自己分析や情景描写に秀でているのに生きることに欠けるものがあって只管にアイドルを「推す」、それが理解できない。すなわち生き様と内省のアンバランスを強く感じた。それは、自分は単に「推す」人たちの生態が理解できずにいるだけであるのだが、かといって別段理解しようとも思わない。「あたし」と一人称で描写するのではなく、突き放した位置に立って三人称で「あたし」を描写すればこの小説にもう少しは共感できたのかも、と思う。そもそも「寄る辺なき実存への依存先」(平野啓一郎選評)がどのようなものであろうと首肯することはない。
「推し」という言葉もそうだが、若者たちが頻用する短縮カタカナ語が繰り返され、また、ときおり感じる読点の使い方への疑問、これらに当たるたびに文章を読むリズミカルな連続性が打ち切られ違和感を覚えた。
這いつくばりながら綿棒をひろうラストは秀逸と思うが、これは喜劇なのか悲劇なのか、あるいは「あたし」の希望なのか愚かさなのか。まあ、「あたし」はそうやって生きていけばいいのでしょう。
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