2017年10月7日土曜日

読むのに難儀

 <石川忠司 『吉田松陰 天皇の原像』(藝術学舎、2016年)>:冒頭からフロイトの「神話」、ホッブズの社会契約論が解説されて戸惑い、次にヒュームが出てくる。躓きそうになるのをこらえて孟子に進んで、やっと少し落ち着く。孟子の「仁」や「仁愛」で松陰に近づきつつあるなかで、「志賀直哉や宇野浩二はくだらないし、田山花袋はもっとくだらない」と書かれるところではまたしても頭の中は戸惑ってしまい、なんでこうも回りくどい論じ方をするのかと不満が増してくる。
 「松陰が理想とする君臣の関係は無条件に親和的につながり、自他の区別がつかない創造的なつながり、切っても切れない家族的・絶対的なつながりであって、ここに当然のごとく物質的・具体的担保はない」と論じられ、つづけて「吉田松陰が希求する日本の「正統的」な支配者としての天皇は、臣下の「死」を物質的・具体的な担保としてはじめてこの世に現出しリアリティを帯びる」とする(115p)。このあたりでやっと核心に触れてくるが、桑田佳祐やボブ・ディランの描写を経由するのには、辟易する。
 「天皇は「忠誠」が充填された一般規則の上に乗っかっているだけに等しい」の「吉田松陰の言葉を」「論理的に敷衍すれば、人民が天朝への「忠誠」心によって一般規則を活性化・実体化し近代的な主権国家を立ち上げ、天辺にいる天皇はそれをただ黙って承認しているのが日本の政体になる」(103p)。もちろんこれは概念的にはいまの天皇制につながっている。天皇は、「正統性の誇示以外能のない純粋な「正統性」であって、担わされている機能は新たな政治の中心=統治の中心ではなく、あくまでも既成の政権に対して断固「否」を叩きつける反骨と否定性の塊」であって、だからこそ、明治になって薩長土肥が政治の中心に存在し、松陰を持ち上げることにもなったといえるであろう。しかし、回りくどい文章ではある。最後に結論めいて結ばれるのは、「重要なのは、というか精々できるのは、まず吉田松陰のような破格の人物を等身大のレベルに引き下げない、「優れた教育者」や「真の愛国者」などといった衛生的なイメージで語らない、つまり破格な人物が破格であるがゆえに必然的にそなえる暴力性や不穏さを丸ごと受け容れて、自らその境地を目指すということではないか」。この文章、前半はその通りだと思うが、後半からの「自らその境地を目指すということ」が具体的にどのような営為をいわんとしているのか判らない。
 西欧の哲学者、孟子、近現代の日本の思想家、ポップスの歌手たちが語られ、自分の頭が方向性を失い、例えば、「1960年代以降のマイルス・ディヴィスの仕事が典型的にそうであるように、吉田松陰が生きた「神話」もまた、」と書かれた文章にはただただ呆然としてしまう。
 大学で著者と同僚の教授が解説をしている。そこでは「田山花袋」的な解説と予めことわり、頁をすすめると「芭蕉的に余計なものを削ぎ落としたロジックの煌めきからは」という文章に戸惑い、「松陰の生涯の紹介を「田山花袋」的に補うと」と続けられると、一体何なんだここれはと放り出したくなる。芸術学部文芸学科のセンセたちはこういう論理構成や飾り方を多用するのであろうか。若い頃読んだ大江健三郎の書き物に次なようなものがあったのを記憶している。すなわち、「桃色フリルはたくさんあれど、サブスタンスはただ一つ、それは下着、詩ではない」と(文章表現は正確ではないかも)。もうちょっと皮肉っぽく書けば、たとえ自分の穿いた下着の有り様を表現しようともその奥にある真意は膨らみや微かに透けて見える陰影から想像するしかなく、見る側としては目を逸らし、直視することはない。

0 件のコメント: