2017年10月29日日曜日

対抗戦大学ラグビー

 28日は秩父宮にはでかけず、テレビ観戦もなし。慶明戦は、明治が勝つと思っていたので慶応の勝利に意外。これから早送りで録画をみることとする。早稲田vs 帝京は、夏の早稲田のあまりの不甲斐なさが頭にあり、録画もせず、リアルタイムの速報も確認していない。終了後のスコアだけみたら40-21、正直なところ今はこのスコアでも善戦と思う。何せ夏は、メンバーが今とは違うにしても0-82と大惨敗だったので、それから見れば鍛え直したといっていいだろう。ハイライトで早稲田のトライシーンを見て、少しは溜飲を下げた。
 今後の早慶明の予想だが、微かに早稲田が下にいると思っている。慶明の試合はまだ一切見ていないので早稲田だけからの印象であるが、L/Oの精度が悪いしハンドリングエラーも、ペナルティも気になるためである。大学ラグビーはやっと佳境に入ってきたというところだろう。慶明の対帝京戦の内容・結果で早稲田の慶明に対するポジションがより明確になる。
 次の成蹊戦も競技場には行かない。相模原ギオンは遠いし、駅からも離れている。往復の移動に時間を潰す気にはならない。早慶戦・早明戦はすでにチケットを準備している(入場観戦料金が高くなっている)。
 今日は高校ラグビーの秋田県決勝を見よう。

2017年10月24日火曜日

新書に漫画

 高校ラグビー、花園への出場校が北の方から決まってきた。中標津、函館ラサール(来年も早稲田に来るであろう)、黒沢尻工の試合をオンデマンドで観戦。10/29には秋田工業と秋田中央が放映される。28日は秩父宮に行かない。

 <中村彰彦 『白虎隊』(文春新書、2001年)>:戦いの経緯にはあまり興味がなく、会津藩における教育や明治に入ってからの描かれ方に関心がある。「第7章 自刃十九士の発見とその後」に述べられる白虎隊関連を時系列でメモしておく。日付は明治5年までは旧暦。
 慶応4年3月11日/江戸開城 → 慶応4年8月21日/母成峠の戦い、同日夕/十六橋の戦い、夜/戸ノ口原の戦い → 8月23日朝に若松城下に新政府軍が突入、白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃 → 慶応4年9月8日/明治の改元の詔書 → 明治元年9月22日/会津藩は新政府軍に降伏 → 明治2年2月まで会津藩戦死者の埋葬が許されなかった → 明治2年3月4日付けで郡役所へ改葬とと供養を願い出る → 明治2年4月28日付、新聞『天理可楽怖』に自刃十九士の節義と殉難の物語が初めて報じられる → 明治10年/西南戦争、少なくとも二人の白虎隊生き残りが出征、旧会津藩士にとって西南戦争は戊辰戦争の雪辱戦 → 西南戦争終結後、飯盛山への参詣者が次第に増加、並行して墓地も整備されていく → 明治16年小学国史に白虎隊が登場、奥羽越列藩同盟軍を「賊」と一括するこの教科書のなかで、白虎隊のみが特筆された → 明治17年8月25日/17回忌、飯盛山には自刃者たちの合葬墓が建立、墓前祭開催、「少年団結す白虎隊」で始まる漢詩「白虎隊」を霊に献げ、当日、私立中学会津日新館の生徒19人がこの詩吟を受けて剣舞を奉納 → 明治23年/合葬墓は19士それぞれの墓碑へとあらためられた → 日清戦争(明治27年~同28年)後、ロシアとの対決ムードが昂まるにつれ、白虎隊は忠君愛国の鑑とされ、全国にその名が喧伝される → 明治35年/唱歌の教科書として『白虎隊』が出版 → 明治36年4月/国定教科書に登場 → 明治38年/文部省唱歌「白虎隊」として子どもたちに教えられるようになる → 大正6年/戊辰戦争における会津藩戦死者の慰霊を目的とした財団法人会津忠霊義会が組織 → 大正15年5月28日/飯盛山で白虎隊墳墓拡張落成臨時祭典が盛大に開催、今日の白虎隊広場とそれにつづく参道とは、このとき造成されたもの → 昭和3年/イタリア政府が古代ローマ宮殿の石柱を白虎隊広場に寄贈 → 昭和6年/生き返った飯沼貞吉が78歳にて仙台で死去 → 昭和10年/駐日ドイツ大使館書記官が「ドイツ碑」を寄贈 → 戦後若松入りした進駐軍は、怒りで、ローマ碑の「ファシスタ」党章と碑文は削られ、ドイツ碑は破却されようとしたが床下に隠され破戒を免れた → 昭和27年/霧島昇の歌う「白虎隊」が大ヒット → 昭和31年/白虎隊記念館がオープン → 昭和61年/日本テレビが年末時代劇『白虎隊』を二日にわたって放映 → 平成5年から翌年にかけて会津忠霊義会が飯盛山白虎隊霊域整備のために募金、目標2,500万円に対し全国から43,526,000円が集まった。

