2021年12月30日木曜日

White Christmas, White Winter、『黒牢城』

 White Christmas, White Winter・・・・。小学生から20歳ころまでは奥会津の雪深い地で正月を迎えており、学生生活を終えてから暫くのあいだの正月は北陸の雪の中で過ごしていた。今この春日部の地で白い冬を味わうことはなく、何気なく遠くの山々に向ける目には朧気に昔のモノクロームの風景が浮かんでくる。その若いときに眺めた情景が今よりカラフルだったとも想える今日の寒空。

 <米澤穂信 『黒牢城』(角川書店、2021年)>:荒木村重は信長に反旗を翻し有岡城に籠城。黒田官兵衛はその村重によって土牢に幽閉される。物語は官兵衛が幽閉され、村重が有岡城から出奔して官兵衛が救い出されるまでの間で、天正6年(1578年)~天正7年。村重は有岡城内に発する難事件の解決を官兵衛に求める。戦国の世における武将の駆け引き、一向宗やキリスト経の関わりなどを軸に事件の謎を解く。
 歴史とミステリー、戦に臨む武士の意欲と心情、村重の妻の人世に向き合う姿勢、などが絡み合い、いままでのミステリーの枠を超え、重厚な文章と深い心理描写も相俟ってどっぷりと嵌まって読まされた。
 『このミステリーがすごい! 2022年版』(宝島社)、週刊文春ミステリーベスト10、「ミステリが読みたい! 2022年版」(ハヤカワ)、『2022本格ミステリ・ベスト10』(原書房)、第12回山田風太郎賞(角川書店)、とミステリー界のトップを総嘗めした傑作。

2021年12月27日月曜日

早稲田ラグビー敗戦、USB端子の補強

 大学ラグビー、早稲田は明治に負けた。FWDの劣勢は最初から判っていることで、かなり押されていたし、反則も重ねた。それを覆すのはアタックの精度であるのだが、それを自滅的に崩してしまっては勝てるはずがない。
 後半、SO伊東が抜け出して確実にトライチャンスと思ったが、WTB小泉のパスミス(SH宮尾のノックオン)をやってしまった。自陣ゴールライン手前で何度もスクラムの組み直しをし、ペナルティを重ね、明治のトライが重り、1トライ差を追いかける展開。その後攻撃パターンを変えようとしたのか、伊東が吉村と変わり、その吉村がラストチャンスのペナルティキックで、あろうことかタッチラインではなくゴールラインをオーバーさせてしまった。残り時間がないなかで、スクラムからのリスタートでもうボールをキープされるだけなのでそこで早稲田の敗戦は決まった。確実なトライチャンスを取り切れなければ負ける。それに、FWDの力がなさ過ぎる。慶応にも帝京にも明治にも、おそらく天理にも京産大にもFWDの力は劣っていよう。来季はどうなるのだろう。
 京産大が日大に1点差で勝ち、15季ぶりの準決勝進出となった。勝敗の分岐となったペナルティをおかした日大は悔しくて仕様がないだろう。慶応は東海に敗戦。準決勝は帝京・明治・京産大・東海とうまく分散された形となった。決勝は帝京と明治との戦いになると予想する。
 自分の中では大学ラグビーは早稲田の敗戦とともに終わったので、今季のラグビーは明日からの高校ラグビー中心となる。

 PCから音楽を聴くときに接続している(自分としては)高価なUSBケーブル端子は宙に浮いてしまっている。このケーブルは太くて重いので端子部の結線不良が心配となり、補強した。併せてPCとのUSB接続のぐらつき防止のアタッチメントを自作。市販品を探すと結構高価なので0.5mm厚のアルミ・プレートと両面テープ、紐と輪ゴムで作った。見た目は美しくないが保持力には満足。

2021年12月24日金曜日

独り言、落合元中日監督の本

 国交省のデータ改竄。個人的にはあの政治家群が及ぼした官僚への影響、一言で言えば悪しき忖度であろうとの思いが強い。政権主導の弊害であり、また事なかれ行動をする官僚の典型。森友問題や桜問題と根は一緒で、さらには「認諾」した政官の姿勢と繋がる。どこまで腐っているのやら。
 多くの腐っている資質の人間が政治を担うようになっているこの国のシステムが腐っているのであって、これもまた日本文化の一つの構成要素である。日本文化って何か、という基底から考えてもいいのではないか。つまり、この国の文化-芸術や音楽やスポーツなどを含めての生活文化-というものに、この体質がどのように表出しているのかを考えてみるということである。

 娘の子どもたち二人が半年ぶりくらいにお泊りとなる。つくづく二人とも大きくなったものだと思う。小学校6年の孫娘は身長が高いせいもあってもう一人前の大人に見えてしまう。

 浴室&脱衣所の年末掃除が終わり、あとは用具類を片付けるだけとなった。やり始めると徹底したくなり、結果、特に鏡と洗面所シンクは曇りも水垢もなく、見てはそのキレイさに惚れ惚れする-自画自賛。

 <鈴木忠平 『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたか』(文藝春秋、2021年)>:野球選手で好きとか嫌いとかの感覚はさほど強くは持っていなかった。プロ野球で記憶に残っているのは、古くは衣笠で新聞に載っていた彼の言葉で、野球とは投手が渾身を込めて投げた球をバッターもまた渾身を込めて力一杯バットを振ることだ、というような意味のことを言っていた。広岡監督の管理野球は好きだったし、落合は選手としても監督としても好きだった。そして、自宅で購読していた読売新聞の影響だったのであろう、結婚後も暫くは読売巨人軍のファンだった。しかし、時期は明確ではないが、あるときからその読売が大嫌いになった。そのことを友人に話すと江川問題からかと指摘するが、江川トレード問題とは無関係に、兎に角読売が嫌いになり、最後には野球への関心は薄れた。多分に野球界という組織やシステムのあり方が嫌になったのだと思う。
 本書は文章も上手く、落合という監督が及ぼした影響などが丹念に掘り起こされ、謎のままに残る落合という人間の考え方や行動に対し、記者がどう向き合ったのか、それに惹かれる。落合監督の思考や行動は魅力的であり、それは個と公(組織化された集団)のせめぎ合いの中で、普通は組織に埋没してしまい個を希薄化して生きている一般人の、ある種の世に抗いたいという欲求を落合に転写していると考える。

2021年12月19日日曜日

メモ、マンガ、小説

 The MonkeesのMike Nesmithが亡くなった。78歳。彼はもちろんモンキーズであるが、同時に自分の中ではMichael Nesmith & The First National BandのSilver Moonも同程度の比重がある。ひとつひとつ自分が暮してきた時代にピリオドが打たれているようである。

 EWIの練習。頭の中のイメージと指の動きのずれがもどかしい。テキストのCDにあるジムノペディ1番が素晴らしく、もちろんあそこまで吹けるとは想いもしないが、少しでも近づきたいとの妄想はつのる。
 EWI SOLOのフィンガリングの便利な図がネットにはないのでエクセルをベースに自作する。それを橫に置いてひたすら単純な基礎練習を繰り返すしかない。レベルとしてはリコーダーを初めて手にした小学生並みであるが、覚える速度は小学生とは較べようもなくとてつもなく遅いはず。
 
 ほぼ一日おきに昼に酒精に酔って昼寝をし、夜は丑三つ時までに起きている。この繰り返し。今は零時半過ぎでグラスの酒も少なくなっているし、Norah Jones-今はアルバム「Day Breaks」 –の歌声が心地よいのであるがすでにボトルの中に魅惑の液体はなく、家の中に酒精の瓶ももうない。

 約1年間通った歯科医院もやっと一つの区切りがついて次回は明年の2月。治療ではなくマウスピースの微調整のため。定期的通院がなくなったのは嬉しくもあり寂しくもある。寂しく、というのは若い女性の歯科衛生士さんとの短い会話機会もなくなり、暮らしている領域が一つ減ったことを意味しているからである。

 <本田 『病める惑星より愛をこめて 1』(秋田書店、2021年)>:朝日新聞土曜日の読書面で知って読むが、ハズレ。

 <谷崎潤一郎原作 『谷崎潤一郎原作』(中公文庫、2021年)>:11人のマンガ家が谷崎潤一郎原作の小説をそれぞれれにデフォルメして短編のマンガを編む。ハズレ。

 <永井義男 『秘剣の名医〈10〉蘭方検死医 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2021年)>:シリーズ10作目。魅力的な女性-例えばお喜久さん-が出てこなくてちょいと不満ではあるが、上野・山下の風情が楽しめる。今回は楊弓場での遺体からはじまる。同心である鈴木順之助-友人の名前と3文字が重なり彼の歌う姿態が頭に浮かんだ-の機転が好ましい。

2021年12月15日水曜日

樋口有介さん再読

 <樋口有介 『ピース 新装版』(中公文庫、2009/初刊2006年)>:2006年10月に新刊としてこの『ピース』を読んだ。今回が2回目。樋口さんは今年の10月に亡くなってしまった。
 新装版となった文庫本には樋口さんの「新装版あとがき」があり、この作品を書いていた頃の身辺を回顧している。暮しのなかで大変な時期だったことも垣間見える。
 この文庫本の帯には本年11月に沖縄を舞台にした新作書き下ろしが刊行予定とされており、また「このミス」にも樋口さん自身が『私立探偵には不幸な街(仮題)』として出版予定であることを書いている。内容は「沖縄を舞台にした青春ミステリーに落ち着きました」とある。この新作、かつ最終作となる本は果して出版されるのであろうか。期待したいのであるが中央公論新社のHPにそれらしき記事はない。「このミス」には「すっかり体調をくずして」とあるので亡くなったのはそのことにも関係あったのだろうか。兎に角、全作を読んでいて、樋口ワールドが好きだったのでとても残念。1歳年下だったことを思うと我が身の、どれだけ残っているか判らない人生をふと思ってしまう。
 以下は引用;
 ・「人間なんざ一人で生きるのは、誰だってみんな淋しいもんだがね。だけんど逆に、その淋しさが我慢できりゃあ、ほかのことはなんでも我慢できる。貧乏も病気も歳をとることも死んでいくことも、生きてる淋しささえ我慢できりゃあ、人間てえのは、はあ何でも我慢できるべえよ」
 ・「死ぬまでの時間が長えか短けえか、そんななあ頭のなかのカラクリだい。飯を食って仕事をして酒でも飲んで、ついでがあったら女房でももらって子供をつくって、そうやってじっとして生きてりゃあ、自然にお迎えが来らいね」
 ・「何もせずに、ただ淡々と日常を消化して、そうやって死ぬのを待つ。人生の極意だと思いませんか」
 ・「マスター、一杯飲んだら、帰るんじゃなかったの」「麻美さんも皮肉はやめてくれよ。節操なく自堕落に耄碌して生きることだけが、年寄りの特権なんだから」
 樋口さんの死、寂しい。

2021年12月11日土曜日

ウィンドシンセサイザー、本の購入

 ギターを弾くのに左手小指の動きが伴わない。肘部管症候群は手術をしても症状の進行を止めるだけで元には戻らない。そのことはもう14年間以上ひしひしと実感している。コードを押さえるのにバレーはまずダメで小指が担うべきところの押さえができない。でもギターを棄てることはできず、たまにスローな曲のメロディを弾いたりはしている。もともと下手なうえに小指の運指がダメなので絶望的なぎこちなさである。
 ちょっとでもギターより易しく演奏できる楽器、ギターよりは小指が使えるかもしれないという安易な思い込みではあるが、ウィンドシンセサイザーを購入し(てしまっ)た。管楽器はほとんどやったことがないし、リコーダーをちょいと試してみたのが50年程前のことであるから全くのゼロからのスタート。届いたAKAI EWI SOLOを取敢えずやってみたらC調の音階は鳴らすことができた。これからは夜中にヘッドホンを付けて新たなことにチャレンジ。72歳の手習いというところで、1曲でも通しで演奏できることを先ずは目標とする。ジムノペディ1番を演奏できるようにしたい。かなりの長期間運指の練習をせねばならない。

 1Fのリビングとその周りのクリーニング&ワックス、2Fの網戸の掃除も終え、大掃除で残すところは1Fの浴室と脱衣所と網戸だけとなった。

 本を10冊以上買っ(てしまっ)た。CDも何セットか買った-久しぶりのディリーアスやシェーンベルグ。聴くこと、本を読まねばならないこと、というプレッシャーを自分で生み出している。そう、やりたいことは沢山あるのに時間が足りない。先に進むということは何かを択び何かを棄てることなのだが、その棄てると言うことがなかなか難しい。そんな状態にあることをまた楽しんでいると思えばいいのだろうヵ。

2021年12月6日月曜日

まとめて6冊のメモ

 読書後のメモ作成が遅くなっていた。簡単にメモを付して履歴を残しておく。順番は日にちの経過順。

 <保阪正康 『昭和史の深層』(平凡社新書、2010年)>:昭和史に15のテーマを設定し、史実に基づいて問題点の本質を明示する。戦前の軍部、特に東条英機への批判は鋭く厳しい。より本質的な,問題はなぜ戦前の軍事体制が敷かれ、東条をはじめとする愚かな首相が誕生したのであろう,と言うこと。問題点への距離の取り方が、改めて勉強させられる。

 <奥泉光 『東京自叙伝』(集英社、2014年)>:早い段階で放り棄てた。

 <保阪正康 『昭和史のかたち』(岩波新書、2015年)>:昭和の時代を図形で表す。判りやすい。「昭和史の○○」が10章にわたって概説される。○○は、「三角錐-底面を成すアメリカと昭和天皇」「正方形-日本型ファシズムの原型」「直線-軍事主導体制と高度経済成長」「三角形の重心-天皇と統治権・統帥権」「三段跳び-テロリズムと暴力」「球、その内部-制御なき軍事独裁国家」「二つのS字曲線-オモテの言論、ウラの言論」「座標軸-軍人・兵士たちの戦史」「自然数-他国との友好関係」「平面座標-昭和天皇の戦争責任」。全てとは言えないが、イメージとして記憶され、著者の分析力に深く頷く。
 最後にフェルマーの最終定理<xのn乗+yのn乗≠zのn乗>が示され、x=国民、y=天皇、z=政治体制と置き、n=象徴と当てはめると「平時体制」という天皇と国民の(良好な)関係が生まれる、と解説する。nに「主権者」とか「大元帥」「現人神」をあてはめると、左辺≠右辺となり、ファシズム体制や軍事主導体制が生れるのではないかとする。このような思考がとても面白い。

 <成田龍一 『「戦争経験」の戦後史 語られた体験/証言/記憶』(岩波書店、2010年)>:「戦争の経験を問う」シリーズの一冊。体験/証言/記憶は三位一体をなし、1945年からは「体験」の時代であり、1965年からは「証言」の時代、1990年からは「記憶」の時代と区分される。副題の「語られた体験/証言/記憶」にあるように、年代を追って「語られた-出版された-」経過を軸に戦争経験を論じる。しかし、「経験」は個人的なものであり、「経験」から個人の枠の外への拡がりがあまり観られない。例えば加害者としての向き合い方や、戦争そのものへの本質的な問題提起が薄く感じられる。乱暴な言い方をすれば、こういう人たちが自ら体験した戦争をこう語り、こう証言し記憶している、といった表層的な分析という感じがしてしまった。

 <福間良明 『「戦争体験」の戦後史 世代・教養・イデオロギー』(中公新書、2009年)>:戦没学徒遺稿集である『きけわだつみのこえ』と「わだつみの会」(日本戦没学生記念会)の活動経過を軸として「戦争体験」を描く。「わだつみのこえ」を知った時期はすでに活動のピークが過ぎたときのことであり、高校時代に手に取ったことがある。理由はよく記憶していないが、興味を持つことはなかった。今でもそうだが、ある特定の位置に座している人たちが語る戦争回顧のようなものには興味が持てない。

 <吉田裕 『兵士たちの戦後史』(岩波書店、2011年)>:アジア太平洋戦争から復員した(元)兵士たちの戦後の生活史ではなく、戦友会・遺族会・旧軍人会などの活動記録をもとにして、この国の戦争に対する意識変遷をたどっている。思うことはなぜ人は自分の過去を振り返るときに群がってしまい、事実から目を背けて正視しようとせず、自己正当化を図り、他を陥れようとするのだろうか、これはもう日本だけではなく人間一般の性癖なのだろうとも思う。もちろん元兵士たちの中には戦友会への参加を拒む人や、旧軍人の発言に抗っている人たちもいる。問題は抗っている人たち、あるいは沈黙している人たちの声は表に出にくいという状況にこそ本質的な問題があるように思える。日本はあの戦争から何を学び、何を繋げようとしているのか甚だ疑問である。
 大学に入ったころ、上野公園の近くで傷痍元軍人たちの白衣の姿を目にしたことがある。戦争は終わっていたとの認識が崩された思いをした。
 戦死者の慰霊碑として愛知県三ヶ根山頂の慰霊碑群が有名であるらしい。山頂から望む三河湾の風景がフィリピンの激戦地であったレンガエン湾に似ているということもあってか84基の慰霊碑が存在しているとのことで、「英霊」を「顕彰」するという内容が多い。日本人のみならずフィリピン人や中国人の戦死者も追討されているが、日本人戦死者の「聖地」の感が強いと著者は書く(154頁)。慰霊・忠魂・顕彰・追悼・散華・英霊・・・等々、戦争がなければ、そして戦死者がいなければ生れていな言葉である。これらの言葉は戦争用語、戦死者用語ともいえ、往々にして美しく飾られる。これらの言葉の持つ意味や歴史をもっと深く考えられてもいいのではなかろうか。

2021年12月5日日曜日

ドロワー作り直し、大掃除、明治に勝利

 デスクテーブルの下に幅510mmの市販ドロワーを追加は、もう少し正確に書くとデスクテーブルの直下にドロワー・テーブル(プレート)があり、その下に市販ドロワーを追加するというもの。前回「実用上は問題ないが、5mmのアンバランスとミスしたこと自体が悔やまれる」と記したが、その翌日にはやはり出来映えが気に食わないという気持ちが強くなった。費用をかけないために物置に転がっていた端材を利用したが、美しくないパッチワークの体であり、気になると止められなくなり結局は作り直した。987円の追加費消と数時間の作業時間で終了。550mm幅で1mmのスキューがあり、それの改善に約1.5時間を要してしまった。結果、満足。シンプルで狂いのない出来映えで、simple is the bestを再認識した。

 年末の大掃除を開始。まずは2Fと3F(ロフト/小屋裏)を終了。今までとは違って多少の手抜きをしている。

 ラグビー対抗戦、明治に勝利。前半は10(1T1G1PG)-7(1T1G)。後半はどちらも攻めきれずトライを取った方が勝利をものにすると思っていた。後半65分に左WTB小泉が左隅にトライをし(伊藤がゴールも決め)勝利を確実にした。ライブはJSportsで観戦し、NHK版はこれから観る。解説をしていた相良さんと田中さんは(あのうるさい人と違って)喋りすぎず、好感の持てる解説であった。
 主将でCTBの長田が出ないことで敗戦も已むなし、負けの公算が強いと思っていた。スクラムは劣勢そのものだが、ディフェンスが素晴らしかった。明治が繰り返し攻めてもゲインができず、フェーズを進めてもボールを回すだけのようになり、早稲田の防禦の強さが目立った。
 2位と3位では大きく違って、大学選手権で明治はまずは天理大と戦わなければならない。早稲田は準準決勝でその勝者と戦うのだが、予想するには年越しをかけて26日に再度の早明戦になろう。
 大学選手権はもう始まっているのだが、本格的には-といっては1~3回戦を戦っている大学には失礼だが-、18日からの4回戦以降が楽しみである。

2021年12月2日木曜日

Norah Jones、ちょっとした反省、ミステリーのベスト

 Norah Jonesの最新アルバム”I Dream Of Christmas”を購入。歌の時季がクリスマスと限定的なので聴くのも限定的になろうかと、紙ジャケの安価なCDにした。fkacやmqaよりも2,000円以上も下回った。Amazonでは低評価もあるがやはり魅せられる。夜遅くヘッドホンから流れる彼女の歌は素晴らしい。今年に入って彼女を知り、立て続けにダウンロードも含めて13枚のアルバムを買ってしまった。今年は彼女のアルバムを何度も何度も聴いている。

 デスクテーブルの下に幅510mmの市販ドロワーを追加。取り付けにはテーブル形状に適応するための工夫が必要で自作した。しかし、その自作の部分はちゃんと図面を引かなかったために5mmの寸法ミス(設計ミス)をしてしまった。実用上は問題ないが、5mmのアンバランスとミスしたこと自体が悔やまれる。手抜きをすれば結果として表れる・・・反省!

