれて、ある意味ラッキーではあった。
 ④新規カードが7日に届き、早速に定期支払いをしている契約先に変更手続きを実施。Webで簡単にできるところもあれば、Webではわかりにくいので電話での連絡もある。変更書類を請求し再送しなければならないところもある。スマホについてはパスワードを何回かミスってしまい、Webでの手続きができなくなったので近くのショップに出向いて変更手続きとなった。そして、カード会社より不正使用についての手続き書類が届く。全く面倒である。特にWebでの手続きができないところは不便きわまる。
 長年数種のカードを使っているがこんなことは初めて。最も多用しているカードなので、どこかで悪用しようとの動きがあったみたい。でも、そのカード会社では常時チェックしており、不正請求は適切に検出されるようでもあり、システムへの信頼を確認することになった。

 同7日、昼に日本酒を2合ほど飲み、夕方からワインを1本空けてしまった。眠いので22時過ぎにベッドに入ったら午前3時に目が覚めて眠れなくなった。早く、と言っても一般的には普通の就寝時間だが、いつもより早く寝てしまうといつもこのようになってしまう。翌日の午後はまた睡魔と闘うことになる。

2018年12月5日水曜日

4K放送

 3日、窓の掃除&カーテン洗濯を完了。おいしい酒を飲めるとの連れ合いの言葉に触発され、終了後に麦酒と日本酒を飲むが、大した量を飲まずに寝入ってしまった。

 4K放送が始まった。4K TVは既に設置しているので、CATVのセットトップボックス(STB)を交換すれば、数百円/月のアップで4Kを見られるが、ビデオ機器等との接続環境が変わってしまうのではないかと危惧し、調べてみた。今、ビデオレコーダーは2台を利用し、1台はほぼ地上波録画専用(A)、もう1台はBS/CS録画専用(B)とし、他に4Kプレイヤーも使用している。Aはアンテナから分配して接続し、両者ともSTBとi-Link接続している。が、ケーブルテレビ局が現在用意している4K対応STBにはi-Linkがない。USB接続HDD追加で録画はできるが、現在保有しているビデオレコーダーとのDLNA接続可否は確認されていない。今後追加されるであろうSTBにI-Link端子は多分ないだろうから、まずは4K対応STBに交換し、現保有レコーダーとのDLNA接続を確認し、ダメならば新規レコーダーを購入するしかないか、まぁ、費用や4Kの必要度合い等、いろんな意味でもう少し時間をおこう。

 4日、久しぶりの越谷レイクタウン。ぶらぶらと歩き、予定外のものを購入し、予定していたものを1個買い忘れた。

2018年12月3日月曜日

早稲田ラグビー

 1日、12月に入った。1年前の12月1日はついこのあいだのような気もする。

 2日、早稲田が明治に勝利。出かけていてテレビで観戦し始めたのは後半8分頃からで、リードしていることはスマホで確認していた。早慶戦、早明戦は正直なところどちらも負ける可能性は低くないと思っていた。明治が早稲田に勝って対抗戦グループ優勝の可能性が高いのではないかと思っていた。しかし、早慶戦で早稲田が強くなったことを実感し、明治に勝っている慶応に勝ったのだから、慶応の時のパフォーマンスを出せれば明治にも勝つだろうと期待は膨らんでいた。
 中野の素晴らしいトライが2本続き、2T2Gでも明治が追いつけないスコアになって早稲田の勝利を確信した。試合終了後、改めて録画を見始め、川瀨のトライで早稲田のリードが始まり、斉藤の精度の良いコンバージョンやペナルティ・キックで点数を重ね、丸尾のトライもあり、なんと言っても中野の連続トライは美しいし素晴らしい。31-13から明治に連続トライを奪われ、4点差に詰め寄られたのは大学選手権に向けての課題であろう。早稲田の出足鋭いディフェンスが光っていたし、明治のスクラムにもほぼ互角に対向していたと思う。8季ぶりの優勝はとても嬉しい。早慶戦と早明戦で早稲田は力を一段上げたと思うし、帝京戦以降に課題修正と準備をしっかりやってきたのであろう。繰り返す、嬉しい。
 大学選手権では対抗戦グループ2位扱いであり、組み合わせのボトム・ブロックには何と早慶明が出揃う。早稲田は1試合少なく、初戦が秩父宮。チケットは持っているので今季初の秩父宮観戦となる。東海大の実力は分からないので安易に予想は出来ないが、大学ラグビーは視線を対抗戦グループに向けるので、早稲田は12/22に慶応と再戦し、準決勝では明治とあたり、できれば筑波が大東大と天理に勝ち、準決勝は対抗戦グループ校で占めてくれると嬉しい。そして決勝では帝京に雪辱して欲しい。
 米式蹴球でも早稲田が甲子園ボール出場を決めた。

 2019年度のスポーツ推薦が決定している。國學院久我山/槇瑛人(WTB)、関東学院六浦/松下怜央(CTB/WTB)、東福岡/吉村紘(SO/CTB)、トップアスリートで桐蔭/小西泰聖(SH)。早稲田実業からは確実に入ってくるだろうし、相楽昌彦(No.8)・小泉怜史(FB)らがいる。ここにあげた選手はすべて高校代表候補(二次)に選ばれている。

2018年12月2日日曜日

読書3冊

 <『週刊金曜日』編 『検証 産経新聞報道』(金曜日、2017年)>:昔、会社のある同僚が胸を張って「産経は一流の新聞」と言っていた。言葉を返すことはしなかった。論理性に欠け、他の意見を聞かずに自己感情を前面に出す人とは会話にならない。・・・かつての仕事は事務機器の製品設計で、今振り返ってもいい仕事であったと思う。そこには抽象的な解釈の相違などが介在することはなく、基本はすべて無機的で言葉を弄ぶことのない、嘘をつかない機械の世界であったからである。

 <ハーバー・ビジネス・オンライン編 『枝野幸男、魂の3時間大演説』(扶桑社、2018年)>:この冊子は良質なテキストとして残ると思う。3時間近い演説の原稿はピンポイントを箇条書きにしたレジュメであることに驚いた。現在の政権のすすめかたを「エレベーターのパラドクス」で例えるのは皮肉が効いていてわかりやすい。低劣な野次を飛ばす議員も、審議を深めない国会も、そこに焦点を当てるだけでは何も変わらないと思う。重要なのは、どうしようもないことではあるが、選挙システムであると思い続けている。

 <植村隆 『真実 私は「捏造記者」ではない』(岩波書店、2016年)>:産経新聞と関係するところは『検証 産経新聞報道』と重複する部分がある。しかしながら匿名での誹謗中傷、「商売右翼」の卑劣さにはあきれるばかりである(もちろん「商売左翼」も好きではない)。かれらを「右翼」と呼んでは「真の右翼」に対して失礼な気もする。

読書2冊

 <大澤真幸 『近代日本のナショナリズム』(講談社選書メチエ、2011年)>:「ナショナリズム」に右翼っぽいニュアンスを感じるひとたちがいるが、ナショナリズム・ウルトラナショナリズム・パトリオチズムをごっちゃにし、その人の抱く考えや感情に偏らせてイメージしていると思う。「ナショナリズムはネーションを尊重する規範・態度のこと」であるが、この「ネーション」の定義は困難で、ほぼ不可能と思われる。
 以前、在日コリアンの人たちをルポした本を読んで、そこに、「日本人とは、「日本人とは何か」と自問しない人たちである」との意味を込めた言葉があった。安寧に暮らし、差別・被差別に直接関与したことのない人たちへの皮肉を込めた鋭い視線であると今でも頭の中に残っている。大学時代、建築学科在籍の在日朝鮮人学生と雑談をしていたら、彼が、「妹が日本人と結婚するといったら親は絶対に許さないと思う」と言っていた。この時の言葉にも彼の所属している「ネーション」の特殊性があった。
 引用をつなぎ合わせると、「ナショナリズムはネーションを尊重する規範・態度のこと」で、「ネーションは他の共同体と違って、想像においてのみ実在的で」、「直接の知覚や感覚の体験を通じての実在性で定義できない」し、「常に、その外部に別のネーションがあることを前提にしている」。
 天子をまつり上げるのが東アジアの常であったとすれば、天子(王朝)を改易しなかった点において、日本は、思想文化が中国より遅れていたといえるのかもしれない。それは、日本には思想をぶつけ合うこと、深めるという考えがなかったからであり、改易がなかったことを賛美することとは違っているだろう。そこを思想史は明らかにしてきたのだろうか、単に自分が不勉強で知識がないのかもしれないが。
 再び引用をつなげる。「普遍性が不可能であるとするならば、そこにできあがった空白は、普遍性をあからさまに否定し、蹂躪するような価値によってこそ埋められるであろう」。普遍性を求めることは、結局は裏返って「特殊性をあからさまに支持することが、この残された唯一の条件に素直に、欺瞞なく応ずる方法だから」、「ナショナリズムや呪術的な信仰は、まさに、そうした「普遍性の代理」として機能する特殊性に他なるまい」。その特殊性を主張するときに、健康的に主張するのか、不健康なナショナリズムになるのか、いまの世は後者の方に傾いている。

 <大澤真幸 『戦後の思想空間』(ちくま新書、1998年)>:『近代日本のナショナリズム』と読む順番を間違えたようである。重複する部分がある。
 「戦争の内的な体験が歴史的に記憶されなかっただけではなく、まさにその記憶されなかったという事実-忘却の事実-が忘却されている」。全くそうだと思う。過去にきちんと向き合ってこなかったツケは今もある。
 学生運動がピークの時代-1968年から1972年-が戦後を区分する。すなわちその年以前が戦後前期で以降が戦後後期。この年は丁度大学に通っていた時期であり、同時代性を感じる。「内向の世代」と呼ばれた作家や批評家たちの本、また「第三の新人」の小説家の本に惹かれた時代でもあった。「学生運動」には与しなかった。学生運動において、学生自らが「学生」と冠を付ける運動に違和感を覚え、関心もなかった。冠を付けることで最初から退く姿勢を表していたと思う。
 「不条理に見えるのは、人生や世界に意味があるはずだと思っているからです。不条理だという感覚は、世界が有意味であるというオプティミズムを前提にしている」・・・なるほど。

11月終了

 26日、近くの整形外科医院でインフルエンザ予防注射。約1時間待ち。酒を飲んでも構わないかと確認したら、ほどほどにとの前置きはついたが大丈夫とのことなので、帰宅後ほどほどに焼酎を飲む。
 27日、PCを長時間動かし続ける。というのは、NHK早慶戦ラグビーの録画を忘れていたために、PCにてオンデマンド観戦。PCで流れる試合をキャプチャーしmp4で保存。1080/60pで取り込んだためにmp4のままデータ・ディスクにしてもいいが、それでは自宅の再生機器を選んでしまう。よってBDMVにしてディスクを作成した。結果はオーケーであるが、時間があまりにもかかり過ぎた。夕方近くから1台のPCを占有して結局はベッドに入る時間になっても動かす続け、結果確認は翌朝となった。まあ、ディスクにしても再度見ることは殆どないのであるが、キャプチャーからファイル変換等々の実行可否を試し、確認したかっただけである。
 28日、娘の息子に漢字の授業(?!)。
 29日、大宮へ。
 30日、分割実施の第5回目(?)大掃除。今回は2Fと1Fのフロアで、いつもの如くダイソン掃除機-ケルヒャー・スチーム・クリーナー-オスモ・ワックスのプロセスででおおよそ6時間弱の休憩なし作業。最後は疲れてきた。酒の肴と酒を買ってきてから風呂に入って16時頃からビール500ccと日本酒(「酔黥」)4合瓶1本で心身ともに弛緩。残す掃除は窓ガラス。明日から12月であっというまに年月だけが経っていく。早稲田実業vs國學院久我山のラグビー(東京第1代表決勝戦)をフルに観戦。

 <鈴木貞美 『戦後思想は日本を読みそこねてきた』(平凡社新書、2009年)>:明治になって欧化主義があり、同時に「伝統ある」日本国の植民地化への危機感、あるいは西欧文化への対抗意識から「国粋保存主義」が強まり、もちろんそれは所謂アジア主義を伴っていた。
 西欧の絶対神に対し、日本の普遍性を標榜することは天皇制国体論の展開であり、それと大東亜共栄圏との間をつなぐものは「主体的無」観念や「滅私奉公」の思想であった。明治から昭和前期の思想史の分け目は1935年前後。西欧-特にドイツ-に学んでそれを模倣し、あるいはヒントを得て神国イデオロギーを作り上げた-例えば、筧克彦著『皇国精神講話』や紀平正美の『日本精神』。その基底に流れていたのは、加藤弘之、穂積八束の家族国家論、血統国家論であって、彼らはドイツの「国家生命体論」やドイツ法学を学んでいた。「東西の思想を組みあわせて、まったく新たに「古来の伝統」を発明したもの」であった。そして普遍性を肉付けするのは、日本の神々の系譜を時系列的に展開することであった。現在にも連綿と続く「日本の伝統」と称されるものには明治期に輪郭を与えられたものが多い。
 「噛み合った議論が行われず」、「この傾向は、戦前から戦後へ、そして今日へと、ますます進んでいるようだ」。それは現在の政治の動きをみれば分かることだ。「「大東亜共栄圏」や「近代の超克」を唱えた側は、敗戦後に「伝統保守」と呼び変えられ、彼らが否定した「西欧化すなわち近代化」が国民の合意のようになっ」て現在に至っている。

2018年11月25日日曜日

小旅行、早慶戦

 19日、漢字のテキスト作成完了。2日間で述べ13時間ほどを要した。
 20日、自室オーディオのケーブル引き回しを小変更。ついでにオーディオ・アクセサリーをいろいろ調べるが結局はいま保有している器材で十分、というか、追加は意味がないことを再確認しただけ。
 21日、連れ合いと一緒に朝7時半頃に家を出て、大宮~東京駅~伊豆急下田、ここから路線バスに約1時間乗って堂ケ島に向かう。ホテルに電話をしてバスターミナルまで迎えに来てもらいチェックイン。路線バスでは乗降する人びとの年齢が高く、高齢者社会を実感し、かつ高齢者の日常的な買い物などが楽なことではないことを何回も目にした。酔って早く寝たら深夜に目覚め、数時間の読書をしてから再度眠りに入った。
 22日、軽い雨。暇なので散歩がてら雨中をぶらぶらと歩き、堂ケ島近辺を歩き、帰りも歩いてホテルに戻り、昼からだらだらと軽く飲み、前日と同様に15時30分頃から風呂に入る。今年の旅行は雨になってしまうことが多くてついていない。北海道でも雨だったし、八丈島も1日だけ晴天であとは雨。それに人数が集まらなくて催行中止になったツアーもあった。堂ケ島のホテルのスタッフは全員がとても親切で感心した。また、観光船乗り場の近くの土産物屋さんの老海女さんに声をかけられ、冗談を交わしてしばしの雑談、楽しかった。
 23日、時間もあるし、ホテルのバス利用は遠慮して1kmほどの距離を風景写真を撮りながら歩き、バスターミナルでバスに乗り下田に向かった。下田駅では電車の時間まで余裕があったので駅近くのロープウェイを往復。この日はラグビー関東大学対抗戦の早慶戦。キックオフ30分後にスマホでNHKテレビをオンしてみるが微弱電波で受信できない。「早稲田ラグビー 試合速報掲示板」で確認すると11-0ではないか、期待が弾む。横浜駅近くから再度NHKを映し出すが、ノイズだらけでフルセグどころかワンセグもブロックノイズがひどい。東京駅到着とほぼ同時に早稲田の勝利が決まった。思わず、やった-っ、と声を出してしまった。帰宅後に録画を見て再び、よしやったーっ。
 25日、義母の命日。墓参り。

2018年11月19日月曜日

雑記、対抗戦ラグビー

 16日、午前中は風邪をひいたような頭痛。午後になってやっと痛みは治まったが体調は万全とは言えない。翌日のことを考えてただ静かに本を読んだりテレビをみて過ごす。
 17日、獨協大学での講義終了後、仲御徒町に向かう。自分も含め、今は走らなくなったランニング仲間3人と1年振りに飲む。馴染みの店に入るのも1年振りかもしれない。前日のパッとしなかった体調もあって二次会あるいはカラオケは辞退して帰宅。眠くてたまらずリビングでも居眠りをしてしまい早々にベッドに入った。
 18日、娘の長男のために漢字のテキスト作り。20日まで終わらせないとテストに間に合わない。6時間ほどかけて半分を終了。漢和辞典を駆使。そもそも学生時代も含めて漢和辞典をこれほどに開くことはなかった。
 同日、ラグビー、明治が帝京に快勝(といってもいいだろう)し、今季は春・夏と続けて勝利している。これで早慶明帝とどこでも優勝のチャンスはあるが、それは組み合わせ上のことだけで、現実的には帝京は筑波戦だけが残っているからまず負けることはなく6勝1敗のままとなる。明治は早稲田だけを残し、慶応は早稲田と青学-慶応が負けるはずはない-が残り試合で、早稲田は慶応と明治。いままでの試合経過や得失点からみれば、一番キツイのは早稲田で、慶応と明治に連勝せねばならない。連勝しても帝京には負けているので優勝の可能性はなきに等しい。したがって、早稲田は慶明の両者に勝っても2位で、明治に勝って慶応に負ければ3位(帝京優勝で慶応2位明治4位)、慶応に勝って明治に負ければ明治優勝で帝京2位早稲田3位慶応4位となる。慶明両方に負ければ4位である。
 4位になると大学選手権では関西2位と関東リーグ1位に勝って準決勝に進まないかぎり-つまり久しぶりの年越しで-秩父宮では観戦できない。最低でも対抗戦で2位か3位になって欲しいものだがそうなっても秩父宮では対抗戦2位と3位の戦いになる(関西3位に勝っての前提)。何にせよ早稲田の今の実力では壁は厚いし高い。

2018年11月15日木曜日

オープン・カレッジ一つ終了、本2冊

 13日、獨協大学オープン・カレッジ火曜日の講座はこれで修了。内容的には物足りなさを感じるが、1.5時間×6回ではやむを得まい。かつて市ケ谷に通った通信教育でのスクーリングは中身が濃く、単位習得試験もあったので、それに比べると今回の単なる教養講座はぬるま湯のようで緊張もない
 春日部駅からの帰途、ビールとスパークリング・ワインを購入し、14時からの食事と合わせて全部飲んでしまう。妙に飲みたくなっていたワインであるが、ウィスキーほどの美味さはないので暫くは飲まない。
 15日の本日は車の下部バンパー交換。損傷して(されて)からは保険手続・処理があり2ヶ月半も要したが、相手あってのことなのでしようがない。

 <北河賢三 『戦争と知識人』(山川出版社/日本史リブレット、2003年)>:1937(昭和12)年7月の日中戦争全面開始から1945年8月までの総力戦時代の状況と知識人の動向を概観。
 戦後になっての研究動向に興味が引かれる。それは、1950年代・60年代は「転向」や「抵抗」を軸にしての研究、60年代後半から70年代はかの「人民戦線運動」をはじめとする運動史研究やジャーナリズム研究。その後は「戦争責任論」的視点に立つ研究が優勢に立ち知識人の戦争協力の検証がなされた。さらに知識人が戦争に積極的に参画していった意味の研究もなされた。このブックレット発刊は2003年なのでもう古くなっている。いまは-少なくとも自分の感じ方では-知識人たちが戦争を問うことはなされなくなっている。戦前を生きた知識人たちの多くは鬼籍に入り、かつ戦前を問う以上にいまの世がきな臭く変化しているからであろう。
 『世界文化』創刊号(1935年)真下信一の創刊の辞が当時の(一部の)知識人の立つ位置を端的に表している。今の時代に置き換えて、あるいは私的場面に置き換えて読めばいろいろなヒントが得られそうである。
・・・ふとふりかへつて見て、自分の立つてゐる舞台にきがついた時、ひたすら今まで勤めてゐた自分の努力が、これでいゝのか、それともいけないのか、疑はれてくる。時代のテムポがすつかり変つてゐて、自分がそれについて行けるか、行けないか、に迷う。不安。今までのものが無意味に見える。ニヒリズム。正に此の様な不安とニヒリズムとに、此の時代のインテリゲンツィアの敏感な部分が今、立つてゐる。

 <奥武則 『論壇の戦後史』(平凡社新書、2007年)>:戦後70年までの論壇史概説。自分は68年から72年まで大学時代を過ごし、筑摩書房季刊誌『人間として』(小田実・開高健・柴田翔・高橋和巳・真継伸彦編集)を背伸びしながら購読していた。編集者たちの小説(特に高橋和巳)や、第3の新人、戦後焼跡派の小説にも一時期入れ込んでいた。評論も読んでいた。だからというわけだけでもないだろうが本書に出てくる進歩的文化人と称される人たちの名前もすんなりと頭に入ってくる。少し時期のずれた同時代史概説書といった感じであり、描かれている時代からさして遠くない時代を生きていたからであろう、いま一つ物足りなさを感じた。
 『朝日ジャーナル』はとっくになくなったし、『世界』はたまにしか手に取らないし、書店にないことすらある。「横から見たり裏から見たりして何ごとも相対化することが「得意」な『文藝春秋』」だけが高く平積みされ、「諸君!」や「正論」「WiLL」も平積みされている。世の中は随分と変わってしまった。

2018年11月13日火曜日

雑記、早実が82年ぶりに全国大会出場

 8日、以前勤務していた会社の同僚3人と会食。控えめに飲んで帰宅後に追加の飲酒。
 9日、いつもの金曜日。ララガーデンに送り迎え。帰りにイトーヨーカドーに立ち寄る。腹がへっているとついつい余計なものを買ってしまうのはいつものこと。
 10日、獨協大学へ。土曜日はあと2回。初めて質問をする。講師とは異なる「為仕間鋪」の読み方の是非を確認。その後、下らない質問をした男性がおり、それに対する講師の応答もシャキッとしない。時間の無駄。
11日、蓮田の文化会館で娘の娘がピアノの発表テスト。左小指を骨折していたために6日前からの練習再開。それでも合格した。いつまで続けるのだろうか、母親と同じく中学半ば頃までか。
 早稲田実業が花園行きを決める。79大会・82年ぶりの出場。43-19で國學院久我山は決勝でのワースト失点。早実の主将No.8相楽は早稲田大学ラグビー監督の息子。オンデマンドでの観戦、スクラムは押されていたが早実は早稲田らしい早い展開と鋭い出足。印象に残ったのはNo.8とFB。ユニフォームはかつて大学選手が身につけていた肩に白線3本のアディダスでまだ(?)アシックスではない。何にせよ、秩父宮でトライを重ねる早稲田実業の活躍と勝利は嬉しい。来季の-来期以降の-早稲田大学ラグビーにも明るい展望が開けそうである。
 82年前というと1936(昭和11年)で、1月に日本がロンドン海軍軍縮会議を脱退し、2月には天皇機関説の美濃部達吉が襲撃され、そしてかの2.26事件が勃発した年である。阿部定事件があり、ベルリンオリンピックが開催され、日独防共協定締結があって翌1937年7月の盧溝橋事件から日本は戦争の泥沼へと沈み込んでいく。そんな時代だった。早実の82年ぶりと言う数字はこのような時代を振り返ることになる。
 12日、ロンドン・ファイナルで錦織がフェデラーに4年ぶりの勝利。1セット目はラリーがなく、どちらもアンフォースド・エラーが目立つ。

2018年11月7日水曜日

雑記

 5日(月)、午後の眠気防止のために自室を大掃除。新しく読んだ本の多くは古本屋に直行させているのだから、長いあいだ棚に放ったままにしている雑誌、教本もそのうちに整理処分せねばなるまい。LPやCDはどうしよう。これらも何年かすれば処分することになるであろう。
 6日(火)、雨の中を獨協大学へ。火曜日の受講は次週でお終い。LEDシーリングライトの故障で旧蛍光灯ハウジングを再取り付けし、照明は新規LEDにするもリモコン動作不良。2時間ほど前に購入した商品を抱えて車で5分ほどの販売店に行き、担当の女性店員さんと一緒に動作不良の再現確認をし、交換品も動作確認をする。感じのいい店員さんはとても恐縮していたが、こちらは動作確認のアドバイスをしたりして楽しかった。
 7日(水)、不燃物の処分準備。50cm以下に収めるために電機製品や鉄製品を切断。金属切断時の音は働いている気分になれてある種の快感を覚える。