 <竹田一義 『ペリリュー -楽園のゲルニカー 3』(白泉社、2017年)>:ほんわかした柔らかいタッチでペリリューでの日本兵の惨状が描かれる。

 <有馬哲夫 『こうして歴史問題は捏造される』(新潮新書、2017年)>:あえていえば公文書至上主義と自称し、グローバルヒストリーを勧める著者の明解な主張であり、反証可能性の重要性はよく理解できる。著者の「そっち系」への批判に首肯するが、2点について抗いたくなる。一つは靖国神社に対する態度であり、「国のために命を捧げた人々を国立墓地に埋葬し・・・」とあるが少なくとも靖国は国立ではないし、靖国に「参拝にきた方は、どこの出身かは差別せずに、日本という国のために命を捧げた人に感謝し、手を合わせているのです」と述べるに当たっては、短絡的な、学者らしからぬ捉え方と思う。それに、「自虐史観」をごく普通に当たり前の用語として多用しているが、この用語には「あっち系」の方々の主義主張を色濃く含むものであって、出てくる度に違和感を覚えた。

2017年10月22日日曜日

長雨、不要品の処分

 秋霖。少しの雨の合間にウォーキングに出かけようにも今の雨は後の村雨でもあり、またいつの間にか冬が近づいてきたような凄雨の日もあり、結局は家の中にいることが多くなる。そして雨台風がやってきて、明日にかけて地域のよっては澎雨ともなる。

 本を多量に処分してきたが、今度はあまり使わなくなったソファや椅子、健康器具などを廃棄した。リサイクルの店で引き取ってもらえないものもあり、それらは粗大ゴミに出せば良いのだが、ある程度まとまらないと引き取りに来てもらえないし、それなりの費用もかかる、ということで一般ゴミに出せるように自分で分解・切断した。それも霖雨のなか、駐車場の屋根の下で数日間にわたって行い、一昨日に終えた。断捨離とは言えないまでも、家の中の不要なものは少しずつ捨てていこうと思っている。

2017年10月16日月曜日

本3冊

 <中村彰彦 『脱藩大名の戊辰戦争』(中公新書、2000年)>:サブタイトルは「上総請西藩主・林忠崇の生涯」。『明治維新という過ち』(原田伊織)のあとがき(中村)で、「自ら家臣とともに脱藩した上総請西藩林家当主林忠崇」を知り、絶版となっているため中古本をAmazonに発注。
 脱藩後の経由は省略。あちらこちらを経由し会津若松にも滞在している。会津藩開城降伏の2日後、仙台にて「降伏謝罪」を勧められて受け容れた。簡単にいえば、忠敬の脱藩は徳川家を守ることであったが、徳川家の絶家は免れた。この時点で忠崇の戦う大義は失せたようだ。その後はどうなったか、要略する。
 2年4ヶ月の謹慎(他家預り)→明治4年に赦免→実家預り→請西村に帰農/元請西藩大名が自分の陣屋跡にて野良着股引姿で鋤をふるう→明治6年東京府に10等属(最下級)の官員として任用され学務課に勤務→明治8年中属にまで昇進→辞職(知事とそりが合わなかったヵ)→函館に下り豪商の番頭となり各地の取引所へ出張し商業を学ぶ→2ヶ年で閉店となる→植木屋の親方とか寺男の名目で龍源院に住み込む→大阪府属官となる→旧大名諸侯は藩知事となると同時に公卿ともども「華族」という新しい身分を与えられた。唯一の例外が請西林家。慶応4年5月の時点で領土を没収されていたため林家は諸侯の身分を失っていた。従って林家は華族ではなく士族の身分 →→→ 明治27年従5位(47歳のとき)/宮内省の一部局へ出仕し庶務課に勤務→病で離職/旧領地にて病を養う→明治32年日光東照宮に神職拝殿詰めとして勤務→大正4年68歳にて岡山県下に転居/次女の嫁ぎ先に同居→昭和5年次女離婚し83歳の忠崇はその次女と共に東京に戻る→昭和16年1月、次女の経営するアパートにて死去、享年94歳。
 次の二句に強く惹かれる。
   琴となり 下駄となるのも 桐の運
   真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しをの色にこそ知れ
後者は昭和16年に満92歳でなくなった真の「最後の大名」である忠崇の、明治元年に詠んだ辞世の句である。つまり、満19歳で詠んだ句に籠められたものを73年間変わらずに抱き続けたのである。