 毎年恒例の週刊文春「ミステリーベスト10」と「2022年版 このミステリーがすごい!」を購入するために書店に足を運ぶ。昼に飲んでいたために車をよした。久しぶりにちょっと距離を歩き、たかが片道10数分の距離であるが運動不足を自覚し、また、行き交う車のライトが明るく輝く夜の道は、外で飲んだときに駅から自宅まで歩いたかつての情景を想い出し懐かしさがあった。
 今年は珍しく国内のベスト20あるいはベスト10に既読のミステリーが3冊もあった。書店に行けばついつい本を買ってしまうことになり、今回も2冊買ってしまった。
 
 今は22時40分過ぎ。自室に入り麦焼酎を飲みながら、音楽を流し-今日はシベリウスのピアノ小品か-、読みかけの本を読もう。

2021年11月28日日曜日

また雑記

 記憶力の容量が小さくなり、新たに何かを覚えようとすると、「少年老いやすく学なり難し」の箴言が脳裏に浮かび、更に、年末を迎える今の時季となり、また明年桜の季節に誕生日が近づき、馬齢を重ねることを想うと、若い頃は抽象的に知識として覚えた「光陰矢の如し」の諺が具体的に肉体としての我が身に染みこんでくる。・・・そのようなことを感じる今日の寒空。

 7日移動平均体重が8/5以来に75kgを割って74kg台となった。下図は今年の体重変化図。3月から3ヶ月ほどで4.5kg落とした。行動が結果となって表れることが面白い。運動よりも食事であると断言できる。
 ヤクルトとオリックスの日本シリーズ決勝戦ライブを最後の50分ほど観る。野球のテレビ観戦は実に久しぶりで、もしかしたら10年以上振りではなかろうか。20代の頃はよく観ていたが、ある時期から全く興味がなくなった。プロ野球も大学野球も高校野球にも興味はないが、なぜか今回だけは優勝をかけた接戦を眺めた。延長12回でヤクルトが20年振りに優勝。
 ヤクルトの優勝というと広岡監督時代のそれだけしか頭に浮かばない。仕事をしながら日本シリーズの行方をこっそりとラジオ確認していたその年は富山から神奈川に転社した年であり、娘が生まれた年であった。

 レーズンバターが好きで最近は冷蔵庫によく入れている。好きになったのは多分大学のころ。また、ディップチーズなる洒落た用語を覚え(教えたのは修一)、19歳二十歳のあの頃はお金がない中でスタンドバーに行ったとき口にしていた。バーのカウンターで目の前のほろ酔いの女性が橫にいた男性に口説かれていて、一方では初老の男性が寡黙に飲んでいて、こっちは物欲しげにスツールにいて所在なさげに飲んでいて、一人でいる女性に声をかけられず、かけられることもなく、あのとき俺は何を期待して飲んでいたのだろう。時間を持て余して外に出て明治通りを歩いて新宿伊勢丹前から高田馬場の部屋に帰った。サントリー・ザ・セラーは今もあるのだろうか。
 レーズンバターの話を連れ合いにしたら、新婚の頃、安価ではないのでレーズンバターの作り方を覚えて自作していたとのこと。結婚47年目して初めて知った。

2021年11月25日木曜日

雑記

 最近よく聴いているBluegrassやJazzから離れ、割引価格を設定していたクラシックのCDを3セット購入。ストコフスキーのシベリウス交響曲第1&第2番、尾高忠明/札幌交響楽団のドヴォルザーク交響曲第8&第9番、ヤコビ/マリナー/アカデミーによるモーツァルトのピアノ協奏曲第21&23番。
 ストコフスキーの録音は1950年と1954年と70年前後前のものでモノラルであるが、そのことに関係なく魅せられるものではなかった。第2番が好きで、最も好きな演奏はオーマンディとフィラデルフィア管弦楽団なので、ストコフスキー指揮の演奏は全体的に荒っぽいというのか、モノラル色で静謐な北欧の森の中をアクセルを踏んで駆け抜けようとするイメージがした。オーマンディ以外にはベルクルンド、バーンスタイン、バルビローリ、インキネン、ヴァンスカが指揮するCDが棚に並んでいるが、評価の高いセーゲルスタム/ヘルシンキ・フィルのセットを発注した。よくある衝動買い。
 尾高忠明と札響のドヴォ8と9番は物足りない、響いてこない。再び聴くことはないであろう。ただただ丁寧に美しく、皆さん品良く美しく両家の子女のようにふるまいましょうね、という様なつまらないものだった。
 ヤコビとマリナーの21番は雑というのか、俗っぽいというか柔らかさに欠けていて、オレの好きな21番はこうじゃないだろうと思った。グルダ/アバド/ウィーンフィルを聴いてから再度聴いてみたが余計に嫌になった。

 ラグビー早慶戦。前半は早稲田の早い攻撃がトライに結びつき、後半もこのままいったらどこまで点差が開くのかと想ったら、後半はまったくダメでワン・チャンスのトライを1個決めただけ。モールトライなど慶応のやりたい放題。ブレークダウンを何度もされるし、モールトライは繰り返されるは、前半の5T5G-1Tが終ってみれば6T5G-5T4Gとなった。ラインアウトも100%ではないし、後半ではボールを持った選手へのフォローが遅れるし、反省点が多い。帝京戦でもそうだったがフォワードが相手に圧せられている。
 SOは伊藤(60分で故障交代)、吉村はリザーブにも入っていない。長田は40分で交代で後半の劣勢はこのせいもあるだろう。次の明治戦ではスターティングをどう組むのだろうか。
 対抗戦は帝京の優勝で、早明が2位3位どちらかになるであろう。3位になると12/18に関西3位と対戦し、次に選手権初戦となる関東対抗2位と当たる。つまり、対抗戦3位は2位より1試合多く戦うことになり、(関西3位には失礼だが)順当に行けば、準準決勝は再びの早明戦になる。この確度は高いと想っている。

 PCのヘッドホン端子からスピーカーを鳴らせるようにしていた一連の接続を取り払った。真空管プリアンプ、パワーアンプ、スピーカーセレクター、何れも小型のかなり安価な機器である。暫くは棄てずに保管しておくがいずれは廃棄することになるであろう。
 ついでにサブウーファを絡ませるスピーカーの組み合わせを変更した。2in-3outのライン-スピーカーのセレクターの接続を2箇所変えるだけだったが、変更を終えたら全スピーカーから左の音が出なくなってしまった。チェックに1.5時間ほど要し、結局は今回は手をつけていないアンプのラインアウトの端子接続が甘くなっていて、作業の途中でそこが緩んでしまった様である。接続をYラグ端子からバナナ端子に変更し、オーディオチェッカーCDで確認をし、予定外の時間を費やしてしまった。いつものことながらオーディオ機器背面のケーブル類の複雑さ、乱雑さにうんざりしてしまう。

 いつもは行かないスーパーの前で久々に焼き鳥屋さんを見る。呑むつもりはなかったが、ここの焼き鳥は美味いのでついつい種々な串を買い求め、日本酒も買い、刺し身も買い、帰宅後にはまだ正午になっていないが飲み始めた。時間はかかったが四合瓶を空けてしまった。

 iPad mini 6がやっと届いた。セッティングをやや特殊にするために時間がかかり、またスタンドを購入するのにああでもないこうでもないと迷い、2日かけて終了。

2021年11月20日土曜日

日日是好日ヵ

 15日、大谷翔平選手の記者会見、ライブで見ていて最初の質問が長すぎるし内容もグダグダとしていて呆れる。その後も食事とか結婚とか他の選手への感想とか、見ていて嫌気がさしチャンネルを変えた。テニスの大坂なおみさんの時の酷い質問が重なる記者会見を思い出した。質の低さはスポーツ関連のみではないが・・・。

 日比野弘さんが亡くなった。早稲田のラグビー部監督では大西鐵之祐さん-日比野さん-清宮さんがまず浮かんでくる。

 頭を使わない趣味的作業に時間を割きすぎている。時間の浪費とは分かっているが、一度手を付けると単調であるだけに抜け出せなくなる。
 USB2.0のケーブルを追加購入し、PCからUSB経由で音を出す選択肢を増やした。オーディオにおいてはさすがにUSB切り替え装置なるものには手を伸ばさない。PC、オーディオ、テレビ関連でケーブルの引き回しがさらに煩雑になってきていて、日常のセッティングにもブロック線図は必須。

 昔は「朝まで生テレビ!」をよく見ていた。見なくなって久しい。筑紫哲也やテレビ朝日の夜のニュースもよく見ていたし、日曜日TBSの「サンデーモーニング」も録画しては見ていた。・・・今、テレビのニュース番組は殆ど見ない。精神衛生上よくないものには触れない。
 「加藤陽子の近代史の扉」に次のように記載があった(web版毎日新聞)、「故牧原憲夫の名著「客分と国民のあいだ」が正確に描いたように、近代的民衆の典型的な「安穏に生活できればよい」といいながら、「アイツラ」を横目でじっと見ている」。この状態にペタッと貼り付いている。

 大谷翔平選手が満票でMVP。素晴らしい。 寒くなってきた。以前よりは寒さに弱くなってきたような気がする。
 焼酎もお湯割りになり、北海道から取り寄せた柳葉魚を焼き、マヨネーズと一味唐辛子を皿の隅に盛る。温かい酒と肴、美味。

2021年11月15日月曜日

最近好きになったブルーグラス・バンド、海外の女優

 Petersensが好きになって彼らの演奏をYouTubeからダウンロード(DL)、あるいは購入したりして楽しんでいる中、偶然にSouthern Raisedを知り、夢中になってしまいどっぷりとはまり込んだ。
 Lindsay、Emily、Sarah、Matt(Matthew)のReith家族で構成されるバンドで、約13年間活動した。Sarah(バンジョー/テノール・ヴォーカル)が2019年に結婚してバンドを離れ、3人での活動となった後、2020年にバンジョーをメインとするAlexが加わって現在の4人となっている。クラシック音楽の教育を受けているためか演奏技術は高く、全員が複数の楽器を演奏するマルチ・プレイヤーでもある。
 彼らの音楽性をウェブから引用する。“Lindsay, Emily and Matthew Reith have a trademark sound that spans the genres of classical music, Celtic music and Christian Bluegrass/Roots. The vocal blend of family harmony is hard to beat, and Southern Raised combines that with instrumental talent and a desire to share their faith. ”(https://www.jubileecast.com/articles/22871/20200102/2020-marks-a-season-of-change-for-southern-raised.htm)。
 CDはSouthern Raisedのショップから直接購入するしかなく、amazonではmp3のDL購入となる。しかし、YouTubeには綺麗なビデオとともに多くの演奏がアップされており、オリジナルおよび現メンバーでの映像と音楽を楽しめる。因にビデオはMatt が監修しているとHPに書かれている。
 いまはYouTubeからDLした曲を保存し、PCやHDDオーディオプレーヤーで聴いて悦に漬っている。
 ファミリーで構成されるPetersenseはミズーリ州ブランソンを拠点に活動しており、Southern Raisedのファミリーもブランソンで生まれ、その後オザーク高原に移転している。ブルーグラスについての知識は全くないが、この音楽が発展した地域を確認し、しばし地図を眺めながら、またビデオを見ながら彼らの音楽を楽しんでいる。

 主題は変わって女優のこと。海外映画を見ては素敵な女優の画像をPCの壁紙やスクリーンセーバにしている。テレビを見ながら暇に任せてDLした女優で多いのはMarilyn MonroeやAnn-MargretやJane Fonda。何年も前からPCに入れているし、昔の女優であることは自分の年齢のせい。
 今は数十年前に活躍した人も含め、ドラマや映画を見て素敵だと思う女優の画像もPCに入れている。Andrea Osvart、Charlize Theron、Katherine Marie Heigl、前の世代だがMeg Ryan、等々60人近くにもなってしまった。最近特にファンになったのはJessica Marie AlbaとJessica "Jessy" Schram。Southern RaisedのLindsayとEmily もスクリーンセーバで切り替わる画像の一人にしている。
 日本の女優は除外。なぜかと言えば、彼女たちでは現実からの距離感が保てず、否応にも今のこの日本の現状を見せつけられそうだから。PCの壁紙やスクリーンセーバは、日常から乖離している方がよい。

2021年11月12日金曜日

本3冊

 <小山聡子 『もののけの日本史』(中公新書、2020年)>:歴史の中での思考様式の変容というものを期待したのであったが、本書では豊富な史料にモノノケ/死霊/幽霊/怨霊/妖怪がどう描かれているのかを詳細に調査研究したうえで、乱暴に言えばその事例を述べているだけ、といった感が強い。なぜにそのように捉えていたのか、その捉え方はどこに根差しているのか、時代によってなぜ変化したのか、その変化のなかでの普遍性はどのようなものなのか、等々に言及されることはない。その点もやもやした思いを抱いた。尢も、日本人の死生観などは方程式のように表されるものであるはずもないが。

 <保阪正康 『陰謀の日本近現代史』(朝日新書、2021年)>:人々の興味を引くであろうと安直に付けられた書名は好きではなく、本書にはもっと別な落ち着いたタイトルはないのかと思った。・・・それは横に措いて、テレビの「関口宏のもう一度!近現代史」で語る保坂の的確な解説やコメントにはいつも首肯し、本書でも歴史の新しい側面を勉強することができた。
 東條をはじめ旧日本軍の愚かさは充分に理解できているのだが、何故にそうなってしまったのか、その本質的な部分はまだ自分は説明できるだけの知識を持っていない。本書を含め、他の歴史書などでも指摘されるように、陸大などでの成績至上主義、閉鎖的な知識培養等々は分かるのであるが、理解不十分な点は、何故そのようになってしまったのか、なってしまっているのかという、いわば日本の中にずっしりと根を張っている基層にあたる部分の理解である。

 <今尾恵介 『地図で読む戦争の時代 描かれた日本、描かれなかった日本』(白水社、2011年)>:第二次大戦における国内外の地図(中心は日本)、そこに描かれていることから想像を巡らす、あるいは複数の地図を比較対照して変遷していることに思いを馳せる、そういうことには楽しめる本である。が、トピック集といった装いに興味が深まることはなかった。地図を描く過程、編集行為における人(組織)の動きなどを知るには物足りない。
 地図に描かれているポイントを文章ではなく、丸で囲むとか矢印を付すとか、あるいはカラーで表示するとかがあればもっと楽しめることができる。

2021年11月4日木曜日

ここ1週間ほどの雑記

 衆議院議員選挙があった。投票率は戦後3番目の低さで55.93%。圧倒的な得票数で当選した人もいれば、大物議員なのに比例復活でやっとこさ当選した人もいる。相変わらず無能(と思えるよう)な人が議員を続けることになったり、また、政党によって悲喜交交の状況があり、やはり選挙ってなんだろうな、と思ってしまう。民主主義を標榜する政治にあって、この投票率はどれくらいの数字であれば適切といえるのであろうか。そもそも多数決による選挙システムは適切といえないのではないか、多数決の暴力という言葉とともに疑問はいつもつきまとう。

 PCに落とし込んでいる音楽の曲のデータベース構成を整理し続けている。音楽プレイヤーアプリTuneBrowser、あるいはHDDプレイヤーHAP-Z1ESでの使用勝手を改善するためであり、エクセルとタグ編集アプリStep-Kを活用している。
 機械的な作業であるが、その単純な作業に夢中になってしまい、本を読む時間が大幅に減っている。1年ほど経てば終了するであろうヵ。

 そんななかにあって、32冊の本をいつもの古本買い取り会社に半年ぶりに送付。年数の経った本もあれば、最近の本もある。これら以外に引き取りに値しない本は破棄している。この行為は、まるで漬物と新鮮の食物を食べては排泄するようでもある。

 昨日午後はキッチンの大掃除。キッチン下に収納しているものをすべて外に出し、場合によっては抽出を取り外し、シートも取替え、換気のエリアも含めて徹底的に6時間かけて清掃・整理・整頓。おかげで今日は腰痛。

 今日、インフルエンザ予防接種を近くの医院で行った。接種予約の可否問い合わせを繰り返すなか5カ所目で簡単に予約が取れた。連れ合いは3日前に終了しており、ワクチン不足のなか夫婦でラッキー。

 関東大学対抗戦、早稲田が帝京に7点差で敗北。フォワードが圧倒的に劣勢。残りは明治と慶応の2戦。最低でも慶応には絶対に勝ってほしい。
 法政も久しぶりに大学選手権に出られるかも。

 樋口祐介さんが先月に亡くなっていた。1歳下の71歳。独身で独居生活だったので、那覇で死亡しているのが「発見」されたとのこと。オリジナル版全作品(小説)を読んでいる身としてはもう新作を読めないので残念極まりない。今夏に新装版となった『ピース』を読もうかと思っていたが、それが多分最後に手にする作品となろう。寂しい。

2021年10月29日金曜日

新車納入、江戸川乱歩賞受賞作

 車の減産が続いている中、新車購入の車(HONDA N-BOX)がやっと納車された。以前に比べて室内が広くなり、音が静かになり、スライド・ドアの開閉操作が軽くなり、安全面への対応が拡張された。いつになるのか判らないが運転免許返納までこの車に乗り続けることになる。
 納車2週間程前にガソリンを入れるときに満タンとしてしまった。その前には金額指定で入れたのにうっかりしていた。100kmも走らずにいて勿体なかった。このうっかり行為も年齢のせいであろう。

 <桃野雑派 『老虎残夢』(講談社、2021年)>:二人が受賞した第67回江戸川乱歩賞作品の一つ。物語の舞台は1200年頃の南宋。武侠小説であって密室(孤島の楼閣)殺人のミステリー。登場人物は男性3人と女性3人で、師である人物が謎の死に方をし、残った5人がそれぞれの経歴を露しながら謎解きをする。初めて読む類の小説世界が楽しめた。
 選者の一人である貫井徳郎が指摘するように伏線を強化、すなわち前段で物語を厚く深く拡げておけばもっともっと楽しめた気がする。中国が舞台であるから初めて目にする熟語が豊富に出てきて、それもまた楽しめた。
 著者名の雑派はフランク=ザッパに由来すると書かれており、このようなミステリーをものにする著者の生活観というか趣味というのか、興味を覚える。因にフランク=ザッパのCDは22年前に入手した1枚だけ持っていて(アルバム「Frank Zappa」)、初めて聴いたときはピンと来ず、以来棚に立っているだけとなっている。

 <伏尾美紀 『北緯43度のコールドケース』(講談社、2021年)>:もう一つの第67回江戸川乱歩賞受賞作。主人公はオーバードクターで30歳のときに北海道警察に入った長身細身の沢村依理子。警察組織内部における権謀術数と軋轢、沢村個人の蹉跌や父や妹との関係、署内における人間関係が重しのようにのし掛かり、その中で未解決殺人事件を追う。
 選者たちの評価は概ね事件の謎ときや解決については好評価されるが、小説としての構成については問題とされている。ある選者は「候補作中、一番小説が下手でした」とまで評している。本書刊行までかなり手を加えたのかもしれない。逆に、読んでいて読みにくいとかは全く感じなかったが、事件解決に至るまでの捜査があっさりと進み、その捜査が中心となる段になって急に違和感を感じた。過去の捜査プロセスがいかにも緩く、主人公が執念深く追うと次々と事件の全容が明らかになるのはいくら何でも安易ではないかと思った。そんな感を抱いたが物語の伏線や人間関係、気配りなどなどは深く描けていて夜更かししながら頁を捲った。
 自分の好きな曲を主人公が聴くシーンが3カ所出てくる。ドヴォルザークの交響曲第8番、指揮はアバド、ベルリンフィルとのライブであろうが、ドヴォ8はジョージ=セルとクリーブランドではないのかと思った次第。セル以外にケルテスやノイマンでもいいのであるが、アバドと結びつけた作者との好みにすれ違いを覚えた。
 次は主人公が院生のときに恋人が自死し、その時に流れていたシベリウスのヴァイオリン協奏曲で、アイザック・スターンとオーマンディ・フィラディルフィアと描いてあると嬉しかったのが、演奏者・指揮者の記述はない。
 そしてラフマニノフのピアノ・コンチェルト第2番、演奏はアシュケナージ(指揮はプレヴィンでオーケストラはLSOに違いない)。文字を追いかけている中で、アシュケナージがピアノを演奏しているLPのジャケットが頭の中に映し出された。

2021年10月25日月曜日

『店長がバカすぎて』、大学ラグビー

 <早見和真 『店長がバカすぎて』(ハルキ文庫、2021年/初刊2019年)>:バカの対象となるのは書名にある店長、続けて小説家、「弊社」の社長、出版社の営業、神様、最後に主人公の私。バカたちの言動には大いに笑わされるし、主人公の28歳の女性派遣社員の哀感ある愚痴も楽しめる。最後のバカな私が起こす突拍子もないいかれた行動とその底にある感情には少し引いてしまうし、ちょいとワケワカラナイ。
 書店で自分が店員さんと交わす言葉は本のある場所を尋ねたり、会計時の支払い確認だったり、カバーや袋は必要かなどといった何の変哲もないことであり、まして書店でお奨めの本を問うたりする人の心情は理解できない。クレームをつける人にも出会ったことがない。それよりも何よりも書店よりネットで購入することが多い。新宿や池袋にあるような大型書店が近くにあればしょっちゅう行くと思うのだが、街中にある書店はチェーン店であって個性がなくてつまらない。

 早稲田が青学に大勝。SOに伊藤が出るので楽しみにしていたが、強い風の影響もあっただろうが彼のプレーには精確さが欠けていたし、チームとしての連携も上手くいっていないように思えた。1stハーフは一時リードされ19(3T2G)-13(1T1G2PG)、2ndハーフから吉村に交替となり風上に立っての展開がスムーズに運ばれ最終的には61(9T8G)-13(1T1G2PG)。
 辛勝した対筑波戦、明治は53-14と完勝。筑波は早稲田・慶応・明治と2トライは取れるのだが、そこからは伸びない。残り試合は日体大・立教・青学で負けることはないだろうが、青学戦は均衡する試合になるかもしれない。

2021年10月11日月曜日

簡単に雑記

 大学ラグビー、早稲田vs筑波は21(3T3G)-14(2T2G)で早稲田が勝利したが課題が沢山。筑波の圧力があったにしても次の点が物足りなかった。すなわち、L/Oの精度と接点でのミス。立教戦・日体大戦では大勝だったので、筑波との戦いは今後へ向けて現状を見直すきっかけとなるのではなかろうか。
 近畿大学が天理に続いて同志社にも勝利。関西リーグが面白くなっている。
 法政が関東学院に3点差で敗退。なかなかパッとした形になりきれない。

 秋田から日本酒を3種取り寄せた。まだ飲んだことのない阿櫻、鯨統一郎のミステリーに登場する桜川東子さんが愛飲する春霞、好きな秋田酒の一つである刈穂。まずは春霞から嘗めた。今はいきなり四合瓶を空けることは少ないので残り5回ほどに分けて秋田の酒を楽しむこととする。

 デジタル化してPCに容れている音楽はTuneBrowserでライブラリー管理している。
 クラシックのアナログLPのデジタル化ファイルはなかなかイメージがきちんと取り込んでいなかった。TuneBrowserから音を出すのは全く問題なくできているが、アルバムごとの管理構成にしていないのでなかなかスマートにイメージを関連付けるのができていなかった。まずはタグ管理のしやすさからwavをすべてflacに置き換え、LPのイメージをあちこちのwebからダウンロードし、どうしても見つからないものは自分でジャケットを写真に撮り、あとはテレビを見ながらのダラダラとした作業。すべてのフォルダー/ファイル構成・イメージ取り込みを整えた。
  LPのジャケットをPCモニターに出しながらデジタル化したアルバムを聴くのは心地よい。問題はまだデジタル化していないLPが少なくないこと。これもダラダラとやっていくしかない。

