2018年3月29日木曜日

大田原にて

 27-28とゴルフをやる友人たちに合わせ、ゴルフをやらない自分はただ酒を飲む目的のために大田原に行った。昨年12月以来。今回は秋田の酒「雪の茅舎 純米吟醸生酒」を保冷剤で包んで持参。先に着いたので部屋に入り独りでビールを飲みながら佐川証人喚問劇場を眺めていた。
 自宅を出るときからラジオでこの劇場というか茶番劇を聞きながら車を走らせた。日本の政治システム、公文書管理システムなど、また、レベルの低い国会議員たちを十分に味わえる日であった。

 この日の昼食は宇都宮餃子。本格的に食べたことがないので駅前の宇都宮餃子館の一店に入り3種の餃子を食べたが、「凄~く美味いのだろう」という期待は崩れてしまった。春日部のよくいく店の方が美味い。一店の宇都宮餃子を食べて全体を評するのは正しくないだろうが、そこそこに名が売れている店だったので、要は期待ほどには美味くなかったという印象だけが残ってしまった。

 27日は飲んで歌って、同室の友人の凄まじい鼾を聞き、また彼の無呼吸にも驚いた。2升を空にし、殆ど残ったウィスキーCARDHU 12は自分に渡された。
 翌日、KaMaが教えてくれた雲巌寺に向かった。吉永小百合のJR東日本のCMに登場すると聞かされたがそれは知らなかった。静かで、寺は周囲の風景とマッチングしており、しばしの時間を楽しんだ。今回に限ってカメラを持参しなかったことを後悔し、しようがないのでスマホで撮影。

 「道の駅きつれがわ」でイチゴや地産野菜、あさの牧場のコロッケ、足利の「古印」などを購入し、自宅に到着したのは12時30分頃。この日、季節外れの暑さで汗ばんでしまった。

2018年3月25日日曜日

2度目の宮古諸島・八重山諸島

 10年ぶりに宮古諸島八重山諸島にパック旅行。10年前は2月21日~24日で今回は3月18日~21日。
 前回は9島巡りで今回は10島。1島増えた小浜島には初めての上陸。また前回は伊良部島へはフェリーで渡ったが今回は伊良部大橋でバスの移動となった。あとは前回は訪れたが今回は行かなかった場所(鍾乳洞・砂山ビーチ・西平安名岬)、あるいは逆に今回はじめて立ち寄ったところ(雪塩工場・イムギャーマリンガーデン・コンドイビーチ)があった。さらに、下地島では前回は旅客機が発着訓練をしていたが、今はLCCのみが訓練をしていて、それを見ることはまずないということだった。

 10年が経っていても風景などの記憶は残っており、そのために新たに心が弾むとかはあまりなかったツアーだった。あと変わったことと言えば飲酒量が減ってしまい、夕食時はビール中瓶一本で終わった日もあったし、食べる量も減っている。10年という年月でやはり肉体的な衰えは確実に感じるものではある。

 二日目の夕食時に若い女性が三線を持って歌い、こちらの席近くにも来て歌っていて、小さな声で一緒に歌った。彼女、帰る際に笑顔で会釈してくれた表情が素敵だった。3日目の夜も60歳前後らしき男性の島唄ライブがホテルロビーで催されたが、これは自意識過剰・自己満足満載でつまらなかった。人に聞いてもらって楽しんでもらうのではなく、自己陶酔といった趣。三線演奏はおざなりで、メインのギターはアレンジがワンパターンであり早く終わらないかと思っていた。

 春日部を出るときは10度前後の気温で、宮古島に着いたときは24度で少し蒸し暑さを感じ、汗をかく日もあったが、最終日の帰る日は19度まで下がり、島の人は冬が来たと言っていた。石垣島で19度が羽田に到着したときは3度。一日で16度の温度変化は多分はじめてのことだと思う。