 <小谷野敦 『文豪の女遍歴』(幻冬舎新書、2017年)>:著名作家62人の女(男)遍歴を記す。不倫だとか下半身事情とか、異性愛とか同性愛とか、秘めたるものに興味を示すのは世の習い、人の習いであって、作家とかインテリのそれはなおさらにスキャンダラスで面白い。紹介された女を美しくないので気持ちが傾かないとか、屁理屈をたてて女性編集者にせまるとか、心中してくれるか否かで相手を選ぶとか、まぁいろいろとある。
 平塚らいてうが若い燕とした奥村との間にできた長男敦史は早稲田大学理工学部機械工学科の教授で、48年ほど前に自分は弾性学の講義を受けていた。宇野千代に一方的に思いを寄せていたらしい梶井基次郎は醜男だったので宇野は相手にしなかったらしい。20歳前後の若い頃、『檸檬』を読んでその瑞々しさというか、まあ魅惑されたのであるが、梶井の醜男ぶりに小説と現実の大きな乖離を感じたものである。己惚と嫉妬心の強い林芙美子は、その容姿からさもありなんと思ったものである。そんなかんなで多少は知っている作家たちへの勝手な思いを頭の隅において彼ら彼女らの女(男)遍歴をさっさと読むのは時間潰しに最適。

 <木内昇 『ある男』(朝日文庫、2015年)>:幕末から明治19年頃までの時代を舞台に、時代に翻弄された7人の「ある男」たちの生き方、生き様を描く。世に埋もれた人生ではあるが、それぞれに自分の「大義」を持っているがゆえに各短編に清々しさを感じる。
「蝉」:尾去沢鉱山から東京に出て井上馨に訴えを図るが果たせるわけもなく銅を掘り続ける。「喰違坂」:岩倉具視を斬った男と上司に媚び諂うことしか能のない警視庁官吏のやりとり。「一両札」:紙幣贋作を依頼された老人の矜持。「女の面」:民の声を聞くという意味が分からない旧弊な地役人の戸惑い。「猿芝居」:ノルマントン事件で中央の指示に翻弄される地兵庫の官吏。「道理」:東京から会津に逃れ農民相手に塾を営む元佐幕派の男。会津三方道路建設で負担を強いられる住民の相談にのる。「フレーヘードル」:自分の思いをぶつけられる相手を見つけた寡黙な農民の戦い。どの短編も読んだあとには喉越しの良い清涼飲用水を飲み込んだようになる。いい小説である。
 刈部直の解説で、「蝉」の主人公が銅山で働くことをさして、その生活は「シベリアの虜囚ほどに過酷な生活」に近いとするが、「同じ話に出てくる東京の車夫や飯盛女に比べれば、まだ恵まれた環境だろう」という。ちょっと待て、この学者は果して鉱山労働に知悉したうえでそう述べているのだろうか。このように形態の異なる労働を唐突に引き出して「過酷な生活」の比較を安易にすべきではなかろう。「車夫」は「俥夫」がいい。

2017年10月15日日曜日

13日とラグビー観戦

 10月13日(金)の朝、今日は何の日か分かるかと家人に謎かけをし、今日は何日だっけ、13日の金曜日か、と返され、少し間を置いてからああそうかと続いた。年齢を重ね、毎日が日曜日だと日にちの感覚もなくなってくる。自分にとってもスマホのアラームがなってこの日が何なのか思い出したようなもんである。43年前の我々はもちろん20代のど真ん中で、多分まだ初々しかったはずで、70歳に手が届く今の年齢の自分を想像すらしなかった。