 <魚豊 『チ。―地球の運動について― 第5集』(小学館、2021年)>:C教による拷問・弾圧、それをする側の論理と感情、される側の信念と真実への眼差し。TPOが異なっても人間の行為には変わらぬ(どうしようもない)基層がある。

2021年10月6日水曜日

ミステリー2冊

 岸田新内閣誕生、1年持つだろうか。
 権力を持っている人間に寄り添い、彼(彼女)らを持ち上げ、忖度し、微かに矜持を保とうとする思いもいとも簡単に曲げて己をごまかし、地位保全とあわよくば権力も握りたいとするもろもろの政治家たちを蔑む。権力を持つと腐るのではなく、もともと基底が腐っている人間が権力を握りたくなるのだ、という名言は古代からず~っと当て嵌まる。

 <雨穴 『変な家』(飛鳥新社、2021年)>:「あなたには、この間取りの「謎」が、解けますか?」と挑戦的な惹句が表紙にある。間取りを眺めればすぐにその異常さに気づく。その奇妙な間取りの家を建てた目的と意味を物語は編む。
 文字のポイントは大きく、一ページ内の空白も広く、間取り図面も頻繁に描かれている。したがって文字数が少なく、短時間で読み終えた。で、この手のミステリーには興味が薄い。

 <今村昌弘 『兇人邸の殺人』(東京創元社、2021年)>:『屍人荘の殺人シリーズ』第3弾。最初の1冊は発想がとても新鮮だしスピード感も含めとても面白かったが、第2・3作と続けると楽しみは薄まってしまった。このシリーズが続くとしても、よほどのことがない限りもう手を出すことはない。

2021年9月29日水曜日

ミステリー

 夕方にテレビのニュース番組を見ていた。菅首相が次期自民党総裁は河野太郎しかいないと言っているとのキャスターの発言の途中で、「速報」が流れた。何があったのかと注視したら、櫻井翔と相葉雅紀がWで結婚を発表したとのことだった。同じ事を何回か繰り返していた。
 一般国民が直接参加できない総裁選が取るに足らぬものとしているのか、菅の発言が影響ないものと軽く見ているのか、ニュース報道の内容がそもそも浅薄といえるのか、一般大衆の興味・関心は芸能界に比重があると見做されているのか、軽~い世情が反映したニュース番組。なぜこのような風潮になってしまったのであろうか。

 <長岡弘樹 『教場Ⅹ 刑事指導官 風間公親』(小学館、2021年)>:教場シリーズのスピンオフシリーズ、『教場0』に続く第2版。警察学校教官となる前の、刑事指導官として殺人事件の解明にあたる短編6編。初期の作品『傍聞き』、教場シリーズの始まりの頃よりは楽しめない。無機的に殺人の謎を解き明かしているだけで、パズル作家の作品を見ているような気分に陥ってしまう。面白さはあるのだが心底には楽しめないといった感。

2021年9月26日日曜日

本3冊、大学ラグビー

 <永井義男 『江戸の糞尿学』(作品社、2016年)>:永井義男の小説を読み始めたのは1997年で、手にした3冊目が『鮮魚師』(なまし、読売新聞社、1997年)。そこには3作が載せられており、当時の読書メモを読むと「天保糞尿伝」が傑作で面白いと記している。その記憶があったせいで、本作『江戸の糞尿学』を購入した。また、政治史や経済史、思想史などから離れて生活史に触れるのも楽しく、図版が多いのもまた気軽に楽しめる。とは言っても排尿するシーンが性器まるだしで載っているので人前で-たとえ連れ合いであっても-頁を開くのは憚れる。
 本書には付録として前記の小説「天保糞尿伝」が編まれており、23年振りに読んで楽しめた。前回と同様に屎尿の臭いが漂ってくるような錯覚に陥る。

 <キャロル・ブラック 『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義-学生との対話-』(講談社現代新書、2019年)>:「特別講義」という語句から、大きな教室で多くの学生を相手に講義した印象を持っていたが、実際は全4回の各回11~14人と少人数の20~30代の学生との対話。学生たちの育った場所は多様であり、彼らは戦争、或は日本の戦争状況をよく学習している。
 過去にあった戦争は何らかの記憶(記録を含む)に依って現代に解釈されていて、その記憶のあり方、分類・分析が勉強になる。その記憶は人間によって作られた(る)ものであることを忘れてはいけないし、歴史に向き合うことはその記憶に向き合うことでもある。それらの記憶が正しさを装っていても、大事なことは、事実を感知・理解する能力(あるいは感性)であり、そして想像力を働かすことである、と思っている。

 <田中克彦 『ことばは国家を超える-日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』(ちくま親書、2021年)>:「ことば」と「国家」の言葉に惹かれて手に取ったが、国家が言葉をどう管理し制御したのか、しようとしているのかについて書かれている本、というアホみたいな勝手な思い込みからはほど遠い内容であった。読んだというよりも頁を捲って流し読みしたに過ぎない。例外的に、中国とロシアに分断されているモンゴル民族に関して述べられている第5章の一部には関心を向けた。
 著者の思い出や他者への批判(避難)も多く、発散気味だし、そもそも言語学そのものに興味がなく、書かれている用語や内容も理解できないし、しようとも思わなかった。

 関東大学ラグビー、早稲田の2戦目は日体大。結果は96(14T13G)-0。モニターで見る風景に記憶があり、5年前に上柚木に行ったことを思い出した。
 今回印象的だったのはノーサイドとなっても選手たちの表情は緩むことがなく、結構厳しかったこと。早稲田スポーツの記事を読むと、この試合のテーマは「アキュラシー」で正確度や精度をうたっていたが、そこに課題があったとのこと。その内容は、大田尾監督の言葉、「分析ではもう少し余裕を持って回せるかと思っていたのですが、そのようなディフェンスにプレッシャーを受けた部分がありました。非常に勉強になった試合だと思います」に表れている。
 観ていて楽しめた試合であった。後半の後半では日体大の緊張の糸が切れてしまったような印象も受けた。前回立教戦での吉村のプレースキックを酷評したが、今回は難しい位置からの成功も多く、前回の非難はゴメンナサイと謝る。

 翌日の慶応vs筑波戦は(いつもそうだが)筑波の勝利を願った。僅差での結果を予想していたが結果は34-12と筑波の快勝といってもいいだろう。全体的に雑なプレーが多い。筑波のゴール前でのディフェンスは立派、逆に言えば慶応の攻撃が物足りない。

 関東リーグ戦も開幕し、法政が専修に勝利。あとでじっくりとオンデマンドを見よう。
 関西リーグでは19日初戦で天理が近大に負けた。オンデマンドで試合を観て、天理に昨季の力強さは皆無。昨年のメンバーがごっそり脱けてしまい、低レベルの試合運びだった。

2021年9月18日土曜日

HONDA車のパンフとMary Custy

 8月23日に車(HONDA N-BOX)の点検に行った。点検が終わってから顔なじみの営業担当者と話をしていて、来年2月に9年目の車検を迎えることを失念していたことを気づかせられた。前回7年目の車検のときには新車に買い換えたいとも思ったが、2年間の様子見をして、そのときにまだ運転は大丈夫なのか、免許返納が必要かを判断することにしていた。そしてほぼ2年経過後の現在、日常生活ではまだ頭の中も運転能力も全く支障ないし、買い物ぐらいにしか出かけないが車がなければ不便だし、70歳での高齢者講習でのテストでは教習所の人が賞賛するほど高いものであったし、等々を踏まえ、今回が最後となる新車購入をしようと気持ちが傾いた。現在は中古車が高騰しており、下取り価格が高いことも要因にあった。
 見積書やパンフレットなどを手にしたときはもう購入する気持ちは固まっていた。先に進めるか否かは連れ合いの判断が大きく左右するが、彼女は2年前とは違っていとも簡単に、ないと不便だから買えば、と宣う。車種はN-BOXと決めていたので、すぐにオプションの検討に入った。ネットでセルフ見積もりを行いディーラー見積もりに幾つかのオプションを追加した。支払いはキャッシュで払うか、残価設定型クレジットにするかの二者択一。自分の寿命が尽きることになったら手続きが面倒であろうし、また総合的な出費金額などを算定比較して、キャッシュで支払うこととした。夕方には電話を入れ、翌日でもかまわないが契約すると伝えたら、決断の早さに驚かれ、向こうの都合により26日に契約することになった。

 ここまでは前段階で、今回のブログのメインは違うところにある。それは、持ち帰ったパンフレット類に「Honda SENSING BOOK」(2021.03版)があり、嬉しくなる図版があったこと。
 何気なく頁を捲っていて10頁目を開き、上段の運転者がナビゲーター付近を見ている図があり、その上のディスプレーにフィドル(ヴァイオリン)を演奏している女性が映っている。えっ、彼女はMary Custyだ、間違いない、彼女だ。3人の演奏者が映っていて、手前はSharon Shannon、中央がMary Custy、奥のもう一人はわからない。
 20年以上前になろうか、アイルランドの音楽に夢中になっていて、Mary CustyのCDをアイルランドCountry ClareのEnnisにあるCusty's Traditional Irish Music Shopから購入していた。記憶違いがなければ、このショップはMar Custyの妹が営んでいる筈である。
 Mary Custyが参加しているアルバムはすべて持っていて、今も年に数回は引っ張り出して楽しんでいる。アイリッシュ音楽は他にもいろいろとアルバムを持っているが、CDを最も持っているのが彼女のもの。その彼女がHondaのパンフに載っている。パンフと同じ絵柄の写真をネットで捜したが見つからなかった。
 とても嬉しくなり、Mary CustyとSharon Shannonが一緒に演奏しているアルバムを心弾んで聴いた。
 26日に契約したとき、営業の人にこれらのことを話したら驚いていた。何万部と印刷して配布し、手に取った人の中に、どれくらいの数の人がフィドルを抱えたこの女性のことを知っているのだろうか。ちょっと自慢したくなる。
 自分の気付きを確かなことと検証したいが、こんな些末なことをどこかに問い合わせるほど不遜でありたくはないし、万が一自分の誤解であったとしても、自分の中で得意げに満足していればいいことである。

 キャッシュで払った新車はまだ納車されない。当初は9月中には何とか、と思っていたが、今のコロナ禍の中、東南アジアからの半導体を中心とする部品調達が予定通りには捗らず、どこのメーカーも製造が減産あるいは遅延しており、自分のところに納車されるのも10月いっぱいになりそうだ。待っているしかない。
 Custy's Traditional Irish Music Shopをのぞいても、Mary Custyの新しいCDは見当たらない。もう出ないのか。アイルランド音楽のCDはこのショップからは何度もCDを購入しているし、San Franciscoの演奏家からも直接購入したこともあった-愛らしい、素晴らしい曲が入っている-。
 暫く触れていないアルバムをまた聴いてみよう。

2021年9月15日水曜日

対抗戦ラグビー開幕、娘の息子とガールフレンド

 大学ラグビーがスタート。早稲田の初戦は立教、70 (12T5G)-0でまずまずの勝利。1st half (7T3G)での経過を見ているとトータルで90~100点の得点も期待したが、後半はやや失速。課題と思うところは次の3点。①後半でのペネルティの多さと集中力低下と思われること、②ラインアウト(L/O)の精度の低さ、③プレースキックの精度の低さ。プレースキックの低精度は拮抗した試合では勝敗を大きく左右するし、L/Oは攻撃の機会を自失してしまう。①②はこれから修正されるだろうけれど、③は大幅な改善は期待できない。吉村以外に誰かプレースキッカーはいないのだろうか。かつての五郎丸や斎藤直人までの技量は望まないにしても。
 亀山(PR)、佐藤(No.8)、宮尾(SH)の1年生3人がスターティング・メンバーとして出場した。一方で伊藤、村田、小西、小泉はいなかった。
 筑波vs帝京は帝京が僅差で勝利。筑波に期待したが、トライチャンスはゲーム開始直後のトライと、後半に絶対のチャンスを逃したときの2回くらいで、スコア以上に差があったと思う。
 青学vs明治、34分頃の明治6番FLが青学選手の顔を殴るラフプレイ。一発退場は当然であるが、これはダメ。拳をあげるだけでペナルティとなった昔のワールドカップでの試合を思い出した。

 夜、駐車場で花火をさせてと娘の息子(要は孫)から連絡。バケツやライター、蚊取り線香の準備をしてあげた。「〇〇ちゃんに会う?」と声をかけられ、パジャマから着がえて、彼のガールフレンドと初めて顔を合わした。彼女のことは話では知っていたが、突然のことでちょっと驚き、挨拶を交わした。花火が終わって彼が玄関に来た。玄関から離れて駐車場のフェンス側に立っていた彼女にも声をかけ、アイスクリームなどの餌をまいて二人を(多少強引に)自宅に招き入れた。二人とも可愛かった。
 「孫がガールフレンドを連れてくる年齢になってしまったんだね」とは連れ合いの言葉。高校生のときに女性と連れだって歩くなんて経験もしなかった自分にしてみれば、50年以上も前の時代をちょいと悔みたくなる。

2021年9月12日日曜日

故障は誤解、白石一文さんの小説

 前回久しぶりの音楽関連機器の故障に遭遇し、すぐに交換してもらったと書いたが、十中八九誤解であることが判った。今日もまたヘッドホンから音が出なくなり、これはおかしいと思い、音が出ているときと出なくなったときの機器の操作の差異を確認した。HEADSETのヘッドホン・ミニプラグへの防塵用キャップが原因だった。迂闊だった。マニュアルにも、HEADSETヘッドホン出力端子にヘッドホンプラグを接続すると、(もう一つの)ヘッドホン出力端子からの音はカットされるとノートが記されている。同じようなことはオーディオ機で充分に経験しているのに、今回は見逃した。透明なキャップを刺したために気づかなかったのかもしれない。回収品にはそのキャップを刺したままだったことを思い出し、よって販売店側も(あるいはメーカー側も)すぐにこちらのミスであり、商品に異常がないことはすぐに判ったことと思う。申し訳ないと思うし、汗顔の至りである。
 何らかの馬鹿よけ/ foolproofのような配慮があればいいと思うし、または防塵キャップにも構造的工夫があればよいと思うが(簡単なことである)、それを主張するのは自分の愚かさを棚に上げるような気分となってしまう。

 <白石一文 『我が産声を聞きに』(講談社、2021年)>:一緒にがんセンターに行って、夫は癌であると診断される。その日の昼食を共にした夫は、好きな人ができたので、家を出るという。家は譲る、退職金の半分は送金する、と言う。妻の多香子はなぜなのか判らずに呆然とするが、やがて自分の過去・現在・これからの人生を思い惑う。
 かつての婚約者だった女性を好きになったと夫は言うが、淡淡としていて、それだけで妻と別れるという選択肢を択んだ理由が深くは伝わって来ない。しかし、人生を二度生きてみたいという衝動は理解できるような気がする。多香子は出て行った夫を追いかけるでもなく、自分の過去を思い、二度目の人生を見つめようとしている。二度目の人生を歩むときのスタートで耳にすることが「我が産声を聞」くことなのであろう。その産声がミーコ-過ぎし日にいなくなった愛猫-の声に重ねられ、思わず巧みな構成の小説だと感じ入る。
 己の人生を自分だけで作ってきたというのは己惚れでしかないが、己の人生を回想し見つめれば、それは自分だけの人生であると得心するしかない。一度しかない人生というのは偽りで、二度目の人生というのはあり得ることかもしれない。それが妻以上に好きになってしまう女性と出会い、その好きになってしまったことを自覚することは一つの例であり、一方では普通に過ごしていたことが形を失くし、そこに自分のありようを再構築することもまた一つの例であろう。要は、自分の人生をどこかで画することで二度目の人生を歩めることだと思う、それが形としては何ら変わらなくとも。
 白石一文さんは最も好きな作家であり、この小説も思索的であり、読み出すと集中することはいつものこと。読むことを中断せざるを得ないことが2回あったが、中途で頁を閉じるその時間が恨めしかった。

2021年9月9日木曜日

雑記、長編小説一冊

 大学ラグビー・シーズン到来に伴ってJSportsオンデマンドを契約。最初に観たのは夏の練習試合の慶応vs帝京戦。早稲田の試合が配信に組まれていないことが不満だが、致し方ない。

 USB接続の音楽関連の機器が初期故障。ヘッドホンの音がすぐに出なくなった。購入先に連絡し翌日には交換品が届いた。初期不良・故障は長らく経験したことがなかった。不具合現象のメールおよび電話での問い合わせに際しては販売先の担当者がとても丁寧で対応も早かった。さすがに翌日配送をうたっているだけあって素晴らしい。

 接着テープで補修したままになっていたメールボックスの取り出し開閉部を丸ごと自作して改修。アクリル板の切断は機械加工よりはもちろん精度が悪く、また手に持ったカッターで表面を傷つけることもあり、これも止むなしと諦めるしかない。現物合わせの修復であるがために試行錯誤も何度か繰り返すが、遠目に見た限りでは出来映えはいい、と自画自賛する。

 <佐藤究 『テスカトリポカ』(KADOKAWA、2021年)>:分厚い長編で、途中で読書に時間を割かなかった日もあって、読み終えるまでに20日近くも経ってしまった。
 メキシコ、アステカ、インドネシア、日本、川崎、東京。理解している暴力という言葉が些細なことと思えるほどに壮絶な、おぞましき、すさまじい暴力と血にまみれた殺人の描写が続く。臓器ビジネス、人骨に手を加えた容器/装飾品。これらの描写はさすがに気持ち悪くなる。
 どのような小説か、KADOKAWA HP内のプロモーション記事と、本の帯の文章を転記しておく。 「メキシコで麻薬密売組織の抗争があり、組織を牛耳るカサソラ四兄弟のうち三人は殺された。生き残った三男のバルミロは、追手から逃れて海を渡りインドネシアのジャカルタに潜伏、その地の裏社会で麻薬により身を持ち崩した日本人医師・末永と出会う。バルミロと末永は日本に渡り、川崎でならず者たちを集めて「心臓密売」ビジネスを立ち上げる。一方、麻薬組織から逃れて日本にやってきたメキシコ人の母と日本人の父の間に生まれた少年コシモは公的な教育をほとんど受けないまま育ち、重大事件を起こして少年院へと送られる。やがて、アステカの神々に導かれるように、バルミロとコシモは邂逅する」(KADOKAWA HP)。「われらは彼の奴隷  メキシコのカルテルに君臨した麻薬密売人のバルミロ・カサソラは、潜伏先のジャカルタで日本人の臓器ブローカーと出会う  二人は新たに臓器ビジネスを実現させるため日本へ向かった  川崎に生まれ育った天涯孤独の少年、土方コシモは、バルミロに見いだされ、知らぬ間に彼らの犯罪に巻き込まれていく  海を越えて交錯する運命も背後に滅亡した王国の恐るべき神の影がちらつく  人間は暴力から逃れられるのか。誰も見たことのない、圧倒的な悪夢と祝祭が、幕を開ける」(刊行本の帯)。

2021年9月3日金曜日

雑記

 メイン使用とするために新規購入したPCがやっと安定して動作するようになって2週間たった。もう大丈夫であろう。
 8月初めに買い換えしたNote PCにいろいろなソフトをインストールしたりしてカスタマイズしていたら、再起動がおかしくなり、購入先の電話サポートを受けても改善せず、そのうち“0”キーを押しながら立ち上げるとOKになり、それで様子見としたが 、暫くすると他の不具合も出た。不具合の原因となったソフトはほぼ特定したが、それをアンインストールしても異なる症状が出てしまった。本格的サポートを受ける予約まで取れるようになったが、予約まで4日間も待たねばならず、結局のところは初期化ということになるのではないかと予想し、我慢できずに手っ取り早く初期化することとした。 
 購入後すぐに準備しておいたリカバリーUSB作成は絶対に必要であることを再確認した。また、自我と何は弄りすぎると肥大化するが、PCは弄りすぎると暴走/自爆する。
 結局は工場出荷時の状態に初期化し、改めてMS Office、IME、その他もろもろのソフトをインストール。途中途中でインストールが完了するたびに動作確認をし復元ポイント作成を繰り返した。PC購入後、やっと安定して動くようにするには約2週間を要してしまった。その後もインストールが漏れていたソフトを導入し、その度に復元ポイントを作成し、Cドライブを丸ごとバックアップすることもここまで2回。トラブルのおかげでPC関連知識も僅かに成長した筈。
 
 ギターを鳴らして録音して遊ぼうかと、随分と久し振りに-10年以上振りに-宅録関連の器材を引っ張り出した。40年ほど前、子どもたちが遊んでいるところを録音するために購入したマイクロフォンは動作OKだが、安価な3ch ミキサーは1chがダメになっていた。廃棄する。残念だったのはMTRのBOSS BR-600で液晶表示が全くダメ。14年ほど前に興味本位で購入し、碌に使いこなさ(せ)なかったのであるがしようがない、これも廃棄。
 遊びたいので、YAMAHAのAG06/AG03を使用することとした。

 保有する数百枚のLPからは数多くデジタル化しており、それでもまだPCに入れていないものもある。それらをデジタル化しようと思い久しぶりに再開した。いつものことだが結構面倒くさい。再開に当たって最初は録音状態をチェックするために数曲録音し、改めてL/Rのバランスをみた。Rが強めであり、ターンテーブルの水平を厳密に調整し、次にアームのインサイド・フォース・キャンセラーを微調整。結果はgood。
 いざ録音となるとレコードのクリーニングから始まる。ゴミがひどいときは粘着ローラーで除去し、つぎは自作のクリーナー(無水エタノール+精製水+ドライウェル)で優しくクリーニングし、除電ブラシも使い、帯電防止/乾性潤滑スプレーも使う。表面の乾きを確認してやっと音を出す。それでも針先にゴミが溜るときはゴミを除去してから繰り返して針を落とすこととなる。
 ターンテーブルからはGT40α(Furutech)を介してAudacityで録音&デジタル化する。取り込んだファイルはAudacityで分割/不要部削除をし、正規化も施す。mp3の場合はMP3Gainで音量を整える。ファイルには自分のルールに従ってタグ作成/ファイル名リネーム(アプリはStep-K)。そして最終的に管理ファイルへの追記とファルダーへの格納、オーディオ機器へのコピー格納。
 新規PCではGT40αを認識してくれない。windows10のバージョンとの絡みもあるようだが、奥深い不具合現象のようで追求は諦め、アナログ・レコードのデジタル化はサブPCで行う。

