2017年2月26日日曜日

酒と焼酎を県別に比較して暇つぶし

 朝日新聞に埼玉県の清酒に関する記事が載っていたので、その記事を確認する意味もあって国税局HP(http://www.nta.go.jp/kohyo/tokei/kokuzeicho/sake2015/shuzei.htm)で暇つぶしに遊んだ。以下は平成27年度のデータに基づく。

 清酒の製成数量は、兵庫(126,747kl)>京都(71,286kl)>新潟>秋田(17,800kl)と酒どころが続き、わずかの差で埼玉>愛知>福島>広島>山梨>山形(9,173kl)となる。灘の酒、伏見の酒に代表され、且つ大手酒造所がある兵庫・京都だけで全国合計量(444,353kl)の44.6%を占める。想像以上に兵庫・京都で造られる日本酒が多いことに意外な感じがする。埼玉が5位になっているのもまた意外である。ちなみに福島県では7割が会津で造られているらしい(これは統計年表には載っていない)。宮崎・鹿児島・沖縄には×が付いており、これは僅少値であることを示していると思われる。詳細を確認するつもりはないが、統計表の別のセルには0(zero)の表記があることも理由の一つであるし、「黎明」を造っている沖縄の蔵元のHPには「沖縄唯一の蔵元が届ける日本最南端の清酒」との説明もある。よって×はゼロではなく、統計上取り扱うにも尠い値なのであろうと推測した。尚、沖縄の「黎明」は数年前に沖縄で飲んだ。

 清酒の製造免許場数は、新潟(97場)>兵庫>長野>福島>福岡>広島>岐阜>山形>京都(54場)・・・・>秋田(42場)となっており、埼玉県には36場も(!)ある。沖縄には4、宮崎に2、鹿児島が1場。ただし、免許をもっているからといって酒を造っているとは限らない。また、長らく鹿児島では日本酒は造られていないと思っていたが、一昨年あたりから復活し、「薩州正宗」が商品になっている。飲んだことはない。

 酒類全国販売(消費)量における清酒販売量の比率を大きい順に並べると、新潟(13.47%)>石川>長野>山形>秋田>福島>富山>島根>福井(8.98%)。肯ける。長野と福島を除けば日本海側の県が並ぶ。日本海の荒海に向かって酒を飲む、あるいは、裏日本の重い雲の下で鬱々と酒を飲む、とでも言いたくなるような気がしないでもない。

 焼酎に切り替えると、焼酎乙類(単式蒸留焼酎)の製成数量は宮崎(150,139kl)>鹿児島(147,224kl)が頭抜けており、以下大分>福岡>沖縄>熊本(174,96kl)と続き、量はかなり落ちて長崎(3,338kl)>佐賀>愛知(1,188kl)となる。宮崎と鹿児島の両県で全国乙種焼酎製成数量の61.9%である。焼酎はやはり九州である。
 清酒の場合と同様に、酒類全国販売(消費)量における乙種焼酎販売量の比率を並べると、鹿児島(28.25%)>宮崎(20.57%)>大分>熊本>沖縄>福岡>長崎>佐賀(9.25%)となる。清酒の場合と比べると鹿児島・宮崎の焼酎への偏りが良く分かる。

 ついでに会津の酒と鹿児島県の酒造所との関わりに触れておく。
 会津若松での高校1年時の下宿先(当時の住所は北小路町146)に近いところには蔵元が幾つかあった。かつてそこには「会陽」の酒名で知られる松本本店があったらしい。らしいと書くのは下宿していた頃の記憶がないからである。その松本本店の鹿児島との歴史をたどってみる。松本本店→会津松栄酒造(1987年)となる。親会社は鹿児島の薩摩酒造。「会陽」に加えて本醸造の「会津藩」も出すが、1988年からは「会津藩」の銘柄だけとなる。親会社が薩摩酒造関連会社の南九州コカコーラボトリングとなる。そのあと田苑栗源酒造会津工場→田苑酒造会津工場(2003年)となる。そして今、この蔵元はない。
 田苑酒造も薩摩酒造も著名な焼酎を造っており、酒屋に行けば必ずと言っていいほど並んでいる。薩長と深い因縁のある会津、そこの蔵元が薩摩の酒造会社に組み込まれ、薩摩の人間が会津若松で酒造りに励んで「会津藩」を出し、そして消滅した歴史があった。この蔵元があった福島県会津若松市日新町12-41をGoogleマップで検索すると末廣酒造 嘉永蔵が見えるだけである。
 高校1年時の同じクラスの同級生の実家が新横町の酒蔵であったが、その河野合名会社も今はなくなっており、跡形もない。
 松本本店に関しては石原信一『会津地酒紀行』(歴史春秋社、2004年)に依っており、田苑酒造HP、薩摩酒造HPをも参照した。

2017年2月23日木曜日

独り言

 豊中市における国有地売却の記事が日々大きくなってきた。「安倍晋三記念小学校」あるいは「瑞穂の國記念小學院」という名称や、同学園幼稚園の園児が「朕惟フニ・・」と唱和する映像を見るとアナクロイズム的違和感を覚えてしまう。(ちなみに「朕」を「チン」と読むのは中国語=漢音であり、中世史を専門とする某大学某教授は授業にて「われ」が正しいと言っていた。)
 一方、テレビでニュースを見ると売却金額の不透明さと同時に同学園の教育方針への批判も同時に取上げられている。しかし、売却問題審議と教育方針批判を一括りにすることにも疑問はある。両者は問題提起としては異なる範疇のものである。ごっちゃにしてしまうと結局は審議というレンズに収差が生じて焦点がボケてしまう。その結果、何が問題で何が結論なのかうやむやになってしまうであろうと感じてしまう。

 金正男殺害のニュースが頻繁に流れ、あちらこちらのテレビで多くのコメンテータによる意見/見解が発せられ、倦きてしまっている。ここはやっぱりレイモンド=レディントンに連絡を取ってエリザベス・キーンたちに真相を暴いてもらうしかないだろう、と。

 早稲田ラグビー部2017年度推薦合格者は既述のスポーツ科学部4名に加えて教育学部自己推薦の高吉将也(桐蔭学園/LO)が加わっただけ。8名くらいは期待していたが5名は少ない。あとは附属・系属・一般入試合格者からの入部に期待しよう。他大学(帝京・明治・東海・同志社など)の推薦入部者と比べて早慶はとても少ない。

2017年2月20日月曜日

ハーモニカのCD、久々の日本酒、漫画一冊

 イトーヨーカドーで家人が買い物をしている間に新星堂をぶらついていたらハーモニカ奏者とビル・エバンスが共演したCDが目にとまり衝動買いした。ビル・エバンスに惹かれた訳ではなく、ハーモニカの演奏であることに引き寄せられた。ハーモニカをメインにしたクラシックやジャズが売られていることは殆どないが、この楽器が醸しだす哀愁ある暖かみが好きでついつい手を伸ばしてしまった。
 ボンフィーリオが演奏するヴィラ=ロボスの作品集(ハーモニカ協奏曲/作品集)は好きなCDである。特に「ブラジル風バッハ第5番のアリア」は原曲も素晴らしいが、ハーモニカでのそれはソプラノとは異なる美しさである。

 CDを購入して家人と食品売場で合流し、昼食は何にしようかと思っていたら急に日本酒が飲みたくなり、ビールと大吟醸四合瓶をカートに入れ、帰宅後13時過ぎから飲む。日本酒は約2ヶ月ぶり。ビールで先に喉を潤し、その後ぐい吞みを傾け続け結局はほぼ1本を空けてしまった。そして爆睡モードに入ってしまい、目覚めれば2時間半ほどが過ぎていた。最近は飲んでも量が少なくて酔うという感覚をあまり覚えないことが多いが、今日は久々に酔った。
 最近95日間の飲酒率は40%で飲むのは週に3日弱。家人が言うには、飲む頻度も飲む量もやっと人並みになってきたらしいが、確かに以前に比べれば自分でも驚くほどの節酒である。

 <都留泰作 『ムシヌユン 4』(小学館、2017年)>:空にはタンゴ星団が浮かび、バリヤを張られた与那瀬島で昆虫たちは異常に巨大化し、主人公の異様な性器は勃起しまくり、魚然とした異星人(?)が出現し、政治は妄想する。先がまったく読めない。

