2018年3月7日水曜日

本2冊

 <四方田犬彦編著 『1968 [1] 文化』(筑摩選書、2018年)>:1968年は大学に入学し、東京は高田馬場/新宿区諏訪町に住み始めた年。当時の日記を開いてみたら50年後の今と変わらない字体の文字が並んでいる。4月5日に高田馬場で一人暮らしを始め、誕生日の翌日から授業が始まり、2時限はいきなり休講だった。最初に話しをした友人のこと、幾許か虚無的になっていること、女性の知り合いも出来ないでいたこと、小説をかなり読んでいたこと、現在も親しい高校時代からの友人と結構な頻度で遊んでいたこと、そんなことが書き連ねられている。夏に従姉妹が交通事故死し秋田に行った。携帯もない時代だからオレの部屋に来た友人たちとは何度かすれ違っていた。煙草を吸い、酒を飲み、社会組織や世の中に距離を置こうとしている自分がいた。自分の字で書かれた50年前の自分の日記を眺めていると、人生なんてあっという間という感情も湧いてくる。そして、生き方というか世の中の見つめ方の基本は今と変わらない、昔から変わっていないと感じる。
 この本、1968年の「美術-グラフィックス-演劇-写真-舞踏-音楽-ファッション-映画-雑誌」が描かれている。濃淡はあるが、もちろんすべてに記憶がある。最も身近にあったのは音楽で、あとは、その時代に生きていて知っているというレベルである。そしてそれらは政治的であり、今よりは烈しいメッセージ性を帯びていた。あの時代と今を比較してもしようがないのであるが、すべての組織・体制が保身的に硬直し、すべてが萎縮し、すべてが無意味な秩序へと進んでいるような気がしてならない。「歴史とは現代と過去とのたゆまない対話である」ならば一体この日本社会は過去と何を対話し学んでいるのだろう。世の中をリードする人たちにとっては、歴史事象とは現代を巧みに操る道具でしかないのかもしれない。音楽や演劇や舞踏などの個々の文化は連続性を持って現在までに発展し変遷をしていると思うが、1968年に有していたメッセージ性は薄くなっている。それは”出る杭は打たれる”ように土中に埋まっていくしかないないような様相さえある。

 <西鋭夫 『新説・明治維新 [改訂版]』(ダイレクト出版、2018年)>:新聞の広告で無料とあり、何か胡散臭さも感じられたが、送料だけを支払って送られたきたのがこの薄い一冊。講演録で視聴者に問いを投げかけていて、あとは定期的会員にでもなれば答えを得られるのかもしれない。フーヴァー研究所はスタンフォード大学敷地内にあるもその大学の付属機関ではないので、スタンフォード大学の名称をかぶせることに違和感はあるし、教授とあるがHoover InstitutionのHPではa research fellowと記されている。教授であるモラロジー研究所、最優秀賞を受賞しているアパホテル関連の「真の近現代史観」懸賞論文にも抵抗感があるのでこれ以上著作を読むことはない。

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