  PCも関連する機材も進化=複雑化すると、不具合も多くなる。これはPCに限らず、機械装置も何もかもに当てはまる。公務員が多くなって役所システムが複雑化すると面倒が増えるし、複雑化する世の中に追随できない政治家(屋)が政治を語ろうとすると余計に複雑化して混乱することと事象的に同じ事と思う。
 政治家は自分の能力でうまく対処できないと自覚すると乱暴に単純化して力でねじ伏せようとする。鳴呼嘆かわしや。誰かがテレビでポピュリズムの政治家を批判していたが、ちょっと待って、人々=大衆の選挙投票数におもねるしかない政治家って皆ポピュリストじゃないのか。・・・ウィスキーを飲みながら書いていると愚痴っぽくなってしまう。ちょっと読みかけの小説を読んでから寝ようっと。でももう遅いか。

2021年8月21日土曜日

もう一つの芥川賞受賞作

 <李琴峰 『彼岸花が咲く島』(文藝春秋9月特別号、2021年)>:小説への入り込みはスムーズで、頁の先にどういう展開が広がるのか期待感もあった。彼岸花が咲く海岸に流れ着いた少女、宇美が同年代と思しき游娜と出会い助けられる。島では「女語」と「ニホン語があり、遠き島には「ひのもとことば」がある。琉球周辺であろう島で少女二人はノロになることを目指す。島の男は女語を話すことは禁じられ、島の歴史は大ノロから新たなノロにしか語り伝えられない。と、小説の世界に入り込んで頁を進めるが、少女たちがノロになるあたりからつまらなくなる。島の歴史が作られた経緯がなんとも大雑把で陳腐で浅い。
 芥川賞を受賞した作品は、それなりに完成された傑作でしかないという先入観があったが、それは必ずしも的を射たものではないと知らしめられた。この小説へのいくつかの評価、例えば、「「小説的思考」が凝らされた意義は大きく」(松浦寿輝)、「自己表現の新機軸を打ち出した点を評価し」(島田雅彦)、「未来の可能性について語る時の力強さ、そして可能性という言葉に対する無防備までの信頼感」(吉田修一)、という評価は、言ってしまえば新人への評価であって、完熟した小説に対するものではない。
 自分に通じる(と言っては不遜であるが)次のようなもの。すなわち、「大ノロによって語られる秘史があまりに大味で、政治を描きつつ、政治的に最も困難な問題について書かれていない」(平野啓一郎)し、「語られる島の歴史が、あまりにもマン・ヘイター的なのだ」(山田詠美)が、その嫌いな「男」が女を殴ったりオカスことに対して、「なぜそうなってしまっているのか、その「男を捜し出して描くことが小説の仕事だと思っている。こういう重要な一文の主語が「男」という普通名詞であってはならない」(同)。これらの評価が自分の読後感想にもっとも近い。典型的類型的な事実を一束に紮げて象徴的言葉(用語)に置き換えるのは思考の停止、想像力の欠如であると思っている。その意味でこの小説は後半でつまらなくなってしまった。

2021年8月20日金曜日

小説2作

 <真保裕一 『シークレット・エクスプレス』(毎日新聞出版、2021年)>:舞台はJR東青森駅から始まり、奥羽線~羽越線~上越線~東海道線へと続く。駅を離れた都市では青森・仙台・東京・名古屋。貨物列車が目指すのは佐賀県/鍋島駅で、積んでいるのは核関連の乾式キャスク。登場人物は、JR貨物ロジスティックに所属する運行管理者、東日本新聞の記者、三峰輸送(実は官僚の派遣者)、警察官、反原発の原発監視団体メンバーなど。現実の企業や人物を推定させるものとしては、日本貨物鉄道、三菱重工とその関連企業、IHI、慶応大学、小泉純一郎元総理。福島原発事故(人災)や六ケ所村が背景として設定され、政官財マスコミの隠蔽や忖度も登場人物によって語られる。詳しい取材や調査によって裏打ちされたスピード感あるライト・ミステリー。

 <石沢麻衣 『貝に続く場所にて』(文藝春秋9月特別号、2021年)>:読むことに努力を要求される小説と、早く頁を捲りたくなる小説がある。第165回芥川賞受賞作の一つである本作品は前者。まず出だしで躓きかけた。「人気のない駅舎の裏に立って、私は半ば顔の消えた来訪者を待ち続けていた。記憶を浚って顔の像を何とか結び合わせても、それはすぐに水のように崩れてゆく。それでも、すぐに断片を集めて輪郭の内側に押し込んで、つぎはぎの肖像を作り出す。その反復は、疼く歯を舌で探る行為と似た臆病な感覚に満ちていた」。何度かこの文章を読み返し、頭の中でイメージを作ろうにも難儀であって、その作業は打遣って先に進んだ。読み進めていくうちに、この小説は一種の幻想的世界であって、3.11で海に埋もれてまだ遺体が見つかっていない者に対して抱く「記憶の痛みではなく、距離に向けられた罪悪感」であることが判ると、出だしの文章もなるほどと得心した。ただし、「疼く歯」には違和感を拭い去れない。まして、「その表面をなぞる光に、意味の解けた物の塊の映像が別に浮かび上がり、歯痛を真似て疼き出した」に遭遇したときは、なんだこりゃ、著者はこの小説を書き出したときは歯が疼いていたのか、とさえ想った。以降、歯痛の疼きは出てこない。でも、「寝間着という夜の皮膚をまとわずに潜った寝台で」は笑いそうになった。回りくどく、遠回しにも何を表現したいのか、裸(あるいは下着のみ)でベッドに入る意味が伝わって来ないし、文章を弄んでいるのか、はたまた思考を重ねた結果たどり着いた高尚な文章としているのか、どっちともつかずに思わず笑うしかなかった。
 貝の置かれた場所というのは、(多分)巡礼の道の途上であり、幽霊として登場する野宮が埋まっている海をも指すのであろう。
 ゲッチンゲンにある惑星のオブジェ、貝の巡礼の道、何となく分るような気持ちにもなるが、この小説は著者の罪悪感に伴う死者への鎮魂なのかと感じた。そしてこの小説としての良さは、「小説という器を使って何ごとか冒険を試みようとしている」(松浦寿輝)点であり、「構成や構図があまりにも巧み」(吉田修一)なところにあり、「小説でしかできないやり方で、東日本大震災の体験を刻みつけようとする」(小川洋子)ところにあるのだろう。でも、現実世界に幽霊を登場させる小説手法は好きではない。

2021年8月16日月曜日

沖縄をルポした本

 <藤井誠二 『沖縄アンダーグラウンド―売春街を生きた者たち』(集英社文庫、2021年)>:佐木隆三の言葉が記載されている。すなわち、「私は『性の防波堤』という言葉自体を認めたくない。何かを守るために何かを犠牲にしていいという発想自体がダメだと思いますよ。・・・(中略)・・・生存する権利として自分の性器を売る行為を、いったい誰が非難できるのでしょうか」。そう思う。
 「性の防波堤」は戦後の日本政府が作ったRAAが典型であることは容易に理解できることであるが、そこに従事した者たちには経済的困窮があったことを決して無視してはいけない。だから、往々にして道徳的側面を柱にして、売春はいけません、あなたの娘さんが同じ事をして許せますかと、ヒステリックに声を張り上げる女性たちは色々な意味でキライなのである。その女性たちは、彼女の夫や息子が、そのような場所に行ったことがない、行くことはないと言い切れるものなのであろうか。貞操観念は趣味、信仰であると言い放っていた与謝野晶子のような感情主体の立場で売春を指弾する人たちは嫌いなのである。 
 RAA=Recreation and Amusement Associationは直訳すれば「気晴らし・娯楽協会」とでもなろうが、一般的には「特殊慰安施設協会」と呼称され、両者から捉えられる意味合いは随分と異なる。物事の本質を隠して創られる用語はいつの時代にもあるものではある。因に沖縄にはRAAはなかった。本土と違ってなぜ沖縄には作られなかったのかと考えるのも歴史を知る上で意味がある。
 本書で知った事から幾つかメモしておく。
 ・全国的な「反暴力団」の狼煙は沖縄から上がっていた。
 ・1971年に公開された『モトシンカカランヌ-沖縄エロス外伝』。「モトシンカカランヌ-」は「元手がかからない仕事に従事する者」の意。この映画を見たいけれども簡単にはできないであろう。また、「十九の春」を聴くと今までとは違った印象をその歌詞に抱く。
 ・1956~57年頃は、スクラップ産業が黒砂糖を抜いて沖縄の総生産額の一位になっていた。これは戦争中の米軍による激しい砲撃があったことを意味する。
 ・本土の人間は沖縄を差別する、沖縄内部では奄美出身者を差別した。差別はいつの世も多層構造である。米国でBLMが主張され、アジア人は一部の黒人や白人から暴力を受ける。アジア人はまた他所のアジア人を差別する。江戸期、武士の下に置かれた農民、明治に入り穢多・非人の平民化に反対した先鋭はその農民だった。

2021年8月11日水曜日

雑多な本を介して

 <東野圭吾 『白鳥とコウモリ』(幻冬舎、2021年)>:7編の短編をもとにして本作を再構築したもので、時折後出しじゃんけんのような謎ときに些か抵抗は覚えるもの楽しめた。過去の事件を隠蔽し、沈黙を続け、さらに己と家族を犠牲にして現在の事件をもまた嘘で固めてしまおうとする。自ら犯人となった者には全く共感できない。加害者で被害者となった弁護士の娘、嘘を貫いて犯人となった者の息子、そして刑事。この三人を中心に物語はすすむ。ジグソーパズルを上手に散らして当てはめていく手腕はさすがと思う。

 <弓月光 『瞬きのソーニャ③』(集英社、2020年)>:6年ぶりに読む続刊。「『ソーニャ』は完全に趣味。気晴らし」と著者が言うだけあって前巻から長い年月が経っているが、それにしても6年も間を空けるなんて空きすぎであろう。弓月光と言えば女性の艶かしい姿態を描く漫画で有名だが、それらの作品は手に取ったことがない。
 1949年生まれの作者が描くカワイイ女の子のハードボイルド漫画を、同年に生れた男が楽しむというこの情景、少々照れくささもある。

 <宮口幸治 『どうしても頑張れない人たち ケーキの切れない人たち2』(新潮新書、2021年)>: ADHDやASD、LDの診断障害がつけられず、知能障害でもない「境界知能」の人たちの生きづらさを前作で知り、結構衝撃的であった。本作では簡単に言えば、「頑張らない」ではなく、「頑張れない」人たちへの支援のあり方を論じている。人びとの置かれた環境は様々だし、自身の行動も千差万別だからこれが正解だとする策はない。しかし、人にはこう接しなさいという指針の内容は深く、考えさせられるし参考になる。
 9日の朝日新聞「折々のことば」に載っていた言葉が意味深い-「貧しい言葉で豊かな明日を語るくらい、人びとをシラケさせるものはない。<天野祐吉>」。この言葉、人をネガティブにさせる言葉を単に豊かに深くせよ、と言っているのではなく、ネガティブにさせる自分自身の言葉、人を見つめる姿勢をきちんと考え、人の置かれた状況を理解した上で言葉を発せよ、と指摘していると解釈する。
 本書の最後に書かれた言葉が重い。「”あの子、表情が悪いな”と思った時は、まずは”自分の顔はどうかな”と思うようになりました」。“あの子”を自分の身近にいる人に置き換えると、自分の生き様を客観視する言葉と思え次の言葉が浮かんでくる、すなわち、「過去と他人は変えられない。変えられるのは自分と未来」。

2021年8月1日日曜日

警察から電話、『竜女戦記』

 鎌倉を舞台にした、鉄道ミステリー娯楽ドラマの再放送録画を眺めていたらスマホが鳴った。知りもしない電話番号であったが、取敢えず出てみたら偶然にも鎌倉警察署からの電話で、確認のために尋ねられた名前が違っていた。何かの捜査の一環であったのだろうか。

 ふと40年近く前に埼玉県警の強力班の刑事二人が勤務先に来たことを思い出した。
 県警は大学に問い合わせ、次に最初に務めた富山市の会社に連絡され、当時住んでいた綾瀬市の自宅に電話が入り、当時の勤務先の内線電話を確認し、自分に面会したいとの連絡が入った。自宅への電話では大学同窓の者と名乗り、余計な心配をかけないよう心配りをされていた。富山の会社に問い合わせをしたときも警察であること明示しなかったらしい。
 会社に見えたとき、予め連絡を受けていた事もあり、また興味を抱いていたこともあり、会議室を取っておいた。守衛さんのところに迎えに行き通行許可を取るとき、警察と名乗っていいのかと問われ、構わないと応じて、彼らが警察手帳を守衛さんに見せたときに守衛さんが条件反射的に敬礼していた情景にいまでもおかしさを感じる。
 草加の質店で殺人事件があり、手懸かりを求めてその質店に記録されている一人一人に当たっているとのことだった。50年ほど前、学生であった1970年前後にその質店にカメラを質入れしたことがあった。
 会議室で事件の概要を教えてもらい、指-左右どちらかの薬指と中指だったか-の指紋をとり、当然だがその後何の連絡もない。いま改めてネットで確認すると、事件とは1981年12月に草加で起きた事件(「質店女性強盗殺人事件」)で、34歳の主婦が刺殺されたものであった。いまもって未解決になっている。いわゆる迷宮入り事件、Cold Caseである。

 <都留泰作 『竜女戦記 3』(平凡社、2021年)>:第2巻を読んだのは昨年の9月で、物語も朧げな記憶でしかない。3巻目を読むに当たってまずは第1巻から読み直し、頭の中でストーリーと登場人物と彼・彼女等の関係を再構築した。壮大な物語の中でまだまだ序盤での展開である。

2021年7月30日金曜日

2回目のワクチン接種完了、PC1台リタイヤ

  東京都の新型コロナ新規感染者数が過去最多の2,848人と発表された今日27日火曜日、午後に2回目のワクチン接種を済ませた。1回目の時よりも人出が少なく、13:40頃に接種会場に入り、出てきたのが14:03と短時間であった。
 東京都の感染者数はすぐに3,000人を超えることであろう。日本全体でも一日の感染者数が1万人を超えるのもそう遠くないような予感がする。

 以前より特定の機能が不調であるPCがさらにおかしくなった。突然に有線・無線ともにネットが繋がらなくなった。メインとサブを入れ替え、この不調PCのネット接続は諦めて音楽専用としようとしたが、iFi NEOと接続すると立ち上がらなくなることが再確認された。PCがドライバーに適応できないようである。えいやっと長い時間をかけて完全初期化を試みたが、状況は改善されない。7年間も酷使してきたので引退させてくれとのことなのかであろう、廃棄することに決めた。
 使用頻度が低いSurface3も含め合計4台のPCがあり、自室にメインとサブ、1Fにもう一台のサブがあり、やはり自室のサブがなくなると不便であり、これから新規PC購入の検討に入る。Windows11が今年後半から登場するらしいが、それを導入する気はない。

 新型コロナ新規感染者数は予想よりも拡大している。どうなることやら。

2021年7月26日月曜日

「秘剣の名医」シリーズ9巻読了

 オリンピックが開催された。好きなスポーツの観戦は好きなのであるが、東京オリンピックが開催されることはもちろん、そもそもオリンピック自体に懐疑的であり興醒めの気分から抜け出ることはない。

 <永井義男 『秘剣の名医 九 蘭方検死医 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2021年)>:八百屋の2階を借りて男と逢引きをしていた16歳の娘が絞殺され、相手の男の正体が分からない。一方、商人風の男が妾の2階で腹上死し、その男が番頭をしていたという店も、本人の名前も出鱈目であった。この二つの事件は互いの関連はないものの、岡っ引きの辰治と伊織が活躍し、それにお喜久の絵が手がかりとなってすべて解決される。助太郎の機転で浪人とその手下もこっぴどくやられて小伝馬町に送られる。
 長屋の大家や住人が活写され、陰間も登場し、厭味のない下ネタを辰治が披露し、写実的春画を描くことを目指すお喜久が活き活きとして魅力的である。

 永井さんの「秘剣の名医」シリーズを今月8日から読み始めて一気に全9巻を読み終えた。次巻がでるまでは、餌を前にお預け状態となっているような気分である。これら9冊の本は時代小説が好きな友人TaHiに進呈した。

2021年7月24日土曜日

つづけて『秘剣の名医』4冊

 <永井義男 『秘剣の名医 五 蘭方検死医 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2020年)>:居を下谷七軒町に移し、下女と下男はお末と虎吉夫婦。助手・弟子はいない。書名のサブタイトルも「吉原裏典医」から「蘭方検死医」へと変化している。
 今回は背中をばっさりと切られた本屋の越後屋亭主の傷を縫合し、犯人を明らかにするとともに越後屋一族の謎を解き、和解の手助けをもする。伊織が所帯を構えたと誤解していたお園は、伊織が独り身であることを知り、丁稚と下女を伴いながら伊織の生活に入り込んでくる。
 ストーリー構成がうまく練られていて楽しめる。

 <永井義男 『秘剣の名医 六 蘭方検死医 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2020年)>:時代は11代将軍家斉の頃。事件に巻き込まれた按摩の苫市を助け、彼は嫁を迎えることにもなった。続いて起きた事件は白骨化した死体で、関連する3年前の事件の謎ときをし、殺されていた清吉の濡れ衣を晴らす。兄が殺人の下手人であるとされた妹は苦界に身を落としていたが、兄の雇い主であった者の助力もあって身を解き放つことができ、その彼女もまた所帯を持つこととなった。
 メインで活躍するのは伊織と岡っ引きの辰治。助演役として助手兼教え子の助太郎、下男下女夫婦。悪人はその罪を暴かれ、そうでない人は善人でいつものように心地よく幕が閉じられる。
 
 <永井義男 『秘剣の名医 七 蘭方検死医 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2020年)>:棒手振が担いでいた籠の中の南瓜が男の生首と変わっていて、首無し死体が長屋に見つかる。死体はちんこきり職人で、ちんこきり屋の15歳の娘はちんちんかもが大好きで、その娘に間接的に絡んだ貧乏侍たちが悪知恵をはたらかし、金精神で一儲けをしようと企む。
 最後には、生首と首無し死体の事件を解決し、蛇蝎の如く嫌われていた武士の一味が悉く捕らえられる。元大工の下男虎吉は金精神の木彫りを作って事件解決に一役をかい、辰治の計らいもあって金精神の製作で元気を取り戻す。
 お園は登場しないが、新たに好奇心の強い咸姫が屈託なく金精神を手に取って面白がっているところで巻が閉じる。

 <永井義男 『秘剣の名医 八 蘭方検死医 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2021年)>:幕府重臣の子がすぼけ魔羅で筆おろしができない。友人吉田から相談された伊織が吉田とともに包茎手術をし、目出度く跡目争いに結果を出した。
 場面は変わり、斬り合いになった部屋住みの武士の治療を依頼され、肺まで刺されて助からぬその武士からヘイサラバサラ(馬糞石)を遊女に渡すよう依頼される。
 咸姫は輿入れが決まり、伊織のところには新たにお喜久が解体新書を学びに通うようになる。お喜久は蝋燭問屋会津屋の娘で後家なのだが、再度婿を迎えることを拒み、好きな絵を描くことに専心するようになる。彼女の描く絵はかなりの腕前で、伊織が務める検死の場にも臨み、同心鈴木と岡っ引き辰治に死体の似顔絵を提供し事件の解決に貢献する。以後、事件があれば似顔絵をものにして捕り物に絡むようになる。
 そして、両替屋加賀屋が施設する診療所にて出張診療することを決める。

2021年7月16日金曜日

フォロ骨折の治療、『秘剣の名医』四

 フォロが我が家に誕生したのは、ダークが7/3でイエローは遅れて7/8。動きが可愛くて時々歩かせて遊んでいる。うるさいと連れ合いからのクレームはあるが、フォロの動きを眺める彼女の表情は柔らかい。
 不注意でダークを落としてしまい、大腿部を骨折させてしまった。家の中にあるものを利用して治療した。外科医の腕がいいのか、骨折部はちょっと見には分からない。


 <永井義男 『秘剣の名医 四 吉原裏典医 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2019年)>:舞台は吉原から浅草田原町へと移る。かつて芝蘭堂で蘭学を学んだ中島粂之丞が同心となって現れ、武家屋敷住人の殺人を暴く。
 下半身部位の外科的治療は続き、今回は、浣腸で側室の便秘を治癒する。
 下女お杉はやむを得ず吉原を出て伊織の身辺の世話をするが、助手・弟子の正吉は時計師(細工師)にならんと伊織のもとを離れる。呉服屋の大店、後藤屋のわがまま娘お園は勝ち気で度胸があって楽しめる存在-まだ愛敬を感じるシーンはない。
 ウィスキーをなめながら、ときどき笑い声を出しては第4巻目を読み終えた。5巻までしか購入していないので、残りの6巻から9巻までの全てを発注した。

2021年7月14日水曜日

ネック・スピーカー、コロナ対策禍、永井さんの小説、漫画

 ウェアラブル・ネック・スピーカーを購入。ダラダラと本や雑誌を読むときのBGMとして最適。音量は小さくて済むし、ヘッドホンのような圧迫感もない。音が鳴っているときの微かな振動が肩に伝わりマッサージを受けているような心地になる。