 14日、今季初めての秩父宮でラグビー観戦。早稲田vs筑波で、既に慶応・明治に負けている筑波に対して早稲田はどう戦えるのか、スコアはどうなるのか。大事な一戦であったが、スコアから言えば33-10とまあまあと言うところである。
 雨だったせいか双方ともキックを多用し、スコアが動かない。最初のトライは16分過ぎの筑波で、早稲田はその約4分後に斎藤の大きなゲインから左WTB佐々木のトライで追いつき、前半は14(2T2G)-5とロースコア。後半に入って修正されたのか、キックオフ後に何度かフェーズを繰り返してノーホイッスル・トライ。筑波に1トライ返されたものの後半は3T2Gで最終的には33(5T4G)-10と勝利。観客席から観ただけの感想であるが、早稲田はスクラムとラインアウトの課題が大きい。スクラムでは筑波に右に回されるし(1年3番の久保が狙われている?)、ラインアウトはかなり精度が低い。獲得率は5割ほどであろう。それに雨のせいもあろうがハンドリングミスが少なくない。そしてペナルティを繰り返す。6回ほどの中でハイタックルが2回、コラプシング(スクラムとモールで)が2-3回ほどあったのでなかろうか。あとはラインオフサイドとノットリリースもあった。ディフェンスでは早いタックルが目に付いた。筑波が前にあまり出てこないのかもしれないが、タックルの早さに両校の差があった。斎藤は相変わらずいい動きをしているし、タッチライン際からのプレースキックも決めていた。弱さはやはりFWD陣で、特にセットプレーの安定が求められる。後半の後半にメンバーが交代してスクラムは安定したが、これは筑波の疲労なのか早稲田がよくなったのか分からない。筑波はこれで3敗。対抗戦グループからの出場枠は4なので大学選手権出場はまずなくなったと思っていいだろう。筑波は弱くなった。ディフェンスもオフェンスも何か緩い感じがする。オープン攻撃も右からだけでバリエーションがなくワンパターンの印象がある。
 この日は雨模様で、座った席はバックスタンドのセンターライン延長線上の一番上。傘を広げても迷惑にならないことを思ってのことだが、結局はポンチョですっぽりと全身を覆ったままでいた。このIKEYAで買ったポンチョはいい。
 写真は試合開始のキックオフで黒木が高く上がったボールをキャッチしようとしているところ。観客は少ない。下は後半開始前で、傘が開いている。相変わらず観客は少なく、早稲田の試合が終わったらもっと少なくなった。帰途につき、横目で次の試合の準備をする帝京陣を見たが、彼らの体の大きさは抜きん出ている。



2017年10月7日土曜日

読むのに難儀

 <石川忠司 『吉田松陰 天皇の原像』(藝術学舎、2016年)>:冒頭からフロイトの「神話」、ホッブズの社会契約論が解説されて戸惑い、次にヒュームが出てくる。躓きそうになるのをこらえて孟子に進んで、やっと少し落ち着く。孟子の「仁」や「仁愛」で松陰に近づきつつあるなかで、「志賀直哉や宇野浩二はくだらないし、田山花袋はもっとくだらない」と書かれるところではまたしても頭の中は戸惑ってしまい、なんでこうも回りくどい論じ方をするのかと不満が増してくる。
 「松陰が理想とする君臣の関係は無条件に親和的につながり、自他の区別がつかない創造的なつながり、切っても切れない家族的・絶対的なつながりであって、ここに当然のごとく物質的・具体的担保はない」と論じられ、つづけて「吉田松陰が希求する日本の「正統的」な支配者としての天皇は、臣下の「死」を物質的・具体的な担保としてはじめてこの世に現出しリアリティを帯びる」とする(115p)。このあたりでやっと核心に触れてくるが、桑田佳祐やボブ・ディランの描写を経由するのには、辟易する。
 「天皇は「忠誠」が充填された一般規則の上に乗っかっているだけに等しい」の「吉田松陰の言葉を」「論理的に敷衍すれば、人民が天朝への「忠誠」心によって一般規則を活性化・実体化し近代的な主権国家を立ち上げ、天辺にいる天皇はそれをただ黙って承認しているのが日本の政体になる」(103p)。もちろんこれは概念的にはいまの天皇制につながっている。天皇は、「正統性の誇示以外能のない純粋な「正統性」であって、担わされている機能は新たな政治の中心=統治の中心ではなく、あくまでも既成の政権に対して断固「否」を叩きつける反骨と否定性の塊」であって、だからこそ、明治になって薩長土肥が政治の中心に存在し、松陰を持ち上げることにもなったといえるであろう。しかし、回りくどい文章ではある。最後に結論めいて結ばれるのは、「重要なのは、というか精々できるのは、まず吉田松陰のような破格の人物を等身大のレベルに引き下げない、「優れた教育者」や「真の愛国者」などといった衛生的なイメージで語らない、つまり破格な人物が破格であるがゆえに必然的にそなえる暴力性や不穏さを丸ごと受け容れて、自らその境地を目指すということではないか」。この文章、前半はその通りだと思うが、後半からの「自らその境地を目指すということ」が具体的にどのような営為をいわんとしているのか判らない。
 西欧の哲学者、孟子、近現代の日本の思想家、ポップスの歌手たちが語られ、自分の頭が方向性を失い、例えば、「1960年代以降のマイルス・ディヴィスの仕事が典型的にそうであるように、吉田松陰が生きた「神話」もまた、」と書かれた文章にはただただ呆然としてしまう。
 大学で著者と同僚の教授が解説をしている。そこでは「田山花袋」的な解説と予めことわり、頁をすすめると「芭蕉的に余計なものを削ぎ落としたロジックの煌めきからは」という文章に戸惑い、「松陰の生涯の紹介を「田山花袋」的に補うと」と続けられると、一体何なんだここれはと放り出したくなる。芸術学部文芸学科のセンセたちはこういう論理構成や飾り方を多用するのであろうか。若い頃読んだ大江健三郎の書き物に次なようなものがあったのを記憶している。すなわち、「桃色フリルはたくさんあれど、サブスタンスはただ一つ、それは下着、詩ではない」と(文章表現は正確ではないかも)。もうちょっと皮肉っぽく書けば、たとえ自分の穿いた下着の有り様を表現しようともその奥にある真意は膨らみや微かに透けて見える陰影から想像するしかなく、見る側としては目を逸らし、直視することはない。

2017年10月6日金曜日

ノーベル文学賞、小説2冊

 今年度のノーベル文学賞にカズオ・イシグロが決定。村上春樹はまたもや逃したとの報道がなされている。カズオ・イシグロの小説を最初に読んだのは「わたしを離さないで」であり、続けて時代を遡るように「日の名残り」(名作!と思っている)、「浮世の画家」、「遠い山なみの光」、「夜想曲集」と続けて読み、その後3冊が未読のままになっている。氏は「村上春樹氏やSalman Rushdie、Margaret Atwoodのような作家らより先に受賞が決まり、「ある意味で気まずい」とも述べている」らしい。
 新刊がでると必ず話題になる村上春樹については、氏の小説は一冊も読んでいない。数十年前に友人が薦めて貸してくれた一冊を読み始めたが、どうにもつまらなくて途中で投げ出してしまった。以来、結局は村上春樹の本は読んでいない。いま読めば異なる思いを抱くかもしれない。

 <乙川優三郎 『R.S.ヴィラセニョール』(新潮社、2017年)>:ブックカバーで蓋って、本のカバーや帯に要約されている短文も予め見ることなく読み始めた。従ってまっさらの状態で予断もなく、この小説に入り込むことができた。小説を楽しむときはこれが最適なのであろうと改めて思った。種々の賞に応募された原稿を手にし、何の情報もない状態で小説に目を通す選考者たちはある意味贅沢な読者なのかもしれない。一般読者が小説を読むときは既に何らかの宣伝文句-フィルター-を通しているわけで、真に小説を楽しむときはそのフィルターは余計な邪魔ものなのであろう。この小説は、書名だけを見ればどのような内容を描いているのか判らない。単に著者の小説を楽しんでいる自分からすれば、ただ乙川さんの小説であるというだけで手にしているだけである。そして、その動機だけで-つまりフィルターなしで-読んで良かったと思う。
 著者がよく舞台にする房総で、独り染色工房を営むのがレイ・市東・ヴィラセニョール。フィリピン人の父を持ち、母の国であるこの日本で伝統工芸の染色に打ち込む。絵画や工芸を題材にするのは著者の小説によくあるのだが、その伝統美や色、造形などを表現する文章にはいつも感服される。登場するのはレイの父と母、友人である現代琳派の画家、主人公と同じメスティソで草木染を生業とし且つ探求するロベルト(日本人の母とメキシコ人とのメスティソ)、父の弟、などがメイン。読み進めるうちにマルコス時代のフィリピンが重要な背景にあることを知る。この小説の書名には、R.S.VILLASEÑOR The People with a PASSION for Living、とサブタイトルが付されている。レイの情熱は染色にあり、ロベルトのそれは草木染で、父のPASSIONはマルコスの圧政時代から消えずに続いている。
 ピックアップした文章を幾つかメモしておく。「あれは色に対するある種の逃げではないかと思う。金よりもプラチナを好む国民性、目立たないことを優先する習性、優れたデザインよりも保証書を信じる堅実さ、迷うと中間をとる決断力のなさ、そいうものから醜い衣装や建物も生まれる。伝統文化のうちに多くの優美なものを持ちながら、遠くに眺めて生活の中に置こうとしない、色や形状の美に淡泊な人たち。渋好みの裏には華麗で繊細で工夫に満ちたかつての華やかな文化を捨てた日本人が見え隠れする」(16頁。“あれ”とは渋好みを指す)。「しかし、虚栄心が強く、野望と蓄財の才はあるものの、軍人としては無能な男にできたのはマニラホテルのペントハウスに暮らして黴臭い軍事計画に寄りかかり、兵隊の訓練も装備の点検も怠り、惨敗した揚句の「アイ・シャル・リターン」でしかなかった」(159頁)。(羽田を飛びだった機中で、2、30代の若い男たちに対して)「一様に微笑を浮かべ、そこそこ行儀よく、声は小さく、贅沢な旅行のはじまりに自足している。そこが不気味でもあった。人との深い関わりや尊い目的のための労苦を面倒がって、本当の友人や恋人を作らない。自分のうちにすべてがあると信じて、他者に無用のレッテルを貼り続ける。立ち向かえば手に入る大きな可能性や美しい世界を夢見ない。たぶんそんな人種であろう。無理に自分を追い立てずとも、出すものを出せばジェット機がたちまち別世界へ運んでくれる」(218頁)。著者の筆先がいつもより鋭く感じる。

 <沼田真佑 『影裏』(文藝春秋、2017年)>:第157回芥川賞受賞作。小説の読み方は人それぞれで、その人のなかでも読み方は変わる。物語の構成の巧みさ、場面の切り返しと連続性の接合方法、あるいは紙の上でおどる人の時々の状況の嵌め込みや繋ぎ、こういったようなものは多分に小説技法とでも呼ばれるものであろう。他方、小説から作者は何を伝えたかったのか、何を提起したかったのか、あるいはどのようにこちら側の胸を突き刺したかったのか、等々、作者の内面をうかがうような読み方もある。この小説、結局は上手く構成し、時と人をつなぐのであるが、何を伝えたかったのか読めなかった。芥川賞受賞なので高い評価であろうが、読んでみて、関心の向かない主人公に「あっ、そう」と思って通り過ぎただけ、そんな小説だった。

2017年10月2日月曜日

足利でラグビー観戦

 10/01、家を10:30頃に出て、春日部で11:06発東武伊勢崎線久喜行きに乗り、久喜で舘林行きに乗り換え、そこで再び伊勢崎行きに乗り換えて足利市駅に到着したのは12:11。外苑前に行くときに要する時間と同じようなもので、電車賃も足利に行く方が60円高いだけ。もっと遠い印象を持っていたので正直こんな近いのかと認識を改めた。車ではなく電車に乗ったのは、ラグビー観戦以外に特に回ろうとも思っていなかったこと、および、ただ何もせずに車を運転するよりは電車内で本を読んでいたかったことが理由。耳から音楽を流し、目では小説の文章を追いかけていた。
 Kick Offは14:00なので、駅を出てから渡良瀬川を渡って昼食を摂ろうとしていたが、店がない。シャッターが降りている店も多い。地方都市の衰退を少し感じながら足利総合運動公園に歩を進め、やっと(!)目に付いた蕎麦屋に入って、ビールと天蕎麦を注文。ビールはアサヒですかキリンですかと聞かれ、サッポロやサントリーは無いのだとビール業界の優劣を感じ、1150円と安価な天蕎麦は量も多く美味しかった。蕎麦も腰があって美味かった。