 最近は飲酒頻度が低い。飲んでも以前よりも量が減っている。4日(日)は4日ぶりの酒、ビール500ccを飲んだ後に久々の日本酒だが2合も飲んでいない。そしてまた3日間飲んでいない。今年に入ってからの飲酒日は50%を切っている。飲むと飲むだけで何もしなくなる、本も読まなくなる、時間だけが過ぎてしまう、という罪悪感めいた感情がときどき襲ってくる。


 <斎藤詠一 『到達不能極』(講談社、2018年)>:2018年2月の南極遊覧飛行と南極観測隊、1945年1月のマレーシア/ペナンの海軍航空隊が交互にに描かれて物語は始まる。2018年ではツアーと観測隊は通信が途絶え、救援を待つ前者と救助に向かう後者が出遇う。1945年は南極にて研究を継続させるドイツのユダヤ人親娘が日本軍の飛行機で南極に向かう。日本軍のニ飛曹信之は70年以上の時を経て南極を訪れ、そこには後に血縁関係が明らかになる拓海がツアーコンダクターを担っている。信之と拓海と何か秘密を抱えている米国人の3人が物語の中心になり、観測隊員の二人が主な脇役になっている。マレーシアから南極へ、そして南極での自然との戦い、米ロの思惑と攻防、1945年のドイツ人との銃撃、スケールの大きい冒険・アクション・ミステリーが展開される。スピーディーな展開、文章の上手さに吸い込まれて読み進めた。が、意識が電気回路に残され、それが生身の人間と交信するという設定は何十年も前のSFのような陳腐さを感じた。1945年のペナンでの同僚たちとの交流(エピソード)が2018年の伏線になるというのも安易な設定と感じる。もうちょっとひねりというか深味を持たせて欲しかった。
 今年度の江戸川乱歩賞受賞作で、乱歩賞は4年ぶりに読んだ。楽しませてもらった。

2018年11月4日日曜日

対抗戦ラグビー

 対抗戦ラグビー、慶明戦は拮抗したうえで明治が勝利すると予想していたが、拮抗のうえ慶応が勝った。
 我が早稲田は夏に帝京に勝利したとはいえそれは参考にならず、どうなるか分からない。でも夏に勝ったことで期待は膨らみはすれど、帝京は慶応との接戦からさらに強くなっているだろうからと早稲田への膨らむ期待は自ずと抑え気味となっていた。勝つなら接戦、負けるなら完敗と予想していた。結果は完敗。個々のパワーと集散の早さで完全に負けている。早稲田は中野がいいプレーをするがあとは圧力を受けてであろうミスが多い。何といってもペナルティの多さは相変わらずで、結局は入りの悪さとペナルティの課題は解消されていない。4Tを取ったといってもそれは0-28で前半で勝負が決してからの後半のこと。帝京の落ち着いて安定した組織的プレーに比べると、帝京の圧力でペースを作れない早稲田はバタバタしているという印象がある。

 今年の対抗戦は秩父宮での観戦も止した。家でテレビあるいはPC(オンデマンド)で観ている。以前ほどモチベーションが昂らないし、移動時間も面倒くさくなっているし、それに以前に増して人の混雑を避けるようになっている。

 今日は大掃除の3回目。体力(耐力)・気力の低下で全掃除の分割払い的実施。あと2回で完了の予定。

2018年11月3日土曜日

11月に入った

 11月に入った。1年が経つのは本当に早い。変化のない毎日をおくり、同じ事を繰り返していると時間の経過は早い。電車の席から眺める景色が初めてのものだと時間はゆっくりと進むが、同じ経路での復路の時間は短く感じる。これと同じようなもので、初めてのドラマを観ても、政治茶番劇を見ても、本質的には同じ事を繰り返しているだけで結局は変化のない、眺めたことのある情景が目の前にあるだけという感が強い。年齢を重ねると時間が早く進むと感じるのはそういうことなのだろう。ならば、ゆっくりと進むためには、自分に対して自ら、初めての経験をさせることしかなさそうだ。

 <呉智英 『日本衆愚社会』(小学館新書、2018年)>:帯には「「自称知識人」の無知・無教養を白日の下に晒す」とある。自分は知識人ではないし、知識人に比べれば無知・無教養であることは間違いない。しかし、だからといって広範囲にわたって知識を記憶することが教養なのではない。そもそも記憶力は劣化する一方である。大事なことは様様な情報や思考に対して是非を問う感性を持ち続けようとすることであると思っている。
 教養とは考える際に抽出しをどれだけ持っているかということ、と何かで読んだし、そう思う。感性は抽出の多さで豊かになろうし、抽出しを開けるということが想像することともいえる。
 呉さんの書き物はただ流されがちになる自分に刺戟を与えてくれる。

 <原田実 『偽書が描いた日本の超古代史』(KAWADE夢文庫、2018年)>:日本の始まりを超古代に求め、そこには多くの神話が創られ、偽書の多くは明治になってからの出現が多い。これは何故なのかと考えてみれば、明治になって統治のために天皇が祭り上げられ、実証できない神武天皇などの神話が持て囃されたことと無関係ではなかろう。偽書を編み出す人の行動原理は理解できないが、世間から注視されたい、特異な存在でありたい等々であり、「マズローの欲求説」に習えば、経済的に恵まれるためにまず自分の居場所を作り、その場においての存在価値を認知されかつ尊重され、更にはそこで己の能力を発揮すると共にその能力を可視化したい、というところなのかと思う。そして荒唐無稽だろうが何だろうが、その場から利益を享受したいと欲する人たちが周りを囲む。
 かの有名な「竹内文書」や青森県にあるキリストの墓、『東日流外三郡誌』など17篇が紹介されている。『東日流外三郡誌』は古代史研究で著名な古田武彦が指示したことで大きな話題となった。以前に『偽書「東日流外三郡誌」事件』を読んでいただけにその内容は概略知っていたが、改めて滑稽さを覚える。他の偽書についても似たような感想しかない。
 書店をぶらついていたらこの文庫本のタイトルが目に入り、パラパラと頁を捲ったら「物部文書」のところで偶然にも「秋田県の山中、大仙市協和」の文章が目に入った。そしてそこに「唐松神社」や「宮司物部家」、「進藤孝一」もある。かつて暮らしたことのある宮田又鉱山について調べていたときに登場する地名・神社・人名である。ただそれだけでこの文庫本を購入した。残念ながら宮田又鉱山の名は登場しない。

2018年10月29日月曜日

掃除、泥酔、マンガ、小説、ブックレット

 夏の汚れやカビをキレイにしておこう、昔と違って体力・気力が低下して家の大掃除を一日ではできなくなっている、だからと早めの25日には風呂掃除。いつものようにパネルもなにもかも取り外し、外観上は見えない内部配管部分なども徹底的に清掃し、床のタイル部分も研摩に近い作業を施す。入れ込みすぎて約4時間半も要してしまった。終了後に風呂に入ればいつもよりは身も心もスッキリする気分となる。

 26日、梅島と西新井で飲み、電車を乗り越すこともなく帰宅したが玄関をあけたときはほぼ泥酔状態で記憶も斑模様。調子に乗って3件目で少々日本酒を飲んだのが反省と後悔の源であり、眼鏡も持ち主に呆れたのか無断で旅立ってしまった。何本かの眼鏡を都度使い回しているのでもしかしたら独占欲に駆られていじけてしまったのか、否、眼鏡を通して外を見るよりもまずは己の内面を観察せよ、その際には眼鏡は不要だろうと突き放してしまったのかもしれない。

 <斎藤貴男 『「明治礼賛」の正体』(岩波ブックレット、2018年)>:「明治に学べ」「明治に倣おう」と叫ぶ姿勢を支える一つには福沢諭吉の「一身独立して一国独立する」がある。その福澤の『學問のすゝめ』では「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」とあり、一般的には「と云へり」が省かれて、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」はいかにも福澤の言葉とされているが、実はそうではない。時代を経て福澤の言葉を切り取って都合よく広めたのは「明治」を急ぎ創らねばならなかったことの裏返しでもあろう。
 福澤の「一身独立して一国独立する」の真の意味を本書では批判的に捉え、現首相が「福澤を持て囃す意図」は、「欧米列強の侵略が眼前の恐怖だった時代を生きた福澤の思想を、そのまま現代の日本に持ち込もうとする意図」(63頁)でもあると断じる。そして「歴史を学ぶ意義」を問う。持て囃される福澤の『學問のすゝめ』初編には「實語教に、人學ばざれば智なし、智なきものは愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は學ぶと學ばざるとに由て出來るものなり」とある。持て囃す側は、何を学んでいるのかを自問すべきではなかろうか。

 <オカヤイヅミ 『ものするひと 2』(KADOKAWA、2018年)>:ほんわか、ゆったり、言葉と文字がひらひらと舞う。

 <原泰久 『キングダム52』(集英社、2018年)>:主人公の信も、好きな羌瘣もほんの少ししか出てこない。あとは激しい戦いが続く。

 <藤島大 『北風 小説 早稲田大学ラグビー部』(集英社文庫、2018年)>:表紙にアカクロのジャージ(襟は白い)、背番号は2。主人公は福島県立積城高校出身、となればその高校名は安積高校と磐城高校から一字ずつとった高校名で、モデルは磐城高校だろうとすぐに思う。その主人公は高校でラグビーをし花園を逃し、受験勉強に明け暮れた浪人一年間を経て早稲田大学商学部に入学し、ラグビー部に入部してからは外勤の部員となる。狙うは3本目・2本目のスターティングメンバーに名を連ねること。
 年代は1980年前後と思しく、故に、主人公が福島県出身であり果敢にチャレンジする姿は、かつて雑誌で読んだことがあるドスさんこと渡辺某さん(現在は現在は二本松でホテル経営)を彷彿させる。ちなみに当時明治で活躍した河瀬選手は現早稲田1年生FB河瀬選手の父である。
 1年生時にはレベルの低さから入部を許可されず、2年になって再チャレンジした部員がいたことは知っているし、著者も同時期にラグビー部員であったから、著者の早稲田ラグビーへの思い入れが十分に詰まっているのであろう、とても楽しめた。もともと、藤島さんの文章は好きで(試合での解説も好きである)、その魅力はこの小説の中にも溢れている。

 今日、29日はキッチン周りの掃除。2時間半ほどで終えた。内部までキレイなものであるとは自画自賛。

2018年10月24日水曜日

オープンカレッジ、新書2冊

 20歳前後に早稲田大学の学生であったころ、周りにいたのはほぼ同年齢の-1歳や2歳年長の人もいたが-男ばかりであった。60歳で法政大学の通信教育に編入学し、年2回のスクーリングでは年齢の幅も広く、10代から70歳超の人たちがおり、綺麗な人もそうでない女性も多く見かけたり、若い人から声をかけられたりして大学のキャンパスの華やかさもあった。今秋は9月より獨協大学オープンカレッジの2講座に通っている。火曜日と土曜日の2回で11月下旬まで続く。
 選択している講座内容のせいであろう、50代から70代しかいないようである。圧倒的に60代後半から70代が大半のようで、若さに基づく華やかさは全くない。自分も69歳であるから華やかさの欠如には大きく関与している。大学のHPを見ても60代が最多で次に70代、50代と続き、女性が6割を超える。
 駅からは団地の風景、キャンパスの建築物、行き交う学生の雰囲気を観察して歩く。過去に体験しているキャンパスのイメージとはかなり違っていて、その違いがどこから発しているのかを思いながら歩くのが癖になっている。

 <鈴木貞美 『日本の文化ナショナリズム』(平凡社新書、2005年)>:ナショナリズムとは「ある民族や複数の民族が、その生活・生存の安全を守り、民族や民族間に共通する伝統・歴史・文化・言語・宗教などを保ち、発展させるために国民国家(nation-state)を形成し、国内にはその統一性を、外国に対してはその独立性を維持・教化することを目指す思想原理や政策、あるいは運動の総称」(28頁)。だから本来は国家の強権による秩序統制や国粋主義とイコールではない。ナショナリズムが戦前の国粋主義と直線的に結びついているために負のイメージで捉えらる傾向が一般的にはある。現在、健全なナショナリズムがねじ曲げられ、偏った主張が多くなってきているのは確かである。ナショナリズムの形成はジワジワと政治が変化していくなかで、人びとの生活と密接する文化・文芸により強く表れる。具体的には今の社会の動きを見ればわかる。
 時々の時代においておきた出来事などと絡めて日本の文化がどう変遷していたのかが概説されている。それは、目次からのタイトルを拾って書けば、「発明された歴史」の過程で「天皇制も発明された」のであって、国語とは何かが解説され、「日本文学」は「二重の発明」であり、「伝統の評価基準」が形成された。そして「大衆ナショナリズムの時代」を迎え、大東亜共栄圏の思想へと流れ、「戦後の文化ナショナリズム」へと繋がる。
 この新書、自分にとっては総花的で、なかなか頭を整理できないままに読んでしまった。

 <鴻上尚史 『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書、2017年)>:「死ぬのが怖いのか、この卑怯者」と発することの卑劣さは次の指摘が的を射ている。すなわち、「大衆の一人ひとりは卑小であり<死ぬのがこわい>人間の集まり。そこに死を出すのは一種のエリート意識にしかすぎない。死ぬか死なないかを判断の尺度にする価値観は最終的には存在の放棄=滅亡にしか繋がらない」(板坂剛『極説 三島由紀夫 ―切腹とフラメンコ』)。
 特攻隊を創って精神論で部下を死地に向かわせ、敵艦を攻撃するよりは死ぬことを目的化し、敗戦後は特攻で死んだ兵士の忠烈と勇気を讃え美化する。愚かとか呆れを通り越して滑稽でしかない「特攻で死ねという命令者」の命令。戦没者慰霊祭に顔を出し、死者(「英霊」という言葉は使いたくない)の勇敢さを讃え、自らを責任の枠外におくかつての命令者の言動は偽善であり、内省するという思考能力も欠けた無知・無恥者である。彼らが思う愛国とか大和魂とかは理解できるものではない。しかし、彼らに憤りを覚えそこで停止するよりも、夫が戦死した際に人には悲しみを見せずに涙を流し、「お国のために見事に散った」と言わざるを得ない状況を作り上げたこの国の形に深い疑問と憤り、あるいは諦めを覚える。いかなる場面でも「天皇」が語られるが、単に自己の無責任さをその言葉で蓋ってしまう人たちにはその人の怯懦な性癖を見る。その性癖が「集団我」(南博『日本的自我』)に繋がるのであろう。

2018年10月22日月曜日

泥酔懺悔

 <- 『泥酔懺悔』(ちくま文庫、2016年)>:12人の女性作家による酒にまつわるエッセイ。
 オレも酒は好きだし、いろいろと沢山の失敗はあるし、もちろん泥酔も思い出せないくらいある。しかし、”大学生になって、酒に酔って泣いて笑ってセックスをしまくって傷ついて、だからといって大人になるわけではない大学生活を送った”(瀧波ユカリ)わけではない。大体、金もないし、かといってアルバイトをしたくもないし、それに大学では周囲に女性がいなかった。
 ”急性アルコール中毒になり救急車で寮の修道院に運ばれ、結婚してから5歳の娘が威勢良くビールを飲み、みごとな足の運びの千鳥足の酔っ払い”(平松洋子)を経験したこともないし、”盛り上がって知らない酔っ払いのハゲ頭にマジックでお陽さま印を書く”(室井滋)こともなかった。
 自宅で”下半身裸のままにトイレの床にとぐろを巻いて横たわる”(三浦しをん)こともなかった。但し酒の強いオレに対抗して泥酔した同僚が居酒屋のトイレで便器に顔をのせて酩酊状態になっていたことはある。
 ”テーブルのしたで脚の指をつかって母のスカートめくり、娘にお酌をさせる”(大道珠貴)ような家族ではなかったし、酔っ払って”家で目が覚めたらジーンズがなくなっていた。はいていなかったのではない。クローゼットにも、家にもない”(角田光代)という摩訶不思議なことも経験していないし、まして人前でズボンを脱ぐとか尻を出すとかの性癖も持ち合わせていない。そういえば、勤めていたとき、酔うと尻を出したがる後輩がいた。いまも宴会ではパンツを下ろしてケツを出しているのだろうか。
 ”近くのホテルに侵入してきれいだからと上機嫌になって寝てしまう。カラオケ店でトイレに行ったらもとの部屋がわからなくなり受付前のソファで朝まで寝る。あたりに人のいないところまで行ってちょっとだけ路上で寝る”(藤野可織)なんてことは飲み友達にはいなかった。否、車道の中央にある進入禁止エリアで寝ることに大学時代はスリルと快感を覚えていたという同僚が一人いた。
 酒を飲み始めたのはいつだったか、高校3年の時には部屋にウィスキーがあった。煙草もあった。高校1年のときにクラスの友人の自宅に行ったら彼の母親がビールとグラスを3人分持ってきて一緒に飲もうと勧められたことがあった。もちろん飲んだが、お替わりをしたかどうか、注ぎ足してくれたのかどうかまでは覚えていない。

2018年10月21日日曜日

PCとのバトル

 新規PCを近場のマウスコンピューターで購入することに決め、店頭販売品とBTOの両者を対象にスペックと価格をいろいろと検討すること約2日、11日午前に春日部ダイレクトショップに行って15.6インチのノートPCを購入。メモリーは16GB、MS Officeは2019バージョンの発売を待つことにしてWPS Officeを代用として購入。WPS Officeは現在も一台のPCで使用していて細かい点を除外すればほぼ問題ないのであるが、MSより2019が発売されたら乗り換え是非を検討する。
 新規購入で現在自宅にあるPCはすべてノートの4機。(A)17.3インチ(windows7→10)、(B)15.6インチ(windows10)、(C)15.6インチ(windows7)、(D)Surface3(Windows8.1→10)。そして廃棄予定の古いPCは(E)Gateway FX(windows vista→7)。(A)から(C)はマウスコンピューター、(D)はマイクロソフト、何れも64bit機で(E)はゲートウェイ32bitでディスプレイ解像度は1920×1200と変則的、遅いことを除けば正常に稼働する。
 新規購入の(B)はそれまでサブとして使っていたものと同レベルにするためにソフトを入れるのに時間がかかった。ひどい目にあったのが(C)で、連れ合いが使用する仕様にするために不要なソフトを削除したりとそこまでは問題なく進んだが、彼女の部屋において立ち上げたらエラーが出てリブートを繰り返す。拙い知識でネットで調べたりするが分からず、結局はwindows7をクリーン・インストールすることにした。このマシン、購入から4年間いじりまくってしまい、windows7→10→7と変遷し、修復も何度もやっている。結局クリーン・インストールはうまくいったのであるがアップデートや、ドライバーのインストール、MS Officeの再インスト-ルやら環境整備に長時間を要し、全機の環境設定が終了するまで述べ4~5日もかかってしまった。
 今は(A)機を今まで通りにメインとして使い、サブには新規マシンの(B)機、(C)機は自分のサブ機から連れ合いの部屋に引っ越しし、(D)は以前と変わらずにリビングでの使用やベッドでの使用、外出時必要に応じての持ち出し。軽~いユーザーである連れ合いが使うには(C)機はオーバースペックで、SSD/120GB+HDD/1TB、GEFORCEグラフィックスはホントに贅沢な(不相応な)マシンではある。

 これでPC環境再設定が終わったと思ったら、なんと期待していた新規(B)機にてWALKMAN (NW-WM1A)が認識されない。以前より(D)Surface3でしか認識しなかったが、まさか最新機で認識しないのにはがっくり。ネットでいろいろ調べてできることはすべてやったがダメだった。いま家の中にあるPCで認識してくれるのは(C)機(D)機、そして廃棄予定(E)機。(A)と(B)にはほぼ同じソフトを入れているので、何かのソフトと競合しているのかもしれない。いろいろと足掻いたが改善されず、もう諦めた。音楽ファイルは新規に格納することもあるし、ファイル名やタグのミスを修正することもあり、その都度WALKMANやHDDプレイヤーをPCにつないで手動で同期させている。認識してくれるPCがあるから実質的には問題はないが、そもそも本来認識すべきであることができないという現象が気にくわない。でも、もうしようがないとギブアップ。諦めるとは放り投げることではなく、多くを知ったうえで、詳らかにし、真相を明らかにすることであるが、その境地には達しなくとも、出来るだけのことはして-2日間をかけて-現況を明らかにしたのだからと自分を納得させた。他にもやりたいことが沢山あるし。

2018年10月10日水曜日

戦後史を語る一冊の新書

 <安田浩一 『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書、2018年)>:近代右翼を玄洋社のころから概説した後、戦後の右翼の変遷を記述する。それは、大まかには、戦前右翼との相違、共産主義台頭への恐れとそれに並行する政界・暴力との結びつき、新右翼の誕生、日本会議に繋がる宗教右派との融合、最近は下火になっているネット右翼への流れである。過去に知ったいろいろな右翼人たちの名前が妙に懐かしく感じられる。
 右翼を次のように分類している。すなわち、戦前からの流れを踏む伝統右翼、行動(皇道)右翼、一水会に代表される新右翼、日本会議などに繋がる宗教右派、任侠右翼、在特会などのネット右翼。そこに共通するのは「天皇」、「国体護持」であろうし、その場に立つ人の思いや生き方は否定はしない。ただ自分にとってはストンと入ってこないだけで、右翼と称する人の一部の主張には同感するところもある。そして思うのは、敗戦後にあの戦争に対してきちんと向かい合うことをしなかった、できなかった、この国の流され方やリーダー層の無責任性。「愛国」といいながら日米地位協定を受け容れていること、同じく防衛を外国軍備に依存している事実を是としていること、左翼や隣国を対語にすることで愛国を語ること、政治権力を丸呑みして代弁し拡声すること、等々には肯けるはずもない。
 年齢に数年の開きはあるが、年に2回ほどグループで飲食を共にする知人がいる。あるとき、彼が、日本のマスコミは中国人に乗っ取られている、漢字一文字の苗字の日本人マスコミ従事者を韓国人と断定する、朝日新聞や沖縄の新聞を悪口する。温厚と思っていた彼の、知識を披瀝するような口ぶりときつくなる表情に驚いたことがある。その浅薄な”知識”はYouTubeなどから得ているようであり、要は自分の感情に素直に溶け込んでくるフェイクニュースを何の疑いもなく真実とすることに半ば呆れてしまった。世の中の事実とされていることを疑い、その上で自己主張を行うということが大事と思うのであるが、疑うことの姿勢が決定的に欠けており、自己主張も主張ではなく感情の吐露としか思えなかった。反論しても議論にはなりようもない。
 敗戦後の処理に対し、日本とドイツを比較してみたいのだが-特に日本国憲法とドイツ連邦共和国基本法の成立過程-、概説する良テキストをまだみつけていない。

2018年10月9日火曜日

ラグビー、PC

 6日の対抗戦ラグビー、早稲田は足利で青学戦。この日もPCをテレビにHDMI結線してのオンデマンド観戦。昨年訪れた足利陸上競技場の映像が流れ、、渡良瀬川に架かる橋や寺、ぶらぶらと歩いた街並み、足利学校などを思い出した。ついでに古印最中を購入しなかったことに連れ合いから軽い不満があったことも。
 帝京の青学戦は141-7のスコアなので、それに比べて果して早稲田の得失点はどうなるか、また前試合で気になったペナルティやハンドリングミスは修正されているのか、観戦ポイントはそこにある。メンバーはまだ確定せずにいろいろと試している状態で、SH斎藤・SO岸岡・CTB中野・No8丸尾あたりは固定で、あとは都度入れ替えられた布陣。今の時期はどこの大学も同じ状況下にある。
 キックオフからの入りは青学がボールを支配しPGによる先制得点のチャンスを得るも失敗。10分過ぎてから早稲田がやっとトライをし、そこからはノーサイドまでほぼ早稲田が支配し、終わってみれば123-0。早稲田のペナルティは5でハンドリングミスは4。青学の弱いプレッシャー、遅いディフェンスのせいもあろうが修正はされているのであろう。課題は相手のレベルが高くなってきたときにどうなるかということ。零封は良かった。123点という得点も満足。不満は入りのもたつき。また、青学はこれほど弱かったっけという思いがあり、このままでは恐らく昨年に続き入れ替え戦に臨むことになる可能性大である。
 個々の選手では斎藤・中野はいうことなしだが岸岡の単純な相手側へのキックは疑問をもつ。あと1年生のPR小林(途中で退いたがマン・オブ・ザ・マッチ)、同じく1年生のFB河瀬、CTB伊藤、途中から入ったHO宮里たちの動きが良かった。桑山兄のプレースキックは安定性に欠ける-斎藤の素晴らしさが尚更に光る。
 明治・慶応の得点が予想よりも伸びず、そこそこの失点も意外で、これはまだまだチームを作り上げているからなのであろう。リーグ戦グループの法政には是非とも3位以内にないってもらいたい(専修に負けたのがイタイ)。

 連れ合いが使用しているPC1台を廃棄し、自分が常時使用している3台を玉突きで入れ替えし、新品1台の追加購入を図っている。多少の不具合があるグレードアップWindows10への対応のために純正Windows10機を具える意味もある。BTOでの購入前提のために久しぶりにスペック検討に入り、それに時間を要していて他のことに手が回らず、内心少々落ち着かない状況。一両日中には結論を出し、近くにあるマウス・コンピューター店舗に足を運ぶ予定。

2018年10月6日土曜日

八丈島と今日

 東京都の島には過去3度訪れた。最初は高校在京同窓会で10年前だったか大島に往き、まだランニングにはまっていた時でTYと朝のジョニングコースを走ったことを思い出す。月日をおいて昨年は再びの大島、そして新島・式根島・神津島を訪れた。連れ合い共々に記憶に残っているのは式根島での金目鯛、これはホントに美味しかった(そのときの反語のように出るのは房総で食した大して美味しくないのに高かった同じ金目鯛)。小笠原は2012年に家族で行っているし、残っているのは八丈島(三宅島・御蔵島は候補除外でゴメン)で、先月26日~28日に例の如くパックツアーで行って来た。一つのホテルに連泊なので楽だった。しかし、最近はついていないのか雨の旅行が多く、羽田を出るときは遅延して飛び立ち、2日間は殆ど雨模様。前回の北海道といい最近は天候に恵まれていない。そして八丈島の観光は気持ちが昂ることはない。ただ大坂トンネル入口の絶景ポイントから眺めた八丈富士は素晴らしかった。
 ホテルは食事も普通の観光メニューといったところだが、焼酎は期待通りに美味かった。二日間でそこそこ飲んだのであるがどれも美味かった。そして、レストランでのフィリッピン出身の女性が美人で夫と共々酒好きで、言葉が丁寧でとても好感を抱いた。彼女に一時代前の良き日本人の言葉遣い、振る舞い、笑顔、屈託の無さ、日常から出る素直さ等々を感じた。
 最終日は天候も良く、風もなく、前日とはうってかわって飛行機も飛んで、現地ガイドさんも若い魅力的な人に変わり、楽しい一日だった。

 今は午前1時過ぎ、酔っている。今日は昼から酔っていて、飲んだのはビール、焼酎、久しぶりに自作カクテル(ベルモットやホワイトラム、テキーラ、ウォッカ、ウィスキー)を飲み続け、これまた久しぶりに字幕の洋画アクションDVDを眺め、時々居眠りをし、大好きな大坂なおみさんの速報を確認しながら過ごした、そして25時を過ぎた今はウィスキーをなめている。

 明日は獨協大学の二つ目の講座受講、そろそろ眠らねばならない。もうすぐ70歳になる身としてはこんな一日を過ごしていいもんだろうかと思いながらいるが、否定する気持ちにはならない。

2018年10月4日木曜日

長距離列車移動の本

 <下川裕治 『鉄道2万7千キロ 世界の超長距離列車を乗りつぶす』(新潮文庫、2018年)>:下川さんとカメラマンの二人が長距離列車に乗り込んで始発駅から最終到着駅まで乗り続ける。3日から7日もただただ列車に乗り続ける。インドでの社内環境は最悪で定員72名の車両に200人以上がひしめき、まともな姿勢で眠ることも許されない。中国では広州からラサに向かい、ロシアはシベリア鉄道、カナダはバンクーバーからトロントへの大陸横断、アメリカではシカゴからLAまでの迂回路。どれも運行距離/運行時間は想像を絶する。上野から札幌とか、あるいは東京から博多なんて比べるにも値しない。
 9年前の12月、初めて北海道に旅行をし、そのときに乗った寝台特急カシオペアが自分のなかでは一番長い時間を過ごした列車であり、もちろん個室で食事も運ばれてくるし、ベッドもある。それでも夕方に大宮から乗車し、約17時間後に札幌に到着したときは飽きていたし、もう一度乗りたいとも思わなかった。それを思うと本書での列車移動は低グレードの車両で、食事は自分で持ち込み、ベッドもないなんてどれだけ苦痛となるのか想像すらできない。経験もしたくない。異国での長距離列車にロマンチックな思いすら湧き出てこない。
 本書は旅行の本ではなく移動と車内観察記といった内容であり、以前何冊か読んだ下川さんのアジア旅行記にはアジアの濃い空気を感じさせられたが、今回の列車移動の本は内容が淡淡としていて少し物足りなさを感じた。

2018年9月26日水曜日

桜、桜、桜

 ”日本/日本人と桜の関係性”を読みたかったので、書名に「桜」のつく本をまとめて3冊読んだ。

 <佐藤俊樹 『桜が創った「日本」 -ソメイヨシノ起源への旅-』(岩波新書、2005年)>:桜の語源は動詞サク(咲く)に名詞をつくる接尾語ラがついたもの。本書ではサ+クラが紹介されている。サは神霊を表し、クラは「座」の意であったとするが、そのような意味をもつサは古く認められず、信じがたいとする辞典がある。さほどの根拠なくサク+ラを採りたい。
 『万葉集』では桜よりも梅の地位が高く、『古今和歌集』で桜が上になり、平安貴族たちは桜のあでやかさを愛で、散るのを惜しんだ。短期間で廃止されたが、吉野には吉野宮があり、天平年間には維持管理のために吉野監が置かれており、その時代に桜が神木となり、植樹された(という説もある)吉野山は桜の名所となった。現代は春の観光地になっているが、幕末から明治期には名所吉野山の桜はすっかり衰微していたらしい。
 ソメイヨシノは江戸末期に染井村(現東京都駒込)でつくられたサクラで-初めて知った-、日本の桜の、少なくとも7~8割はソメイヨシノといわれている。その特徴は葉が出る前に花が咲きそろい、群れて咲き、短命。ソメイヨシノが各地へ広がる前は多種類の花を植えて楽しむ習慣があったが(向島百花園が例となるヵ)、集中して一面に咲くソメイヨシがその美しさに伴って各地へと普及した。幕末から明治にかけて新しい時代に移り、ソメイヨシノが広がりつつある東京に日本の中心が遷り、やがて靖国の桜が広汎な意味で日本の原点となる。明治維新は何かにつけて維(これ)新たなりとなっており、幕府が続いていたら桜はどう受け止められているだろうとふと思ってしまう。
 日本各地に普及したソメイヨシノは桜の代表格として存在し、一般的に多くの日本人は古くからずっとこの桜を見続けてきたと思い込んでいる。そして、そこに日本人の精神と伝統を関係づけ、桜に意味を持たせるようになった。靖国神社の境内にソメイヨシノの森が現れるのは明治24年頃で、脱亜入欧に走ってきた日本が「日本らしさ」や「日本の伝統」を求めるようになり、日本国民統合の象徴に桜がおかれたとするのはわかりやすい。ソメイヨシノは別名「吉野桜」。吉野の桜は平安時代から和歌に歌われた伝統のある地で、大日本帝国憲法に続く律令国家を立ち上げた天武朝の聖地、天皇親征をめざした後醍醐天皇ゆかりの地、・・・つまり「吉野桜」は明治国家の正統性を象徴する、だから靖国に植えられたのか、・・・桜は日本ナショナリティの象徴、・・・むむ、なるほどと頷く。
 大正期にはいってソメイヨシノは大々的に植樹されるようになった。桜は美しいが、桜に意味を抱かせること、桜を思想を含ませて記号化する。それにはやはり馴染めない。桜は美しいが、川に花びらを浮かべて流れる様や、路に広がる落花には美しさを感じない。そもそも散る華=散華の増幅された美化表現に抵抗感を覚える。
 以上は、『桜が創った「日本」』のみならず、次の辞典をも参照あるいは引用した:『語源辞典』(講談社、2008年)・『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)・『日本語 語感の辞典』(岩波書店、2010年)。

 <水原紫苑 『桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』(平凡社新書、2014年)>:「桜」は美しいと思う。高校1年の春に鶴ヶ城で眺めた桜は、近くにいた女子高校生とともに眩しかった。20歳ころまでの間に読んだ梶井基次郎『櫻の樹の下には』、坂口安吾『桜の森の満開の下』は記憶の隅にへばりついている。一方、「桜」に繋がる「散華」-死と結びつく「散華」-に抵抗感を抱いたのもその時期である。「桜」は美しいが、「桜」に思想を持たせるのは好きではない、嫌いである。
 本居宣長にしても、「普通に読めば駄作の山であるというのが定説になっている」歌を多く詠み、その動機も「歌を知るには歌を詠むしかない、それゆえに歌を詠んだだけ」なのに、「上田秋成が痛烈に辛辣に批判し」た「しき嶋のやまとこころを人とはは朝日ににほふ山さくら花」から最初の特攻隊に「敷島隊」・「大和隊」・「朝日隊」と命名されるには無理がある。「ねがはくは花の下にて春しなむそのきさらぎのもち月の頃」と読んだ桜狂いの西行は「自分のみが知る吉野の山深い梢の花を求め」、「花見の群れを嫌」っていた。・・・群れて一斉に咲く桜に、集団の統一的志向性を見、そこに共同体の象徴性を転写することはキモチ悪いし、ぱっと咲いてぱっと散るなかに命を捨てる潔さを重ねるのは寒寒しい。
 本書に出てくる歌人加藤治郎氏は、自分が働いていた某社に勤めていた人で、たしかこっちが開発設計していた製品の営業部門に属していた。発売記念の小パーティーで一緒になったことがあり、何かの賞を受賞して日も浅かったこともあって、上司より歌人と紹介され、照れていたような覚えがある。随分と前のことである。

 <V・オフチンニコフ 『一枝の桜 日本人とはなにか』(中公文庫、2010年、初刊1971年)>:ロシア人の日本人観察記で、47年前の初刊時はベストセラーだったとのこと。日常的に接している日本人個々の仕草や集団生活も、海の外から来た人が眺めると、なるほどそう見るのかと改めて気づかされることも多い。しかしながら、大事なことは、そのような本を読んで納得を得るのではなく、自分の感性や想像をもって日本とは、日本人とはと思考するものではないだろうか。外国が日本をどう見ているのかを気にし、その逆に日本って素晴らしいと内側から礼賛するのは同根から芽を出している依存性という枝葉であろう。
 「一枝の桜」がなにを表象させて書名となっているのかわからない。日本人にとって「桜」が何なのかに触れていないし、「一枝」と修飾している意味が何なのかもわからない。
 この日本人観察記の欠点は天皇、天皇制への言及がほとんどないこと。本通りを避けて迂回しては本通りの賑わいや廃れ具合のなかを歩けないだろうに。

2018年9月25日火曜日

The Lock Artist

 <スティーヴ・ハミルトン 『解錠師』(ハヤカワ文庫、2012年)>:原題はThe Lock Artist。2011年のアメリカ探偵作家クラブのエドガー賞最優秀長編賞、英国推理作家協会のイアン・フレミング・スティール・ダガー賞、バリー賞最優長篇賞、2010年全米図書館協会アレックス賞(ヤングアダルト世代に読ませたいとする賞)、2012年のこのミスベストテン1位、週刊文春ミステリーベスト1位。
 不幸な出来事から言葉を発することのなくなった少年が解錠に駆り出され犯罪を犯して刑務所に入る。10年後27歳の主人公が、17歳のまだ犯罪に手を染める前の年と、その翌年の解錠をする年とを交互に描写する。550頁を越える小説であって一気読みとはいかなかったが、頁を捲るのが楽しみな「サスペンスと青春小説のほどよい融合」(訳者あとがき)の小説であった。

 ラグビー、2戦目は早稲田vs成蹊大。現地には行かずにPC-TV接続でのオン・デマンド観戦。時間が自由で11月末まで好きなときに何度も見ることが出来るのは便利。月1800円のラグビー限定であり安価と言えるだろう。早稲田のみならず他大学の試合も早送りを混ぜて観たがやはり帝京は強い。東海はまだ出来上っていないし、失点が多い。少し応援している法政は専修に負けた、このままでは大学選手権出場は危うい。
 さて、早稲田は99-5と勝つには勝ったがすっきりしない。成蹊に取られたトライは簡単に穴の空いた所をつかれたし、何よりもペナルティやハンドリングエラーの多さが気になる。バック陣は層が厚くなっていると思う。スタメンに名を連ねる競争が激しい。

2018年9月12日水曜日

無題

 急に涼しくなった。もうこれで秋に向かうのだろうか。
 早稲田vs筑波大のゲームを再度見ると矢張り前季からは大きく変化していると感じる。スクラムは大きく改善して欲しい。

 <青山透子 『日航123便墜落 遺物は真相を語る』(河出書房新社、2018年)>:1985年(昭和60年)8月12日、羽田発伊丹行日航ボーイング機123便が墜落した。公的にはボーイング社の不適切な修理が原因とされている。それは、後部圧力隔壁の破損 → 垂直尾翼と補助動力装置が破損、油圧操縦システムも全喪失 → 迷走飛行 → 墜落であって、乗員乗客合わせて524名中、520名が死亡した。単独機での史上最悪の航空事故である。(以上はWikipediaより要約。)
 事故ではなく事件と呼称する人もおり、様々な疑問・疑惑が投げかけられている。例えば、ファントム2機の追尾、赤い物体、目撃証言への解明回避、墜落場所不明報道にかかわらず自衛隊車両や機動隊車輌の集結、航空機検査長の自殺への疑問、ジェット燃料ではなくベンゼンが含まれる大量のガソリン使用の痕跡、事故調査報告書の論拠となる生データの非開示、ボイスレコーダー・フライトレコーダーの非開示、炭化している遺体、尾翼が回収されない、任意で提供された検死現場のビデオが所有者に返却されず且つその理由が不明確で文書回答も拒否されている、機長だけの制服が行方不明、等々である。
 ヒステリック、エキセントリックな陰謀説もあるが、それは無視するとしても、本書は記述内容への根拠も明らかにしており、真摯に事故(事件)に向き合っている。
 恐らく半永久的に全てが事故(事件)が透明になり可視化されることはないであろう。謎のままに放置され続けるだろう。そして、真相に少しでも関わった人は沈黙を守り続け、記憶から消し去ろうと努め、いつかこの現実から消え去っていく。

2018年9月10日月曜日

テニス-大坂なおみさん、ラグビー-早稲田

 大好きな大坂なおみさんが全米オープンで優勝した。WOWWOWには入っていないので速報はPCにて確認し、後にハイライトを数分間見るだけ。
 4回戦で2セット目を落としたときだけが勝利に不安を抱いたが、準決勝に進んだときは優勝するのではないか、少なくとも錦織がジョコビッチに勝つ可能性よりも大坂さんが優勝する可能性の方がずっと高いと思った。S.ウィリアムスのネットプレーにも十分に対応できると思っていた。
 9日、朝起きてベッドに入ったままスマホで確認したら優勝していた。もう嬉しくてしょうがない。彼女のファンになったのは、まだランク150位あたりにいた3年前。彼女はそのときの目標は100位以内に入ることと言っていた。それからずっと注目して見ていて、今年は68位からスタートし、ベスト10にはまだまだ遠いと思っていたら、3月にインディアンウェルズ・マスターズで優勝。その後パッとしない状態が続いたが今回の全米オープンの試合は素晴らしかった。ハイライトを何度も見た。PCのスクリーン・セーバーにも写真を追加した。
 一方、錦織も準決勝に進んだけれど、対戦相手は連敗を重ねているジョコビッチで勝利は難しいと思っていたらやはり負けてしまった。ジョコビッチは優勝。ナダルやジョコビッチは、特にナダルは次元の違う安定した強さだと思う(全米準決勝途中棄権のアクシデントが長引かなければ良いが)。

 9日のこの日、車を走らせ三郷の市営陸上競技場-セナリオハウスフィールド三郷に行った。目的はこの日に開幕した関東大学ラグビーの早稲田vs筑波の観戦。家から50数分で草いきれのする駐車場に車を駐め、少し歩くと陸上競技場。観戦は無料。今年6月にオープンしたばかりで大型映像装置が目立つ。日除けのある観覧席に座るが、観覧席は通常想像するスタンド席ではなく、フィールドから数段の階段状のもの。しかも目の前にはポールが立っている。いままで幾つかの地方都市陸上競技場で観戦をしているが、観戦コンディションがこんなに悪かったことはない。今後ここで早稲田が戦うことがあっても、自宅から近いといえども、二度と行かない。
 春に早稲田は筑波に負けているので、選手のレベルが今とは違うとはいえ、まずは勝つことであって、勝っても春のスコア(21-38)が引っ繰り返るくらいかと漠然と思っていた。キックオフ早々に古賀がトライして前半は17-3。スコアはパッとしないがFWDの動きは良く、デフェンスが強い。後半は1T取られたものの38-7、トータル55-10(8T6G1PG-1T1G1PG)で快勝。早稲田のトライはすべてバック陣で3Tの古賀がマン・オブ・ザ・マッチ。風が強いせいもあろうが、斎藤のゴールキックは6/8、それでも何度かの難しい位置からも綺麗に決めていた。不満は、これも風の影響があろうが岸岡のキックの精度が低く、ハイパントも深いと思ったことが何度かあった。あとはラインアウトの精度をもっと高めて欲しいこと、スクラムが筑波に劣勢だったことで、コラプシングも複数回取られたようだった。でも、初戦の筑波戦でこの快勝は次戦からの期待が膨らむ。少なくとも昨年までの弱さからは脱却しているとの印象を得た。
試合終了後に駐車場から出る車の混雑が予想されたので後半36分には競技場を離れた。その時の早稲田の得点は48、従ってノーサイド直前の桑山(淳)のタックルから中野の70独走トライのシーンは生では見られなかった。
 次戦は府中西、その次は足利、さらに前橋と続くがいずれも遠い。自宅で観戦する。昨年と同様にJ-sportsラグビー・パックのオンデマンドを購入した(1800円/月)。この日の早稲田vs筑波戦も帰宅後すぐにPCで振り返った。
視点が低いし、ポールが邪魔。
歩道からの観戦もある。カメラの櫓が目立つ。
道路ではいつもの旗振り。

2018年9月6日木曜日

行ってみたい時代?

 「行ってみたい時代」にてアンケート結果が掲載されている(朝日新聞、2018年8月25日)。第1位から20位までがリストアップされ、そこに敗戦後の時代がなかったことに意外感を抱いた。20位に続くとしてやっと”占領・復興期(1945~50年代半ば)”が補足的に記述されている。
 第1位が”高度成長期(1855~73年)”(311人/1282人)、第2位が”バブル期(1987年~91年)”(300人/同)でその次は”平安時代”だから平穏な繁栄した時代を懐かしむor憧憬を抱くのかもしれない。そして”幕末(1853~68年)”、”江戸後期(18世紀初頭~1853年)と続く。
 自分が”占領・復興期(1945~50年代半ば)”に行ってみたいと思うのは、一つに混沌の中にこそ最も未来への展望の礎を築く可能性が高かったのではないかと思い、一つに価値観をドラスティックに変化させられる時代であったと思うからである。三つ目にそれらの可能性に気づくことなく大方は潰してしまったと思うからである。その結果がいまの懐旧的志向に対して繰り広げられる無駄な議論、腐敗した権力構造、前近代的な格差・差別、無責任体制・社会、等々に繋がっていると思う、譬えれば「東京五輪学生ボランティア応援団」に書かれているような。

 <中村文則 『A』(河出書房新社、2014年)>:全く楽しめなかった。社会に棲息する普通人が内面に潜めている異常性を顕すとこうなってしまうのか、と。

2018年9月1日土曜日

雑記

 <待鳥聡史 『代議制民主主義 「民意」と「政治家」を問い直す』(中公新書、2015年)>:代議制民主主義の基本概要をある程度は理解しておこうと頁を開いた。歴史の記述や国別による比較は軽く流し、日本の制度や課題を中心に読む。選挙制度、多数決決議に不完全さがあるのは当たり前であって、そもそも民主主義を絶対視することにも懐疑的であり、「代議制民主主義の具体的なあり方に「正解」は存在しない」のであって、結局のところは議会制度の中枢にいる、人格性と置き換えてもよい個々人の問題に行き着くと思う。

 <フェランデズ/カミュ 『バンド・デシネ異邦人』(彩流社、2018年)>:カミュ『異邦人』、高校時代か20歳くらいに読んだ記憶がある。『ペスト』も新潮文庫のシルバー色カバーを覚えている(間違っているかも知れないが)。読んでどうだったのかは全く記憶になく、ただ文学に触れるときの必須小説だとの流れに入って、おそらくは理解も出来ずに活字を追い、頁を捲っていたのだろう。しかし、自分が世の中を眺めるときの視座というか理解方法というか、些少は影響を及ぼされていると思う。なぜなら今このマンガ版に眼を通すと違和感なく頭に入ってくるから。「不条理」などとあえて肩肘張らずとも、この世の中の人間が、あるいは総ゆる命が生まれて消えるその流れに「条理」で説明できるものなどありはしないと思う。あるとすれば「不条理」と説明するその「条理」だけという、その感覚が離れない。

 本に書かれている内容の取捨選択、精読すべき箇所と棄てる箇所をはっきりさせるように読書方法を変えた。それによって本を読むスピードがあがっている。振り返りのために要点を整理し、エクセルにまとめることだけは省かないようにしているから、学術書的な本は2度読みになる。これは佐藤優の著作から多くのヒントを得ている。

 今日は午後から新宿に出かけ、友人たちと飲む。猛暑から気温が低くなっていることがありがたい。酩酊、泥酔、電車乗り越しに注意せねば。

2018年8月31日金曜日

縄文土器を見に行った&本3冊

 28日、東京国立博物館「縄文 1万年の美の鼓動」に行ってきた。気温が比較的低い日を選んだのだがやはり暑い。それに混んでいた。チケットを購入するのに長い列の後ろにつき、少しずつ歩くなかでも汗は止まらず、ハンカチと手拭いの両方とも濡れ、展示している平成舘に入っても入場制限で待たされた。前日は休館日、この週は平日開館の最後の週、夏休み最後の週、等々の理由があるにせよもう少しすいていると思っていたのはミスだった。もっと早い時期、例えば7月の平日にでも行けば良かったか。
 最初に感じたのは予想よりも縄文土器は大きい、次は火炎土器に代表されるような迫力ある造形美、強く惹かれたのは小さな手形・足形付製品。1000~2000年前に誕生した子の手形・足形には何の言葉も発することの出来ない時空を超えた人を感じる。
 ショップのレジ・カウンターには長蛇の列。何も買わずに博物館を出て、上野駅に向かい、久しぶりにがんこ亭の豆乳バウムクーヘンとみはしのあんみつ・みつ豆を買い、帰宅した。

 <平智之 『なぜ少数派に政治が動かされるのか?』(ディスカヴァー携書、2013年)>:副題は「多数決民主主義の幻想」。問題の根深さに対する現象の深耕と原因分析を学術的に述べているのかと、よく確かめもせずに買ってしまうと落胆する、その典型的な本。著者が政治家としていた時にこうしたい、ああしたい、と主張していることを述べているだけ。著者は、1期だけ民主党の衆議院議員であり、その後離党しみんなの党で出馬するも落選を続け、現在は何をやっているのか知らない、関心もない。

 <釘原直樹 『人はなぜ集団になると怠けるのか』(中公新書、2013年)>:副題は「「社会的手抜き」の心理学」。書かれている内容は、自分の経験を思い出してほぼすべて肯ける。再確認することは、人は集団の中で手抜きする。それは場所や時代が変わろうが、人の世の基層にある。どうしようもないとネガティブに捉えるのではなく、人はそのようなものと認識することであろう。「社会的手抜き」はいつでもどこでもどんな場面でも見られる。
投票参加行動の合理的選択モデルに、自分の選挙投票行動をあてはめて分析するのも一興。
 R=P×B-C+D
  R:投票参加により有権者が得る利益の期待
  P:自分の1票が選挙結果に影響する主観的確率(高確率の人は妄想的楽観主義者)
  B:選挙結果の何如による利益の差(もしかしたらという淡い期待観ヵ)
  C:投票参加にかかるコスト(足を運ぶ時間に置き換えてみればよい)
  D:投票することの社会的価値や心理的満足感(殆どの人は後者の満足感ヵ)

 <乙川優三郎 『ある日 失わずにすむもの』(徳間書店、2018年)>:12篇の短編集。共通するのは、世界を襲っている戦争に主人公が召集されるところで物語が結ばれること。
 貧民街上がりのサックス演奏者が弟に残したもの。思いを寄せる男が戦争に駆り出され、大学を中退してストリッパーになる女性。孤独で村の人たちとの交流を拒んでいたワイン農家が徴兵されて村に託したもの。線路際に一家で住む男は娼婦の妹を守る。ホテルで働いて妻と将来の生活を計画する男。アメリカ国民となっている中国からの移住者。房総で漁師をやりジャズを愛する男。きっと儲かると事業を始めている男と恋人。転々と会社を渡る歩きやっと安住の地を得た男と居ついた猫。等々、陽のあたる場所とは言えない社会でつましく生きてきた人々が戦争に駆り出されて失うものと、失わないもの。
 静かに時が流れ、生活が過ぎて、現実を受け容れ、身の丈に合った先に思いを馳せる。著者の小説は静謐でいつも落ち着かせてくれる。

2018年8月24日金曜日

キッチン・クローゼットの修理

 キッチン・クローゼットのパネルを閉めるとき、最後の閉め終わりでガリガリと異常音がする。3年前に修理した箇所の不具合再発で、歯車が摩耗してしまったのか悪い予感がした。歯先の摩滅ならば代替品を容易に入手するのは面倒。だが、原因は前回と同じく、オイルダンパーに嵌合装着されたピニオンがダンパー軸上スラスト方向にずれてしまいラックとの噛み合いがうまくいっていないことだった。ピニオンのスラスト方向に2mm近いクリアランスがあり、これは設計ミスあるいはスペーサーの取り付け欠品。プレーンワッシャーと手作りしたプラスチックシートでクリアランスを極力なくした。これでオーケー。全作業時間は1時間もかかっていない。
 サラリーマン時代は機械製品設計の仕事に従事してきたので修繕結果に誇らしい気持ちもちょいとはある。その誇りの向け先は連れ合いしかいなくて張り合いがなく、もうちょっと複雑な機構の修理なら自慢の声もより高らかにしたのであるが、彼女の反応は大したことはなかった。とは言っても、娘やその子どもたちはおもちゃや身近に使っているものに不具合が生じると(娘婿にではなく)自分に直してと持ってくる。先日も息子の子どもが壊したおもちゃをすぐに応急処置で直したら息子の嫁さんがいたく感心していた。声にも表情にも出さず、心の中ではどうだ凄いだろと呟く。

2018年8月23日木曜日

暇潰しに新書2冊

 <石蔵文信 『なぜ妻は、夫のやることなすこと気にくわないのか』(幻冬舎新書、2014年)>:副題に「エイリアン妻と共生するための15の戦略」、帯には「それは、性格ではなく性ホルモンのせいです」とある。いちいち納得も出来て面白いのであるが、我が妻との合致度合いには触れずに幾つか抜き出す。
 「女性は誰でも、生まれからズーッとわがままである」-女性に限らない。「すべての結婚は「一時の気の迷い」である-ギャンブルのようなもので、時には判断の誤りもあり、且つ忍耐力・記憶力の低下に伴って離婚と再婚を繰り返す者もいる。「結婚生活とは「エイリアンとの共生」である」-過去とエイリアンは変えられない、変えられるのは未来と自分である。「妻の怒り恨みは無期限有効・利子付きのポイントカード制」-男は初めてのキスを覚えていて、女は初めての朝帰りを覚えている。「妻を無理やり可愛いと思え」-男の目の前にはいつも難題が山積し、人生は常に修行中。「料理ができれば、妻の支配下に置かれずに済む」-何はともあれ食うことが最優先。「孤独に耐えられる趣味を持つ」-趣味を持たない人に趣味を持てといっても殆どは何をして良いのか分からないので、このアドバイスは意味がなく、趣味は不断(普段)の生活の中で継続的自然発生的に生じ、趣味を持つことを目的化しても成果に結びつく確率は低いであろう。

 <仲正昌樹 『「みんな」のバカ! 無責任になる構造』(光文社新書、2004年)>:本書の編集目的は「私たちを子供の時から縛っている”みんな”という制度について分析する」もので、その”みんな”とは、「匿名になり切って「甘えの構造=無(限)責任の体系」の中にしっかり組み込まれている”みんな”」であり、簡単に言えば「赤信号みんなで渡れば怖くない」の”みんな”であり、みんなやってるからと個人を囲い込む”みんな”であり、みんなやっているのになんで私だけ責めるのかと見逃しを請う”みんな”であり、みんなやっているからと安心感を得る”みんな”、みんなで頑張ろうの”みんな”、みんな言っているよの”みんな”、等々の”みんな”である。「観客の多くの方々が拍手をしている」が、「観客の”みんな”が拍手をしている」と言い換えられ、一体感や同調を強いる時にも日常的に軽く使われる。ニュースなどでも”みんな”がよく使われていて、この漠とした言葉はallなのか、majorityなのかmanyなのかと突っ込みを入れたくなるときがある。
 結局、自我を中心に置くのではなく、自己を含む世間に寄りかかり、一体感を想像することで安心感を得ようとする心理が働くからであろう。共同的ナルシシズムと言っても良さそうである。無責任な甘えの構造は、「前近代的な「みんなの共同体=世間」感覚で成立していたお話をいったんご破算にして、個人に「責任」を分配しない限り、近代的「主体」が活躍することのできる「法化」された環境など整えることなどできないのだが」(155頁)、それは無理なことである。
 自律することのない人たちが群れを作って忖度し、総裁選という一見高度な選挙においては「正直・公正」などという低レベルのスローガンを立てざるを得ない状況にあり、グループの”みんな”はどっちにつくのかという集団行動とその報道は、単に相互舐め合いのムラ構造の上辺をなぞっているにしか過ぎない。

2018年8月21日火曜日

新書にマンガ

 甲子園で金足農業が大活躍。準々決勝と準決勝は最初から最後までテレビ観戦した。野球の試合をフルに見るのは随分と久しぶりで、それは秋田市金足は私の生地に近いので愛着があるからにすぎない。今の本籍は現住所の春日部市に移してあるが、結婚するまでは秋田市寺内将軍野にあって、幼児の頃、すぐ近くにあった陸上自衛隊駐屯地の人に遊んでもらい、小さな牽引砲らしきものに触ったような記憶が微かに残っている。金足はその生地の近くの北側に位置している。
 残念ながら金足農業は大阪桐蔭に大敗し、秋田県からの103年ぶり2回目の決勝での勝利、初めての東北からの優勝はならなかった。でも、公立校の地元出身だけからなるチームの活躍はとても好ましく爽やかさを感じる。

 <応地利明 『絵地図の世界像』(岩波新書、1996年)>:前近世、状況によって伸縮する日本国家の四方之境(四至)の内側は<浄なる空間>で、外方の異域は<穢なる空間>であった。その異域は二つに分かれる。一つは「異形の人間」の世界で北は蝦夷島、南は琉球であった。異形とは人間ではあるが鬼にもみなされうる存在で、分かりやすく言えば日本国の天皇の支配下に属せば人間で、外れれば鬼となる。この一つ目の異域から彼方に横たわる二つ目の異域があって、そこは羅刹国・鴈道であり、「人形の異類」である。「人形の異類」とは人間の形をした異類である。
 仏教思想によって日本国の思想は世界へ開かれるようになり、須弥山が中核をなす仏教的世界観において、日本は世界の縁辺に位置する「粟散辺土」ないし「末法の辺土」であった。やがて神国思想の登場によって「粟散辺土」「末法の辺土」たる観念は克服された。神国思想によって「国土ー異域」観と仏教的三国観は融合された。
 マテオ・リッチの地図に代表される地図の輸入によって日本の世界観は拡がりをもち、近世末期の日本の世界地図は次の3形態が並存する。ひとつは、南贍部洲万国掌菓之図を代表例とする仏教系世界図、一つは坤輿万国全図に連なるマテオ・リッチ系の卵形世界図。もう一つは蘭学者が好んだ、球体としての地球を強く意識させる半球図である。
 仏教的世界観では世界は本朝・震旦・天竺の三国であったが、1785(天明5)年の林子平『三国通覧図説』では朝鮮・琉球・蝦夷が三国として地図化されている。

 <ちばあきお+コージィ城倉 『プレイボール2 4』(集英社ジャンプコミックス、2018年)>:続編4冊目。ほぼ40年間の空白を経て連続する物語を見るのは不思議な感じもするし、人生の短さをも思う。

 <鴨下信一 『誰も「戦後」を覚えていない [昭和20年代後半篇]』(文春文庫、2006年)><同 『誰も「戦後」を覚えていない [昭和30年代篇](文春文庫、2008年)>:「戦後の生活史を振り返ってみるためのエピソード集。著者の感想はふんだんに散りばめられているけれど思索は浅い」-これは敗戦直後5年間を記したシリーズ1冊目を読んだときの感想。暫く放っておいた続編についても全く同じで、歌謡曲・映画、小説などの流行りを軽く記している。<天皇制下の民主主義>を<民主主義下の天皇制>、あるいは<軍隊>を<警察予備隊・自衛隊>とする「巧妙な読み替え」と指摘するも、指摘するだけでそこを掘り下げはしない。GHQがGo Home Quicklyとした背景は記すが当時の問題点と現在への連続性には触れない。それだけの、悪く言えば上辺をなぞっているだけである。

 <加藤秀俊 『人生にとって組織とはなにか(11版)』(中公新書11版、1999年)>:得るものは何もなし。

2018年8月18日土曜日

芥川賞受賞作

 <高橋弘希 『送り火』(『文藝春秋』、2018年9月号)>:芥川賞・直木賞受賞作に興味を抱いたときは、全文が掲載されていれば『文藝春秋』や『オール讀物』で読む。単行本よりも安価なこと、それにも増して選評を読む楽しみがあるからで、今回の芥川賞受賞の著者は常人にはない風貌を漂わしていて、また文章が卓越しているらしいので、いつもの芥川賞よりは読んでみようとの関心が強く、久しぶりに『文藝春秋』を買ってきた。

 選評に書かれている文を引用して簡単に感想を書いてみる。「抜きん出た文章力」(1)で「描写力には文句のつけようがなく」(2)。それは「執着のなさが、絶対的な観察者としての目となり、このような狂気じみた描写を可能にしているのではないだろうか」(2)。そして多少の「読みにくさには敬意を払わねばならない。それは予定調和の通用しない世界を描こうとしているからであり、段落ごとに油断ならない状況を冷静に見極める必要があるからだ」(3)。だが、「的確な文章力は、鋭利な彫刻刀として美事に機能している」(4)といえども「その彫刻刀が彫りだしたものに、私はいかなる感動も感興も覚えず、むしろ優れた彫刻の力を認めるゆえ、こんな人間の醜悪な姿をなぜ、と不愉快になった」(4)。「理不尽さだけをまとった」(5)暴力の「最後の場面は残酷で」(1)、「この少年の肉体的心理的な血祭りが、作者によってどんな位置づけと意味を持っているのだろう。それが見いだせな」(4)かった。選者の一人が、「歩の受難と陰惨な場面の先になにがあるのか。それを問うことは、この作品においてあまり意味がない。異界のなかで索敵を終えた歩の、血みどろになって遠のいていく意識のなかで、シャンシン、シャンシンというチャッパの音を聴き取ることができれば、それでいいのだ」(6)とする意見には違和感を覚え、小説ー特に純文学とされる小説ーの役割は何だろう考えさせられた。著者は何を描こうとしたのか判らない。
 「つかず離れずの適度な距離を保つ姿勢が、弱者にとって最も隠微な暴力になっていたことが明かされる末尾の、フラナリー・オコナーふうの展開はすさまじ」(6)(7)く、このテーマと最後のチャッパの音をもっと結びつけて描写すれば、自分にとっては尚更に鋭い小説であると思った。
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 (1)宮本輝
 (2)吉田修一
 (3)島田雅彦
 (4)高樹のぶ子
 (5)小川洋子
 (6)堀江敏幸
 (7)「フラナリー・オコナーふう」という意味は分からない。大学教授にありがちな、
   他の作家などの名を引っ張ってきて説明するのは不快。例えば、ここに共通語では
   ない「時計仕掛けのオレンジ」ふうといってもそれが何なのか解らない読者には全
   く意味をなさない。

新書2冊

 <河合雅司 『未来の年表』(講談社現代新書、2017年)>:副題に「人口減少 日本でこれから起きること」。自分の生年1949年の出生数は269万6638人で、2016年は97万6979人と1/2.76=36%。同年の日本総人口は約8177万3000人、2015年総人口は約1億2709万5000人。2065年には1949年にほぼ同じ約8808万人に減少すると推計されている。1950年の65歳以上人口比率は約4.9%で、2004年には約19.5%だったが、10年経過の2014年には約26%となり、2016年には27.3%が所謂65歳以上の高齢者となっている。2020年には女性の過半数が50代になり、2023年には団塊ジュニア世代が50代となる。2024年には団塊世代すべてが75歳以上となる。女性が男性より多いから日本は「おばあちゃん大国」となり、収入の多い男性は女性より先に逝くので雑破に言えば日本は貧しいおばあちゃんの国になる。自分や連れ合いが何歳まで生きるのか分からないが、生まれたときにはベビーブームで今は高齢化社会の中枢を担っている。息子や娘、その子どもたちが年齢を重ねるに連れこの日本はどうなってしまうんだろうと思ってしまう。想像がつかない。周りを見れば年寄だらけとなるのは間違いない。
 65歳以上ではなく75歳以上を高齢者とすれば数字上の高齢者比率は抑制できる。労働人口も低くなるので自分のように60歳でリタイアして毎日を日曜日と化するのではなく、70歳までは働くようになるのかもしれない。年金だって75歳からの受給って話も出ている。何かもう一生働いてあとはなるべく早めにあの世へ、ということも現実化するような気がしないでもない。
 本書に書かれているように、利便性追求を止め(サービスの縮小)、拡大発展ではなく戦略的に縮むように転換し、行政区分を見直すことも必要かと思う。『「縮み」志向の日本人』と揶揄(?)される日本は意外と縮むのは得意かも知れない。忖度の好きなメダカ社会であるからして、ムラの親分が縮めようとすれば、もしかしたら日本は高齢化社会化へ適応する国のモデルになれるかもしれない。暗ーい気持ちになるのはしようがないヵ。

 <橘玲 『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書、2016年)>:酒でも飲んでいるときに知識をひけらかしてちょいと得意になるネタを仕入れるにはいい本である。例えば美人(イケメン)と不美人(醜男)の経済格差、ゴリラ・ボノボとヒトとの生殖器サイズの差異とその理由、ヒトの男性生殖器の特徴、遺伝と環境(共有環境と非共有環境)と人格形成への影響、等々。
 必要なことは、差別ではなく差異として人の多様性を受容し(場合によっては自分の周りからは斥け)、いまの現実をそのままに認めることであろう。現代社会は知能の高い層にとって有利な仕組みになっているのはそうであるし、「知識社会」とは知能の高い者が低い者を搾取する社会であることも誰も否定はできない。格差をいたずらに縮めようとはせずに、均等なチャンスを準備し、人びとの権利を平等に受け止め、さまざまな価値配分をどう効果的に行うのか、それらを考えることであろう。著者の主張に肯ける。
 少なくとも、「生産性」という切り口で人びとの多様性を云々する愚劣さは失くしたいものだ。「名誉男性」グループに属する女性は自律できなくなるのは当然と言えば当然のことでしかない。(名誉男性とは「男性支配社会に迎合して女性差別をする女性」-勝部元気の記事より。)
書名がいただけない。ここでしか言えないけど、実はこうこうこうなのよ、というような俗っぽいレベルに落とし込んでいる。

2018年8月10日金曜日

小説とマンガ

 <武田一義 『ペリリュー 5』(白泉社、2018年)>:昭和20年1月。米軍の食料を奪取して反撃へ繋がると奮起する滑稽さ。「戦争を憎む」とか「軍中枢の暴走」とかそれらは正しいであろうが、真実を突いてはいない。
 73回目の原爆慰霊祭が例年のように催されている。セレモニーをやってまた来年のセレモニーに続く。この地球上での争いを回避する歴史が進歩を遂げているとはどうしても思えない。歴史は長いスパンであるが、個々の人間の人生はその中のごく限られたピリオドでしかない。今日もまたどこかで殺し殺され、飢え、保身とはき違えの権力闘争と獲得に明け暮れ、冷笑を浴びせかけている人たちがいる。これはこれで完成形の現実でもあろう。

 <早瀬耕 『未必のマクベス』(ハヤカワ文庫、2017年、初刊2014年)>:都立高校の同級生、中井・伴・鍋島冬香。中井の元上司で恋人由記子、Jプロトコルの出世頭高木、娼婦で占いを授けた蓮花、暗殺者で護衛者ともなった魅力的な陳霊、某国独裁者の兄でマレーシアにて暗殺されたかの人がモデルの李、そして秘書の森川佐和。Jプロトコル・Jプロトコル香港・HKプロトコル。香港と澳門。時にはバンコク・ホーチミン・クアラルンプール・台湾・渋谷・横浜。
 新聞の読書コーナー「売れてる本」に北上次郎さんが紹介していて(文庫本にも解説を書いている)、面白そうなので読んだ。
 主人公である中井や伴は殺人を実行し、魅惑的な陳はビジネスとして暗殺をし、謀略の中で人を殺めるJプロトコルの企業人がいて、その背景には暗号化の特許を巡る経済活動があり、その特許を説明するコンピューターの世界があり、中井と鍋島を繋ぐ積み木カレンダーの数学的なパズル(循環小数がヒント)、中井と由記子の恋、中井と鍋島(森川)の純恋愛。渋谷のラジオ・デイズで由記子と鍋島が互いを知らずに会い、ベイ・シューの歌声が流れる中、キューバリブレ/フェイク・リバティがカウンターの上にある-このラスト・シーンが秀逸。ハードボイルドのシーンにマッチする。
 キューバリブレ、フィル・コリンズ、香港料理にポルトガル料理、スマートな会話と贅肉を剥ぎ取ったシーン、夜景、・・・楽しめた一冊。初刊の時何故にこの本は売れなかったのか、多分会話に隠れる情景や心理、シェークスピア『マクベス』の知的レベルの高さ、それに広範囲な知識(というか言葉を受け容れる素養)、長編小説、などが見えない壁を作っていたのかもしれない。掴めない綿飴のように、今ひとつ中井の人物像がすっきりと溶け込んでこない-溶け込んできたらこの小説は成り立たないであろうが。

2018年8月6日月曜日

文化史のお勉強

 <アルテール他/藤田真利子他訳 『体位の文化史』(作品社、2006年)>:飯田橋の法政大学キャンパスにスクーリングで通っていた頃、家に帰る途中によく有隣堂 ヨドバシAKIBA店に寄っていた。その頃は店内が今よりは広く且つ多岐にわたる本が棚に並んでいた。作品社の「異端と逸脱の文化史」シリーズも並んでいた。それらの書名を記すのにはちょいと躊躇いを覚えるのであるが、次の様なものである。すなわち、『ヴァギナの文化史』・『ペニスの文化史』・『お尻とその穴の文化史』・『マスターベーションの歴史』・『オルガスムスの歴史』・『ビデの文化史』・『乱交の文化史』などである。シリーズの中で手に取ったのは他の書名よりはなんとなく高尚な文化史の香り漂う(?)本書『体位の文化史』である。
 内容はというと、体位に関する人間の歴史を述べるものであり、いろいろな体位の写真や図がたくさん載っていて他人のいる前でページを捲ることは出来ない。そもそも表紙自体が行為そのもののインド・ムガール帝国の細密画である。まあ、人間のやることは本質的には何も変わらず、変化を重ねるのは快楽へのあくなき追及であり、一方、権力による統制や禁制があれば尚更にそれは濃密化して非日常の領域に入っていく。
 男性の陽物を咥えて快楽を得る行為は人間にしかないが、女性に施す方男波は人類以外にも広くあるらしい。それらも体位の中に入っており、付録には<フランスの聖職者に捧げる愛の四十手>が、日本の<性技四十八手裏表秘考>があり、それらの一つ一つに付けられた名称が滑稽でもあり薀蓄もうかがえて面白い。最後は訳者のあとがきで結ばれている、「最後に、本書を読んで実地研究をしようとする探求熱心な読者の方、筋を違えたりなさいませんようどうぞお気をつけて」と。

 3日、暑い中飯田橋にでかけて17:00より飲む。年齢のせいか暑さへの耐力が減退してきた気がする。酒量も以前よりは減っている。

2018年7月28日土曜日

『近世日本の世界像』

 何年も前に購入した本を少しずつ読み続けようと思っても、新聞で好きな作家の広告や書評に惹かれるとついついネットの通販でポチってしまう。だからそこそこ読み続けてはいるのだが、未読の本の数は殆どと言っていいほどに減りはしない。それでも以前よりは購入欲を抑制はしている。そして思うのは、本の刊行年月を見ると年月の流れの早さを感じてしまう。また、一日の時間を無為に過ごしてしまったとの後悔と反省の日もある。あれもやりたい、これもやりたいとの関心事はたくさんあるが、如何せん時間の進み方は一定だし、自分だけのために時間を費やすわけにもいかない。こんな戯れ言を何回も繰り返していること自体がそもそも惰弱な精神の表出なのであるが......。

 <川村博忠 『近世日本の世界像』(ぺりかん社、2003年)>:古くは宇宙・世界をどう捉えていたのか、科学史を学ぶと蓋天説、渾天説、そして難解ではあるが須弥山世界観。これらは奇抜であるとか滑稽とかではなく、古代の人たちの豊かな想像力、すなわちコスモスを構想し己の位置を考えてみる、その行為・思考に圧倒され魅力を感じる。
 本書は17世紀(安土・桃山時代)から19世紀幕末期までの約300年間にわたっての日本の世界観の発展を概説する。分析の中心におくのは、日本に伝えられた、また日本人によって刊行された世界地図や航海図、地誌などである。天竺・中国・日本の三国世界観から地球世界への拡がり、中華思想から西洋思想への転換、蛮学-蘭学-洋学への変化、等々読んでいて楽しい。科学が好きだった吉宗の禁書令緩和が画期的だったと再確認するし、一方では幕末期の精緻な世界地図や世界各国の紹介が刊行されても、それに抗って天竺中心の図を書く頑迷な人たちの存在も面白い-いつの世も眼前の変化に背を向けて自らの思いに固執する人たちはいるものである。
 本書では多くの地図が掲載されており、すべて確認したわけではないが、国立国会図書館デジタルコレクションで簡単に見ることが出来る。例えば1645年の『万国総図』や林子平の『三国通覧図説』にアクセスし、数百年前の日本の知識人たちが手に取った地図を確認できる。江戸期から幕末にかけて世界を地図上でどう見ていたのか、大袈裟な言い方だが、時空を超えて共有できる感覚を抱ける。巻末に一覧になっている世界地図をPC上で眺めるだけでも本書の価値はある。

2018年7月26日木曜日

雑記

 燻製を作り昼の酒精のつまみにしようと10時半頃に道具を駐車場に出し、娘の娘が興味を抱いて眺めるなかでチーズとウィンナ・ソーセージと魚肉ソーセージを燻した。桜のチップにほんの少しモス・ピートも混ぜ簡単に作業は終了。どうなるかと試した魚肉ソーセージはやはり不味く、それ以外は美味い。午前中につまみを作って昼に飲む、これはなかなかいい。次は好きな鯖や鯵の干物、ししゃもやサーモンなどいろいろやってみたい。飲んだ後は睡眠不足もたたって1.5時間ほど熟睡。

 オウム真理教元幹部ら6人の死刑が執行された。前回の6日と今日で合計13人。法に則っているので兎や角言うつもりは全くないが、前の執行前日に法相は赤坂自民亭で懇親会、昨夜の法相はどうだったんだろうとふと思った。

 もうひとつのブログに4ヶ月半ぶりにアップした。気になったことを調べていて気がついたら午前2時半になっていて、慌てて眠りについたのだが朝はいつもの時間に目が覚め、結局は寝不足で昼の熟睡に繋がってしまった。

2018年7月23日月曜日

マンガ三昧

 暑い、外に出ると空気が熱い。だから外には出ない。日本上空に高気圧が厚く留まっている。異常にアツイ。

 <石井明日香 『ひさかたのおと 2』(講談社、2018年)>:第1巻では離島のファンタジーな情景に惹かれたが、2巻目となって倦きた。過去の人との”結“に深味も哀しみもこの先への展望が感じられない。ファンタジーな絵をただ繋いでいるだけと感じる。これが最終巻となっている理由が解る。

 <原泰久 『キングダム51』(集英社、2018年)>:趙/李牧との戦いがまだまだ続く。李牧は史実では秦ではなく趙王に殺されるのだが、果してこのマンガではどの巻でどう描かれるのであろうか。

 <芳崎せいむ 『鞄図書館4』(東京創元社、2018年)>:2年ぶり。本にまつわる物語は倦きない。

2018年7月22日日曜日

『伯爵夫人』と『日本人の起源』

 <蓮實重彦 『伯爵夫人』(新潮社、2016年)>:もうすぐに帝国が亜米利加に宣戦布告する時代、セピア色の画面に伯爵夫人や二朗の姿がカラーで映し出され、口・手・局部がハイライトされて艶かしく濡れそぼる。妄想の装いの交情と会話、流れる文章、熟れたまん○と屹立する魔羅、真摯で滑稽。ぷへー。

 <山崎茂幸 『日本人の起源』(幻冬舎MC、2016年)>:表紙に書かれた書名をフルに記すと『DNA、古地理・古環境からさぐる 日本人の起源 ~石器時代人が縄文人、弥生人そして現代人になった~』。
 一般的にはホモ・サピエンスは約20万年前にアフリカで誕生し、約6万年前から世界各地に拡がり、東南アジアやバイカル湖に至った。日本への移動は北海道ルート、朝鮮・対馬ルートと沖縄ルートがあり、北海道ルートはシベリアから陸続きで樺太を経由して北海道に渡り、朝鮮・対馬ルートは約3万8千年前に海を渡って来た。沖縄ルートは3万年以上前に海を渡って来たというものである。
 本書では、約200万年前から1.7万年前まで日本列島は大陸と陸続きであった。対馬海峡は約1万年前にできた。それまでは瀬戸内海は古黄河と合流して南西諸島西側で大平洋に流れ出た。バイカル湖付近の北方系のヒト集団は朝鮮半島経由ではなく黄河に出た後で黄河沿いに前記瀬戸内海伝いに日本に入ってきた。DNAで見ると日本人は人種の坩堝であるが、その特徴は朝鮮半島およびその付近ででは見られない。言語学的に日本語は孤立語であって、祖語はチベット・ビルマ語に繋がる。1万年前に対馬海峡ができると日本は大陸と離れた孤島となり、弥生人がやってきて縄文人と交わり原日本人に繋がってきた。従って、弥生人が縄文人と置き換わったのではなく、石器時代人が縄文人になり、弥生人が加わって現日本人になったのである
 ポイントは、氷河期が終わりとなって対馬海峡ができる1万年前までは日本列島は大陸と陸続きであること。バイカル湖近くの北方系ヒトは黄河に出て日本に南下した(北上したヒトはチベット方向に向かう)。対馬海峡が出来て日本列島は孤立して独自の文化を作り上げてきた、とこのようなものである。
 著者は定年退職後に日本人の起源を追い求め、多くの研究書を多角的に捉えて本書の仮説に至る。多くの書物からの図表の転載をして論拠を示すのであるが、この図表がコピー・ツー・コピーを繰り返したように解像度が劣化して判読に苦労する雑なものである。同じ主張を何度も繰り返し、参考文献からの引用も安直であり、さらに全体構成は如何にもアマチュアが著したという雑さを感じた。これには編集者の責任も多分にあるだろう。これらを措いても、アジアと日本の広い地理に渡るヒトの動きを面白く読ませてもらった。

2018年7月20日金曜日

スピーカー完成

 雑誌『Stereo』の付録スピーカーに基づくキット2セットを含め、今回のキットで7セット目になった。音工房Zのキットはいい音が聞きたい、ハイエンドに少しでも近づきたいと思ってZ800-FW168HRSまで手を出したが、今回の共立電子のキット-ダブルボイスコイルのスピーカーユニット3個によるマトリックス・サラウンド-に興味を持って手を付けた。昔、30数年前になるか、NationalのEAS-10F100を不要になったAiwaのスピーカーボックスに組み込んで、マトリックス接続のリア・スピーカーとして疑似サラウンドを楽しんだことがあった。そのセットは数年間は生きていたと思う。マトリックス接続のスピーカーを組むのはそれ以来で、主体は暇つぶしの物作りという様相である。
 スピーカー製作のDMC(直接材料費)は19,326円。内訳はエンクロージャ=7,020円、スピーカ×3=8,100円、吸音材=1,620円、以上は共立電子(共立エレショップ)。蜜蝋ワックス100ml=1,590円、スピーカーガード(ファンガードで代用)×3=681円、スペーサー12個セット×1=105円、タッピングねじ8本セット×2=210円。こんな費用ではあるけれど、塗装までして一般市販すれば5~6万円の価格は付けられるかも知れない。
 アンプ数台と現有のラインセレクターでは接続端子が足りないので、このスピーカー専用としてFOSTEXのAP15dを追加購入し、サブPCとの接続をメインにした。音はまあ、こんなものかなという感じで、音源によっては音場が広がる。PCモニター・スピーカーとしては十分である。
 さすがに置く場所がもうないのでスピーカー作りはこれでお終い。

2018年7月19日木曜日

『平成を愚民の時代にした30人のバカ』

 <適菜收 『平成を愚民の時代にした30人のバカ』(宝島社、2018年)>:「改革の大合唱の中、国家の根幹である政治制度を破壊した結果、政治そのものの在り方が変わってしまい、邪悪なものが権力の中枢に食い込むようになった」。「権力は腐敗する、専制的権力は徹底的に腐敗する」(ジョン・アクトン11頁)のだが、佐高流に言えば腐敗している人間が権力を欲しがるのであって、腐敗している権力者は群れて権力は集中する。これはもう人間社会の宿命であろう。
 バカと断定されるものは、筆頭に安倍晋三。「食事のマナーは、同じ人間とは思えないくらい下品」で「拉致問題などを利用しながら世の中を渡ってきた出来損ない」で、「精神の成長が止まったガキ」がバカメディアに支えられたのが安倍政権でした」と罵倒されている。「天性のデマゴーグ」である橋下徹、「時代と寝た古だぬき」の小池百合子、「文明が相手にしてはいけない」小泉純一郎、「日本を破壊した”壊し屋”」で「まだ懲りていない」小沢一郎、パソナ取締役会長の竹中平蔵、「政治家失格どころか日本人失格」の「簡単な漢字も読むことができない」、「非常に悪質なアホ」の麻生太郎。彼の誤読する漢字と誤読例が載っているのが面白い。踏襲(ふしゅう)・詳細(ようさい)・頻繁(はんざつ)、有名になった未曾有(みぞうゆう)とあげられている。他には措置・物見遊山・思惑・怪我・完遂・焦眉・順風満帆・低迷・破綻・前場・有無・三種の神器がある。麻生太郎はこれらの漢字をどう読んだのでしょうかというクイズはシニカルで楽しめるであろう。続けて「目つきもおかしい。森の奥で花粉を集め、毒をつくっていそうなタイプ」の菅義偉、「空気に担がれた無能な神輿」細川護熙、「北朝鮮利権のための実働部隊」土井たか子、「天然のポピュリスト」石原慎太郎。あとは名前だけを書く。橋本龍太郎、小泉進次郎(田中真紀子は「30年前の安倍さん、30年経ったら今の安倍さんになる子ね」と指摘している-135頁)」。鳩山山由紀夫、菅直人、前原誠司、河野洋平、渡辺喜美。「犯罪者集団「維新の会」の大バカたち」としての3人は、松井一郎、長谷川豊、足立康史。商売人からは三木谷浩史、渡邉美樹。「安倍周辺の乞食ライター」に山口敬之、小川榮太郎、三浦瑠麗、ケント・ギルバート。最後はテレビ界で生き続ける田原総一朗、松本人志で終わる。結びは、「改革の大合唱の中、自分たちの足場を切り崩していった結果、日本は見事に転落した。国民は貧しくなり、国家の中枢は腐り果て、公文書の改竄が横行する三流国家になってしまった」。

維新史のテキスト

 <三谷博 『維新史再考』(NHK出版、2017年)>:副題は「公議・王政から集権・脱未分化へ」。グローバル化の波がどのようであったのか概観し、近世東アジアと日本の世界秩序像を描き、近世日本の国家形態、社会構造・動態と社会結合、東アジア国際環境と日本の世界認識へとすすみ、幕末の対外政策の変転へとすすんで幕末の政治秩序が崩壊し、公議・尊攘・強兵運動が活発化して維新へと展開する。「すべての始まりは「公議」の追求だった」との視座のもと、「王政」・「公議」が明治の政体変革に続く歴史が詳説される。幕末・維新史が詳述されたテキストであり、その動乱の時期を振り返るときに頁を再度開くこととなろう。
 「幕末=前近代的」から「維新=近代の覚醒」と捉えがちで、感覚的にはちょんまげから洋装へとデジタル的に急変したと思いがちであるがその感覚は払拭せねばなるまい。
 「西洋産の秩序規範に従うことへの不快感は世界中で語られている。しかし、彼らが社会の公正・平等・安寧・自由を実現する代替モデルを提示しているわけではない。「近代」の西洋が創り出したモデルを上回り、人類に普遍的に歓迎されるような秩序規範ははたしてどこに生まれるのであろうか」(406頁)と終章は結ばれている。思うに、普遍的なモノは生まれない、生まれるはずもない。集団システム・組織の基層にある個々の人間が各々の感情・欲望を極度に抑制しない限り普遍的な状態は生まれないだろうし、逆に感情・欲望を棄てた個々人は生きていると言えなくなってしまうだろう。
 ふと思い出す。犯罪のない統制のとれた秩序ある人間世界よりも、欲望がぶつかり合う犯罪が存在する状態の方に人間の生を感じる、そのようなことを言ったのは市ケ谷の高みから檄を飛ばしながらも見上げる人たちから嘲笑も受けた作家だったっけ。

2018年7月16日月曜日

包帯、モーラステープ、サポーター

 スピーカー製作もあとはエンクロージャーの外面に蜜蝋を塗布するだけとなった。問題はどこにおくか、安価なアンプをどれにしようかという2点。1Fの作業エリアはまだ散らかったままである。

 そんな一昨日の夜、雨戸を閉める際に紛れ込んだ虫(黄金虫に思える)がシーリングライトの周りを飛んではぶつかる音が続いた。電撃殺虫ラケットを右手に持ち、ソファーの上に立ってその虫と格闘した。敵も強かで簡単にはラケットに当たらない。エア・ケイよろしくラケットをスウィングしたらスウィートスポットにヒットして敵は降下した。がその瞬間、反動で我が身は背中から床に落ちてしまった。戦いの場のフィールドには半田ごてやらを入れておく工具箱が開いており、そこに左腕をまともにぶつけてしまい切り傷、擦り傷で血も流れてきた。軟弱な体幹でソファーに立ち、ラケットを振った愚かな己が情けない。
 左手の手首から肘までは包帯を巻き、打撲でシャンと歩けない腰にはモーラステープ。右の足には親指の動きを制限するサポーター。なんと言うことでしょう、虫を相手に電撃ラケットを振り、空振りも繰り返し、その結果がこの状況。我が身を嗤ってやり過ごすしかない。

 錦織が破れたジョコビッチが優勝。大坂なおみさんに勝利したケルバーが優勝。日本に大逆転勝利のベルギーが3位。これはこれで少しは溜飲をさげられる思いもある。

2018年7月14日土曜日

忘れ物

 錦糸町に行った帰り、久喜行きの電車の中に帽子を忘れてしまった。電車を降りてから気付き、ホームを小走りして座席の下に落ちているのを確認したときに目の前のドアが閉ってしまった。まずは電車に乗って次の駅で降りて戻ってくれば良かったが咄嗟には思いつかなかった。近くにいた若い女性駅員さんに事情を話したらすぐに電車と事務室に連絡を取ってくれた。改札口の事務室に行ったら遺失物届出用紙を出してくれそこには既に帽子と記入されていた。
 翌日、帽子が届いた旨の電話を受けて駅に行き、西口で最初に応対してくれた若い感じの良い駅員さんから東口と言われて移動し、若い女性の駅員さんから帽子を受け取った。前日もそうだったが東武鉄道の駅員さんたちが皆親切かつ迅速に応対してくれて感謝。ユニクロで買ったありふれた帽子だったけど、失せ物が戻ってくると喜びは大きい。

 といいながら、最近は物忘れなどが重なった。先日の北海道では層雲峡のホテルで大浴場に行くときに着替えのパンツを落としてしまい、風呂から上がったら脱衣籠にパンツがなく、やむなくそれは穿かずにのれんをくぐり出たらカウンターの端においてあった。まあ人のパンツは持っていかないだろう。まして男のものならば。床に落ちていたパンツを誰かが人差し指と親指で摘まんでカウンターにおいてくれたシーンが頭に浮かぶ。
 次が帰路につく際に帯広空港でバスを降り、スーツケースが出るのを待っていたら同年齢と思しきオバサンがこれは貴方のでしょうとコントローラ付きカメラグリップを渡してくれた。カメラから取り外してバッグにカメラを入れたときに膝上においたままにし、それを座席の上に忘れた模様である。これは今回の旅行から使い始めたもので気に入っていた。お互いに気をつけましょうねと、こちらの年齢も慮ってくれたその言葉が軽く胸に刺さった。

 携帯を落としたこと、カメラも紛失したことなど、いろいろあってその経験を活かし、スマホや愛用しているモバイル音楽プレイヤーは長い紐を付けてバッグから離れないようにしている。「忘れもの覚えていれば忘れない」のであるが、そもそも覚えていることが希薄になってきているのだから注意せねばなるまい。まあ、芸能人や政治家、評論家・コメンテータなどの名前は忘れても一向に気にならない。役に立たない名前は覚えたくもないのだから。

2018年7月13日金曜日

錦糸町・亀戸、スピーカーキット

 一昨日(11日)は自宅-(徒歩)-錦糸町-亀戸-曳舟-春日部-(バス)-自宅。連れ合いの手芸用スタンドルーペ購入のために錦糸町駅近くの専門店に行き、亀戸アトレで付箋グッズと文房具と科学オモチャを購入し、久しぶりに大戸屋で昼食を摂り(前は時折浦和美園に行っていたが経営内紛の影響か閉店になった)、東武亀戸線に乗り、春日部駅からの帰途は暑いので歩きは止めてバスで帰宅。
 初めての東武亀戸線は僅か5駅だけで路線距離は4kmにも満たない。亀戸駅の改札に立つと前景には短いホームがあり、2両編成の電車が停まっていて、都内ではなくローカル線の趣が漂う。亀戸と曳舟の間で停車する駅は3駅で、亀戸水神だけは耳にした気がする。
 帰宅後はすぐにエアコンをオンにしてあとはダラダラと過ごす。錦織がジョコビッチに負けたので録画は見ずに消去。ランキング100位に入らなかった頃から好きな大坂なおみさんは3戦目に完敗し残念。

 どこに置くの、いっぱいあるじゃんという娘の長女の感想にもめげずに新たにスピーカーキット作成の準備に入る。今度は2万円もしない3スピーカー・サラウンド・ボックス(マトリックス接続スピーカー)。1Fに作業エリアを拡げ、道具を揃え、外塗りの蜜蝋ワックスを発注し、あとは組み立てるだけ。中に入れる吸音材のガイドがないために何回かは試行錯誤しそう。面倒だからエイヤッで適当に(いい加減に)配置するかもしれない。
 完成後、どこに置くかは幾つかの候補を思案中。パッシブだからアンプの編成&配線替えも必要。ものを作ること、そしてシステム構成構想のプロセス、火入れ(音出し)の瞬間、これらが楽しい。

2018年7月10日火曜日

雑感と文庫一冊

 91歳になる考古学者の大塚初重氏の語りが朝日新聞に連載されていた。最終回の記事が気になった。それは、亡くなった後のことも考えて蔵書の寄贈先を探していたが、20kg入りの段ボール箱で600近くもあり、一括では国内に引き受けるところがなくて、北京大学に寄贈するとのこと。蔵書の内容を推し量ることはできないが、考古学関連あるいは歴史書の書籍が中心となっているであろう。違和感を覚えたのはこれらの書籍を引き取ることができないという日本国内の現実。大量の書籍を引き受ければその保管施設、書籍の分類整理など多くの課題はあるだろうが、その蔵書の価値すべてを棄てて他国に譲ってしまうという、何だろう、狭隘な日本文化を思ってしまう。
 氏が心に刻んできた言葉は、「出る杭は打たれる。しかし、出ない杭は朽ちる」とのこと。自分は、「出る杭は打たれる。出ない杭は腐る」とずっと頭に入れてきた。腐った(朽ちた)杭は表に出ないので、人には知られることもなく、人はちゃんと杭の役目を果たしていると思い込む。また、出ない杭は、表に出ないから腐っていることを教えられることもなく、また自覚することすら少ない。腐った杭が腐っていることを知るのは、杭が支えるべきものが崩れたときである。崩壊するシステム・構造の多くは、杭が腐っていることに帰因するのではなかろうか。いまの政治や社会情勢は、杭が腐りかけているような気がするし、そして出る杭を打ち続けて腐らせようとしているような気もする。

 <鯨統一郎 『哲学探偵』(光文社文庫、2011年、初刊2008年)>:著者18冊目。なれど、過去のメモを振り返れば、『邪馬台国はどこですか』を超える作品に当たらないと書いてある。ならば読まなければいいのにと自問するが、気軽に活字に触れるには適当な小説だイージーに手に取ってしまう。そして今回も同じで、やはり著者の代表作は「邪馬台国・・・」でそれに代わるものはないとの感を強くする。「邪馬台国・・・」の次には桜川東子女史がバーのカウンターで春霞などの日本酒を飲んで謎を解く小説である。よほど話題にならない限り、著者のミステリーはこれでお終い。

2018年7月6日金曜日

北海道、その他ニュースなど

 2日から4日は9回目の北海道。4年前に花ガーデンを巡っているが、今回も8箇所訪れ、3箇所ほどはリピートとなった。生憎と3日間とも雨天であり、外では傘が手放せず、最近はどこに旅行しても雨が多いと感じる。宿泊は層雲峡と、連れ合いが一度行ってみたいと言っていた星野リゾートトマム。後者は中国系の人たちが多い。
 花は雨を受けて項垂れているものもあり、あるいは露に濡れた輝きもあり、それなりに楽しんだ。しかし、傘をさしながら首から2台のカメラをぶら下げ、シャッターを押すのはやはり面倒である。強行日程でもあり、各ガーデンでの滞在時間が4年前よりも余裕がなく、次の旅行は費用が多少高くなっても時間的にゆったりしたプランを選びたい。
 食事は概して不満足。ただ一箇所、トマムのレストランでのスープカレーは美味だった。

 サッカー、日本が決勝トーナメントで初得点、合わせてリーグ戦でも盛り上がっていた。帰国によって賞賛ムードはこれで終止符を打ち、徐々に次に向かっていくのであろう。一歩引いて見ると日本は1勝2敗1分で、その1勝も相手コロンビアは10人のなかでもぎ取ったもので、その一人足りないチームにはゴールも決められている。ベルギー戦は0-2から3連続得点での負け。やはり何かが足りないのだろう。

 朝のワイドショーを横見しながら新聞を見ていたらオウム真理教の松本・井上の死刑執行のニュースが流れた。暫くは評論家たちのコメントが新聞やテレビを賑わすであろう。今後は他の死刑囚たちの死刑が順次執行されていくだろう。と書いている間に3人目の執行続報が流れている。

2018年7月1日日曜日

カメラ、処分と新規購入

 何年も使用していない古いカメラを処分した。フィルムカメラはOLYMPUSで、50年程前に持ち歩いていたPen ESS-2、初めての一眼レフだったOM-2N。デジタルになってからは、デザインが好きで高級コンデジ機と言われたCONTAX TVS Degital。ガンタイプで使いやすく、何代かに渡って買い換え最後に持っていたSANYO Xacti DMX-HD1010。FinePixではS100FSとS1。以上のカメラとレンズ、付属部品一式、アクセサリーなどをカメラのキタムラに持ち込んで買い取って貰った。1万円に届けばいいだろうと思っていたらそれを超えたのでまずはOK。
学生の時に質屋に流してしまったもの、娘の長男にあげたものや、新商品購入時に下取りに出したカメラも何台かある。コンクリートに落として破損させたもの、酔っ払って紛失したもの、処分したもの以外にいろいろと歴史はある。

 愛用しているSonyのRX10M3は街歩きにちょいと持ち出すには重いし、スナップをメインにすれば明るいレンズの単焦点カメラが欲しい。根底にあるのは単純な物欲。FUJIFILMのX100Fにぐらつき、価格と相談しながら、LUMIXのDMC-LX9、SonyのDSC-RX100M5(最新のM6ではない)も候補にあげた。
 X100F以外は単焦点ではなく倍率の小さいズーム機。LX9はファインダーがないので最初に落選し、X100FとRX100M5のどちらを選ぶか、今持っているカメラに追加する必要があるのか等々葛藤が続いた。ヨドバシカメラではアドバイスももらい、仕様や一般評価の比較検討を重ねた。X100Fはデザインが好きだし、画質も何もかも素晴らしいカメラだが贅沢すぎる、使いこなせないだろう、それに連れ合いからはまた買ったのと冷たい視線を浴びるのは不可避。RX100M5のメリットは、まず現有のHX90Vと酷似しているので連れ合いが気付くことはまずないしアクセサリーも流用できる。操作は慣れている。開放F値はX100Fより少し明るいし、価格も低い、キタムラでは下取りで値引きしてくれる。下取りしてもらうカメラは処分したカメラで価格がつかなかったものを適用すれば良い。等々で、古いカメラを処分した後に、RX100M5を購入した(してしまった)。連れ合いには言わない、HX90VとRX100M5が同時に目に触れるようなことはしない。
 これでいま持っているカメラはSONYではRX10M3、RX100M5、HX90V。LUMIXはDMC-TZ85(友人がプレゼントしてくれたもので初めての4K)、DMC-TZ20(連れ合いが使っていたがスマホのGalaxyを持ったら使わなくなった)。DMC-TZ20は通常は使わないだろう。娘の長女が遊びたければあげる。

2018年6月28日木曜日

雑記

 ワールド・カップ・サッカーに関する報道が朝から晩まで続いている。毎日が日曜日の我が身とすれば朝から夜まで同じ映像が流れるのが嫌でついついチャンネルを変えるが、どこもかしこも似たようなもので、結局は録画のアクションドラマを見るか、テレビの電源を切ることが多い。
 そもそもサッカーの生中継を見ることはない。点数がはいるシーンが少ないこと、レフェリングがよく分からないこと、シミュレーションなる反則が存在することが本来好きではない。先日のセネガル戦も録画しておいて早送りし、得点が入った時しか見ない。
 あれっと思ったのがセネガル。ずっとセメガルと発音していた。Semegalと書いてwikipediaにアクセスしようとしたときに初めてSenegalと気付いた。Senegalとは書くものの日本語での発音はセメガルなのかと思ったほどの愚かさ。聴き取り機能が低いのか、単にバカなのか、意識しないとセメガルと言いそうになってしまう。