 今日(13日)は西村経済再生相の発言撤回。撤回したところで一度発言した言葉は残り続け、馬鹿加減は人びとの記憶に残り続ける。まさに「コロナ対策禍」の象徴。

 <永井義男 『秘剣の名医 三 吉原裏典医 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2019年)>:女のあそこに蛇が入ったとの噂の真相を暴くところから始る。昔、奥会津に住んでいた中学生の頃に、会津バスのうら若き車掌さんがやむを得ずに峠の草むらで用を足したらあそこに蛇が入った、湿っぽくて暖かかったんだろう、とまことしやかな噂話があった。世界中のあちこちで同じような噂話は存在するようである。
 今回の物語は、伊織が鳴滝塾で学んでいた頃の同僚であった吉田と偶然に再会するところから展開する。吉田は丸山の花魁であった女房お長と箱根越えをするときに護摩の灰に遭遇してスッカラカンになり、困窮していた。尻尾の如き肉瘤をもつ3歳の子を二人で手術して治癒し、それが縁で吉田は住居も見つかり、望んでいた開業医となる。護摩の灰も見つけ出し退治する。肉瘤の子の母親の妹であるお園と伊織の恋を匂わせて頁は了いとなる。

 <魚豊 『チ。―地球の運動について― 第4集』(小学館、2021年)>:やっと第4集。

2021年7月11日日曜日

雨、五輪、永井さんの小説、酒

 夕方に大きな雷鳴と激しい雨音。梅雨時の雨は季節感を味わえ、涼しくもあり心地よいのだが、雨上がりの後の蒸し暑さを思うだけで不快となる。必然、家の中でエアコンはかけっぱなしとなる。

 もうすぐに五輪。笑えない笑劇、政治家の猥雑な言動。呆れを通り越してどう表現してよいのか言葉が出てこない。
 毎週録画している近現代史のテレビ番組をたまたま見ていた。ガダルカナルの敗北と撤退、大本営の偽りの広報、いまの状況と重ねて見てしまう。撤退を転進と言い換えた昭和18年、いまは安心・安全を繰り返す。思考パターンは何ら変わることがなく低劣。乱暴な言い方であるが、これが水戸学の発展結果である。

 <永井義男 『秘剣の名医 吉原裏典医 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2018年)>:永井さんの本を小説として読むのは実に10年ぶり。もう小説は書かないかと思っていたのは自分の浅墓さであって、こんな面白い小説がコスミック出版から出ていたとは知らなかった。又、近くの本屋にもこのシリーズが並んでいなかったと思う。気づかなかったと言うことはないと思うが、自責を棚に上げて勝手なことを言えば、出版社側の書店への営業不足なのかもしれない。
 時は文政12年(1829)年頃、舞台は江戸吉原、主人公はシーボルト直弟子で外科医術に長けている医師沢村伊織、フェンシングの使い手でもある。
 
 日本酒を飲みたくて純米大吟醸を買ってきたが安価だったせいなのか杯を重ねることがなく瓶を冷蔵庫に入れた。
 じゃぁ久しぶりにハイボールを味わおうと、衝動買いした比較的安価なウィスキーのボトルを3本並べた。Deward’s White Label、新里-初めての沖縄のウィスキー、Ichiro’s-初めてのIchiro’s。
 今も飲んでいて酔っているのでそのうちに感じる味も好みも変わるかも知れないが、今の好みの順番をつければ、新里>Ichiro’s>Deward’sの順。ハイボールじゃないならば順番は変わるかもしれない。

 <永井義男 『秘剣の名医 ニ 吉原裏典医 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2018年)>:シリーズニ回目。花魁に恋して、彼女は身請けされて川越に行く。出て行ったあとに和歌であろう文を認めた扇子が届き、伊織は涙して吉原をでる決心をする。

2021年7月7日水曜日

本を読んでの雑感、ワクチン接種

 <斎藤幸平 『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年)>:刺激的で且つすっきりとする内容。だが繰り返し論じられる内容にもっと凝縮してまとめられるのではないかと感じる。一番熱心に読んだのは「第5章 加速主義という現実逃避」。
 価値と欲望、これを考えることは、自分にとっては、例えば無用の消費=浪費を抑制するときの思考手段であるが、集団組織=社会においては個人の欲望が第一選択になってしまうのが現実かと思う。その結果、人類が向かうところの行き着く先は、極端に(妄想的に)言えば映画Mad Maxの世界でもあるような気もする。あるいは宇宙に資源を求めて特定の国の欲望を満たそうとすることなのか。
 自分にとっての価値とは何か、必要なものと欲しいものの区別がついているのか、そのような自問が不可避である。
 政治主義、民主主義、等々、問題の基本は選挙というシステムにあるような感じてしようがない。解決策は、全員参加の上での多数決ではなく、免許制、そうでなければ籤引き方式にあると思っている。籤引きが一番いいのかも。これらは実現するわけがないが、現行の選挙システムが民主主義という装いをして、政治課題になることすらありえないこと自体がいまの選挙システムの欠陥であろうと捉えている。

 5日にやっと(!)新型コロナのワクチン接種を行った。場所は、自宅からドアツードアで徒歩約600mの距離にある市立体育館。自分たちも含めて多勢の老人たちがいたがスムーズに摂取が完了し、自宅を出てから1時間も要せずに帰宅した。2回目の摂取は27日に予約。今月末でコロナ禍における自分の一つの区切りとなる。

 定期的に通っている歯科医院で、若い女性の歯科衛生士さんとコロナワクチンの会話がちょいと弾んだ。前日ワクチン接種をした私に副反応はどうですかと聞かれ、針を刺したところを押すと痛む程度で、昨夜は寝返りで左肩が下になると目が覚めたと応え、さらに腕は上がりますかと尋ねられ、それは全く問題ないと返したら、8日に東京にワクチン接種を受けに行くと言う。どうしようかと思ったが、こういう仕事をしているので接種した方がいいかと思って行くことにしたとのこと。
 通っているここの歯科医院、皆さん応対が良くていやな感じは全くないし、特に感じの良い今日の女性にあたる日が最近は多い。馬鹿面をした老人が若い女性の前で口を大きく開くという図は何とも情けないものではあるし、まともに対面することもないのが歯がゆい。それにしても、歯科医の腹の出っ張りが最近目立ってきた。

2021年7月2日金曜日

雑記

 大正5年から昭和元年にかけて発売された小説(宮嶋資夫著)を読んだ。物語の内容は横に措いて、漢字の使い方、促音を使わないこと、時代・環境に特有の言葉・用語、などに興味を惹かれた。特に漢字は多用したくなる。また、「ランプのカサで隈取った天井」という表現はとてもできそうにない。畚なんて読めても書けそうもない。澱粉靴、尻当(あてしこ)、襯衣、鼈、・・・きりがない。本気で漢字検定でも勉強しなければ覚えられないヵ。

 1週間があっという間に過ぎてしまう。毎週火曜日の歯医者通いが数日でくるようだ。

2021年6月21日月曜日

雑記

 auスマホ、自分にとっては全く無意味な内容の契約もあり、新しい料金契約に変更した。結構安くなった。POVOやUQなどでは更に低料金化ができるのだが、それらは少し検討しただけで対象から外した。今のスマホ(Galaxy S8+)を使い初めてから4年も経った。不満もなく、このまま使い続ける。パレートの法則に準じて使っている機能はほぼ決まり切っている。
 こうして自分が使用する機器はどんどん旧くてつまらないものになっていくのであろう。

 炭砿を舞台にした高橋揆一郎の古本を一冊購入するも、本体90円で送料・手数料が430円。90ポイントを使用した上での合計料金は430円となり、送料・手数料のみを購入したような様になり、妙な気分である。

 登録したまま放っていたPayPayを初めて使った。文明化された未知の世界に少し入ったヵ。ネットで購入することが多く、店に足を運んでもレジの女性とはコロナ対策でぶら下げられた透明シールドに遮られ、支払いはタッチパネルで支払いは電子決済。言葉を交わす頻度はなくなり、そのうち口から言葉を発することを忘れてしまうのかも。
 
 再放送の東野圭吾作「秘密」のドラマを見る。初放映は2010年。本を読んだのは1998年。20数年経ったいまでもこの本の表紙は記憶に残っている。当時の感想文を振り返ったらごく簡単にしか記録していなかった。当時は傑作と自分なりに評していたが、いまドラマをみると(勿論ドラマと原作の違いはあろうが)、奥歯に物が挟まった感は拭いきれない。そして、当時の単行本の表紙に隠された「秘密」がすぐに分からなくて焦燥感にかられた記憶だけが甦る。
 一緒にドラマを見ていた連れ合いが言う、「はっきりしない結末、ミステリーはドンパチでスッキリするのがいい」というのも肯ける。

 コロナワクチンの接種が予約できた。7月5日で歩いて5分ほどのところでの接種となる。2回目の接種も今月で終了となるであろう(春日部は2回目の予約が必要)。娘がこれに関するアルバイトをしていて話が聞くことができて面白い。

 ここのところ就寝するのは午前2時頃。その時間を超えないようにしているのだが、往々にして午前3時近くなるときもある。昨夜は1時に寝たのだが、目が覚めたらなんと10時になっていた。9時間も寝たのは久しぶりのこと。お陰で今はアルコールを片手にしても全く眠くない。ジャズを聴きながら夜更かししそう。ちなみに今流れているのはラース・ムラーのカレイドスコープ。大好きなアルバム。

2021年6月13日日曜日

読めない漢字、水出しコーヒー器具自作、3A

 鉱山関連の資料や本を読むのに没頭している。その内容や経緯はもうひとつのブログに書くことにしているが、日々脱線することも多い。印刷の品質が悪く判読に苦労することもあり、またくずし字や旧字体で書かれているものもある。読めないと悔しいので調べるのだが今読めないままにある漢字が2点あり、これはそろそろ諦めかけている。
 数ヶ月前、ある短文の中の一個のくずした漢字が読めず、拡大したりして筆順を追いかけてみたり、『異体字解読字典』や『くずし字解読辞典』と照合しては調べたことがあった。三日ほどかけて納得する答えをみつけた時は嬉しく、気分が昂まった。しかし、その漢字が何であったのかメモを取ることを失念し、それが口惜しい。

 あちらこちらに興味が転がり移り、時間の合間にペットボトルで水出しコーヒーの器具を作ってみた。使用したのはペットボトルと透明なクラフトテープのみ。
 コーヒーの最初のできあがりは失敗。水の流れを分散しなかったので粉の中に通り道ができてしまい薄いものになってしまった。2回目はまあ飲めるが不味い。3回目はできあがりにラカントSで甘さを加えたら少しはまともになった。連れ合いはひたすら不味いというので、粉を変えて4回目に挑戦したら飲めた代物ではなく棄ててしまった。コーヒーの粉は手を抜いてドリップ用のもので試していたが、やはりそれは手抜きであって、そのうちに水出し用の粉で試してみようと思う。が、費用の無駄づかいになりそうな気がしないでもない。

 安倍・麻生・甘利を3Aと呼んでいて、二階や岸田が神経を尖らしているようである。日本の現在の政界は所詮3Aクラスでメジャーにはなれないということだろう。

2021年6月5日土曜日

老後とひとり死の本

 新型コロナのワクチン接種は、今のところは今月中旬に案内が郵送され、下旬に近くの接種会場に足を運ぶこととなる。世の中の状況が早く落ち着いて欲しいものではある。5歳刻みに年齢区分され、高齢者から低齢者へと接種が移行していく。

 <和田秀樹 『六十代と七十代・心と体の整え方』(バジリコ、2020年)>: 72歳の自分が思っていることや感じていることを著者の言葉で再確認させてもらったということで、何か新しいことや自分に抜け落ちていたことなどを気づかされたということはない。
 感情が劣化していることは自覚しているし、独りになることを意識していることは以前より変わらないし、文章を書くことも好きな方だし、世の中の気にくわないことに対しては諦念に似た気持ちを抱くことが多くなっている。しかし、本書で奨めている3度の正しい食事は出来ないし-16歳から2食の生活になっている-、適度な運動を再開するつもりはないし、規則正しい睡眠と起床は端からできない。まあ、常に自分と向き合いながら生きていくことであろう。
 購入することを躊躇い、書店で衝動的に買ってしまった本であり、今は読まなくともよかったと思っている。

 <上野千鶴子 『在宅ひとり死のススメ』(文春新書、2021年)>:朝日新聞の「なやみの坩堝」では上野さんの回答をいつも強い関心をもって読ませてもらっている。相談者は深刻な気持ちで相談しているのだろうから、失礼な言い方ではあるが“楽しく”読んでいる。
 著者と違ってこっちには子どもはいるし、まして二人とも近くに住んでいるし、彼女らの子どもたちともそこそこの頻度で顔を合わしている。でも、今後とも子ども達と同居するつもりは毛頭ないし、もしも連れ合いが先に逝っても独居生活以外の選択はあり得ない。今は連れ合いと二人の生活であり、そこそこに空間的にも時間的にも距離をあけることが出来ているし、自分の世界に自ら入ることはずっとそうである。互いに不満がないことはないが、適度に呑み込んでいるし、引きずらないように(努力)している。
 この先どうなるか分からないが、これからの「ヨタヘロ期」を愉しみながら過ごして行くことが大事なのであろう。結論は、今後の自分が「どうなるかではなく」「どうしたいのか、を考え」ること。

2021年6月3日木曜日

PCの不具合、条件・制限の積み重ね

 2世代も古かった無線ルータを廃棄して新しいものを設置した。同時に常時使用する3台のPCを使用状況に合わせて相互に入れ替えることにした。パフォーマンスの悪い4台目のSurfaceは臨時に使用するだけのほぼ遊休状態に置き、メインはいままで通りとし、サブ1(1F設置)とサブ2(中心は音楽とメインのアシスト)を入れ替えた。入れ替えたというよりパフォーマンスの制限があってそうせざるを得なかった。それにしても不具合はいつもつきまとう。PC関連は悩ましいこと、分からないことが多すぎる。
 PCはすべてノートPCを使用していて、Surfaceを除く3台のうち2台はBluetoothが機能しなくなって(消失してしまって)いるし、1台はDACへの対応がスムーズでなく音楽再生が途切れ、1台はWiFiが繋がらない。BluetoothとWiFiの不具合については、Windows7から10へアップグレードするに伴いドライバーが対応できなくなったことから生じていることは分かる(多分)。DACへの不具合は結局分からない。Bluetoothはもともと使用していないし、WiFi不具合機についてはもともと有線LANにしているので、現実的には両者とも困ることはまずない。 
 しかし、不具合が生じるとその原因を探り、対処したいという衝動は抑えきれない。Webで調べたり、ドライバーを更新させたり、何度も何度も試行錯誤を重ねることほぼ3日。そして終には諦めた。疲れた。修復はできずとも微かでもPC関連の知識は増えた(と思いたい)。PCを最新版にすればすべて解消するのだろうけれど、不具合以外のパフォーマンスには十分に満足しているので買い換える動機がない。
 PC周りを少しは整理したことに併せてハードを少なくしたいので、1台のマウスで2台のPCを操作できるようにした。マウスを少なくするためにUSB切替装置を購入するのは本末転倒と思っていたら、いいのを見つけた。Microsoft 社から提供されているMouse Without Bordersで、これは便利。
 多くの時間を費やしたので、暫くはPC関連には、また、オーディオ関連にも手を付けないこととする(なるべく)。

 何が何でも開催することを目指すIOC・運営関連者や政府関係者たち、目指すという意志よりも目指さざるを得ない状況が背後にあるのであろう。組織に絡め取られた人たちの主張というものは、所詮組織の状況に応じることが目的化し、本来目指すべき理念は希薄化してしまうことが多い。Aを達成するためにBを達成させる。一方でBを達成するにはCが必要である。するといつのまにか最終目的がCを実現することになってしまう、というようなものである。
 いろいろな条件や制限を重ねているが、制限や条件を積分すれば結局は「否定」に繋がることを理解しているのだろうか。つまり安全・安心のためにというお題目のために積み重ねている条件や制限は「開催できない」という否定に向かっていることであり、そのような状況下で開催されても結果は矮小化されてしまう。
 条件を積み重ねた上で立てた計画は「うまくいけばいいな」という立場でしか考えていない甘~い思い込みでしかないことが多く、条件・制限が多いだけに何度も修正を重ねることとなる。
 まあ、「偶然を積分すれば必然となる」ことから考えれば、7月に開催されるイベントが成功するのはおそらく偶然が重なることでしかないと思われる。そうなったときに、関係者は自らの行動を必然的に正しかったのだと言い張ることになるのだろう。そうなっても詭弁の臭いが漂うことは自明である。

2021年5月23日日曜日

雑記

 昨年の2月4日以来、久しぶりにもう一つのブログ“T and T Room - mines“を更新した。鉱山関連についてホントに久し振りに、webを彷徨いつつ研究論文を読んでいる。知っているつもりでも知らないことが多いということを改めて認識する。 また、戦前のものを読むと旧字体や異字体にも触れることになり、ふらふらと漢字の本を眺めたりして、それらの漢字に妙に愛着を持っていることも意識する。なるべくのめり込まないようにしているが、漢字の本を読むとこれまた楽しい。

 Norah Jones、ブレークした約20年前は全く知りもせず、息子と彼の嫁さんと飲んでいたら、彼女が、随分と昔に話題になっていた人ですね、と言う。そう、こっちは何も知らずにいて、今になって入れ込んでいる。尢も20年前に知ったら夢中になっていたかどうか怪しいものではある。年齢によって人は変化するから。 ついつい彼女、Norah Jonesのアルバムを2ヶ月余りの間に12セットも購入してしまった(MQA配信の3アルバムを含む)。夢中になると抑制心は押さえつけられてしまう。
 
 PCでの音楽再生アプリを以前はfoobar2000 にしていたが、改めてMQAを含むハイレゾ対応の音楽再生無料アプリをMusicBeesにした。歌詞の表示があり、PCを眺めながら楽しむには最適であるが、操作性が今ひとつ好みではない。いろいろ探してみたが、TuneBrowserは音質も良く、操作性も自分にはフィットしていて、MusicBeeとこのTuneBrowserの両方を使い分けることとした。

2021年5月21日金曜日

長谷川卓、最後の読書

 <長谷川卓 『嶽神伝 風花 (下)』(講談社文庫、2019年)>:甲州征伐を開始した織田信長によって1582年(天正10年)に高遠城は落城した。無坂はここで戦って一生を終える。77才であった。無坂の物語はこれで巻を閉じ、あとがきで「今後も山の者は書き継いでいく予定でいます」と言っていた著者は、本書刊行翌年に72歳で亡くなってしまった。

 <長谷川卓 『もののふ戦記 小者・半助の戦い』(ハルキ文庫、2017年)>:武田晴信(信玄)方の武将横田高松の下の下の下に雨宮家があり、当主は佐兵衛。そこの小者である半助が主人公。舞台は世に名高き「砥石崩れ」であり、横田軍は武田軍の殿となって敗走する。半助は佐兵衛を何としても味方のところまで連れ帰ろうとする。村上軍に追われ、野伏せりに襲われ、百姓に殺されそうになり、等々の修羅場をかいくぐり半助は、村上義清の義侠心もあってどうにか高窪城にたどり着く。
 読んでいて頁を閉じることができなくなり、結局は午前3時半まで読み続け了となった。
 長谷川卓さんの小説は次のように大別できる、即ち、捕り物・同心もの、剣豪もの、山の者たちを描くもの、である。これらに当て嵌まらないものは『死ニ方用意 小説 臼淵大尉』と今回読んだ小説である。その意味ではまさしく本の帯にある「著者の新境地!」であり、楽しめた。
 2006年5月に始って、著者の小説は『運を引き寄せた男 小説・徳川吉宗』(かんき出版, 1994年)-文庫本になっていない-を除いて全て読み、楽しませてもらった。前に書いたように亡くなってしまった。残念である。 .

2021年5月15日土曜日

珍しい名字

 日本には姓(名字)が30万種ほどあって、そのうち7000種で全人口の96%を占めているらしい。会ったことも見たこともない名字が沢山あるなかで、実際に目の前の人のネームプレートに、漢字表記ならば読み方が分からないとき、ひらがな表記ならばどのような漢字なのだろうと興味を惹かれる。図書館で、店のレジで、今まで何度か尋ねることがあった。中には鹿児島に多い名前で祖父が鹿児島の出身ですと補足してくれた若い女性もいたし、いつも読み方を尋ねられますとなれ倦きた笑みを浮かべる女性もいた。そういえば尋ねたことがあるのは全て女性だった。
 久しぶりに今日はスーパーのレジで中年女性の、○っ○という名が目についた。初めて目にする名字であり、促音が入っていること自体も新鮮だった。どういう漢字を書くのですかと訊くと空書きを交えて教えてくれた。冗談半分に、(珍しい名前なので)悪いことはできませんねと言うと、悪いことはしませんので、と笑顔を交えて返ってきた。素敵な女性だった。

2021年5月14日金曜日

続けて長谷川卓さんの小説

 鉱山関連の資料を読むこと、偶然にみつけた奥会津横田関連のwebの写真を食い入るように見つめること、オーディオ関連でPCドライバーのインストール状態を修復すること、アプリと音楽ファイルを整備すること、等々で本を開く時間がなくなり、2週間近くも毎日の読書時間は尠く、本を開いても頁がなかなか進まなかった。

 <長谷川卓 『嶽神伝 風花 (上)』(講談社文庫、2019年)>:小暮衆の無坂がメインである「嶽神伝」シリーズ全4巻の最終巻上巻。作者の長谷川さんは亡くなってしまった。
 「風花」上巻は無坂の近況、上杉や武田、家康の緊迫する状況と相互の戦い。山の者とは、住む娑婆は違うと家康は断じるが、「家」ファーストの家康の姿勢が、現コロナ禍の中での「○○ファースト」の政権を連想させる。○○は経済であり、五輪であり、もっと言えばつまらぬバカバカしい意地と置き換えても良かろう。「御家とか言う詰まらぬものを守るために、何人の命を取り、失ったのですか。いつからそのように浅ましいお考えを持つようになられたのですか。薬草を覚える度にお見せになっていた、あの笑みは忘れてしまわれたのですか」(409頁)と無坂は家康に言葉を突き刺す。この言葉は、社会に向き合うときの、作者の基本姿勢を代弁していると思う。まして今のこのコロナ禍のなかでは尚更に。

2021年5月9日日曜日

PCとの格闘

 メインに使用しているPCにiFi-Audio NEO DSD(以下NEO)をUSB接続し、その状態でNEOにWalkmanやスマホをBluetoothペアリングして色々と操作をしていた。何をどういじっていたのか覚えていないが、突然にPCの画面がブルーになってフリーズし、何かをテストしているように%表示が進み、100%表示と同時に“再起動できます”となってしまった。それがPCとの3日間の格闘の始まりだった。

 再起動することさえどうすれば良いのか戸惑い、再起動させても同様になってしまう。NEOの電源をオフにするかUSB接続を止めると何ら問題はなくなる。しかしNEOをUSB接続すると再発してしまう。何度やっても再現する。

 NEOのドライバーに関連しているのだろうと想像し再インストールしようとすると不具合なくインストールできる。しかし、PCをリブートすると“Bad_Pool_Header”が表示され、その後PCは動くがNEOに繋げるとやはりフリーズしてしまう。ブート時に“Page_Fault_in_nonpaged_Area”が出るときもある。ドライバーのバージョンを落としてインストールしても症状は変わらず。ネットで解決方法を探索しても役立つ情報は得られない。

 初日は午前3時半まで起きていて、二日目はやや自重して午前2時半まで起きていた。その二日目は一度だけ正常になってNEOも支障なく使えるようになって眠りに就いた。
 3日目、PCを起動したら今度は“TUSBAudio Control Panel“に続けて”Failed to open application configuration file. Default configuration will be used”とエラー表示が出る。

 不具合を出したPCは7年間使用しており、その間には色々といじくり回しているし、新しいPCを購入するしかないのかとの思いもチラリと頭をよぎる。ゾノトーンの高価なUSBケーブルも購入したばかりなのにまったくもってなんてことだろう。
 連れ合いにぼやいていたら、季節の変わり目なんだからPCも不具合が出るんじゃないの、と揶揄されるし、そういえば7年間使用しているのだからPCも使用者に倦きてきて、7年目の浮気心が出て気がよそに向かっているのかもしれない、なんてことも思ってしまう。

 NEOにUSB接続しなければエラー表示もなく、PCは正常。問題はUSBドライバーにあることは分かるが、そもそも“TUSBAudio Control Panel“が何を指すのか分からない。NETで調べると”TUSBAudioCpl.exe“に関するWebが幾つかみつかるが対応策を目にすることがない。PCでそのファイルを捜すも存在しない。そうこうするうちに探すならiFiがキーワードになるはずと考えた。サウンド・コントロール・パネルではiFiの名称は出てこないのでこのことには考えが及ばなかった。

 iFiのキーワードでそれに関連するファイルとフォルダーを見つけそれを一括削除し、NEOのドライバーを再インストールした。・・・これで全てが正常になった。最初の不具合がどうして起きたのか、一時的にまともそうになったのは何故なのか、根本的な原因/現象は分かっていない。しかし、表層的な不具合は解決できたのでこれで良しとするしかない。
 ここまで続けてきた連日深夜までの3日間の格闘が了いとなった。が、NEO関連では引き続いて作業することにした。

 PCは自室で使用するメインのPC、1Fで使用するサブPC。それ以外にある特定の目的のためにwindows7のままにしてあるもの、そして最近はあまり使わないでいるタブレット仕様のPC。
 NEOの音は気に入っているのでメインPCを使っているときにもBGMとして音楽を鳴らしたいこと、その際にはメイン以外のPCからも流せるようにしたいのでタブレット仕様のPCをNEO対応の音楽専用にした。Windows7 PCにも試したが公式サポートは終了していることもあり、ドライブさせることはできなかった。これらのPCからは余分なアプリはアンインストールしたりして結構時間を要した。

 そして音楽プレイヤーのアプリをMusicBeeに変更し、今度は音楽のファイルを整え、MusicBeeの操作を覚えるのに2日ほど要し、やっと各PCの環境が整えられた。ゾノトーンのUSBケーブルもやっと活躍の場を得た。
 PCには毎日向き合っているが、PCの不具合や整備に多くの時間を費やしてしまったのは随分と久しぶりのことで、5月に入ってからはまだ一冊も本を読み終えていない。疲れはしたが楽しくもあった。音楽を聴く上でUSB 2と3の違いも少しはわかり勉強になった。

2021年4月30日金曜日

長谷川卓さんなど

 週刊現代4月24日号の記事に「人生、最後は回想を楽しむ力」なる特集があって、19人の著名人が「回想」を語っている。その内容自体は千差万別、単なる想い出話というのもあるが、それはそれで時を重ねてきた人たちの言葉で、なる程ねと頷くものもある。「過去を振り返さずして明日はやってこない。回想を楽しむ」ということである。
 自分を振り返れば、ある年齢に達してから、それは勤務していた会社を定年退職して通信教育をするようになり、卒論を意識し始めた頃からなのであるが、「回想」することが多くなったと思う。切っ掛けは鉱山を取上げた卒論にあり、それは鉱山社宅に居住して日々の生活をおくっていた視座で鉱山を見ることに始まった。以来、小中学校の時代を振り返ることが今でも続いている。
 たまたま最近になってネットである写真を見たことからまたもやその過去の時間に立ち戻る時間が増えてきた。以降、暫くしたらもう一つのブログ-一昨年に一度更新して昨年も2月を最後に更新しただけだが-にその「過去」について書いていこうと思う。

 <末木文美士 『思想としての近代仏教』(中公選書、2017年)>:著者名も「彦」を使えずに「士」を使用したのかもしれない。それはどうでも良いことであるが、本書は「史」がついた「思想史としての近代仏教」と見誤って購入してしまった。一通りは読んだのだが、清沢満之や鈴木大拙、倉田百三、仏教辞典編纂の流れ等々には関心が薄く、かつ自分の能力という容れ物には入らない高度な内容である。それでも「日蓮思想の展開」や「今、近代仏教を問う」は姿勢を正して(?)読んだ。

 <長谷川卓 『鳶 新・戻り舟同心③』(詳伝社文庫、2020年)>:昨年11月に亡くなっていた。同年の生まれであり、好きな作家だったので寂しさを感じる。本書巻末の「あとがきにかえて」で奥さんが著者の人柄や、エピソードなどを書いている。それによれば、悪性リンパ腫で亡くなったとのことである。迂闊にも一昨年に『嶽神伝風花』も出されていたことも見逃していた。本書と併せて購入し、この後に読む予定。
 本書では未完に終わった作品(「第2話 犬の暮らし」も収録されている。
 「戻り舟同心」で活写されている人たちに会えないかと思うと寂しい。著者の作品群を調べて未読のものがあったならそれも手に入れて長谷川卓の世界に入浸ってみよう。

2021年4月26日月曜日

『八紘一宇 日本全体を突き動かした宗教思想の正体』

 <島田裕巳 『八紘一宇 日本全体を突き動かした宗教思想の正体』(幻冬新書、2015年)>:「紘」の字を見るとイメージは戦前に繋がり、中学校時代の教師で、多分8才ほどの年齢の違いでしかない山口紘子という名前に結びつく。この「紘」の漢字は戦後になって暫くは人名に使用することは禁止されており、それは「彦」も同様であった。自分の名前は本来○彦という名前になるはずであったが、父親が役所に行ったときにその名前は拒否され、その場で変更して○克にした。そのことを小さいときから聞かされていたので、「紘」という漢字についても知っていたという次第である。ちなみに、中学や高校での同学年には政日子・俊比古がいて、彼らも「彦」をやむなく変えてしまった名前と思われる。
 「彦」は1951年から使用可となったが(旧字は今もダメ)、「紘」は1976年にOKとなった。数学の教師であった若き紘子女史の授業やその他の記憶は全くないが、「紘子」は敗戦を区切りとする時代の変化を感じさせる名前で、妙に印象深い名前となっている。
 「八紘一宇」は田中智学が日蓮信仰と皇国史観を合体させて造語し、昭和15年の閣議決定された「基本国策要領」で国家の方向性を示すスローガンとして使われ、「紘」は昭和16年から20年の間に誕生した子どもの名前に良く使われたらしい。昭和16年頃に誕生したと予想する前記の紘子女史の年齢にも符合する。ヒット曲「折鶴」の千葉紘子も戦前の生まれで世の流行りにのった命名なのであろう。脇道にそれっぱなしだが、「閣議決定」なる内閣の意志決定も今は碌でもないイメージに結びついている。
 日蓮宗(近代以前は法華宗)と皇国史観が何故に結びつくのか、理解できない。否、そもそも皇国史観、國體観念が理解できない。意味が分からないのではなく、その思想に何故に沈潜するのか囚れるのか耽るのかが分からない。2015年に、三原じゅん子議員が初代神武天皇の言葉として「八紘一宇」を持ち出し、麻生財務相が宮崎の「八紘一宇の塔」を紹介したニュースには驚き、国の行動方向を示す基礎に八紘一宇を持ち出すことに呆然とする思いであった。
 オリンピック開催を巡る迷走、もしも新型コロナの押さえ込みが出来ずに中止となれば、政治の失敗は橫に措いて、政府は日本人総懺悔とでも言いかねないと感じている、そう、失敗は家族である日本国民全員の、我々みんなの責任ですと言うんじゃないかと。

2021年4月14日水曜日

またまたAV配線組み替え、『チ。』

 “配線組替を伴うレイアウト変更は2度とやりたくない”と言って、舌の根も乾かぬうちに小変更を加え、これで最後かと思ったが、今度はMQA.CD以外のハイレゾ(DSDなど)をPC-USB以外から鳴らしたくて、1Fに置いてある“ULTRA HD BD Player”(以下UHD-BDP)と自室の普通の”BD Player”を置き換え、“HDMI Audio Extractor”(HDMI to SPDIF分配器として使用)を追加購入し、DVDに書き込んだハイレゾ音源をUHD-BDPでドライブできるようにした。
 こう書くと簡単な作業であったかのようであるが、実はUHD-BDPを事前に確認していなかったため、キチンと音が出るまでは時間がかかった。UHD-BDPの同軸とHDMI-2から複数のアンプに音を送り出すつもりだったが、HDMI-1と-2では同時に音を出すことができない。映像を見るにはUHD-BDP → EXOFIELD → TVの構成になり、音楽を聴くにはUHD-BDP → EXOFIELD → EXOFIELDのヘッドホン、あるいはUHD-BDP → Extractor → アンプ(AorB)、あるいはUHD-BDP → アンプ(C)となり、これら全部に共通する設定がありえなく、結局は場合に応じてUHD-BDPの設定を都度変えなければならない。お金をかければ解決策はあるのだろうが、そこまでやる心算はなく、これはこれで終了とする。何のことはない、音を出すパターンが幾通りもあって、それを面白がってシステムを構成させているだけで、アホみたいといえばその通りなのである-自覚はしている。大体が、機器の接続をブロック線図にまとめていて、音を出すときはそれを参照しないと戸惑うほどにシステム構成を複雑化させてしまっている。時間を相当費やしたけれど勉強になったし、楽しかった。それにしてもifi NEO iDSDは優れものである。

 <魚豊 『チ。―地球の運動について― 第2集』(小学館、2021年)><魚豊 『チ。―地球の運動について― 第3集』(小学館、2021年)>:C教に対する異端者抹殺や魔女狩りがおこなわれ、身分差別の激しかった時代、地動説に魅入られた、というより真理を求める人々が地下運動よろしく苦悶して学究に励む。面白い。真理を求めるという姿勢は哲学的であり、科学的であり、またそれは広義のC教に支えられている思想でもあると感じる。

2021年4月13日火曜日

日本史の新書と漫画『チ。』

 <大澤真幸 『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』(朝日新書、2016年)>:高校2年の時だったと思う。日本史の教師に質問をしたことがあった、なぜ天下を取った武士達は天皇/皇室一族を殺さなかったのか、と。教師からの回答はなかった、あるいはあったとしても記憶に残るスッキリとした内容ではなかった。その後目にしたよくあるパターンは、宗教的な祟りを怖れたとかいう類であるが、それで納得できるものではない。信長は多くの宗教者を殺したし、権力争いの中で勢力をもった宗教者や寺院を潰すのはよくあった史実である。明治になってからも仏教や新宗教は弾圧されている。ならば、天皇という存在は存在を消滅できない大きな力、天皇の力と言うよりも人間の社会生活の精神構造上の理由があるのだろうと思うことはごく自然なことである。しかし、中国では易姓革命があるが、それとは違って日本には万世一系の天皇が存在し、それは全世界のなかで無比の素晴らしいことである、などと信じ込むことは自分にはありえないことである。
 本書はそのすっきりしないことを解ったような気分にさせてくれる。気分にさせてくれる、という表現になってしまうことはまだ理解が不十分で、再読し、精読する必要があるということである。書名に「日本史」とあるけれど、その日本史を解くことにおいては、中国の易姓革命からキリストのことにまで論考は及ぶ。もっとも納得できることは「天皇なき天皇制」であって、このシステムは現代社会にもおよぶ日本社会の普遍的な体制、人間行動であって、ここをもっと深く確実に理解したい。これを基底に置けば、政官の動きも組織における人間の動きも、苛立ちなく監察できるであろう。

 <魚豊 『チ。―地球の運動について― 第1集』(小学館、2020年)>:天動説中心の時代における地動説探求の物語。まずはとっかかりを読んで面白いので続集を発注。

2021年4月7日水曜日

雑記

 “配線組替を伴うレイアウト変更は2度とやりたくない”とは言ったものの、Line-Amp セレクターの部分が気にくわなくて、もっとスマートな接続にしようと3時間ほどかけて配線を組み直した。あとは(余程のことがない限り)機器は増やさないし、減らしたりもしないし、このまま永続的に(つまり音楽に関心を向けなくなるまで)今の状態を保つことになろう。

 60日振りに日本酒を飲む。刺し身を肴にして飲みたくなり300mlと少々ではあるが、スーパーで買った上善如水を昼から味わう。然程好きな銘柄ではないが、棚に並んでいた他の純米酒はそれ以上に好みでなかった。やはり今は会津の酒がいい。

 自分である目標を立て、その達成度を監ている。そして達成していないと日々の負債と意識する。一つは、毎月の読書量で、これがマイナスになるとリカバリーは困難となる。本の冊数が管理項目であるが、単に数を増やすそうとするのは本来の読書の目的を失ってしまう。本来は数量ではないのだが、他に思いつく項目が思いつかない。二つにウォーキング歩数で、これはマイナスになってもリカバリーは出来る。まあ、日常生活の中で安易に車を使わずに、出来るだけ歩こうという気持ちでいることで良しとすればいいのだろう、が、マイナスになるのはやはり気になる。で、今は両者とも負債を抱えている状態。
 根本的課題は、時間が足りないこと。あれもやりたい、これもやりたいと思っても時間は限られている。60歳で仕事を引退すれば時間は沢山あると思ったのは誤算で、逆に時間が足りなくなっている。諦めるべきこと、棄てるべきこと、いわゆる断捨離なのであろうが、なかなか出来ない。かなり前のことであるが、読んでは取っておいていた本をバッサリと数十冊、数百冊単位で廃棄したことが何度かあった。それ以来読んだ本は取っておかずに処分するようになった。本以外に関しても、そういう類のことをいつかは行うようになるであろう。

2021年4月2日金曜日

本を売る、MQA-CD、Norah Jones

 4ヶ月ぶりに本を買い取って貰う。29冊を送付し、ついた値は予想していたよりも高かった。

 Norah Jonesの「come away with me」を聴いてはまってしまい、追加でやはりMQA-CDの「feels lile home」を購入。2004年に全世界でベストセラーになったアルバムらしい。ここ数日は自室にいるときは彼女の2枚のアルバムを流し続けている。BGMとして流していても全く邪魔にならず、ヴォーカルが心地よい。 こうなると、えいっとばかりに、アルコールが入っているせいもあって、更に4枚を発注してしまった。彼女が世界中で話題を集めてから随分と年数が過ぎているなかで夢中になっていて、20年近く前に彼女を知らずにいたのが恥ずかしくも、口惜しさもある。最近のCDも手に入れたくなる-収集癖が出てくる。
 序でにBilly Vaughnのベスト・アルバムもMQA-CDで購入。2つあるバランス・ヘッドホンで聴き比べるとヴォーカルとオーケストラで使い分ける傾向にある。

2021年4月1日木曜日

オーディオ

 NEO iDSDとCDトランスファーのSWD-CT10を光ケーブルで接続し、192kHzでCDを鳴らすとノイズが入る。176.4kHzでは入らないが気にいらない。手許の光ケーブルは素性が分からないので、きっちりと192kHz対応とうたっている国内著名メーカー製のものを購入した。が、それでも192kではノイズは消えない。試しにCT10とほかのDAC(SWD-DA20)と接続するとそちらからはノイズが入らない。新品でないケーブルでも入らない。相性が悪いといえばそれまでだが、高価な光ケーブルには手を出したくないので、NEOとCT10は同軸ケーブルで接続し、CT10とDA20は光に接続し直した。安価な商品という範囲では、光よりは同軸の方が一般的には安定しているのであろう。
 NEO iDSD購入に伴ってPCへドライバーもインストールし、ついでにMQA-CDをリッピングした後にMQA再生可とする変換ツール“MQA Tag Restorer”も入れた。ついでに再生アプリもAIMPからMusicBeeに入れ替えた-foobar2000は少し煩雑なので採用せず-。MQA-CD はMusicBeeでflacにリッピングし、“MQA Tag Restorer”で簡単に.mqa.flacに変換できた。
 しかし不具合はあった。PC経由で音を出すことが久しくなかったため、SWD-DA20のファームウェアをアップデートし、ドライバーを再インストールすると、DA20がUSB経由では機能しなくなった。何度かいろいろと現象を確認したが、DA20のドライバーとNEOのドライバーが共存できないようである(自信はない)。結局、DA20をUSB経由でドライブすることは止めた。
 スピーカーを除くとオーディオ機器は安価なものも含めて全部で22台もあって、配線組替を伴うレイアウト変更は2度とやりたくない。スピーカーも8セット(小屋裏に置いてあるものは更に4セット)。何をやってんだか、と思わないでもない。

2021年3月22日月曜日

NEO iDSD、本1冊

 60年代のポップスや、オーディオ機器に夢中になってしまい、読書が疏かになった。
 ボーカルのジャズは殆ど聞かないが、たまたまNorah Jonesの「come away with me」を購入しようとし、スタンダードのCDにしようか、ハイレゾの方にしようか迷ったが、結局はハイレゾ(MQA)のCDにした。ハイレゾ対応のDACは持っているが、MQA対応のDACやCDプレイヤーはない。実際のところMQAの言葉は耳にしたことはあるが、どういうものなのか知らなかった。それでMQAについて調べ、MQA対応の機器をいろいろ調べた。中国製のDACは手に届く価格で魅力的ではあるがスペックを見るとMQAはUSBでしか対応していない。それではつまらない。MQA対応のCDプレイヤーも見当たらない。
 現在保有しているCDプレイヤーと接続ができ、少し無理しても手の届く価格で、MQAフルデコーダーのDACがあれば、現在のシステム構成に割り込みができていい、と探してみたら、あった。昨年12月下旬に発売になったifi audio NEO iDSD。これ以上のものは見当たらない。現在のシステムL/Oに本機を追加してL/Oを引き直し、OKと断を下して発注。
 到着後すぐに配線をし、前記のMQA CDを鳴らしバランス・ヘッドホンで聴いた。素晴らしい。バランス・ヘッドホン対応機器はこれで3台目になって勿体ないとは思うものの、魅せられた気持ちは変わらない。バランス出力でのスピーカーはまだ鳴らしておらず、それはXLR-RCAケーブルの到着待ちだし、必要なPC環境もまだ整っていない。すべての設定が完了するまでの作業が、そして音出しが楽しみである。

 <酒井順子 『処女の道程』(新潮社、2021年)>:書名を目にしたとき、瞬時「おとめの道程」か「しょじょの道程」かどっちなのかと思い、後者を口に出せば「処女と童貞」と聞き間違えるかもと頭をよぎった。そして、帯の、「処女の価値」は日本の鏡、という惹句を見ては歴史書の類かもと捉え、これは早とちりとも言えそうだが、それは著者の名も知らずにいたせいでもある。
 出典を明示して世の中が「処女」や「純潔」や「婚前交渉」などをどう捉え、男と女が性交に対してどう向き合い、「して」いたのか、面白く読んだ。やはり関心があるのは明治に入ってからの状況であり、政府の動きとともに著名文化人の発言である。平塚らいてうは知ってはいても、彼女の非処女説に激高し、「私の貞操は趣味である、信仰である、潔癖である」と放っていた与謝野晶子については、へぇっそうなんだと新発見をした思いになり、横光利一が「女の人の貞操観念の強いということは、日本の宝ですね。これ以上の国宝はないですよ」と歓喜するに至っては笑ってしまう。・・などなど色々な発言が紹介されていて面白いのだが、著者が結論めいて世相を断じるのは少々演繹的である。
 明治から昭和前期にかけての日本が敷いた軌道はあっちこっち枕木が腐っていたり、レールを固定する釘が粗末であったり、その軌道の上を走る列車も中古のトロッコの様でもあり、乗っていた乗客はひたすら我慢するしかなく、我慢が限界に来て抗えば放り出された。そんな時代に最も興味があり、「処女」がどう管理されようとしていたのか、その切り口でみることができる。しかし、「処女」や「純潔」や「貞操」などを真面目に論じている”管理したがる人々”にはやはり笑ってしまう。