 一般席の2倍もする2000円の中央席入場券を購入し、センターライン延長線上より少しだけずれた席に座った。オンデマンドはこれで放映するのだとやや小ぶりのカメラを左上に見て、競技場内に目を移すと、もちろんそこはランニングのトラックに囲まれたフィールドであって、ラグビー専用でないことにもの寂しさを感じる。観客も多くはない。山下監督のスラックスは相変わらず踝あたりまでしかない。いつもそれが気になる。青山学院は丸坊主の選手が殆どで、仏教系の大学かと勘違いしそう。

 校歌を流す準備が整い、早稲田の選手たちも一列に並んで胸に手を置いている。なれどなかなか音楽が流れない。数分間そのまま待っていたら機械の故障でお待ちくださいととのアナウンス。されどまだ流れない。結局はこの日の両校校歌演奏は中止となった。何か幸先が良くない。

 14:00に正面席から見て左から右に青山学院のKick Offでスタート。ここからは経過を書かずに全体の結果と感想のみをメモする。前半は40(6T5G)-12(2T1G)。スピードある展開ですぐに26-0となったときは、青山学院のディフェンスはかなり弱いと思い、今日は1分1点もしくは100点超えもあるかもと思ったが、右に大きく振られて青山学院がトライ。さらに続けてトライされ、26-12となったときは、トライの取り合いかよと嫌な予感がした。
 終わってみれば94(14T12G)-24(4T2G)と大量得点だったが、フラストレーション満載の試合だった。最初のパスで大きく振られて綺麗にトライされ、相手スクラムやラックの時は近場に穴があいてそこを攻められている。そこを何度も攻められ、ゲインもされ、ピンチも重なった。ラック際のディフェンスの弱さはかなり大きな課題。トライの多さは早稲田を褒めるよりも青山学院のディフェンスの弱さを指摘すべきであろう。
 早稲田はキックを使わずにパス回しで攻めている。ハイパントなし、相手裏へのキックなし、それにターンオーバーもジャッカルもなし。タックルももっと力強さが欲しい、一段上の鋭さが欲しい。タックル後の寄せやめくりが少ない。何だろう、厳しさ、激しさが今ひとつ伝わって来ない。
 印象に残るのはFB古賀。ボールを持つと早いし、タックルされても簡単に倒れず必ずゲインする。梅津もボールを持つとよく走るが、古賀の方が突破力は上だろう。CTB中野はやはりいい。CTB黒木は目立たないがきっといいパフォーマンスをしているのだろう、こっちが気付かないだけで。SH斎藤はGKの精度が素晴らしい。タッチライン際でも入れている。青山学院のSHはチームの核になっていてキビキビしていい動きであった。
 2週間後には筑波戦。この試合で早稲田の今季のレベルがより明確に判ると思う。ディフェンスを修正しないと厳しい試合になるだろう。

 正面の反対側には早稲田の旗が振られ、座った席の後ろからは“宮里~リフト”の大きい声が何度も響き渡り、うるさい。時々ほんのりと女性の化粧の香りが流れてくる、大キライ。

 帰りは再び足利市駅まで歩く。初めて見る屋台カフェが出ていた。縁結びの織姫神社に行ってもこの年齢になれば結ぶものも結ばれるものもないし-切りたいものはある-、途中にある鑁阿寺(ばんなじ)の境内を通って帰る。帰宅は18:20頃。



