2017年10月1日日曜日

幕末の会津関連の本、現在のキューバのエッセイ

 <星亮一 『呪われた明治維新』(さくら舎、2017年)>:書名をフルで書くと、『呪われた明治維新 歴史認識「長州嫌い」の150年』であって、著者名とこのタイトルだけで会津を舞台にしていることが分る。9章で構成されているが、どの章も短い項目で区切られていて継ぎ合わせのようでもあり、物足りなかった。その物足りなさは、すでに何度も読んでいる「会津の惨劇」、「長州の横暴・残虐」をまたもや読んでいるからである。しかし、何度読んでも、幕末と明治期に会津が被った悲劇・惨状、長州の仕打ちは想像を超え、幕末期から明治にかけて会津の地に生きた士たちの思いは、消えて何かに溶け込むというものではなかろう。そこには長州出身政治家たちへの「官僚の忖度」も重ねられたであろう。
 そして、明治と改められて日本の何かが失くなり、変質したとの認識は変わりようがない。消えて失くなり、変質せざるを得なかったこの歴史の基底にあるものは何なのか、自分ではぼんやりと答えを持っているのだが、まだまだ輪郭が形作られていない。

 <若林正恭 『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(KADOKAWA、2017年)>:書店に平積みされていたお笑い芸人のこの本、「書名」と「キューバ」に惹かれて買ってしまった。内容は、父親が行きたがっていた「キューバ」という媒介を通して、日本・東京にいる自分を見つめ続けるというもので、決してキューバを紀行しているものではない。文章は読みやすいのであるが、時折捏ねくり回して陳腐になっているところもある。往々にして片仮名の用語を使う箇所にその傾向が見受けられる。且つ深味がない。
 ヘミングウェイの「銅像を見ながらヘミングウェイがなぜキューバを選んだのか勝手な憶測を頭に回し、楽しむ」という文章があるが、その憶測と楽しみ方に少しでも掘り下げて触れておくべきであろう。そのような浅さが全編を通してある。また、「新自由主義」が頻出するが、若林がそれをどう解釈しているのか述べていないので、単に良くも知らないが流布している用語をカッコよく使ってみた、というような薄さもつきまとってしまう。
 この本の良いところは、書名(秀逸)とカバー写真の二つ、そして、自分を見つめながら旅行している著者の素直な態度であろう。残念なのは、カバー表紙の、「カバーニャ要塞に寝転んでいる犬」の写真に内容が追いついていない。

 キューバ、勿論カストロやチェ・ゲバラであるが、最初に結びつくのがBUENA VISTA SOCIAL CLUBであって、CDで音楽に触れ、DVDでキューバの風景と人と音楽に強く惹かれた。もう20年近く前のこと。アメリカと国交復興になり、今後緩やかに変化(例えばクラシックカーの減少)していくのだろうか。

 <菊池明編著 『新選組三番隊長 斎藤一の生涯』(新人物文庫、2012年)>:会津藩士(といっても明治になってからの会津藩士)で、藤田五郎ととしての墓は、何度もその前を歩いたことのある会津若松市七日町にある阿弥陀寺。新撰組で剣の達人で、最近になって53歳頃の写真がみつかったことで話題を呼んだ。(2番目の)妻の時尾は会津の人間であり、叔父は会津戦争で亡くなり、禁門の戦いで死に、従兄弟は白虎隊士として自刃しおり、時尾自身も山本八重とともに会津戦争で戦っている。山口一・斎藤一・山口次郎・一瀬伝八・藤田五郎と名を変え、江戸から京都、会津や新潟を経て斗南と移り、最後は東京で生涯を閉じている。斎藤一の名は知っていたが、本書で全体像を知り得た。会津に関する描写も何度も出て来てなつかしい。そして会津に暮らしていた頃は、幕末歴史や会津戦争や、会津の苦難などについて何にも知らなかったと、いまさらながら恥じ入る。
 この世を去ってから、己の生涯を振り返られるのはいいことなのかどうか、放っておいてくれとも言いたくなるのではないか。歴史に残る人物であっても、政治家たちとは違って、斎藤自身はただ単に己の人生という枠組みの中で生きてきたのであって、幕末を彩るような存在として個人史をほじくり出されるのは迷惑千万ではないか、そのような思いがした。斎藤一という人間個人の生涯・輪郭を知ることで、幕末の状況や明治の時代に触れたいと期待したのだが、その期待を本書からはさほど深くは感じ取れなかった。斎藤個人についても何だかよく分からない。史料が少ないし、斎藤一自身の記録がないのだからしようがないのだろう。

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