ダイエット

 ここ2週間以上にわたって毎日頁を開いている本は、「たった2週間で内臓脂肪が落ちる高野豆腐ダイエット」、「高野豆腐 やせる!糖尿病の特効食」、「高野どうふでやせる!きれいになる!」の3冊で、書名の通りにダイエットの本。糖尿病ではなく、単に減量のためのレシピを参照するためで、毎日の料理を担当し、連れ合い共々減量に努めている。
 毎日メニューを選択し、台所で料理することには意外にも嵌まってしまった。本に書かれた設計図を元に原材料を加工し、要素材と言える調味料などと併せて組立ていくのは楽しく、これはもの作りと言える。ただ、抽象的表現-例えば、柔らかめにとか、火の通るまでとか、ほどよく焼き色がつくまでとか-にはついついやり過ぎてしまい、ここは自分の性格がでてしまうようである。 
 そして、これを始める直近7日平均と比較すると、何と2週間で2~2.5kgの体重減となった。これはダイエット食の影響もあろうが、余計な間食をしない、酒を飲むときも追加の肴を殆ど摂らないということの方が大きいのかもしれない。2年ほどでやっと1kg減量したのに比して、今回は驚くべき落ち方である。

2021年3月18日木曜日

雑記

 15日、確定申告書の提出完了。いつものように“国税庁 確定申告書等作成コーナー”にて作成し、それをプリント・アウトして800mほどの距離にある税務署窓口まで往復。いつものように申告した内容のまま、還付金は1ヶ月半後にでも振り込まれるであろう。その金額はここ10年ほどさほど変わらず、連れ合いと分けることになる。

 過日、NHK BS(たぶん)で放映された映画「ラスベガス万才(Love in Las Vegas)」を録画して観た。Elvis Presleyはあまり好きではなく関心もないためにいままで観ることもなかったが、大好きなAnn-Margretの姿と歌と声に触れるためだけに改めて自室のテレビに映し出した。21~22歳ころの彼女をうっとりと眺め、声を聴いた。
 それに触発されて「Bye Bye Birdie」のDVDを購入。ただただ素敵で、プレスリーをパロってる映像も楽しめ、ヘッドホンからのシアター音(装置はEXOFIELD)で満喫した。
 Marilyn Monroeには「The Diamndd Album」があるが、それに類した、手の届く価格での、彼女の映画アルバム集がないのが残念である。(「C.C. and Company」のDVDを間違って棄ててしまったのが悔まれる。)

 で、今度は昨年にメルカリで、未開封品なのに安価に購入した前記の「The Diamndd Album」を開き、「帰らざる河(River Of No Return)」を観た。このアルバムはモンローの映画12本と「The Final Cut」があり、アルバム全体のデザインも内容も素晴らしい。まだ5作品はプレイヤーにかけていない。

 60年代前期のアメリカン・ポップスは沢山もっているのだけれど、特定のスターのアルバムも購入したりしている。直近ではAnn-Margret、Tab Hunter、Bobby Darin、P.F.Sloanなど。少し前だとShocking Blueの「Blue Box」も買ってしまった。
 と書くものの、心は移ろい気味で、名の売れていないグループやシンガーのアルバムも手に入れてはしばし楽しんでいる。例えば、ここ2年間ほどでは、Petersens、Velvet Underground、Patty Gurdy、Dead South、Belinda Carlisle、Band Perry、Four Jacks And A Jillなど。もう少し遡れば、Grateful Dead、Jody Millerも。新旧入り交じっている。
 さらにクラシックも結構購入しているので、まぁ一貫性がないというか、芯がないというか、クラシック以外の音楽は聴くべきではないと言っていた、2年前に亡くなった砂川しげひささんからみれば不埒な輩であることは紛うことないであろう。

2021年3月13日土曜日

小説・数学・江戸期の性

 <長岡弘樹 『にらみ』(光文社文庫、2021年/初刊2018年)>:よくひねってある短編7編。少々食傷気味となる。

 <横山明日希 『文系もハマる数学』(青春新書、2020年)>:理系(詳しくは工学・機械系)の人間で、齢重ねても文系とは言えない己ではあるけれど、暇潰しに読むのには丁度よい。知っていることもあれば、新たに知ることも少なくない。要は、頭の体操のような面白さがあって楽しめる。
 「青春新書」というネーミングがこそばゆい。

 <沢田美果子 『性からよむ江戸時代-生活の現場から』(岩波新書、2020年)>:貴重な史料を発掘し、そこから江戸期の庶民の生活を見出す。人々の欲望や哀切を、滑稽さをも含めて思い巡らすが、結局のところは人間の営みは根本的には何も変わらず、ただ生活を取り巻く環境とそれに呼応する様態が変化しているだけと思う。
 明治になって良くも悪しくも江戸期からの文化は変質した。女性への新たな差別と抑圧に繋がった「芸娼妓廃止令」。銭湯や湯浴み、庭先での盥での涼みなどが目に入ってもそれを意識の眼に入れることのなかった文化を滅しさせた「違式註違条例」。「さらに、江戸時代に多く出回っていた、性交のプロセスをはじめ性についてのさまざまな知識を述べた「艶道物」が大量に焼き捨てられ」た明治。そして、「江戸時代には陽根や玉茎、男根と言われていた男性性器を「陰根」と翻訳、朱門、情所、玉門と言われていた女性性器を「陰門」とするなど、すべてを「陰に追いや」つた」明治。少なくはない政治家や文化人は明治を礼賛するが、やはり抗いたい。
 全体的な感想を一言で書けば、「交わる、孕む、産む、堕ろす、間引く」といった性の具体的側面に沿って探」るなかで、「人々の歓びや希望、不安や葛藤を明らかに」するには本書には物足りなさを感じる。

2021年3月7日日曜日

本2冊

 <井上達夫 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版、2015年)>:すんなり読めて理解できる章立てもあれば、一方では相当の基礎知識がないと読むのに辛くなる論もある。その辛くなる部分について言えば、いろいろな哲学者の主張、及びその変遷についての論は殆ど理解できずにただ活字を眼で追っただけになるが、それらについては自分にとって大して意味あることと思えず、気にせずに飛ばし読みし、深く読み込もうとはしなかった。
 「自由主義」と訳されるリベラリズムは、著者は「正義主義」とし、基本は啓蒙と寛容であり、両者のネガの部分を切断してポジの部分を結合することが「正義」だとする。そこに重要なことは「反転可能性」で、これは簡単に言えば、一般的に言われる”立場や視点を換えて”ということと理解し、得心する。
 「九条削除論」と「戦争の正義」、「徴兵制」に強い興味を持った。憲法について思いを書けば、「原理主義的護憲派」ではなく、「修正主義的護憲派」でもない。要は「護憲派」的ではないが、日本の現実を考えれば今は「改憲」すべきではないと思っている。・・・実体は、何も考えずとも、時は進み、個人の力の及ばない何かが大きく作用して世の中が動き、その中で生き続けているだけ、という感が強い。それでいいのかという思いと、現状政治や文化的状況などへの不満を引きずりながらではある。

 <新川帆立 『元彼の遺言状』(宝島社、2021年)>:休業中であるが弁護士。作家になるためには生活基盤となる収入を得ようと弁護士になったとか、どこかで目にした。
 「このミステリーがすごい! 大賞」受賞作-賞金1,200万円は羨ましい-、勝手なイメージで言えば推理小説と古典的探偵小説の間にあるミステリー、といった感じ。主人公の女性弁護士はお金第一の際立つキャラであり、軽いのりで楽しめた。文章-人物描写や感情表現-は下手。弁護士ならではの(?)知識が活かされていると思うが、大成しないと思う。

2021年2月26日金曜日

芥川賞を読む

 <宇佐見りん 『推し、燃ゆ』(文藝春秋3月号、2021年)>:64th芥川賞受賞、21歳の現役大学生。2019年には文藝賞、同一作品で2020年には三島由紀夫賞を受賞し、野間文芸新人賞にノミネートされている。
 自己分析や情景描写に秀でているのに生きることに欠けるものがあって只管にアイドルを「推す」、それが理解できない。すなわち生き様と内省のアンバランスを強く感じた。それは、自分は単に「推す」人たちの生態が理解できずにいるだけであるのだが、かといって別段理解しようとも思わない。「あたし」と一人称で描写するのではなく、突き放した位置に立って三人称で「あたし」を描写すればこの小説にもう少しは共感できたのかも、と思う。そもそも「寄る辺なき実存への依存先」(平野啓一郎選評)がどのようなものであろうと首肯することはない。
 「推し」という言葉もそうだが、若者たちが頻用する短縮カタカナ語が繰り返され、また、ときおり感じる読点の使い方への疑問、これらに当たるたびに文章を読むリズミカルな連続性が打ち切られ違和感を覚えた。
 這いつくばりながら綿棒をひろうラストは秀逸と思うが、これは喜劇なのか悲劇なのか、あるいは「あたし」の希望なのか愚かさなのか。まあ、「あたし」はそうやって生きていけばいいのでしょう。

2021年2月23日火曜日

全豪テニス、スピーカー端子、小説

 大坂なおみさんが全豪オープン優勝。NHKの放送で全試合をテレビ観戦。4回戦はハラハラする試合だったが、あとは完勝・快勝。楽しませてもらった。

 アンプおよびスピーカー・セレクターの音質が妙に気になってしまい、セレクターのスピーカー出力端子のバナナ・プラグを止め、ケーブルをダイレクトに結線した。音が奇麗に変化して濁りがなくなった。単にバナナ・プラグの接触が悪かったのかも知れないが、余計なものを介在させない効果が出たのかもといい方に解釈しておこう。
 で、今は午前1時に近い深夜、酒精をなめながら静かにGrieg叙情小曲集を流している(演奏はLeif Ove Andsnes)。

  <ジョン・バンヴィル 『海に帰る日』(新潮クレスト・ブックス、2007年)>:行きたいと思っていても行くことがもはや叶わない国、アイルランド、その地の作家。2005年度ブッカー賞受賞作(『わたしを離さないで』を抑えて受賞)。原題は『The Sea』。
 妻を亡くし、かつてひと夏を過ごした海辺の町にやってきて、過去の時間を振り返り、自らに問いかけ、人生を思う。
 静謐な物語であり、正直退屈するが、頁を閉じることに抗う気持ちもあり、読み続けた。細やかで幻想的でもある。長い年月の中で大した重みもない事件が繰り返され、振り返れば人生なんてこんなものさ、と言ってしまうようなものが人生なのかもしれない。
 この物語の中で「海」は何を象徴し、どのような意味を持たせているのか、そんなことを考えた。「海」は女性になぞらえることがあること、それが一つの答えであるような気がする。

2021年2月21日日曜日

横須賀ブラジャー、近代史、小説、漫画

 『横丁の戦後史』で初めて知った「横須賀ブラジャー」、試したくなりブランデーとジンジャーエールを買ってくる。いままでの飲酒人生の中でブランデーを口にしたのは20代の半ばが最後であり、以来飲むことはなかった。そもそも嫌いな酒であるために自ら購入したのは今回が初めてのこと。
 これだという作り方も分からないから、両方を適当にグラスに注ぎ、味ももちろん未知であるのでカップのサイズは控えめに中くらいにした-Bカップというところだろうか(?)。ジンジャーエールのせいで甘みがあり、不味くはない。ついつい飲み過ぎるようになるかもしれない。フランスの安いXOブランデーだったので、グレードを上げ、生姜スライスなども加え、分量の比率や炭酸の量も加減すれば楽しめそうである。カップのサイズもヴァリエーションを増やせば、酔眼で妄想に浸れるかも知れない。
 ブランデーとジンジャーエールでブラジャーか、じゃ、パンと紅茶ではパンティーか、などと戯けたことを口にしたら、連れ合いが侮蔑の一瞥を投げてきた。

 <片山杜秀・島薗進 『近代天皇論-「神聖」か、「象徴」か』(集英社新書、2017年)>:深い内容の対談集。自分にとっては異なる視点で復習し、確認したと言った風である。

 <円城塔 『文字渦』(新潮社、2018年)>:12編の短編集。文字、漢字を自由自在に躍らせ、生き物として文字は時空を飛び越える。想像力豊か、壮大な空想、留まることのない妄想か。読めない漢字は沢山出てくるが、それらをいちいち調べていてはキリがないから、ところどころは飛ばし読み。梵語・漢字・ひらがな、英語もヘブライ語も出てくるし、操る知識の広さは巻末の引用・参考文献に表れている。まともについて行くことは難しいが、ページを捲るのが楽しく面白い。「文字閥」という表現、英文に返り点・一ニ点を付ける発想には感動さえ覚える。
 最も小説らしい(?)のは書名でもある「文字渦」、それに引き込まれて頁を進めると異次元の空間に飛び込まされる。購入して暫く放っておいていたが、早く読めば良かった。

 <卯月妙子 『人間仮免中』(イースト・プレス、2012年)>:書店で久しぶりに漫画のコーナーも眺めながらぶらついていたら、この本が目に入った。著者は統合失調症であり、帯に、「生きているだけで最高だ!」、「卯月妙子は、あっちの世界の「現実」を、こっちの世界の言葉で語れる稀有な人だ」、「卯月妙子と彼女のヒーローの、愛と冒険の物語だ」などとあり買った。最近の本かと思ったが2012年の発刊だった。
 小学校5年の時に異常体験がはじまり、中学3年で自殺未遂をし、夫(後に自殺)の会社が倒産し、降りかかる借金を返済するためにホステス、SMストリッパー、スカトロ系AV女優、舞台女優などを転々とし、自殺未遂も繰り返し、精神病院への入退院は7回と重なり、25歳年長の男性と恋仲になる。般若心経を背景に、前夫の戒名を彫った刺青を背にし、恋仲の男性の名と梵語を陰部に彫り、薬の服用を怠って歩道橋から顔を下にして投身自殺を図る。命は取り留めるが右目の視力を失い、顔も激しく変形してしまう。---現れる症状とその闘いの日々を、ユーモラスに描ききる。半端ではない薬の量、外出するときに出てくる病状との凄まじい闘い、「あっちの世界」に圧倒される。
 「こっちの世界」においては相変わらず呆れることが多く、政治的なニュースは茶番を-わが国に限ることなく-毎日見せつけられる。繰り返してニュースを見ることはない。

2021年2月12日金曜日

久しぶりのバス・電車、ほろ酔いばなし

 昨年の2月18以来、約1年の間を空けて久し振りにバスに乗り、電車に乗った。不可避の用事で出かけたのであるが、乗った電車は新しくなっていて座席の感覚は変わっていたし、何にしても皆マスクをし、何もしゃべらずに静かであった。

 <横田弘幸 『ほろ酔いばなし 酒の日本文化史』(敬文舎、2019年)>:日本酒に関する色々な歴史的(雑学)文化。少しでも記憶して酒席で披露すれば「へぇ~っ、そうなんだ」と愛想笑いを伴った返答を受けるかも。

2021年2月8日月曜日

早稲田ラグビー新体制、『横丁の歴史』

 早稲田ラグビーの新体制が決定、大田尾監督・長田主将・小林副主将となった。主将・副将は予想していた通りだが、監督交替の是非・可否・有無については全く考えていなかった。ヤマハでの経験を積んでいる大田尾の監督就任はなるほどと得心する。大田尾というと真っ先に思い浮かべるのが関東対抗戦の対帝京戦の秩父宮で、10点を先行されたあと逆転して完勝した試合。大田尾がボールを持って独走したが足が速くないので左右に目を配りフォロワーを探していたシーン。観客から、走れっ、の声がかかっていたのが鮮明に思い出す。あれから17年余が経った。清宮さん・堀川さんのもとで内容の濃い経験を積んでいたと思う。来季に期待。

 <フリート横田 『横丁の戦後史 東京五輪で消えゆく路地裏の記憶』(中央公論新社、2020年)>:立石・渋谷・浅草・東上野・横須賀・池袋などの飲食に関わる「横丁」に関わる人たちを訪ね、「横丁」の成り立ちと、そこで生き続ける人々の人生を描く。日本人・在日コリア・中国人・ミャンマ-人たち、それぞれの人たちが、敗戦後からいろいろな事情を抱えて横丁を形成するまでの、個々の経緯をルポに基づいてまとめている労作。著者がそこに通い、飲むことは語られ、問題提起もなされるが、飲みに来る人たちの視点が欠けていることは物足りない。
 自分のことを書けば、横丁で飲むことはさほどなく、最も通ったのは新宿の所謂ションベン横丁で、本書には出てこない。そこは方々で語られているので改めて探索するほどでもないかもしれない。横丁的雰囲気のあるところで飲みたくなるが、今それを為そうと思えば恐らく近くにホテルを予約して一人で飲み、その日のうちに電車で帰るようなことはしないだろう。あぁ、紫煙と、焼き鳥を焼く煙と、客に阿ることもない主人or おかみさん、忙しく動き回る女性スタッフのいる小さな店で飲みたい、呑みたい。
 読んでいて、都築響一さんの大著、『天国は水割りの味がする 東京スナック魅酒乱』(廣済堂出版、2010年)が脳裏に浮かび、同書に登場する、新宿2丁目/タミーを思い出す。もう10年も経ってしまったか。経営していたかの人はご健在か。同席して一緒に楽しんだ目黒学院高校ラグビー部父兄(お母さん)の方、あの頃は低迷して花園への出場もできなかったが、その後は3度ほど出るようになり以前にも増して盛り上がっているかと思う。・・・・今、オレは、人恋しくなっているのだろうか。

2021年2月5日金曜日

政界を巡る雑記、ミステリー2冊

 銀座トリオ、嘘をついても逃れる術は、1年以上も嘘を隠し続け100回以上も国会でその嘘をついた前首相からキチンと学んでいなかった様である。太鼓持ちを引き連れて夜の銀座をうろついたことよりも、嘘をついたことよりも、ちゃんと学習していなかった履修不足を咎められて離党を命じられたのかもしれない。隠蔽・虚偽の党文化継続を怠ったこと、および前首相の薫陶を受けていなかったことを。
 キリスト教は罪を説き、仏教は世渡りを説くと誰かが言った戯れ言かもしれないが、ふと思った。政治資金からキャバクラへ支出していた議員、党を支持する仏教系宗教団体からは罪悪を教えてもらっておらず、学んだのは周囲を上手く立ち回って議員になることだったヵ。でも議員辞職をせざるを得ない状況となったのは生きる道を説く力が働いたのかもしれない。得たものは、もっと要領よく生きれとの教訓ヵ。
 「神の国」発言など多くの失言(失言とすることには違和感があるが)を重ねた老人、またもやアホなことを口に出す。所詮あの人の政界での生き様はシンキロー。
 3日の朝日新聞「多事奏論」、高橋純子編集委員の文章はいつもながら痛烈な皮肉と適確な指摘が小気味いい。いくら指摘しても、(いま長男に文春砲が向けられている)首相は何も説明できないであろう。だって、投げられたボールは(ラケットを握っていないから)打ち返せないし、只管dogdeするしかないのだから。

 <東野圭吾 『ブラック・ショーマンと名もなき町の殺人』(光文社、2020年)>:書き慣れた作家の書き慣れたミステリーといった感じである。先日も作者のミステリーを読んだが、続けて読むと倦きてくる。上手にパズルを作り上げてガチャガチャと混ぜ、個性的な人物を配置して物語を展開し、パズルを解いていく。よく練り上げられたパズルではあるけれど物足りない。ジグソーパズルを楽しんで完成させたけれど出来上った絵は深みがなくて部屋に飾りたい気持ちにはあまりならない、といった風のものだった。

 <辻真先 『深夜の博覧会 昭和12年の探偵小説』(創元推理文庫、2021年/初刊2018年)>:2週間ほど前に読んだ『たかが殺人じゃないか』の前日譚、人物も二人若くして登場する。前置きの長さも同じであるし、全体的に情景や時代を説明する描き方が『たかが・・』と相似的であり、一言で言えばつまらなかった。ミステリー小説は好きだがトリックを駆使した探偵小説はあまり好きではなく、同一作家のそれを続けて読むとすぐに倦きてしまう、ということに過ぎない。
 本作が話題になったとの記憶はなく、同一路線を歩む『たかが・・・』が何故にミステリー3冠になったのか少し不思議。

2021年1月28日木曜日

雪が降らない、小説2冊

 先日、夜中に雪が降るかもしれないとの予報に期待したが、朝目覚めてすぐに窓外を見るもまったく白い風景は見えず、雪国生まれの淡い郷愁を味わうことはなかった。
 今日、東京では雪とのニュースが流れたが、ここ春日部には降ってくれず、雪のない冬に愚痴を言いたくなる。しかし、川口市で生まれた連れ合いは、かつての富山の雪の中での生活を恨んでいて、雪の情景を楽しむという気持ちはまったくないようである。

 <乙川優三郎 『地先』(徳間書店、2019年)>:8篇の短編集。最初の「海の縁」は著者を投影したかのような作家が主人公で、御宿に投宿あるいは死を迎えた過去の実在の作家・美術家たちが登場する。他の7篇は、信州の高原に移り住んだ女性、フィリピンから安房小湊に出稼ぎするダンサー、美大時代に付き合っていた男の零落を見る女性、家族のためにバーに転職した女性、朗読の仕事をする女性と劇作家の付き合い、不倫の男と海外リゾートに息抜きの旅をしてその地で男が事故死して女は房総に戻り新しい一歩を踏み出す。書名の「地先」では絵を描く男がスポンサーの女性から別れ御宿で新しい情景を見つける。
 乙川さんの本を読むといつも静かな落ち着いた気持ちになる。

 <桐野夏生 『日没』(岩波書店、2020年)>:帯に書かれた本書の紹介-「ポリコレ、ネット中傷、出版不況、国家の圧力。海崖に聳える収容所を舞台に「表現の不自由」の近未来を描く、戦慄の警世小説。ありとあらゆる人の苦しみを描くのが小説なんだから、綺麗事だけじゃないよ」。
 帯に書かれた本書の概要-「あなたの書いたものは、良い小説ですか、悪い小説ですか。小説家・マッツ夢井のもとに届いた一通の手紙。それは「文化文芸倫理向上委員会」と名乗る政府組織からの召喚状だった。出頭先に向かった彼女は、断崖に建つ海辺の療養所へと収容される。「社会に適応した小説」を書けと命ずる所長。終わりの見えない軟禁の悪夢。「更生」との孤独な戦いの行く末は-」。
 主人公のこの世のへの思いを最初の頁から引用する。「私は基本的に世の中の動きには興味がない。というのも、絶望しているからだ。いつの間にか、市民ではなく国民と呼ばれるようになり、すべてがお国優先で、人はどんどん自由を明け渡している。ニュースはネットで見ていたが、時の政権に阿る書きっぷりにうんざりして、読むのをやめてしまった。もちろん、テレビは捨てたし、新聞も取っていない」。
 我が身のことを書けば、新聞は一紙とっていて、デジタル版のニュースは二紙を購入している。以前は書店では販売していないニュース誌を購読していたが、それはやめてしまった。つまり、「私は基本的に世の中の動きには興味はあるが、最近は絶望を覚えている。ニュースは一通り見るも苛立ちと絶望の増幅を回避するために繰り返しては見ないようにしている」。