 関東大学ラグビーの対抗戦&リーグ戦の日程が決定した。早稲田の初戦は筑波。昨年までのしばらくの間は慶応vs筑波であったが、昨年は慶応が3位で早稲田が4位だからしようがあるまい。試合会場は三郷・調布・足利・前橋と地方が多く、帝京・慶応・明治戦が秩父宮。秩父宮は措いて交通の利便性を考えれば、足を運ぶのは足利と三郷だけかな。

 23日、新宿で痛飲というか飲み過ぎ。途中で今日はピッチが速いと自覚はしたが、友人たちとしゃべっていたら酒量が進み、電車で帰るのはやばいと言われ、結局は会津からの友人が泊まるというし、ホテルがとれたので御徒町に泊まってしまった。帰宅しないと決めてからさらに飲み続けたようである。
 翌日は朝早く帰宅。年齢に比例して酒量は減ってきてはいるが、酔いのリミットも下がってきている。改められていないのが心構え。自戒せねば。

 日本大学問題は日本の社会システムの縮図と思える。
 「新聞読まない人は自民党支持」との麻生の弁、皮肉っぽく言えば当たっているような気もする。朝日や毎日や東京などなどが偏向報道とは全く思っていないが、自民党支持の人たちの中には批判されることを嫌悪する人も多いのだ、と解釈すれば当たっているかもしれない。かといって野党支持の人たちは新聞をよく読むとも思わないが。

2018年6月22日金曜日

ミステリーとビゴー三部作

 膝に痛みを感じるときがある。右足親指に異常を覚える場合がある。一番いいのは必要以上に歩かないこと、膝にはサポーター、足の親指は動きを制限するテーピング。6月に入ってこんな状態で、自分に課していたウォーキングも一切なしとしていて、やっと普通に戻ってきたようである。ま、今月末まではこのままに過ごそう。

 <三上延 『江ノ島西浦写真館』(光文社文庫、2018年)>:舞台は江ノ島、祖母が亡くなり、彼女の営んでいた西浦写真館の遺品整理に繭は善行から足を運ぶ。カメラ好きだった彼女は写真学科に進学するもある出来事が切っ掛けでカメラから離れる。繭の幼馴染みで怪しげな宗教の信者でもある男性が繭の前からいなくなった理由、遺品整理を手伝う医者の息子、写真館を管理している年配の男性等々が絡んで残された写真の謎を解き、過去の事件の真実、再会、それらが短編連作のとして展開する。
 ビブリア古書堂は本にまつわるエピソードが面白く、栞子さんもまま魅力的であり、その延長線上での期待があったが、この本は楽しめなかった。全体的にミステリーをうまく構築してはいるが、無理な作りを感じてしまう。出てくる人物も魅力がない。ジグソーパズルを当てはめては行くが、嵌め方が力任せで、出来上った絵は壁に飾る気はないといった趣。

 <清水勲 『ビゴーが見た日本人』(講談社学術文庫、2001年、初刊1981年)>・<同 『ビゴーが見た明治ニッポン』(同、2006年)>・<同 『ビゴーが見た明治職業事情』(同、2009年)>:明治15(1882)年にフランスから来日し、士族の娘と結婚、新通商条約締結の頃の明治32(1899)年に息子のみを連れて帰国(離婚)。22歳から39歳までの17年間のあいだ、日本人が描かない市井の状況を風刺をまじえて絵に落とし込んだ。sodesuka氏と揶揄する出っ歯の背の低い男を描写する一方で女性には穏やかな視線を送り続けていた(かなりの女好き)。若いけれども視線は鋭くかなり皮肉っぽい。
 絵を眺めれば、基本的には日本人の行動・思考原理は今と変わらない(現代まで変化していない)と思える。明治世相史を知る上で貴重である。

2018年6月15日金曜日

官能ミステリーと思ったが

 <花房観音 『京都三無常殺人事件』(光文社文庫、2018年)>:帯には「京都の魅力が十分に詰った連作ミステリー」とあり、表紙には二年坂(?)に立って振り向く和服の女性とそれを見上げる男の後ろ姿。著者が花房観音で書名が殺人事件、そして3つの殺人の連作集とあらば、古都の清寂の中で殺人事件の謎解きが展開され、ストーリーのなかで女が帯を解き、艶かしい官能場面が描かれる。一言で言えば、妄想満開の官能ミステリーでしばし時間を潰そうと手に取った。
 著者が京都市在住で現役バスガイドでもあることより、京都名跡の観光案内と「京都殺人案内」的な軽いミステリーと思っていたが、3作独立の殺人事件が最後にはすべて繋がるという鮮やかさもある。バイプレイヤーの35、6歳未亡人である月寺松葉の台詞は小気味よく響き、一方では謎解きには無理を感じるが、全体的には楽しめた。けれども、期待していた(?)官能描写は皆無で、スケベ心の我が身が背後から膝かっくんされたような思いもある。
 会話での謎解きをうまく映像構成すれば、この小説はミステリー劇場風にテレビドラマ化するにはうってつけで、ドラマ化されるに違いないだろう。

未読のままに

 未読のまま棚に並んでいる渡辺京二の本の数が半端ではない。けれどもまた購入してしまった。今年で88歳になるので、失礼ながら残された時間は然程多くはない。だからという訳ではないがこの人の新刊が出ればなるべく購入するようにしている。
 未読の本が増えることで自己嫌悪に陥るときもあるけれど、誰かの言葉を思い出す。それは、読む本だけを買うのではなく、その時々に読みたいと思う本を買っておくのは無駄なことではなく、買い求めることでそのときの自己を確認することにもなる、というようなことだった。

 渡辺京二の著作は2007年からであり、切っ掛けは、さもありなんと指摘されるであろうが『逝きし世の面影』を読んだことからだった。しかし、その後眼を通した本はもう一度読み直さねば、との思いが強い。なぜなら、随分と浅い読み方だったとの悔いが残っているから。

2018年6月14日木曜日

佐藤オリエさんのレコード

 51年前の18歳、高校3年生のときに1枚のEP盤レコード(東芝EXPRESS)を購入した。ジャケットに挟まれてレコードを入れた袋があるのだが、その裏には多くの歌手たちの写真が並べられていた。そこに佐藤オリエさんの写真もあったような気がする。もしかしたら同封されていたチラシだったのかもしれない。彼女の歌う曲がヒットしたとは全く耳目に触れもせず、まして会津若松神明通りにあるレコード店の店頭にあるはずもなく、400円のレコードを取り寄せることもしなかった。当時から彼女のファンであった。いまでも一番好きな女優さんは誰かと聞かれると佐藤オリエと応えている。

 時を経て、10数年前に「若者たち」三部作のDVDセットボックスを購入した。その頃から佐藤オリエさんが出ている映画やドラマをDVDで見ていた。特に「ながらえば」(1982年)は好きなドラマである。大学卒業後に住んだ富山や、想い出が詰っている高山本線が舞台であることも相俟って、思い入れの強い作品である。
 映画「非行少女」(1963年)も和泉雅子ではなく、高校生姿の佐藤オリエを見るために見ており、彼女の出るシーンだけをピックアップしてDVDに落とし込んでいた。

 英亜里のCDをネットで探した後、佐藤オリエさんのレコードももしかしたらヤフオクやYouTubeにあるかもしれないと探した。レコードは見つかったがどうも質が劣化していそうなので購入する気が起きなかった。が、そのときに初めて知った曲名でYouTubeを探したら一つだけ見つかった。18歳の時にレコード店に発注しておけばよかったと、30歳半ば頃から時折思い出しては後悔していたがやっとその曲に触れることが出来た。そして初めて聴いた。DLして編集して自分のライブラリーに加えた。
 曲そのものは「若者たち」当時の雰囲気が充満し、ギターが流れる曲はブルーベル・シンガーズ「昭和ブルース」と相似している。佐藤オリエさんの歌は、映画の台詞の延長線上にあるような味わいがある。まだ若かったころに好きになった気持ちを思い出させてくれる。曲は「オリエと歩こう」と「海に眠りなさい」。でも、この曲だけが彼女のレコードなのか、ほかにはないのか(山本圭との朗読はあるが関心が薄い)、高校3年の時に知ったというのが正しい記憶なのか自信がない。高校生時代に購入したレコードも今は残っていない。

 今になって昔を思い出すことが多いのはなぜだろう。年齢を重ねていろんなことを見聞き体験し、現在の世の移ろいにさして感動も憤りを覚えることがなくなっている。日大のニュースも、米朝会談も全体的に見れば茶番と思え、茶番は真実よりも耳目を集めると捉えている。ならば、そんなことは措いて、自分の過去を振り返り、その上で己は何者だとちょいと考えるのがいいことなのかもと思う。

2018年6月13日水曜日

英亜里

 年に1~2回、カラオケで英亜里の「花の手拍子」を歌うことがある。この人の声が好きだし、ちょっと妄想を抱かせる浜口庫之助の歌詞も好き。先日、竹の塚のカラオケスナックのステージでこの歌を歌ったら妙に気持ちが良くて、帰宅後にほかの曲を探したが、残念ながらYouTubeで数曲引っかかるだけ。1968(昭和43)年にヒットして、おじさんたちのアイドルになったらしいが今はそれを知る人も少ない。しかし、まだカラオケにあるということは70歳前後の年齢層にはファンがいる証であろう。英亜里は同学年であるから、今はもう68歳で、現在の姿は確かめる術もない。で、ほかの曲を探していたら5年ほど前に限定版のベストアルバム(といってもSony時代のみ)が発売されていた。ネットで探すと結構なプレミアムをつけているショップもあるが、発売元のSonyからなら定価で手に入れることが出来た。
 1974(昭和49)年「夜のヒットスタジオ」を最後にテレビには出ておらず、30歳頃には引退したらしい。その後は中堅歌手の裏方として今に至るとCDライナーノートに書いてあった。沢山の歌を歌っているが、その作詞作曲者には平尾昌明やすぎやまこういち、岩谷時子等々著名な人も多い。弾厚作も「りんどう小唄」を作曲している。
 「花の手拍子」を知ったのはいつのことなのか覚えていない。テレビで歌う姿も記憶に全くない。50年の時を経て、1曲しか知らないのにアルバムを買うのは、曲を聴いて過ぎ去った時代や空気を味わおうとしているのかもしれない。

2018年6月11日月曜日

『想像ラジオ』

 <いとうせいこう 『想像ラジオ』(河出書房新社、2013年)>:「東日本大震災」をテーマにした小説。購入してから約4年の間、表紙を開いては途中でページを捲るのをやめるということが続いた。出だしが緩慢としていて一体何を描こうとしているのか判らずに放ってしまうということが大きな要因。
 突然に亡くなってしまった人たちの声を「想像」で流すという小説に違和感を覚え、内容の軽さに生者の傲慢さも感じた。傲慢さとは、多くの人びとが亡くなり、残った多くの家族の人たちにそれぞれの悲しみがあるが、それを束にして「想像」してしまうこと。
 作中、海外のポップスが流されるが、それがこの小説を軽くしている要因の一つであろう。東北の地を舞台にするなら演歌でも流行歌でも混ぜてみたらどうだったろう。小説の中のポップスを(既に持っているものも含めて)すべて聴いてみたが、新たにYouTubeからDLする曲は一つもなかった。

 東京オリンピックが復興五輪とされて久しいが、いつのまにかその「復興」の言葉は薄れてしまっている。「国会事故調報告書」は未来にどう活かされているのだろうか、政治はどう死者に向き合っているのだろうか、甚だ疑わしい。

2018年6月10日日曜日

椅子のキャスター故障、ラグビー

 腰痛対策として10年以上前にハラチェアーのニーチェを購入し使い続けていたが、キャスター1箇所のウレタン部分に亀裂が入り、徐々に拡大して脱落してきた。それが1-2ヶ月前のこと。購入先に足を運びリペアパーツを問い合わせたが卸元でも取り扱っていないとのことだった。しようがないので回転しないようにネジ止めしていたら、今度は他の箇所も同様にウレタンが剥離してきた。ネットで類似品を探すが同じ部品はない。そもそも故障したキャスターの嵌合軸にはセレーションを施してあり、そのようなものは見つからなかった。これまたしようがないので軸径(セレーション外径)が同じものを見つけて5個セットを発注。届いたら嵌合可否を確認し、場合によってはφ11mmのドリルを買ってきて加工せねばならない。
 この椅子、随分前にプレーンスプリングが破損し、臨時にコイルスプリングを取り付け、これがサイズも耐圧力も適切であったためそのまま使用している。本体機能はOKなのに特定の部位に故障が出てくるのはいか仕方ないことで、ふと我が身を思ってしまう。

 ラグビー、イタリアとのテストマッチをテレビで観戦。ランキングは似たようなものだが34-17のダブルスコアで日本代表が快勝。イタリアはこの日の暑さのせいなのか後半は徐々に精度が落ちてきたようだ。田村のキックパスとレシーバーのパスによるトライが素晴らしかった。ただ、前半に福岡が飛び出してディフェンスに穴があいたのはきちんと修正しなければなるまい。それに、SH田中がハイパントをあげたとき、深い、まずいと瞬時に思ったら案の定攻め込まれた。その後すぐに流に交替したが、安易なハイパントという印象が強い。

 前日、本日(10日)の天理戦に1年生が出てくるだろうと思ったら、長田・河瀬はU20に追加招集されていた。1年生ではないが、すでに加わっていた古賀は負傷ではずれ、下川も今は故障中。斎藤や中野はどうしているんだろうか、負傷? 状況を知ることができればいいのだが。ちなみに天理戦メンバーに1年生がいない。SHは堀越ジュニア。

2018年6月9日土曜日

雑記

 右足付け根周辺に時折違和感を抱いていたが、マレーシア旅行から帰ってきてから痛みを感じるようになっていた。旅行先では3日間サンダル履きでいたから足指に負担がかかっていたのかも知れない。数十年前にサンダル履きで長時間車を運転してて腱鞘炎(?)になったことを思いだし、近くの整形外科に行った。2年ぶりなので久しぶりですねと言われ、レントゲンなどを撮って、骨や筋に異常はなく、若干の腫れが認められるが、自己治癒力に期待して無理をせずにいましょうと整形外科の三種神器(?)-経皮消炎剤・鎮痛薬・胃の保護薬-を処方された。あわせて、ウォーキングも控えるようにし、今月に入ってからの歩数は極端に減っている。

 それから少し日にちが経って、今度は左手親指と人差し指の間が異常にかゆく毒虫にでも刺されたように皮膚がただれている。庭いじりもしていないし何でこうなるのと思うが、。同じ症状は2年前にもあり、さらに遡れば4年前にも部位は違うが似たような症状があった。市販の薬を塗り、掻いたりしないように簡易包帯をしている。あまりにも長引くようなら、近くの皮膚科に行く。そこの女医は態度・容姿が嫌いだが処方された薬は良く効いた。

 7日、梅島で17時から痛飲。竹の塚で気持ちよく歌って、帰宅は23:15頃。この時間でも連れ合いからは今日は早いのねと言われた。いつも如何に遅くなっているか、あるいは午前様になっているかの直截な感想であろう。

 早稲田ラグビー、本日(9日)は立正大学との定期戦。明日は神戸で天理大学戦。立正大戦のB・Cメンバーを見るとやっと1年生が出る。新人慶応戦や3日の部内マッチ(上級生vs1年生)で1年生が大勝した結果を踏まえてもいるだろう。それでも評判の高い1年生(例えば長田・河瀬・原)は外れているので、彼らは明日の天理戦にでると思っている。
 主将の佐藤が対立正戦のBで右FLに登録されている。主将が何故にBなのか、Aから落とされたか、あるいは本日のBでゲームメーキングの要にするためなのか、あるいは故障上がりなのか(高麗大学戦でも出ていなかった)と想いは発散する。

 全仏オープン、大坂なおみさんが敗れ、錦織も負け、興味は途端に薄れたが、女子ダブルスの二人が躍進し、グランドスラムに日本ペアとして初の決勝に臨むことになった。優勝して欲しい。ジュニアでも女子ダブルスがセミファイナルに進んだ。
 それにしてもナダルは凄いし、錦織を破ったティームも凄い。クレーコートに強い二人の決勝はハードな戦いになるだろう。

 5歳女児の虐待死、書いた文章を見て涙が出てきた。むごさの程度を語っても意味はないが余りにも酷すぎる。

2018年6月4日月曜日

二つの新聞記事

 朝日新聞から二つの記事の抜粋。引用は記事の文章をそのまま切り取って繋いでいる。ここで個人的意見(異見)は書かない。二人の知識人の記事は自分を見つめるときにいい材料(共感と反感)となるから忘れないように並記しておく。

 <「異論のススメ」”森友問題一色の国会 重要政策論の不在、残念”(佐伯啓思、2018.04.06)より>
 この1年、国会で論じられた最大のテーマは何かと世論調査でもすれば、たぶん、森友・加計学園問題だということになるであろう。両者は、今日の日本を揺るがすそれほどの大問題だったのか、と私など皮肉まじりにつぶやきたくなる。
 現時点で確かなことは、ただ財務省内部での改ざんの事実であり、官邸の関与はなかったと佐川氏が発言したことであり、森友学園問題は現在、検察が捜査中、ということだけである。官邸が関与したという事実は何もでていない。
 森友学園騒ぎと、安倍内閣の支持率を一気に下降させた政治的エネルギーはといえば、事実も想像力も、また様々な政治的思惑も推測もごちゃまぜになったマス・センティメント(大衆的情緒)であり、この大衆的情緒をめぐる駆け引きであるといわざるをえない。だがそれこそが大衆民主政治というものなのであろう。その時その時の不安定なイメージや情緒によって政治が右に左に揺れ動くのが大衆民主政治というものだからだ。
 私がもっとも残念に思うのは、今日、国会で論じるべき重要テーマはいくらでもあるのに、そのことからわれわれの目がそらされてしまうことなのである。
 私は安倍首相の政策を必ずしも支持しないが、それでもこうした問題について安倍首相は、ひとつの方向を打ち出しており、そこには論じるべき重要な論点がある。問題は、野党が、まったく対案を打ち出せない点にこそある。だから結果として「安倍一強」になっているのだ。
 財務省の文書改ざんの「真相解明」はそれでよいとしても、それ一色になって、重要な政策論が見えなくなるのは残念である。安倍首相の打ち出す方向に対する代替的なビジョンを示して政策論を戦わせるのもまた、いやその方が大新聞やメディアに課された役割であろう。

 <「政治断簡」”畑作は土から、寝言は寝てから”(高橋純子、2018.04.16)より>
 「国会で議論すべきことは他にもたくさんある。○○問題一色になるのは残念だ。私は必ずしも安倍政権支持ではないが、野党は対案を出さずに批判ばかり。もっと政策を議論すべきだ」
 以上、男もすなる「憂国しぐさ」といふものを、女もしてみむとてするなり。
(1)議論すべきことは他にもあるという〈嘆息〉(2)私は「中立」だという〈弁解〉(3)野党は対案を出せ、政策論議をせよという〈すり替え〉――が基本セット。なにげに手軽に高みから知ったげに何か言ったげになれるがゆえに流行中だが、権力擁護以外の効能があるはずもなく、ならば堂々と日の丸の小旗でも振ったらいいのに。
 それにしても、である。政治という営みはいつから、政策論議に矮小化されるようになったのだろう?
 畑の土が汚染されていることがわかった。もうこの畑で作物をつくるのは無理ではないかという議論をしている時に、いつまで土の話をしているのか、ニンジンをうえるかジャガイモをうえるか議論すべきだ、冷夏への備えも必要なのに、対案を出さず批判ばかりして……などと言い出す者は正気を疑われる。
 政治がリーダーシップを発揮して官僚組織のうみを出し切るなどという言も聞こえてくる。寝言はせめて寝てからにして頂きたい。リーダーシップとは責任を取ることと表裏一体のはず。官僚にのみ責任を押し付けた上で発揮される政治のリーダーシップなどあり得るのか
 先の展望がないからしがみつく。いろんな意味でこの国は老いているとしみじみ思う。どうすれば若返れるか……あっ。「やらされモードではなく、死ぬほど実現したいという意識を持つことが最低条件」かもしれない。自分の記憶の限りでは。

『光のない海』

 <白石一文 『光のない海』(集英社文庫、2018年)>:頁を捲るのがとまった箇所(189頁)を引用。

 私たちがかしずき、そのために身を粉にして働いている組織とは、私たち個々人とはまったく次元を異にする別種の生命体と言っていい。
 組織とは、人間が作り出した”自然”なのだ。
 その”自然”に人間は常に翻弄され、その”自然”の掲げるルールに従って生かされていく。自らが創造したものでありながら、いざ、その”自然”が誕生すると我々にはそれに逆らったり対抗する手段が一切ない。
 そういう”自然”の最たるものが国家だと私は考えている。

 上の引用文がストンと入ってくる。「個々の人々が組織に組み込まれるとなぜに変質し、個を失くしてしまうのか、そいう組織とはどう表現すればいいのか」とずっと思っていた。その「組織」を「人間が作り出した”自然”」と考えることに得心する。人智の及ばない”自然”を個々の人々が作り出すというこの矛盾めいた構造に納得性を感じる。

 主人公は建材会社の社長、50歳。女を教えてくれた会長、その娘と結婚したが、子供は自分の子ではない。友人は少なく、心を開いているのは同業とも言える女性社長に、自社での配下でもある年配の女性。善意で繋がる実演販売の女性とその祖母。女性にというより性欲そのものを失った主人公は、自らの過去と現在を対比しつつ、バリ島で死んだ妹、および出奔した父にまつわる秘密を知らされる。

 海の中、水に光があるとしていた妹とは対照的に、海に胸まで入った主人公は海の中ではなく、外を見る。「県道を走り抜ける車のライト。道沿いに建つ紳士服店やガソリンスタンドやコンビニの看板・・・・・・。あの海には光がない、と」主人公は思った。このラストは秀逸。

 「孤独を綿密に描いた」という裏表紙の文章が的のど真ん中を射ているとは思わない。寧ろこの小説の世界を矮小化している。

2018年6月2日土曜日

雑記

 マレーシア旅行から帰ってきて体重が2kgほど増えており、3日ほどで1.5kg減らしたがあと500gが下がらない。拡大気味に描いているグラフだとその500gが目立つがまた少しずつ数値を眺め続けるしかない。旅行に出ると普段は摂らない朝食を控えめではあるが食べるし、ビールも昼夜毎日飲むし、体重は確実に増える。また、体重増加とならない旅行はつまらないものとも言える。

 旅行で撮った写真・動画をいつものように整理し、PCに保存。ディスクへの保存や動画のBD化はずっと後になろう。そもそもBD化を待つファイルはかなり溜ったままになっている。
 不要なファイルは削除してしまうので、駈け足ではあるが1枚1枚眼を通すことになる。それにしてもクアラルンプールからペナンまでの4時間ほどの列車移動の車窓からの景色は実につまらないものだった。海が見えることもない、人びとの生活の営みを少しでも窺い知るような町並みもほとんどない。途中停車する駅のホームにも人の姿はない。見えるのはパーム椰子だけ。ペナンからクアラルンプールへ戻るバスもハイウェイを走るのでこれもまたつまらなかった。
 この旅行でのメモは今後断片的に書いていこう。旅行記的にまとめる気持ちが起きない。

 7月はじめの北海道パックツアーを申し込んだ。前にも歩いたフラワーガーデンなどを4年ぶりにまた歩いてみるつもり。前回とはコースが少し違うし、宿泊先も異なる。帯広空港から帰路につくのはもう何回目になるだろうか。1ヶ月後には記憶の中にある風景が呼び戻されて目の前に拡がるだろう。

 新刊本、発刊されて時間が経っている本、写真集など49冊を処分。着払いで送り、翌日には買い取り金が振り込まれた。金額は漠然と予想していた額の3倍くらいになっていた。上質の12年ものスコッチ・ウィスキーを購入してもお釣りがくる位。1冊毎の金額は提示されないが、良心的な業者(個人経営と思う)で、ここを利用するのは2回目。前回も予想より高価に引き取って貰っていた。
 業者引き取りは30冊がミニマムであるので、次回の処分はずっと先になろう。歴史書や、蒙を啓いてくれるような本には棒線を引いたり、書き込みをするのでそれらはいつかは廃棄するしかない。

 4日ぶりに飲酒。久しぶりに日本酒が飲みたくなり、埼玉県の純米酒を購入し、鰊の塩焼きと寿司を目の前におき、昼から飲み始める。ビール500mlのあとに日本酒を飲み始めたが、これがあまり美味くない。一合ほどで止めた。
 夜になって錦織の全仏テニスを観戦。口寂しさに、残っていたこの酒をダラダラと、美味くないといいながら全部呑んでしまった。酒の不味さは錦織の快勝で隠されたようである。
 大好きな大坂なおみが負けてしまったのは残念。最初のセットは1-6と完敗だが、2セット目はタイブレークに入り、タイブレークは7-9と惜敗。キーズにはこれで0勝3敗。いつか雪辱して、彼女の含羞んでコメントする声と表情を見たい。

2018年5月29日火曜日

好みでなかった時代小説

 <中谷航太郎 『陽炎 くろご弐』(集英社文庫、2018年)>:帯の文句に惹かれて読んでみた。しかし、「次巻に続く」と頁を閉ざされてもこの軽い内容では次を読む気はしない。暗殺者としての秘密を抱える鉄炮打ちの主人公、可愛い妻と婿思いの義父、暗殺集団の頭、幼なじみで不遇の日々を送る鉄砲造り人、謎の老人、等々と書けば典型的なキャラ設定と深味のない物語であると容易に想像できる。展開の早い殺しに己の苦悩を絡ませるのもありきたりの物語構成で、ユニークなのは鉄炮を道具としていること。人物描写に人生の重さや苦さ、喜びなどの刻みをもっと彫り込めば面白さが増すと思う。鉄炮の重さも弾を発した反動もこの小説には感じ取れなかった。好きな部分は鉄砲を「鉄炮」としている漢字の使い方。目の前に出されて試食してみたが美味くなかった、好みでなかったので買う気はないという感じ。

 23日から27日の間は友人たちとマレーシア旅行。行きと帰りは飛行機の中だから実質3日間の強行スケジュール、移動距離の長いパックツアーだった。
 飛行機の中で読もうと文庫小説を2冊バッグに入れたが、読んだのは1冊の数10ページだけ。最近はこのパターンが多い。

2018年5月19日土曜日

眼科医院と小説と新書

 人間ドックの結果が送られてきて、いろいろ指摘があることは毎度のこと。あらたに追加された要注意・要観察の項目があり、まずは一番気になった「右目黄斑部変化」の検査を受けようと、近くにある大きな眼科専門医院に行った。3箇所で検査を受け、医師の診断を2回受け、結果は「本の少しの変化が人間ドックで指摘されたのでしょう。治療の必要はなく、半年後にまた看てみましょう」とのこと。男性医師は画像を見せながらの分かりやすい説明で、マスクをかけた検査助手の女性はルーチンワークの中にも声が優しくて眼が素敵な、背の高いはっとするほどの美人だった。

 <柚月裕子 『朽ちないサクラ』(徳間文庫、2018年)>:この小説は次の事件からヒントを得ている。すなわち、①ストーカー事件の被害届受理を先延ばしにしてその間に慰安旅行に行っていた千葉県警習志野署。②オウム真理教から派生したアレフ。
 事件は著者が居住する山形県であろうと思われる米崎県米崎市。ストーカー被害届けの受理が故意に先延ばしにされ、管轄地方警察の担当部署が慰安旅行に行き、受理二日後に女子大生が殺される。その慰安旅行と被害届引き延ばしが地元米崎新聞の特ダネになってしまう。米崎新聞の記者と県警広報の女性(泉)が親友であり、特ダネ記事をめぐって二人の間に亀裂が入り、新聞記者の方は殺され、さらに記者の遺体が発見された地で続けて殺人事件が起き、当初は自殺と扱われる。殺人犯を追う泉と地方警察の友人、広報の課長と刑事課の課長が中心となって殺人者を追う。過去の殺人事件をを解明する刑事課と、未来の事件を食い止める公安の確執が入り組んでくる。書名の「サクラ」は公安を意味する。
 事件を解きほぐす過程が進むにつれて徐々につまらなくなってきた。なぜかと言えば主人公たちの捜査がうまく進み、そこに絡む公安の影が予定調和的に想像でき、終わりになって広報課長(元公安)の動きに落ちをつけてしまうだろうと予想したらその通りになった。消化不良(よく言えば余韻)の感があり、生煮えの印象が残った。

 <吉田一彦 『『日本書紀』の呪縛』(集英社新書、2016年)>:1500年ほど前に編纂され記定された「過去」の枠組みは強固にいまも築かれている。天皇の正当性を明らかにし、権力を固めるものであった(ある)ことは紛れもないことであり、時を経た明治政府発足にても天皇の権力と正当性を確立するには『日本書紀』に視座を置くしかなかった。矛盾の生じないためには復古するしかなかったことで、それは容易に分かることである。明治以降「國體」を支える「国史」としての書物であったゆえに、歴史を見つめるための対象とはならず、言ってみれば時の政府を「忖度」する上での拠り所にとされたと解釈してもいいだろう。『日本書紀』は、「事実に基づくとは認められない創作による記述が多」く、「政権中枢部の権力者たちの思想を表現した書物」であって、「過去を規定するが、それだけではなく、それによって現在や未来をも規定した」。「『日本書紀』が過去を縛るとともに未来を縛ってきた」ことが本書のタイトルにある「呪縛」である。絶対化するものではなく、相対化することが重要で、さらに言うならば、相対化できない今を(否定ではなく)批判的に見つめるべきである。そして事実を共通認識することが必要とは思うのだが、現実をみれば無理だろうと思う気持ちもある。
 あとがきの文章を借りて自分自身を思えば、それは「本、あるいは文字で記されたものに刻まれた知の枠組を探求」し、自分の生きている現在の「時代の文化や社会を考え、そこから」自分自身の「日本の歴史」を読み解きたい、少しでも確実なものに近づけたい。

2018年5月17日木曜日

漫画2冊

 <ちばあきお+コージィ城倉 『プレイボール2 3』(集英社ジャンプコミックス、2018年)>:夏の地区予選が始まった。谷口の最後の夏。

 <Q.B.B 『古本屋台』(集英社、2018年)>:神出鬼没、帽子をかぶった初老(?)のオヤジがやっている古本屋の屋台。一杯100円一杯限りの白波お湯割り。飲み屋ではなく古本屋。古本の話しは期待していたほどには出てこない。開架図書館のように本が周囲を巡らし、そのど真ん中で営む飲み屋なんてものがあったらいいだろうなと思ってしまう。でもそこでは、本は、日焼ならぬ酒焼け状態になってしまうか。

2018年5月15日火曜日

バッタを倒しに行った新書

 <前野ウルド浩太郎 『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書、2017年)>:昨年の7月に何かの記事でこの新書が賞賛されており衝動買いしたのだが(このパターンはいつものこと)、他の優先度の高い(単に興味がより強い)本に手を伸ばしていてこれは放っておいた(今も寐させている未読の本は400冊以上もある)。で、そろそろ読んでみるかと引っ張り出したが、面白かった。バッタが及ぼす被害の程度は本書からは深く知り得ないのだけれど、バッタに入れ込んでいる情熱、ポスドク打開のための論文執筆への焦りにも似た思い、けれども明るく冷静にバッタを愛して追いかけていく。楽しく読めた。フランス語が話せない本人と英語が話せない現地雇い人との会話のコツは面白くて参考になる。一つは秋田弁の会話に伴う短い会話のテクニック(秋田生まれの自分は秋田弁に疎いが理解は出来る)。乏しい単語に複数の意味を持たせて他のメインとなる単語に繋げる。補うのはジェスチャー。意思疎通の基本であろう。舞台の殆どはアフリカ。アラブ世界に属する馴染みの薄いモーリタニアであるが、スーパーに行けばモーリタニア産のタコは日常的である。
 何かを好きになってそれに入れ込んでしまい、人生の根幹を築いている人の存在は、現代社会では稀少化しつつある。簡単に言えば、選んだ仕事に「好き」という感情を入れ込まず、失敗も脳内を右から左にスルーさせ、眼前の取り組んでいるものに「ムキ」になる人が少なくなったという感じがする。サラリーマンだったころ、ある時期から新人を見るとそう感じ始めた。組織の中で上司の指示にただ忠実になり、嘘偽りもその上司への精神的なれあいのように見える事象が多い。個人の誇りなんてものは打遣ってしまい、上にすり寄って我が身の保身を優先させる。こんな姿はいまの政治に腐るほど観察できる。「慣れよ狎れるな」の箴言はどこにいってしまったのだろう。
 閑話休題。著者は変人の部類に入る。しかし、その変人の情熱や素直さを賞賛するのは、その姿にそうありたい我が身を投影しているからであろう。自分とても過去を振り返ればそうしたかった、そうあるべきだった、学習すべきだったとの後悔はある。

2018年5月13日日曜日

樋口有介さんの45冊目

 <樋口有介 『平凡な革命家の食卓』(詳伝社、2018年)>:内容が要約されている帯を転記-「地味な市議の死。外傷や嘔吐物は一切なし。医師の診断も心不全。なんとか殺人に格上げできないものか。本庁への栄転を目論む卯月枝衣子警部補29歳。彼女の出来心が、”事件性なし”の孕む闇を暴く!?」
 主人公は前記のように29歳の準キャリアで脚が綺麗な女性刑事。場所は西国分寺。病死と判断された市議の殺人事件への格上げを巡って出てくる人物は、女性刑事以外に市議の妻と娘、隣り合わせのアパート住人の3人、医師。あとは警察内部とちょっとした関係者のみで、いつものような(?)魅力ある女子高校生は出てこない。柚木草平の名前が数カ所に出てくるがストーリーには無関係。アパート住人と深い関係になる女刑事はあまり魅力的ではないし、めがねの女性もさして面白い存在ではない。洒脱な会話は楽しめるのであるが、とても面白かったとは言えず、樋口ファンであるからしてそこそこ楽しめたというレベルと評しておこう。
 著書の小説にときどきあることだが、本作の書名がいまいちピンとこない。それから、真の犯人は市議の妻だったのか、という余韻は残る。
 『ぼくと、ぼくらの夏』が出た後、直木賞に一番近い作家と言われたのも昔のことで、サントリーミステリー大賞読者賞受賞以降はいろいろな賞の候補にはなるが受賞にはいたらず、いまはこの本が出版されたことを知って春日部市内の書店3店に足を運んだけれどどこにもおいてなかった。著者の名の影が薄くなったことなのか、あるいはこの新刊を置いていない春日部を田舎と感じるのか、両方含めて少し寂しい。
 1988年以来30年が経過して45冊目の樋口ワールド。

2018年5月11日金曜日

幕末と神話創成の本2冊

 <村上一郎 『幕末 非命の維新者』(中公文庫、2017年)>:初刊は1968年で当時のタイトルは『非命の維新者』、1974年の本書と同じ書名で文庫化され、本書はそれを底本として保田與重郎との対談が加えられている。保田との対談は全く興味もないが、解説に渡辺京二の名があり本書への関心は強まった。55歳で自刃した著者の名はぼんやりと聞いたことがあるという程度だった。で、本書で取上げている「非命の維新者」たちは、大塩平八郎・橋本左内・藤田幽谷・藤田東湖・藤田小四郎・真木和泉守・佐久良東雄・伴林光平・雲井竜雄の8人。最後の3人、詩人たちには関心はなく、藤田一族と真木については興味があった。
 明治維新の歴史は「維新者」たちの「魂魄のうめきの跡であり、だからこそ、とりわけ明治維新はまだ終わっていないともいえる」とまえがきに述べ、明治維新は「文化・文政の交より緒につき、以後ほぼ80年を経て明治中葉の挫折に至る過程と考えている」ともある。個々の「魂魄のうめき」に関心はないし、彼らの明治維新にも興味はない。彼らの挫折もなるべくしてなったという感想しか持てない。重要なことは彼らファナティックな行動がなぜ持て囃され、そして消えていったのかということで、そのバックグラウンドにある社会精神構造というか、日本というシステムというか、あるいは丸山真男のいう「古層」というものなのか、それをより深く知りたい。そうすることで自分の立つ位置の輪郭を描けると思っている。
 明治150年云々がいま盛んに言われているが、なぜ明治に回帰しようとするのかも理解できない。もっとも国家とか政治システムとかに理想を想像するなんて事は出来るはずもなく、少しずつでも進化するであろうという希望的前提に立てば、解説にあるように、「国民国家など、どう転んでも揚棄の対象でしかない」とするのがもっとも正しいと思う。

 <及川智早 『日本神話はいかに描かれてきたか』(新潮選書、2017年)>:サブタイトルは「近代国家が求めたイメージ」。
 幕末期・維新期に、日本が「西洋文明に触れたとき、日本人の根拠として新たに見いだされたものが『古事記』『日本書紀』に載録された神話や古代説話群であったといえる」。万世一系の系譜、天皇支配権の正当性を明示するために、天皇と直結する神々の世界を描く記紀の神話を活用し、記紀に「初代天皇として載せられながら」、近世の終わり頃までは「顧みられることの少なかった神武という存在が」、明治新政府によって「意図的にクローズアップされて」きた。維新期に再構成された神話は今も生きており、その意味では記紀の活用は成功したといえるであろうし、明治期に復古せよと主張する側から言えば、維新はいまも未完成なのだろう。
 科学的知識と感情の分離がいま顕著になっているとする分析があるが、それは何もいまに限定されることでもなかろう。本書では神話の図像の変遷が詳述されている。が、オロチが大蛇であろうと龍であろうと、和邇あるいは鰐と書かれたワニの正体が鮫、鱶、ワニザメであろうと、「肝要なのは解釈の当否ではなく、それが当たり前のように受け取られ、人口に膾炙していったということ」なのである。情報過多の今、SNS等で真偽の不確かな主張が飛び交っている。知識に基づく問いを自問するではなく、「感情」というある種ファナティック状態で、情報が不確かなまま「人口に膾炙」していることが多い。その風潮、時代の流れに強い違和感を覚える。
 ワニが爬虫類であると発表された当時は、日本は南洋諸島のある部分を領土としていたし、あわせて日本人南洋起源説も唱えられた。敗戦後は一転して鮫や鱶の類いであると解釈されてきた。他の事例をあげれば、「明治天皇がヨーロッパ的な軍人君主へと転換する過程」は「東征する神武天皇のイメージの生成」と並行するし、「”みづら”を結う神武天皇の図像は、近代に入って作為されたもので」、そもそも「古代天皇の支配の正統性とその由来を語るために生み出された『古事記』『日本書紀』に、初代天皇として載せられながら顧みられることの少なかった神武という存在が、幕末から近代に入り意図的にクローズアップされて」きた。”みづら”の髪型である神武天皇の図像は今の時代にも深く浸み混んでいる。明治の時代への復古を思うのも、あるいは抗するのも、そういう時代背景を知った上で語ることが大事だと思う。
 図像そのものではセキレイの描かれ方が(下世話的に)面白い。「イザナキ男神(陽神)とイザナミ女神(陰神)は交合の方法を知らず、飛んできたセキレイが頭と尾を振り動かす様を見てそのやりかた(術)を知り」、「国生みの神話の図像では、イザナキ男神とイザナミ女神が天の浮橋におり、そこから岩上(オノゴロ島)のセキレイを見ているというのが、江戸後期以降の定番図像と」なり、「図像として男女二神の交合を直接描くことは憚られたため」「セキレイの図像が、性表現の象徴として最終的に選択されたと考えられる」と述べられる。セキレイに関しては『エロティック日本史』(下川耿史)にも解説されている。

2018年5月5日土曜日

雑記

 4月26日は人間ドック。毎年繰り返していることなので、いつもの病院に入るとまた1年が経ったと馬齢の重なりを実感する。病院内の人間ドックのエリアは椅子や器財などが新しくなっており、儲かっているんだなと思った。また、毎日異なる人たちに同じ仕事を繰り返しているスタッフの動きを見ては、自分がこの仕事に就いていたらどのように仕事の面白さを見つけて日々の業務をこなすんだろうかと想像を巡らす。

 まる一日をかけて自室の模様替え(L/O変更)を行った。かなり大幅に変えたのだが、それは自分がそう思っていることで、家族から見れば大した変化ではないはずだ。変わったことを面白がって見ていたのは娘の娘だった。
 L/O変更のメインは、放ってあったギター関連機材をいつでもすぐに手に触れる位置に移動したこと。本やテレビを移し替えて場所を空け、アンプ2台を常時座っている椅子の近くにもってきて、それに伴ってマルチ・エフェクターなどもその近くに位置させた。機材はすべて10年以上前に購入し、ただただキレイな音を出したいがためであったが、まあ途中で触ることもなくなっていた。その理由として一番大きいのは左腕の肘部管症候群で、手術後も今も左手小指は思うようには動かない。簡単に言えば左小指で鼻くそをほじれない。だからギターコードを押さえるのにかなりの制限が出てきていて、フォークギターではよくやっていたスリーフィンガー・ピッキングなんてごく簡単なコードしかできなくなった。せめて左ではなく右だったらよかったのにと思っても詮無きこと。
 久しぶりに表に出したマルチ・エフェクターや録音機材の操作すら覚えていなくて、学習のし直し。エレキギターで-例えばShadowsのような-キレイな音を出したいだけで、ちゃんと弾けるかどうかは二の次でいい。ソフトよりもハードが好きということだけなのかも知れない。

 ギブソンの経営破綻のが近いのではないかということは以前から流れていたが、それが現実になった。「多くのギター好きがそうするように、楽器店のショーウィンドーの前に立ち、何時間も見つめる男がいた。ロックの大スターになる前のエリック・クラプトンである」と5月4日の天声人語にあった。クラプトンと並べるのはおこがましいが、大学入学の年、楽器店のショーウィンドーの中にあるマーチンを涎を流しそうにして眺めていたことがある。他のギターとは醸し出す空気が違っていた。4年になって入った研究室の同学年に「走れコータロー」の作曲者に名を連ねていた人がいて、彼がマーチンのD45だかD28を買ったと聞いたときは自分より背の低い彼を見上げたような気分だった。レコード売り上げの印税が入り、1/8の印税収入でも200万円を超したとか言っていた。爪を研ぐヤスリをいつも持っていた。
 マーチンの次に欲しいと思ったのはBurnsで特にHBMのモデル。もっと技量があって人前でも弾ける自信があるレベルだったら買っていたかも知れない。

 4-6日、ゴルフをやる連中に便乗して猪苗代に泊めてもらい、酒を飲んで、日中は会津の訪れたことのない鉱山の地をドライブする予定だった。が、連れ合いが風邪を引いてしまい28日頃より激しい咳を繰り返すようになった。もともと気管支喘息を持っていて、定期的に大学病院に通い症状は出なくなったが、そのせいで咳が出ても市販の咳止めは服用できない。しかも連休だし、担当医診察予定日の関係で大学病院に行ったのが2日。風邪と分かったのもその日で、薬を貰い、咳は治まってきたがその副作用なのか風邪の症状なのか体調は崩したまま横になっていることが多い。当初、会津行きはOKと言っていたが、さすがにそれはできないと思い、病院に行ったその日に会津行きを中止した。彼女のせいだけではないとの理由を幾つか付けて中止理由を説明したのは、多分オレのヤサシサ(?!)。

2018年4月28日土曜日

マンガと数学

 <原泰久 『キングダム50』(集英社、2018年)>:趙/李牧との戦いがまだ続く。

 <日本お笑い数学協会 『笑う数学』(KADOKAWA、2018年)>:128√e980の上半分を消すとI Love youになる。1/{√(7+2√12)}+1/{√(5+2√6)}+1/{√(3+2√2)}が1となる気持ちよい計算過程。y=1/x、x^2+y^2=9、y=|2x|、x=-3|sin(y)| この4つの式はLOVEを示す。イギリス風因数分解(解りやすい)。四平方の定理、等々の面白い(あるいは笑える、駄じゃれ的な)数学のテーマが100個あって楽しめる。
最も好きだったのは静岡大学の試験問題(13題目)で以下;
関数f(x)、g(x)を次のように定義する。
f(x)=x^4-x^2+6(|x|≦1)、f(x)=12/(|x|+1)(|x|>1)
g(x)=1/2*{cos(2πx)+7/2 (|x|≦2)
このとき、2曲線y=f(x)、y=g(x)のグラフの概形を同じ座標面に上にかけ。
静岡大学ということと組み合わせると実にウィットに富んだ楽しい問題である。

2018年4月25日水曜日

44年前の勤務中写真

 最初に勤めた会社での勤務中の写真が2枚。ともに44年前1974年に職場の同僚がたまたま撮ってくれたもの。1枚目は自席を立ったときで、左手にファイルを掴み、背後には資料を置いた机とドラフターが見える。2枚目にある機械は最初に加わった設計チームのなかで手がけた大型工作機械であり、練習機の主翼を削る機械。専門用語風に言えば、ガントリータイプ5軸フライス盤。一段高いところに立っている背の高い方が25歳のオレ。その右の背中を見せている人は多分上司のHo部長で、大径ウォームホイール(扇状)の説明をしているところかと思う。後ろにあるネジ(ボールネジ)は外形80mm、単品コスト80万円ほどで図面を描くのにびびった。そのボールネジが取り付けられているコラムは断面1600mm×1600mmの長さ6300mmだったか。これはさらに緊張した。名古屋の企業に製造委託したもので数百万円のコストだった記憶がある。納品されて実物を見たときに、図面を描いているとはいえその大きさに驚いたものである。ボールネジ軸受部の設計が未着手なのにコラムを先行発注せねばならず、軸受ハウジング取り付け部は見込みで広くとってある。コラムが乗っかる左右両側の大きな部品やその駆動機構も設計した。米国O社のジャパナイズ化および専用機化変更設計といえども、大学卒業したての若造によくもこういう設計をさせたもんだと今でも感じ入っている。この機械の設置で某メーカーへ出張した折、休日には結婚数ヶ月前だった連れ合いと東京でデートしたことも懐かしく思いだされる。熱い夏のことだった。
 写真の工作機械以外にも種々の専用工作機械を設計したが、その会社での僅か6年半の工作機械設計経験がその後の仕事の太い基幹となった。転職してからも製品設計という仕事は変わらなかったけれど、仕事の質、組織体制、開発プロセス、周囲の設計者の質などは良くも悪くも大きく変わった。すべて過ぎ去ったことである。



2018年4月23日月曜日

小関智弘さんの本

 <小関智弘 『どっこい大田の工匠たち 町工場の最前線』(現代書館、2013年)>:35年前に新宿/紀伊國屋書店の機械専門のコーナーで、機械設計に関する本を眺めていたときに『粋な旋盤工』を見つけ、この小説が場違いなコーナーに並べられていることに気づき、小説のコーナーに行ってもなかったことから書店のミスを少し嗤った。そして次が銀座かどこかの百貨店内の書店で『羽田裏地図』を見つけて嬉しくなったことを覚えている。何故なら、当時よく行っていた書店に小関さんの著作を見つけることはなかったからである。
 権威ある文学賞の候補になった『春は鉄までが匂った』の選考で、重鎮である作家が「鉄が匂うわけがないだろう」と受賞に反対したと知り、その作家を蔑んだ。鉄を削っているときの熱した匂い、切削油の焼ける匂いなどは工場で生きている人たちの息吹である。サラリーマン時代は現場に行くことが好きだったこともあり、その匂いを感じると落ち着く気持ちになったものである。
 小関さんの本が出る度に買い求めては引き込まれて読んだ(今回は4~5年もほったらかしだったが)。ものを作る喜びを知っている人たちが好きであるし、机上で屁理屈を並べ、もの作りの現場や人たちを下に見る人は嫌い。手に触れて素材や加工品の冷たさや暖かみを感じることが大切だと思う。そして、この本で描かれる職人さんたちの類い希な技術や仕事への誇りは、彼らの、人生の謙虚さに繋がっている。
 直接ものを加工することはなく、その手前の設計図面を描くことから始まったサラリーマン人生の中で、仕事として初めて描いた図面が部品になったときの感激は-単純なブラケットであったが-今でも忘れることがない。その後図面一枚でもとんでもない高価な部品図を書いたときや、複雑な形状の部品図を書いたときは緊張感や不安感を何度も強いられはしたが、やはり熔接のビードが綺麗な板金や、大きな鋳物、重さと輝きを感じる機械加工部品にはいいようのない愛着を感じたものである。小関さんの著作はいつもそのような、今はもう為すこともない過ぎた空間と時間を思い出させてくれる。そして、この国から物作りの喜びを知る人が少なくなることを悲観的に眺めている今がある。

マンガ3冊

 <オカヤイヅミ 『ものするひと 1』(KADOKAWA、2018年)>:「たほいや」なる辞書ゲームを初めて知った。遊ぶには参加者の平均化されたあるレベル以上の知識が必要であるが、これって面白そう。「郊外の夜に光る 謎の言葉みたいな 文章が書きたい」という言葉に惹かれる。「大抵の場合 映画の登場人物には 「本当には」 BGMは聞こえていないから 聞いているのは観客だけ」という文章も素敵。このマンガのテーマは、「雑誌の新人賞を受賞後、アルバイトをしながら小説を書いている杉浦紺(30)。出版は不況でも、言葉で遊び、文学を愛する若き純文作家の日常をのぞいてみませんか?」(裏表紙)。

 <都留泰作 『ムシヌユン 6』(小学館、2018年)>:人に比べて小さな虫が巨大化し、宇宙から見ると小さな地球が引き延ばされて変形し、異星人が現れたヨナセ島だけが無傷になっている。なんだかよく解らないが読み続けたマンガもこれで完となった。6巻まとめて古本屋行き。

 <武田一義 『ペリリュー 4』(白泉社、2018年)>:思う、飢餓のなかで米軍に追いつめられた兵士たちは何と闘っていたのだろう。玉砕、英霊などと飾り立てられた言葉で包まれた、死んでいった兵士たちは何に対峙していたのだろうか。「英霊たちのおかげで今の日本がある」という言葉で括られるはずはない。

2018年4月22日日曜日

ミステリー3冊

 読書について、ここ数週間ほど書きためていたものを何回か続けて吐き出してゆく。

 <蒼井碧 『オーパーツ 死を招く至宝』(宝島社、2018年)>:2018年『このミステリーがすごい!』大賞受賞作。オーパーツにはそこそこ関心があるのでそれをミステリーに取上げるとどうなるのかと興味を抱き手に取った。が、趣味に合わない。本格密室トリックなのだが、面白さは感じられなかった。単に好みが違うということなのだろう。

 <原尞 『それまでの明日』(早川書房、2018年)>:14年ぶりの最新作とあるが、自分にとっては12年ぶり。原さんの全小説-渡辺探偵社/沢崎シリーズ-はすべて読んでいて、ストーリーは記憶にないが、沢崎が醸し出す空気を楽しんでいたことは思い出す。その沢崎は50歳を超え、謎の人物からの依頼があったことから物語は始まり、金融業者での強盗に出くわし、そこで知り合った若者と出会う。刑事二人、暴力団、料亭の女将などが絡んで、入り組んだ織物を解きほぐすかのように縺れをほどいていく。400頁を超える長編を楽しめた。特に会話が楽しめた。・・・7文字のタイトルは維持されている。

 <連城三紀彦 『夜よ鼠たちのために』(宝島社文庫、2014年)>:連城三紀彦といえばまずは名作「戻り川心中」、雑誌『幻影城』でのデビュー作「変調二人羽織」、続いて「宵待草夜情」がある。最初に読んだ刊行本は35年前4月初旬の『夜よ鼠たちのために』であったが記憶に残っていなかった。2013年に亡くなった翌年に今回の文庫本が発刊され、4年間手に取ることはなかった。いま改めて読んだが、ストーリーにセピア色の古さを覚えた。それは勿論いまは本格ミステリーをさほどに好まなくなったことも反映されているのだろう。収められている短編にも同じ空気を感じた。
 35年前は読んだ本のタイトルと著者名しかメモしておらず、当時の読後感は判らない。でも、その後20冊近く読んでいるのだから、暫くはこの作者に入れ込んだことは間違いない。

2018年4月21日土曜日

マックス・リヒター、ルドヴィコ・エイナウディ

 ベッドに横になって本を読むとき、最近はポータブル・プレイヤーと枕元に置いた小さなスピーカーをBluetoothで接続してBGM風に音楽を流していることが多い。眠りにつくときもそのまま流し続けていることも多い。選ぶのはマックス・リヒターかルドヴィコ・エイナウディの曲がやたらに多くなっている。静謐というか、繊細で透明というのか、上手く表現できないがともかくも心地よい。で、違う演奏でも聴きたくなりCDを2ヶ月ぶりに発注した。1枚はマックス・リヒターで、今回はVivaldiのかの有名な「四季」をrecomposeしたもの。もう1枚はエイナウディのヴァイオリン演奏で、カナダのデュボー/ラ・ピエタのもの。カナダではベストセラーとなったものらしい。いま聴きながらこれを書いているが、美しい響きと優しく繊細な旋律。少し酔っている状態には特にフィットする

「維れ新たなり」のテキスト

 <苅部直 『「維新革命」への道 「文明」を求めた十九世紀日本』(新潮選書、2017年)>:この本の目的は19世紀の日本における思想の歴史。江戸末期の思想家の著作が紹介され、そこからは尊王攘夷活動など幕末政治活動の基底に流れていた思想を捉えることが出来る。己の知識のなさ、理解不足を最も突かれたのは山片蟠桃に関すること。『夢の代』で無鬼論を主張し、地動説を指示し、記紀を批判し、五行説否定等々の山片蟠桃に斬新さを覚えた。
 身分差をおかず、会読重視の私塾の存在など、民間の知的欲求は高かった。一方、明治期からの日本に基層として存在する會澤正志斎や藤田東湖の思想、「國體」、「王土王民」にはやはり抵抗を覚える。民衆不在で「維れ新たなり」と進められた明治維新は、西洋化=近代化を図りながら精神的には「復古」するという矛盾の下、西洋文明の移植に民衆は新政府の権威を感じ取り、忠孝精神に漬っていった。今の日本は、もしかしたら第2明治革命を待っていた知識人たちの期待がまだあって明治初期の維新状態が続いているとも思える。
 ハンチントンによれば、世界には7から8の文明があるという。それは、西洋・儒学・日本・イスラーム・ヒンドゥー・スラブ・ラテン・アメリカ、プラスしてアフリカだという。注目すべきは、文明で括られた区域とは違って日本だけが一国家として捉えられていること。ハンチントンの主張は、日本(国)をユニークな、他の地域文明と混じり合わない独立した(あるいは孤立した)文明と捉えたうえでの主張と思える。それは、例えば、広がりを見せない日本の#MeToo、個人の自律性が喪失されている忖度、日本の美徳と言われることのある融通無碍、非論理性の国会答弁、謝罪を知らないハレンチ言動などなどに見られるのではないか。
 人びとがこの独立性(孤立性)に誇り(優位性)を持つのか、偏狭さ(違和感)を感じ取るのかは、その人の思想的志向性の標識でもある。
 いろいろな思想家の著作を説明しており己の知識のなさを知らしめてくれるのであるが、一方ではそれが長すぎて読むのに努力するところもあった。何にしても日本の思想を語るときは天皇抜きで成されることはない。

2018年4月20日金曜日

タイトルに「エロ」の書籍、有害指定

 「タイトルに「エロ」の書籍、相次ぎ有害指定 研究書も」の記事があって、研究書まで指定するのはやり過ぎとの声もあるらしい。記事の一部は下記(4月17日朝日新聞)

 3月30日に北海道が有害指定したのは「エロマンガ表現史」(太田出版)。同月23日には滋賀県が「全国版あの日のエロ本自販機探訪記」(双葉社)を有害指定した。いずれも青少年健全育成条例に基づき有識者による審議を経て「青少年の健全な育成を阻害するおそれがある」と判断した。18歳未満への販売が禁止され、書店などでの陳列も一般書籍と区別される。
 二つの書籍は、タイトルで「エロ」とうたい、女性の裸体や性的行為が描かれた本の表紙やマンガのコマを引用している。だが「表現史」の主題はマンガにおける乳房や性器の描き方の変遷の研究。「探訪記」はネットの普及により消えゆくエロ本自販機の現在を探るルポルタージュだ。日本雑誌協会は「新たな分野の研究書であり、フィールドワークの労作だ」と、有害指定に疑問符をつける。

 『エロマンガ表現史』(太田出版、2017年)は生活史、社会科学史、出版史、風俗史といっていいものだし、後世の歴史研究にも貴重な書籍だと思う。記事には書かれていないが、米沢嘉博の労作『戦後エロマンガ史』(青林工藝社、2010年)も貴重な資料になると思っている。ちなみにわたしは両方とも所有している。

 国立国会図書館デジタルコレクションでは版権が切れた書物などがフリーにダウンロードでき、酒井潔『エロエロ草紙(談奇群書 第2輯)』(竹酔書房、1930年)は非常に多くのダウンロード数(DL数トップだったかな?)があるとの記事を読んだことがある。この本、昭和5年の世相をうかがうことができて面白い。

 いま、財務省事務次官のセクハラ問題がテレビで繰り返し流されている。次官が発したとされる言葉はイヤラシイ下卑た言葉そのものだが、北海道と滋賀県は有害指定しないのかしら。青少年への、のみならず社会一般への悪影響の度合いは、有害指定された書籍よりも広い意味ではるかに大きいと思うのだが。もちろん揶揄したうえでのこと。

31年の時を経て


 左は31年前の、娘が小学校3年の時に遊びで作ってくれたもの。右はその娘の娘が小学校3年になったばかりの数日後、わたしの今年の誕生日にプレゼントしてくれたもの。大事な大事な宝物。

ワイヤレスイヤホン

 外出時、ポータブル音楽プレイヤーから引き出すイヤホンのコードがうっとうしくなるときがある。コードがなければいいことで、Bluetoothワイヤレスイヤホンを購入した。左右が独立している物は紛失が心配なので左右が繋がっているものを捜し、結局落ち着いたのはSonyのレシーバーMUC-M2BT1で、これに前から保有しているイヤホンを接続。購入した決め手は、一にmmcx対応であること、つぎにLDAC対応コーディックであることの二つ。この二つを満足するものはこれしかなかった。NW-WM1Aを愛用していればLDACは必須だし、mmcx対応イヤホンもShureやRHA、Campfire Audio(CA NOVA CK)など既に幾つか持っているのでmmcx対応は外せない。何よりも一体型はイヤホンを変えて遊べないので面白くない。
 そんなところへAudio-TechnicaのATH-BT12が980円で入手できた。4年前に発売された当時は14,000円ほどだったが、今の実勢価格は最安値で5,000円からで、それが使い道のないポイントを使用することで1,000円を切った。外観はスマートじゃないし、耳へのフィット感も少し不満だし、バッテリーの持ちも短い。でもポイントを捨てるよりはと思い購入。音質は価格相応と言ったところ。
 イヤホンを聞き比べていると、やはりというかバランス接続のCAはずば抜けていい音がする。CA以外のイヤホン単体より高価なケーブルでバランス接続とあれば数段上の音質と音の広がりで、さらにNOVA CKより上のCAを聞きたくなるが、それはもうどんどん高価になるので欲求にブレーキをかけないといけない。

2018年4月18日水曜日

女の性(さが)??

 日曜日、娘の娘〇〇ちゃんが我が家で遊んでいてついつい揶揄いすぎて泣かしてしまった。こっちが全く悪いのであって、床に座って彼女を膝に乗せ、〇〇ちゃんゴメンゴメンと謝り、宥めた。その後、彼女は連れ合いと暫くカードゲームで遊んでいて、わたしはソファの上で彼女の背後に横になり転た寝をしていた。気持ちを切り替えることができる彼女は、自宅に帰るときは普段と何も変わることはなく、送っていくわたしと普通に会話を楽しんだ。

 その後の連れ合いとの会話。
 「〇〇ちゃん、可愛いんだよな。この前の大阪でも朝起きたときにベッドにおいでと言うとニコニコして入ってきたし。まぁ、△△(娘)が言うにはいろいろ買って貰ったお礼よというけれどね。それにさっき泣かしてしまったけれどその後は普通に甘えてくるときもあるし」
 「甘えて、泣いてまた甘えるのは次にまた何か買ってもらえる期待が入ってんじゃないの? 小3でもそれは女の性ってやつよ」
 ・・・・「女の性」が「ニョーボーの性」に変質するのはいつ頃からなのだろう。記憶にないほどに長い年月が経ったヵ。

2018年4月11日水曜日

花見?

 4月7日、高校同学年同窓による恒例の花見が上野公園のいつもの場所で催される予定だった。しかし、先月下旬の異常な暑さで桜はとうに咲いてしまい、葉桜の下での宴会となることは早々に判っていた。どうせ飲むだけだから花はどうでもいいんでしょうという連れ合いの言葉にはそのままに肯定いていたが、今回はそこに雨が重なってしまった。前日も翌日も好転であり、7日だけがピンポイントで雨天予報で、この日は単なる宴会となってしまった。雨のために宴会のみになったのは、随分と前の同窓会結成初期ころに一度あっただけと思う。

 前日に永世花見幹事から連絡が入り、買出しは中止し、上野駅すぐ近くの飲み屋さんににて12時に集合。当初の参加予定人数からは減り、同窓7人+ゲスト女性1名の計8名の飲み会となった。ビール、ハイボール、獺祭一升と酒精流し込みは続き、隣にいた団体から、自分の娘より若い30代女性二人に声をかけて引き込み、楽しかった。トイレを出たときに接触しそうになり声をかけたのが切っ掛けで、38歳の女性に同席して貰い、さらにその友人を追加でこちらに座って貰った。彼女たちの父親よりも10歳以上も年上の我が身を振り返れば、やるせない気持ちになるのは致し方ないこと。こっちには数日前に69歳になったKoがいるし、オレは翌日に69歳となった、なってしまった。

 宴会がお開きなって上野公園を歩き、青々と茂る桜の葉を眺め、カラオケに行き、さらにもう1軒いったような気がする-記憶が定かではない。チェックイン前に珈琲を飲みたくなり、ホテル近くのルノアールに入り、他人のテーブルにあるピザトーストが食べたくなり、あとはいつもよりは早めにチェックインし爆睡。

 翌日は誕生日。この年齢になれば目出度くもなく、若い時代にやり残した、あるいはやっておけば良かったと思うこともあるけれど、それを頭に浮かべれば妄想の世界に入ってしまうので、頭を振って雑念を追い払い、要は現実をそのままに受け止めるしかない。
 朝風呂に入り、Koといつものようにルノアールに入り珈琲。いつもはモーニングセットを頼むのだけれど前日の、よせばよかったピザトーストのせいか食欲はない。
 特に行きたいところもなく、秋葉原/ヨドバシカメラでカメラのアクセサリーを購入後、行けば何かやっているだろうと上野公園に行き、パンダ見物なのか結構な人の群を進み、国立博物館で「アラビアの道」を見物し、昼食を済ませてそこで互いに帰路についた。上野駅で連れ合いからLineが入り、息子一家が15時に来ることを知り、その後は自宅で息子とその嫁さんが買ってきてくれたケーキで誕生会的時間となった。娘の娘が来て、息子の娘と遊んであげてる賑やかな中、こっちは転た寝。長い2日間だったような気がする。

2018年4月10日火曜日

大阪で遊ぶ

 娘の子どもたちが春休みの時は、娘と私の連れ合いが一泊二日程度で小旅行をすることが多かった。今回は以前よりUSJに行きたいと娘の長男が強く希望を出しており、行くこととなった。日程調整などすべてはいつものように娘に任せっきり。USJには行ったことはないので、珍しく私も同行したいと言い出し、娘の連れ合いも行きたいと言う。新幹線での移動を孫たちは主張し、さらにそれを強く押したのは私と連れ合い。娘の連れ合いが同行することになったので土日にかかることとなり、混雑を思うと僅かに不満でもあったがそれはしようがない。

 31日に東京駅でのぞみに乗り、車内で駅弁の昼食を摂り、大阪に着いてからは娘の連れ合いに従って移動。大阪は不案内なので方向も地名も殆ど分からない。
 USJは一日半のチケットを購入してあり、時間があるのでまずは通天閣に寄った。そして再度移動してUSJに向かい、規定の15時に入場。人がたくさん。そこからは娘の長男がほぼ主導権を握り、こっちはそれについて歩き、欲しいというものを無条件に購入し、アトラクションの列に並ぶ。長男はスマホ片手に混み具合をチェックして先導するが、こっちはどこをどう歩いているのかをチェックもしない。
 娘一家がいなければ絶対に来ることはなく、まして入場に並ぶこともしないだろう。楽しみにしていたが二度と乗らないと決めたのはジェットコースター。娘とその長男は隣で手を上げたりしているが、私はそれができない。以前は好きだったが、30年以上ぶりとなったいまは恐怖心が先に立つし、降りると足が地に着かない。私の連れ合いと今春小3にある、娘の娘は私の連れ合いと別行動で可愛いアトラクションに向かっていた。二日目はそこに私も加わることになり、娘とその長男(今春中3)は再びジェットコースターやらスピード感のあるところへ行っていた。

 宿泊先は舞洲のトレーラーハウスが散在する施設で、綺麗。ハウスは独立しているので躁いでも隣室などを気にすることがなく、快適だった。ただ、2台に分乗したタクシーの一人が場所を分かっていない。昨年オープンしたところなのでタクシーのドライバーさんがよく分かっていないし、Googleで表示される地図も不正確。しかし、ここで大阪の運転手さんの親切はとても嬉しかった。逸れてしまい1-2km離れて下車した3人を、もう1台のタクシーは無料で探しに行ってくれるし、宿泊先の人も迎えに行ってくれ、助かった。迎えに行ってくれた運転手さんは一見強面風であったが、運転している中で大阪の観光案内めいたことをしてくれるし、宿泊先の近くになって少し地理的に迷ったときはメーターも倒してしまうし、降りるときには印象が大きく変わった。

 二日目はバスでUSJまで移動し、あとはフルタイムで遊んだ。娘婿は二日目の夕刻に帰宅-翌日は仕事の関係で大阪に出張とは妙なものである。息子の子どもは今夏2歳になる幼さなのでUSJなどで遊ぶにはまだまだ年数が経つのを待つしかない。家族全員で出かけるのはなかなか難しくなっている。

 最初の日、通天閣展望台に上がるには混んでいて時間がかかるのでやめ、最終日三日目に行こうとしたが、以外にも安いではないかと急遽あべのハルカスに向かうこととなった-娘は料金を支払うこっちのことを気にかけていた模様。3月7日にオープンになったばかりの高さ300mのエッジ・ザ・ハルカスを体験しようというもの。60F展望台に上り、娘の娘は身長制限(145cm以上)に引っかかっているので連れ合いととともに展望台フロアで遊んでいることとした。手続きから60分ほど待ってからつなぎの服を着てハーネスを付け、眼鏡は落ちないようにバンドを二重に付け、娘はすべてのアクセサリーを外し、階段を上がった。爽快。いい思い出になった。このハルカスのことはニュースでは知っていたが、USJのことばかり頭にあったので豪華付録のような楽しさであった。

 新幹線発車まではまだまだ時間があるので、大阪ならばお好み焼きということで道頓堀に向かった。スマホで見つけた有名店は長蛇の列。ぶらぶら歩いてそこそこ知られている店に入り、チェーン店道頓堀ではない道頓堀のたこ焼きがこの日の昼食。そこそこ美味しかった。時間潰しでさらにこの場所を歩き、グリコの看板近くに行ったり、たこ焼きを食べたり、子どもたちはメロンパンアイスをデザートにしたりと相当歩いた。中国系か韓国系らしき団体客が多い。多すぎると言った感もある。
 電車に乗っているときも、街中を歩いているときも、通天閣も道頓堀も、やはりというのか東京とは空気が違う。いい悪い、好き嫌いではなく空気感が違う。そして万博を誘致しようとしていることを思い出した。

 娘の子どもたちと遊んで楽しかった3日間。溺愛する〇〇ちゃん(娘の娘)とのツーショットをたくさん撮り(電車の中でも)、泊まった先ではおいでというとニコニコしながらベッドの中にも潜り込んできた。娘は、いろいろ買って貰ったお返しのつもりでいるんじゃないかと言うが、理由は何でもいいのだ。



2018年3月29日木曜日

大田原にて

 27-28とゴルフをやる友人たちに合わせ、ゴルフをやらない自分はただ酒を飲む目的のために大田原に行った。昨年12月以来。今回は秋田の酒「雪の茅舎 純米吟醸生酒」を保冷剤で包んで持参。先に着いたので部屋に入り独りでビールを飲みながら佐川証人喚問劇場を眺めていた。
 自宅を出るときからラジオでこの劇場というか茶番劇を聞きながら車を走らせた。日本の政治システム、公文書管理システムなど、また、レベルの低い国会議員たちを十分に味わえる日であった。

 この日の昼食は宇都宮餃子。本格的に食べたことがないので駅前の宇都宮餃子館の一店に入り3種の餃子を食べたが、「凄~く美味いのだろう」という期待は崩れてしまった。春日部のよくいく店の方が美味い。一店の宇都宮餃子を食べて全体を評するのは正しくないだろうが、そこそこに名が売れている店だったので、要は期待ほどには美味くなかったという印象だけが残ってしまった。

 27日は飲んで歌って、同室の友人の凄まじい鼾を聞き、また彼の無呼吸にも驚いた。2升を空にし、殆ど残ったウィスキーCARDHU 12は自分に渡された。
 翌日、KaMaが教えてくれた雲巌寺に向かった。吉永小百合のJR東日本のCMに登場すると聞かされたがそれは知らなかった。静かで、寺は周囲の風景とマッチングしており、しばしの時間を楽しんだ。今回に限ってカメラを持参しなかったことを後悔し、しようがないのでスマホで撮影。

 「道の駅きつれがわ」でイチゴや地産野菜、あさの牧場のコロッケ、足利の「古印」などを購入し、自宅に到着したのは12時30分頃。この日、季節外れの暑さで汗ばんでしまった。

2018年3月25日日曜日

2度目の宮古諸島・八重山諸島

 10年ぶりに宮古諸島八重山諸島にパック旅行。10年前は2月21日~24日で今回は3月18日~21日。
 前回は9島巡りで今回は10島。1島増えた小浜島には初めての上陸。また前回は伊良部島へはフェリーで渡ったが今回は伊良部大橋でバスの移動となった。あとは前回は訪れたが今回は行かなかった場所(鍾乳洞・砂山ビーチ・西平安名岬)、あるいは逆に今回はじめて立ち寄ったところ(雪塩工場・イムギャーマリンガーデン・コンドイビーチ)があった。さらに、下地島では前回は旅客機が発着訓練をしていたが、今はLCCのみが訓練をしていて、それを見ることはまずないということだった。

 10年が経っていても風景などの記憶は残っており、そのために新たに心が弾むとかはあまりなかったツアーだった。あと変わったことと言えば飲酒量が減ってしまい、夕食時はビール中瓶一本で終わった日もあったし、食べる量も減っている。10年という年月でやはり肉体的な衰えは確実に感じるものではある。

 二日目の夕食時に若い女性が三線を持って歌い、こちらの席近くにも来て歌っていて、小さな声で一緒に歌った。彼女、帰る際に笑顔で会釈してくれた表情が素敵だった。3日目の夜も60歳前後らしき男性の島唄ライブがホテルロビーで催されたが、これは自意識過剰・自己満足満載でつまらなかった。人に聞いてもらって楽しんでもらうのではなく、自己陶酔といった趣。三線演奏はおざなりで、メインのギターはアレンジがワンパターンであり早く終わらないかと思っていた。

 春日部を出るときは10度前後の気温で、宮古島に着いたときは24度で少し蒸し暑さを感じ、汗をかく日もあったが、最終日の帰る日は19度まで下がり、島の人は冬が来たと言っていた。石垣島で19度が羽田に到着したときは3度。一日で16度の温度変化は多分はじめてのことだと思う。

 今回の宮古諸島・八重山諸島も含め、沖縄はもう何回も来ており、沖縄本島も慶良間諸島にも、奄美群島も訪れた。連れ合いと二人だけの島巡りはもういいかなと思う。離島の海の色の綺麗さにも心が踊らなくなっている。
 次はどこに行こうか、パックツアーのめぼしいところはほぼ全て訪れているので、リピートする地を選ぶしかなくなっている。そして、年齢を重ねれば同じ経験の繰り返し、鈍感になる感性、乏しくなる想像力、動から静への変性・・・・。