2017年10月24日火曜日

新書に漫画

 高校ラグビー、花園への出場校が北の方から決まってきた。中標津、函館ラサール(来年も早稲田に来るであろう)、黒沢尻工の試合をオンデマンドで観戦。10/29には秋田工業と秋田中央が放映される。28日は秩父宮に行かない。

 <中村彰彦 『白虎隊』(文春新書、2001年)>:戦いの経緯にはあまり興味がなく、会津藩における教育や明治に入ってからの描かれ方に関心がある。「第7章 自刃十九士の発見とその後」に述べられる白虎隊関連を時系列でメモしておく。日付は明治5年までは旧暦。
 慶応4年3月11日/江戸開城 → 慶応4年8月21日/母成峠の戦い、同日夕/十六橋の戦い、夜/戸ノ口原の戦い → 8月23日朝に若松城下に新政府軍が突入、白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃 → 慶応4年9月8日/明治の改元の詔書 → 明治元年9月22日/会津藩は新政府軍に降伏 → 明治2年2月まで会津藩戦死者の埋葬が許されなかった → 明治2年3月4日付けで郡役所へ改葬とと供養を願い出る → 明治2年4月28日付、新聞『天理可楽怖』に自刃十九士の節義と殉難の物語が初めて報じられる → 明治10年/西南戦争、少なくとも二人の白虎隊生き残りが出征、旧会津藩士にとって西南戦争は戊辰戦争の雪辱戦 → 西南戦争終結後、飯盛山への参詣者が次第に増加、並行して墓地も整備されていく → 明治16年小学国史に白虎隊が登場、奥羽越列藩同盟軍を「賊」と一括するこの教科書のなかで、白虎隊のみが特筆された → 明治17年8月25日/17回忌、飯盛山には自刃者たちの合葬墓が建立、墓前祭開催、「少年団結す白虎隊」で始まる漢詩「白虎隊」を霊に献げ、当日、私立中学会津日新館の生徒19人がこの詩吟を受けて剣舞を奉納 → 明治23年/合葬墓は19士それぞれの墓碑へとあらためられた → 日清戦争(明治27年~同28年)後、ロシアとの対決ムードが昂まるにつれ、白虎隊は忠君愛国の鑑とされ、全国にその名が喧伝される → 明治35年/唱歌の教科書として『白虎隊』が出版 → 明治36年4月/国定教科書に登場 → 明治38年/文部省唱歌「白虎隊」として子どもたちに教えられるようになる → 大正6年/戊辰戦争における会津藩戦死者の慰霊を目的とした財団法人会津忠霊義会が組織 → 大正15年5月28日/飯盛山で白虎隊墳墓拡張落成臨時祭典が盛大に開催、今日の白虎隊広場とそれにつづく参道とは、このとき造成されたもの → 昭和3年/イタリア政府が古代ローマ宮殿の石柱を白虎隊広場に寄贈 → 昭和6年/生き返った飯沼貞吉が78歳にて仙台で死去 → 昭和10年/駐日ドイツ大使館書記官が「ドイツ碑」を寄贈 → 戦後若松入りした進駐軍は、怒りで、ローマ碑の「ファシスタ」党章と碑文は削られ、ドイツ碑は破却されようとしたが床下に隠され破戒を免れた → 昭和27年/霧島昇の歌う「白虎隊」が大ヒット → 昭和31年/白虎隊記念館がオープン → 昭和61年/日本テレビが年末時代劇『白虎隊』を二日にわたって放映 → 平成5年から翌年にかけて会津忠霊義会が飯盛山白虎隊霊域整備のために募金、目標2,500万円に対し全国から43,526,000円が集まった。

 <竹田一義 『ペリリュー -楽園のゲルニカー 3』(白泉社、2017年)>:ほんわかした柔らかいタッチでペリリューでの日本兵の惨状が描かれる。

 <有馬哲夫 『こうして歴史問題は捏造される』(新潮新書、2017年)>:あえていえば公文書至上主義と自称し、グローバルヒストリーを勧める著者の明解な主張であり、反証可能性の重要性はよく理解できる。著者の「そっち系」への批判に首肯するが、2点について抗いたくなる。一つは靖国神社に対する態度であり、「国のために命を捧げた人々を国立墓地に埋葬し・・・」とあるが少なくとも靖国は国立ではないし、靖国に「参拝にきた方は、どこの出身かは差別せずに、日本という国のために命を捧げた人に感謝し、手を合わせているのです」と述べるに当たっては、短絡的な、学者らしからぬ捉え方と思う。それに、「自虐史観」をごく普通に当たり前の用語として多用しているが、この用語には「あっち系」の方々の主義主張を色濃く含むものであって、出てくる度に違和感を覚えた。

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