2017年10月1日日曜日

幕末の会津関連の本、現在のキューバのエッセイ

 <星亮一 『呪われた明治維新』(さくら舎、2017年)>:書名をフルで書くと、『呪われた明治維新 歴史認識「長州嫌い」の150年』であって、著者名とこのタイトルだけで会津を舞台にしていることが分る。9章で構成されているが、どの章も短い項目で区切られていて継ぎ合わせのようでもあり、物足りなかった。その物足りなさは、すでに何度も読んでいる「会津の惨劇」、「長州の横暴・残虐」をまたもや読んでいるからである。しかし、何度読んでも、幕末と明治期に会津が被った悲劇・惨状、長州の仕打ちは想像を超え、幕末期から明治にかけて会津の地に生きた士たちの思いは、消えて何かに溶け込むというものではなかろう。そこには長州出身政治家たちへの「官僚の忖度」も重ねられたであろう。
 そして、明治と改められて日本の何かが失くなり、変質したとの認識は変わりようがない。消えて失くなり、変質せざるを得なかったこの歴史の基底にあるものは何なのか、自分ではぼんやりと答えを持っているのだが、まだまだ輪郭が形作られていない。

 <若林正恭 『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(KADOKAWA、2017年)>:書店に平積みされていたお笑い芸人のこの本、「書名」と「キューバ」に惹かれて買ってしまった。内容は、父親が行きたがっていた「キューバ」という媒介を通して、日本・東京にいる自分を見つめ続けるというもので、決してキューバを紀行しているものではない。文章は読みやすいのであるが、時折捏ねくり回して陳腐になっているところもある。往々にして片仮名の用語を使う箇所にその傾向が見受けられる。且つ深味がない。
 ヘミングウェイの「銅像を見ながらヘミングウェイがなぜキューバを選んだのか勝手な憶測を頭に回し、楽しむ」という文章があるが、その憶測と楽しみ方に少しでも掘り下げて触れておくべきであろう。そのような浅さが全編を通してある。また、「新自由主義」が頻出するが、若林がそれをどう解釈しているのか述べていないので、単に良くも知らないが流布している用語をカッコよく使ってみた、というような薄さもつきまとってしまう。
 この本の良いところは、書名(秀逸)とカバー写真の二つ、そして、自分を見つめながら旅行している著者の素直な態度であろう。残念なのは、カバー表紙の、「カバーニャ要塞に寝転んでいる犬」の写真に内容が追いついていない。

 キューバ、勿論カストロやチェ・ゲバラであるが、最初に結びつくのがBUENA VISTA SOCIAL CLUBであって、CDで音楽に触れ、DVDでキューバの風景と人と音楽に強く惹かれた。もう20年近く前のこと。アメリカと国交復興になり、今後緩やかに変化(例えばクラシックカーの減少)していくのだろうか。

 <菊池明編著 『新選組三番隊長 斎藤一の生涯』(新人物文庫、2012年)>:会津藩士(といっても明治になってからの会津藩士)で、藤田五郎ととしての墓は、何度もその前を歩いたことのある会津若松市七日町にある阿弥陀寺。新撰組で剣の達人で、最近になって53歳頃の写真がみつかったことで話題を呼んだ。(2番目の)妻の時尾は会津の人間であり、叔父は会津戦争で亡くなり、禁門の戦いで死に、従兄弟は白虎隊士として自刃しおり、時尾自身も山本八重とともに会津戦争で戦っている。山口一・斎藤一・山口次郎・一瀬伝八・藤田五郎と名を変え、江戸から京都、会津や新潟を経て斗南と移り、最後は東京で生涯を閉じている。斎藤一の名は知っていたが、本書で全体像を知り得た。会津に関する描写も何度も出て来てなつかしい。そして会津に暮らしていた頃は、幕末歴史や会津戦争や、会津の苦難などについて何にも知らなかったと、いまさらながら恥じ入る。
 この世を去ってから、己の生涯を振り返られるのはいいことなのかどうか、放っておいてくれとも言いたくなるのではないか。歴史に残る人物であっても、政治家たちとは違って、斎藤自身はただ単に己の人生という枠組みの中で生きてきたのであって、幕末を彩るような存在として個人史をほじくり出されるのは迷惑千万ではないか、そのような思いがした。斎藤一という人間個人の生涯・輪郭を知ることで、幕末の状況や明治の時代に触れたいと期待したのだが、その期待を本書からはさほど深くは感じ取れなかった。斎藤個人についても何だかよく分からない。史料が少ないし、斎藤一自身の記録がないのだからしようがないのだろう。