2021年1月22日金曜日

ミステリー2冊

 <神護かずみ 『ノワールをまとう女』(講談社、2019年)>:昨年の江戸川乱歩賞受賞作。ヘイト・デモによる企業の炎上を裏工作によって沈静化する女性の活劇。元総会屋で企業の顧問としてトラブルを鎮火させる原田、施設育ちの西澤奈美、奈津と同じ施設で育ち彼女を目標とする雪江。奈美の話し相手はAIナツエ、奈美のアシスタントとして動く黄、ヘイト・デモのリーダーはエルチェ。彼らが頁の上を踊る。
 奈津と雪江のベッドシーンはまだしも、繰り返される酒と煙草の描写には辟易する。いろいろな仕掛は面白いのであるが、最後の原田と奈美が対峙するシーはつまらない。評者の新井素子は様式美として楽しいというが、テレビのいろいろなミステリー・ドラマのラストで繰り返される謎とき・動機説明シーンの様であり面白くない。物語の軸を奈美においているが、章ごとに人物を入れ替えて視点を変えるともしかしたら重厚な様相をもたらしたのではないかと思った。
 女性を軸として活躍させること、奈美と雪江のベッドシーンが何箇所かあること、などから著者は女性なのかとも思っていたが、読後にwebで確認したら「女性を主人公にした作品が好き。女戦士フェチと言いましょうか…。強い女性、強くあろうとする女性を書きたかった」とする受賞時58歳の男性であった。

 <辻真先 『たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説』(東京創元社、2020年)>:本書は、「ミステリーが読みたい! 2021年版」、「週刊文春ミステリーベスト10 2020」、「このミステリーがすごい! 2021年版」のそれぞれで1位を得て3冠を達成した。著者は1932年生まれ御年88歳。とんでもない数のアニメの脚本、ミステリーを世に送り出し各種の賞の受賞も多い。が、読者となるのは本作が初めて。
 2回に分けて読んで、出だしは前置きが長くいつになったら本筋のミステリーに入るのかと少しジリジリしたが、読み終えてみればその思いも消え失せてしまい、情景・時代描写の滑らかさ、構成の巧みさ、人物たちの活写には「素晴らしい」としか言えなくなった。「たかが殺人じゃないか」に含まれる時代性、物語最後の5行が始まりのそれであるのには感動すら覚える。
 殺人のトリック自体にはさほど興味はなく、小説構成に上手さを感じた。また、味わったことのない高校共学に羨望を抱いたかもしれない。自分が昭和24年生まれであるからこそ余計に楽しめたのであろう。同時代性ということでは、刊行予定にある、昭和36年を舞台にした作品も期待する。昭和12年を舞台にした前作も読んでみようか。

2021年1月20日水曜日

短歌、俳句

 恒例の東洋大学「現代学生百人一首」、第34回入選作より以下を選択。コロナ禍に関するものが多かった。響いてくるものが少ない。昨年にも増して感性が鈍くなったか。

      プラトンもアリストテレスも教えてはくれない進路も君の気持ちも 
 明治時代ならばまず出て来るのはカントであろうか。
 哲学者に頼っても何も教えてはくれない。でも将来の君の夫が哲学者になることを望むなら、君は悪妻への道を突き進めばよい。

      化学基礎教えてくれる君の手に働いてほしい分子間力
 いっそのこと触れてしまえば? もしかしたら汗が沸騰するかも。 

      お疲れと手を振ったけど気付かれず静かにしまう私の右腕
 振った手をしまうことを知っている君は大丈夫、いつか人を愛し人に愛される。少なくとも感情にまかせて拳を振り上げ、下げることを知らない不遜な輩(例えば政治家)よりは素晴らしい。

      軒下は腹を空かせた燕の子早く逃げろよ番いの蜻蛉
 今回はこの句が一番好きである。心揺らぐ現実を見ても蜻蛉たる君たちは恋を成就して逃げれば良い。この世は常に選択を強いられる厳しい現実があるのよ。でも、まあ、「命のスペアはありませんヨ 青くなってしりごみなさい にげなさい かくれなさい」と加川良はそう歌っていた。

      政府から「不要な外出控えてね」時代が僕に追いついたようだ
 この諧謔性はとてもいい。政府を嗤い、自分を見つめよう。

 ―――――――――――――――――――――――――――

 久しぶりに見た「プレバト」。森口瑤子さんの俳句を読んで森口さんが好きになった。

      仏壇の 向日葵も くたばつてゐる (夏井先生の添削後)
 思いを寄せていた人も、明るい日々を飾っていた向日葵も呆気なく死んでしまったじゃないか。命って何だ、口惜しいじゃないか、命って奴めくたばってしまえ。

      ブティックの 鏡うそつき 落葉蹴る
 女心は今もって良く分からないが、この句は女性の奇麗になりたいという気持ちと悔しさがカワイク表現されていると感じる。
 電車やバスに乗った女性の多くは同性にチラリと眼を向ける、そして思う、「私は一番ではないけれど、あの人よりは上だわ」と。鏡に映る我が身を見て、俳句の中の女性は「彼女よりは上だわ」と感じなかったのかもしれない。思わず落ち葉を蹴ってしまった-落ち葉にすべらなければ良いが。
 ・・・妄想も甚だしいか。

      謎解きの 頁に蜘蛛は 果ててゐる
 謎ときはミステリー、読み終えて暫く経った頁を開くと、謎の真犯人である蜘蛛が追及に逃げ切れず朽ち果てていた-そんな物語が瞬時脳裏に走った。とても好きな句。

2021年1月18日月曜日

暫くは小説

 暫くは小説を続けて読む。

 <東野圭吾 『仮面山荘殺人事件』(講談社文庫、1995年/初刊1990年)>:初刊は1990年トクマ・ノベルズで、文庫版は1995年、そして今回手にしたのは文庫版2020年95刷で、カバーは2枚重なっており、息の長い作品である。山荘に集まった8人を中心にした叙述トリックに感心してしまった。車で事故死した女性の真の死の原因を探るべく大きなトリックが仕掛けられ、婚約者であった主人公が騙される。美事な仕掛けに読者は振り回される。

 <柳美里 『JR上野駅公園口』(河出文庫、2017年/初刊2014年)>:昨年全米図書賞翻訳部門を受賞したことより手に取ってみた(書名はTokyo Ueno Station)。最初に思ったのはこの本を翻訳した人(ロンドン在住のMorgan Giles)の力量で、相馬地方の方言、浄土真宗での葬儀の言葉、擬音語などを翻訳する能力に感服し、次にこの小説を著した著者の才能に対し単純にスゴイと思った。小説を書ければいいだろうな、書いてみようかなどという戯言は安易に口にすべきではない。
 主人公(カズさん)は上皇と同じ昭和8年に旧相馬郡八沢村(現南相馬市北東部)に生まれ、生きるため、7人もの弟妹を食わすために方々で働き続ける。昭和天皇の母-貞明皇后(節子=さだこ)-と同じ漢字の名前を持つ女性と結婚をする。節子は21歳で再婚だった。
 主人公が東京に出て来たのは30歳、土方仕事をやり、東京オリンピックの設備建築などで土方をやり、妻や子どもたちと時間を共にするのは、60歳で故郷に帰るまでの間に累積1年もなかったであろう。22歳から出稼ぎを始め、北海道や東京で48年の長きにわたって働いた。
 今上天皇と生年月日が同じで名前も幼名浩宮にちなみ浩一と名づけた息子は、レントゲン技師の資格を取得してすぐの21歳で孤独に死に、妻は主人公と一緒に暮らした7年が経って65歳で亡くなる。一人になった主人公を心配して21歳の孫娘が同居するが、彼女を縛っておくことは出来ないと、主人公は家を棄て東京に出てきて上野でホームレスになる。公園口に広がるのは上野恩賜公園、天皇や皇族が訪れることが多くそのたびに「山狩り」と呼ばれる特別清掃が行われ、その実体はホームレス排除。すなわち、天皇の祈りの対象外にホームレスはある。御料車の中で「罪にも恥にも無縁な唇で微笑」むその人は、「挑んだり貧ったり彷徨ったりすることを一度も経験したことのない人生」で、主人公と同じ年を重ねている。「山狩り」にあってもなおその御料車に手を振る主人公の姿は肉体化された天皇制と言える。去った南相馬の地は2011年3月11日に津波で大きな被害を受け、孫娘は飲み込まれて死に、主人公は帰る気持ちを棄てたその故郷も失った。

2021年1月17日日曜日

ラグビー・シーズン終了、『近代日本の陽明学』から

 高校・大学ラグビーの今季シーズンが終了した。これで昨年10月02日からの“J SPORTSオンデマンド”の契約を解約した。次の契約は(コロナ禍が沈静化していればの前提に立つが)来季秋になる。
 天理大の初優勝が素晴らしいものだから決勝戦終了後のシーンをBDに落とし込んだ。早稲田が敗戦したのにBDを作成したのはこれで3度目。最初は2006.02.19の東芝府中戦(佐々木主将0-43のスコアだが早稲田のThe Best Matchと思っている)、2度目は2009.02.15のサントリー戦(豊田主将20-59で監督は中竹さんと清宮さん)。
 次季の主将は長田、副将 or FWリーダーは小林と予想する。1ヶ月もせずに発表されるであろう。

 <小島毅 『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ、2006年)>:「陽明学」の呼称は明治になって日本で作られ定着した(『日本思想史辞典』)。明治期の陽明学派の論の核は「日本の誇る道徳修養の教えでもあり」、「彼らの陽明学は、王陽明の陽明学ではな」かった。
 “朱子学の教義に疑問を感じる→煩悶する→自分独自の考えを練っていく→陽明学について知る→「これだ!」と思う”。そして“他称「陽明学者」は、自称「聖学の徒」となる”。“陽明学には党派意識があまりない。学閥を作らない。自分の門人たち以外とは群れない。すなわち、逆に言って、はたから見ると内部分裂が激しい”---この中の幾つかの言葉を違う言葉に置き換えればある思想や感情に当て嵌まる。ぴったりと。
 本書に登場する主要人物を羅列する-大塩中斎・藤田幽谷・藤田東湖・(自己陶酔する)吉田松陰・三島中州・三宅雪嶺・内村鑑三・西郷隆盛・井上哲次郎・高畠素之・大川周明・安岡正篤・山川菊栄・三島由紀夫。
 山川菊栄と三島はともに水戸学ゆかりの血を引くことに著者は「深い衝撃を覚えた」と書くが、この「深い衝撃」がよく理解できない。すなわち、その水戸学が二人の思想にどう繋がっているのか、本書からはうかがえない。
 面白いと思った分析を続けて幾つかを羅列する。
 Enlightenmentの本来の意味は「神が与えてくれた各自の理性(reason, Vernunft)を自らの努力で光り輝かせる意味」であるが、『易』の文言を利用して「啓蒙」と訳された。しかし、儒教での「啓蒙」は蒙を啓く、i.e.,「愚か者を教え導くこと」で以降「啓蒙」となっている。
 「日清戦争」と「支那事変」の歴史用語における「清」と「支那」の国名の使い分け、及びそこにおける靖国神社の「支那」呼称との符合性、また宣戦布告せずに「事変」と呼称する不遜さ。
 「白い陽明学」-「自分の頭で考えた末の国体護持主義」、「赤い陽明学」-「幕末以来の伝統をある意味正しくうけついで、革命の理想に燃える人士も陽明学に惹かれていた」。日本に基層の如く沈殿する思想性とでも言えばいいのだろうか。
 藤田東湖を敬愛しその後継者たらんとした西郷隆盛。西郷を敬愛する山形庄内地方の人びと。その地に生まれた大川周明は西郷を終生尊敬していた。しかし、庄内地方でなぜに西郷を敬愛するのか、それは庄内地方での官軍の余りの暴虐を西郷が計算づくで止めさせただけではないかという解釈もできるし、自分はそう考えている。庄内ではそれを慈悲深き西郷と感じただけで、官軍のもともとの暴虐の指揮は誰だったのかを横に措いている。大川はそれをどう思っていたのだろうか。
 三島と石原慎太郎をさして、「日本刀を愛するか、ヨットを愛するかの趣味の違い」。これが最も面白い。

2021年1月12日火曜日

決勝戦後のシーンを振り返って

 昨日の深夜、録画していたドラマを見終わってから再生モードを番組モードに変更したとき早稲田vs天理の試合が再放送されており、テレビには試合後の天理大の歓喜と個々の選手の喜び、一方早稲田の選手の涙する表情が映し出されていた。26年間監督を務めた小松監督が手にした優勝の喜び、朴訥な感じのする松岡主将の感謝の意を込めた言葉、早稲田の吉村や河瀬や多くの選手たちの涙。それらを眼にしてスポーツっていいな、と深く感動した。

 目標、それは勝利であり、強くなりたいという希いでもあり、そして戦って勝利や敗北の結果を受ける。 これまでの人生の中で受験や仕事など個人としての努力はたくさんしてきたと自賛に近い思いを抱くが、振り返ってみるとチームとして歓喜し雀躍するほどの達成感を味わったことはない。
 高校・大学受験に失敗し成功するもそれはあくまで個人的な範疇を超えるものではない。仕事で新製品を開発し、初号機が完成しても一担当者としての反省や組織運営への不満が幾ばくかくすぶって残滓として心の中に沈殿することが多かった。その反省や不満を次の製品開発に向けて修正し取り組むのであるが、それは大きな会社組織という中でいかんともしがたい壁に直面し、個人的力量の限界も知り、徒手空拳という状況に陥ることもあった。
 天理と早稲田の試合後のシーンを見ていると、選手たちやコーチ・監督たちの一つの目標・目的に向かってのたくさんの思いが凝縮されていることがうかがえ、改めてスポーツ(ラグビー)の素晴らしさを感じた。

 昨夜のブログのタイトルに「早稲田惨敗」と記したが、これは失礼な気がした。決して「惨めな」敗けではないと思い、タイトルを「早稲田完敗」に修正する。「完うした」敗けと言い直す。

2021年1月11日月曜日

早稲田完敗

 天理大学の準決勝明治戦での圧勝を踏まえ、決勝では早稲田はかなりの苦戦を強いられ、昨年の準決勝での天理大自滅でもなければ勝利は難しいか、それでも可能性は薄くとも早稲田は勝つかもしれないとの淡い期待以上に全体的には(総合的俯瞰的には)ネガティブに考えていた。結果は早稲田の惨敗。決勝戦においては過去最高の得点を天理は奪い取った。CTBフィフィタの圧倒的強さ、それに加えFWの余裕ある出足の早さと接点への隙のないフォローなど、豊富な運動量と強さだけが見せつけられた。劣勢に回っているからこそ早稲田はL/Oでのフッカーのスローイング・ミスが続くし、帝京戦で見せたモールも全く通用しなかった。
 それにしても3連覇同志社以来36年ぶりの関西勢の優勝とは想いもしていなかった。天理大学の留学生勢の活躍、それに来季からは彼らの出場枠が3人となることを思うとこれからは留学生たちの募集は尚更に加熱するであろう、否、もう加熱しているか。
 来季の大学選手権出場枠は関西リーグから1枠増え、関東対抗戦グループからは1枠減るであろう。
 早稲田の決勝戦での先発15人の中で4年生は5人、リザーブを含めた23人中では6人。来季に大いに期待。主将は誰になるのか想像し始めている。

2021年1月9日土曜日

○○の音楽、高校ラグビー、漫画

 エリック・サティは室内楽曲を作曲するにあたって「家具の音楽」を意図していた。即ち、室内にあってそこでの日常生活の邪魔にならず、意識しなくともすむ音楽である。室内で、例えば本を読んでいるときに聴く音楽は好きな曲ではなく、また嫌いな曲でもなく、読書に没頭すれば流れている音楽を意識しないですむ音楽であり、選曲を間違わなければ「家具の音楽」は空気のように部屋に充満する。
 ウォーキング中にはいつもワイヤレス・イヤホンから音楽を流している。クラシックはさすがに流さず、欧米のポップス、映画音楽やイージー・リスニングなどで日本のポップスや激しいロックは流さない。いまはアイルランドのケルト・ミュージックを流していてこれがとてもよい。眼に入る風景ともフィットする。歩いていてふと思った。こういうとき、「家具の音楽」にたとえれば、ウォーキングのときの音楽は何の音楽と呼べばいいのだろう。語彙不足、感性不足、想像力不足のせいなのだろう言葉が浮かんでこない。

 高校ラグビーは予想通り桐蔭学園の優勝で幕を閉じた。決勝戦で特に記憶に残った選手は桐蔭ではNo.8で主将の佐藤、LO青木、FB矢崎(まだ1年生で将来早稲田に進学することを期待)、京都成章では何と言ってもLO本橋であの体躯は魅力的、どこの大学に進むのだろうか。 
 例年行われている高校日本代表の海外遠征が中止になり、代わりに優秀選手30名が発表された。早稲田に進学する桐蔭/佐藤、國學院栃木/細矢、桐蔭/宮尾が選ばれており、30人の中でSHはこの細矢と宮尾の二人で、来季から早稲田ではSHの競争はますます激しくなる(今でも1~3年生で9人もSHがいる)。

 <小梅けいと 『戦争は女の顔をしていない 1』(KADOKAWA、2020年)>・<小梅けいと 『戦争は女の顔をしていない2』(KADOKAWA、2020年)>:原作はスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ。第二次世界大戦中の旧ソ連軍の退役女性兵士の実録インタビュー、オーラルヒストリー。本書は旧ソ連において戦争に参加した(せざるを得なかった)女性たちのそれぞれの戦争への加わり方を振り返っている。単にそれだけであって戦争への根源的問いかけのような姿勢は見られない。極論すれば戦争に参加した女性たちの個々の思い出と哀しみの凝縮。(漫画ではない)原著を読めば違った感を抱くかもしれない。
 女性たちが少女っぽく、幼い風貌で描かれることに違和感。それに「女の顔をする戦争」とは何だろう、逆に「男の顔をする戦争」とは何だろう。本書のタイトルから想像すれば、「女」を枠外におく思考が基底にあるような気がする。そこに本書の底の浅さを思ってしまう。

2021年1月2日土曜日

箱根駅伝とラグビー大学選手権

 2日、朝から箱根駅伝。早稲田の目標は総合3位以内ということだが、往路の結果を見れば昨年と同じくシード権獲得とした方がスッキリした。
 出だしは5位、2区で13位に落ち、3区で6位に上がり、4区の途中でテレビのチャンネルをラグビーに切り替え、連れ合いは自室に入って駅伝の視聴を続け、こっちはラグビーを見ながらスマホに駅伝を映してチラチラと見ていた。で、4区ではなんと3位になっているではないかと喜んだが、ラグビーを観ている途中でスマホに眼を向けると早稲田の姿が確認できなくなっていた。終わってみるとなんと11位になっているではないか。1年生走者は区間19位で1位の選手には5分以上の差が開いていて、ゴールに入っては涙を流していたような感じだった。
 明日はトップの創価大学から7分4秒遅れでスタート。是非ともシード権だけは取って欲しい。

 さて、2日メインのラグビーは準決勝で帝京との試合。結果は33(5T4G)-27(3T3G2PG)。13点差の時点で残り時間が少なく負けるとは思わなかった。バックスが走っての3トライと、2本のモールトライは素晴らしかった。スクラムはやはりかなり劣勢で決勝戦が心配。

 明治vs天理戦は41(6T4G1PG)-15(3T)で天理が圧勝。試合が始まる前に連れ合いからどっちが勝つと思っているのかと問われ、大した根拠もなく、天理が勝つ明治はそこそこに点差を広げられる、と言った。その通りになった。接点への絡みが天理は早く、ボールキャリアへのフォロワーもしっかりとしていた。後半の半ば過ぎから時折明治の箸本主将の顔がアップされ、空ろな精気のない表情で寂しげな感じであった。
 試合終了後のインタビューでフィフィタが「決勝は今日よりも強い相手だから・・・」のようなことを言っていたのには笑ってしまった。それは明治に失礼でしょうって。
 天理は早稲田に対して昨年の準決勝完敗の雪辱と優勝を目指して激しく当たってくるだろう。

2021年1月1日金曜日

元旦の雑記

 高校ラグビー3回戦、東福岡vs石見智翠館、流経大柏vs常翔学園、接戦の両試合が楽しめた。両方とも終了間際での逆転であり、勝った方の喜びと惜敗した方の悔しさが伝わってきて、激しさの中の瞬時の動き、個々の選手の動きに魅了された。
 シード8校のうち2校は2回戦で敗戦。早稲田への推薦が決まっている選手4人が在籍する高校では桐蔭と京都成章の2校がベスト・エイトに進んでいる。何となくではあるが、桐蔭が優勝するような気がする、というか期待したい。

 ラグビー大学選手権と箱根駅伝、明日は朝からテレビに釘付けになる。

 テレビと言えば年末と正月のテレビ番組はつまらない。特にバラエティーと称した番組は見る気が全くしない。所謂芸人と称する人たちは何を芸としているのか理解(認知)できないし、タレントと称される人たちのタレント(才能)は何なのだろうと思う。

 このブログで訳の分からないことが起きている。12月26日と30日、31日での閲覧数が過去にない異常値を示している。それぞれ2130回、140回、1208回で、過去にはいくら多くとも80回程度であり、それも年に数回あるかないかという程度だった。1日で10回もあれば多いという感じなのに一体何が起きているのだろう。直近30日で見れば、ドイツでの閲覧が70%で、次がウクライナの23%という比率で理解不可能、想像・推理も出来ない。最初はBloggerの統計情報ミスとも思ったが、それも得心できないし摩訶不思議。