 今回の宮古諸島・八重山諸島も含め、沖縄はもう何回も来ており、沖縄本島も慶良間諸島にも、奄美群島も訪れた。連れ合いと二人だけの島巡りはもういいかなと思う。離島の海の色の綺麗さにも心が踊らなくなっている。
 次はどこに行こうか、パックツアーのめぼしいところはほぼ全て訪れているので、リピートする地を選ぶしかなくなっている。そして、年齢を重ねれば同じ経験の繰り返し、鈍感になる感性、乏しくなる想像力、動から静への変性・・・・。

2018年3月24日土曜日

ここ2週間

 友人のポータブルMP3プレイヤーが故障し、機械的原因の有無を調べたが回路上の故障らしく修理不可。新規に購入することに再度アドバイスすることになり、8日は秋葉原のヨドバシカメラに行く。何種類かの中から操作性など本人の気に入ったものを選び、最終的にSONYのものを購入。続けて自分も含めて3人で東京駅の飲み屋に入り、まずはバッグからPC等を出してそのプレイヤーの充電および曲の引っ越しをした。2GBに満たない530曲ほどの入れ込みはすぐに終わってしまう。あとは酒精を体内に取り込む。カラオケに行くのもいつもの通り。
 翌日、その友人から電話が何度かあり、新規MP3プレイヤーの操作や曲のタイトルの付け方(ソーティングの仕方)などをサポート。こっちは現物を持っていないのにサポートできたことに少しは自画自賛。

 本来は5日に病院に行き、先月の腸内視鏡検査の結果を聞くはずだったが、検査時にポリープ切除など治療の必要はないことを知っていた。ために、この5日の受診日を忘れてしまっており、1週間遅れで12日に医療センターの受診室に入った。次の検査は2~3年後でもOKとのこと。しかし、腸内清掃でまた1年後にはいくつもり。

 某県某氏より借用した資料のスキャニングに延べ3日を費やす。約100年程前のカノン砲や列車砲の写真や説明文書であり、全部で256枚の画像取り込み。録画したドラマなどを眺めながら、横にコピー機とPCを置き、同じ作業を繰り返す。手書きの資料や写真、機械図面を眺めると、なんとはなしに興味を引かれ、昔の武器は極めて機械的であり現代兵器とは違う人の営みを感じる。

 地元の図書館経由で会津若松市立図書館から会津の鉱山関連の図書4冊を送って貰った。5冊依頼したが1冊はweb上では貸出可であったが、最近になって貸出禁になっていた。残念。
 会津の鉱山関連の書籍と言えば佐藤一男氏だが、今回借りたものもすべて氏の著作。以前は断片的にしか目を通していなかったので、きちんと読んで見ようかと思った次第。この4冊もすべて数日かけてpdfに落とし込んだ。さらにwebにて鉱山関連の本を新たなキーワードで検索したが、少ししか発見できなかった。それでも以前よりは対象を少し拡げたので面白そうな資料もダウンロードできた。秋田県立図書館にも初めて知る本が見つかったのでまた春日部市立図書館経由で貸し出してもらう予定。

 金山町の『広報かねやま 縮刷版第5巻』を取り寄せた。むかし住んでいた町の広報を眺めていると、親戚も親しい知人もいないためか妙に懐かしく思える。不謹慎ではあるが、知っている名前はないかとついつい死亡記事を見てしまう。
 本を送って貰うなかで何度か町役場の人とやりとりがあった。電話では会津弁のイントネーションに懐かしくなり、メールには横田小学校および中学校の卒業であると記されており、後輩だと嬉しくなった。女性であれば尚更だったと思うが...。

 18日からは4日間の旅行。

2018年3月8日木曜日

体重減量、記憶力低下

 正月の飲み食いなどで体重が3kgちょい増えたのに気付いたのが1月5日。これはやばい、減量せねばと一念発起(?)して約10日間で2kgは落としたが、それから目標とする3kg減にはなかなか届かない。そして2ヶ月経ってやっと3.1kg減となった。増やすのは簡単であるが減らすのはホントに難しい。ランニングをやっていたころは現在より7~8kgほど下の体重であったのに、やめたらジワジワと増えた。毎朝パンツ一枚になって体重を量るのが日課になっている。寒いけれども。

 一昨日は小学校2年の女の子(娘の子)と二人になり、宿題を終えた後は彼女の帰宅まで時間があり、何か遊ぼうかとトランプで神経衰弱をやった。結果、1回目は1セットの敗北、次は16セットの差を付けられて大敗してしまった。2回目の大敗は正直いってショック。彼女は嬉々として、「何回も同じ所をめくっているよ」と私に言い、低下した記憶力を嘆く私には「鍛えればいいじゃん」と言う。作家や地名や歌手や俳優の名前を思い出せなくなっているのは年齢のせいと打遣っていたが、60歳年下の孫に記憶力の低下を如実に見せられたのには多少でも落ち込んでしまう。彼女の嬉しそうな顔を見るのは楽しいのであるが、あと一ヶ月で69歳になる自分の年齢が重く感じられる。

2018年3月7日水曜日

本2冊

 <四方田犬彦編著 『1968 [1] 文化』(筑摩選書、2018年)>:1968年は大学に入学し、東京は高田馬場/新宿区諏訪町に住み始めた年。当時の日記を開いてみたら50年後の今と変わらない字体の文字が並んでいる。4月5日に高田馬場で一人暮らしを始め、誕生日の翌日から授業が始まり、2時限はいきなり休講だった。最初に話しをした友人のこと、幾許か虚無的になっていること、女性の知り合いも出来ないでいたこと、小説をかなり読んでいたこと、現在も親しい高校時代からの友人と結構な頻度で遊んでいたこと、そんなことが書き連ねられている。夏に従姉妹が交通事故死し秋田に行った。携帯もない時代だからオレの部屋に来た友人たちとは何度かすれ違っていた。煙草を吸い、酒を飲み、社会組織や世の中に距離を置こうとしている自分がいた。自分の字で書かれた50年前の自分の日記を眺めていると、人生なんてあっという間という感情も湧いてくる。そして、生き方というか世の中の見つめ方の基本は今と変わらない、昔から変わっていないと感じる。
 この本、1968年の「美術-グラフィックス-演劇-写真-舞踏-音楽-ファッション-映画-雑誌」が描かれている。濃淡はあるが、もちろんすべてに記憶がある。最も身近にあったのは音楽で、あとは、その時代に生きていて知っているというレベルである。そしてそれらは政治的であり、今よりは烈しいメッセージ性を帯びていた。あの時代と今を比較してもしようがないのであるが、すべての組織・体制が保身的に硬直し、すべてが萎縮し、すべてが無意味な秩序へと進んでいるような気がしてならない。「歴史とは現代と過去とのたゆまない対話である」ならば一体この日本社会は過去と何を対話し学んでいるのだろう。世の中をリードする人たちにとっては、歴史事象とは現代を巧みに操る道具でしかないのかもしれない。音楽や演劇や舞踏などの個々の文化は連続性を持って現在までに発展し変遷をしていると思うが、1968年に有していたメッセージ性は薄くなっている。それは”出る杭は打たれる”ように土中に埋まっていくしかないないような様相さえある。

 <西鋭夫 『新説・明治維新 [改訂版]』(ダイレクト出版、2018年)>:新聞の広告で無料とあり、何か胡散臭さも感じられたが、送料だけを支払って送られたきたのがこの薄い一冊。講演録で視聴者に問いを投げかけていて、あとは定期的会員にでもなれば答えを得られるのかもしれない。フーヴァー研究所はスタンフォード大学敷地内にあるもその大学の付属機関ではないので、スタンフォード大学の名称をかぶせることに違和感はあるし、教授とあるがHoover InstitutionのHPではa research fellowと記されている。教授であるモラロジー研究所、最優秀賞を受賞しているアパホテル関連の「真の近現代史観」懸賞論文にも抵抗感があるのでこれ以上著作を読むことはない。