2017年2月17日金曜日

たけしの新書

 <ビートたけし 『テレビじゃ言えない』(小学館新書、2017年)>:「毒」を期待して読んではみたが、芸能界を中心にして裏話を展開する第3章以降は全くつまらない。その理由は単に芸能界には興味がないからである。それ以外については、世間の事象を捉えるスタンスは同じようなものなので概ね首肯する。
 「テレビの自主規制が年々ひどくなって」いるのは事実であろう。だから、政治や世間や社会に剣先を向けるのではなく、芸能人たちは身内のバカをネタにしてふざけ合い、毒にも薬にもならない低レベルの笑いを振りまき、クイズで知識やバカぶりを披露し、社会に尖がった感想を述べる人たちを揶揄し、どのような場面でも通用するような汎用のコメントを口に出している。となれば、そんな連中に向けて時間を費やさないようにすることである。

2017年2月16日木曜日

漫画『キングダム』を読むための副読本

 <鶴間和幸 『人間・始皇帝』(岩波新書、2015年)>:漫画『キングダム』を読んでいて、秦の歴史をもっと知っていればこの漫画は尚更に楽しめるであろうと思いこの新書を読むこととした。しかし、その前に秦の歴史の概要を知っておかなければと、最初に『中国の歴史 上』(愛宕元・冨谷至編、昭和堂、29年)で先秦と秦の時代に目を通し、次に『秦漢帝国』(西嶋定生、講談社学術文庫、1997年)で「第一章 秦帝国の形成」、第二章で秦帝国の滅亡までを読んだ。いずれも法政の通教時代に頁を開いているので復習すると言った意味合いが強い。そしてこの『人間・始皇帝』を読んだ。とても参考になったし且つ楽しめた。この本は2015年出版であり、最新の調査結果が反映されていること、始皇帝の誕生から死までを丁寧にドラマティックに描いている。巻末には各章毎に登場人物とその解説、秦の形成から滅亡までの詳細な年表が載っており、自分が持っている書籍のなかでは「秦」が最も詳しく解説されている。史料に基づいて創作されている『キングダム』を読むときは、この『人間・始皇帝』を横において参照しながら読めばより楽しめると思う。

2017年2月15日水曜日

もやっとしてしまう(続き)、車の記念プレート

 近畿財務局の某学園への国有地売却について14日続報あり。財務局はごみの撤去費用は8億円以上としているが、学園理事長は取材に対し、実際に撤去にかけた費用は「1億円くらい」と説明したとのこと。あらまあ、7億円ほどの差がある。売却希望額が低すぎるとされて購入を断念した別の学校法人は割り切れないであろうな。今後どのように説明がなされるのか、からかい半分に眺めてみたい。

 2019年ラグビーW杯の大会公式ロゴマークをあしらった車のナンバープレートが希望者に公布される。「ら20-19」のナンバーでサンプルが提示されている。希望すれば1千円以上の寄付でナンバーはそのままにプレートを交換できるとのこと。20年のオリンピック・パラリンピックも同様に10月から公布されるらしい。うちの車のナンバーは「20-20」なのでぴったり。しかし、東京オリンピックに諸手を挙げて賛同している訳ではないので気持はちょいと複雑。

2017年2月13日月曜日

CDからのリッピング

 何時でも音楽を流す環境下に身を置きたい。自室にはアナログ・プレーヤーおよびCDプレーヤー、もちろんPCにも接続したオーディオ・システムは構築してある。それらは今流にすべてハイレゾ対応、アップサンプリング対応である。いちいちLPやCDをセットしなくともすぐにハイレゾで再生できるように据え置きのHDDプレーヤー(HAP-Z1ES)もあるし、外に出るときのハイレゾ対応ポータブル・オーディオ・プレーヤー(NW-WM1A)がある。
 物欲も相当の比重を占めてそれらのプレーヤーや機器を購入したのであるが、そこに格納した音楽ファイルは十分とはいえない。ポップス系は100%完全にmp3で格納してあるし、数少ないジャズも90%ほどはflacで、好きなアイルランド系ケルティックもほぼすべてを入れてある。全くなっていないのがクラシック。これはハードの容量制限もあるし、1000枚を超えるCDを相手にするのには時間がかかりすぎる。でも、気軽にいつでもどこでも聴ける環境をつくりたくて、作曲家と曲を選択しながら、ちまちまとflacでのリッピングをしている。
 格納する際のタグ構成を統一したく幾つかの標準パターンを準備し(何回かの変更も生じた)、もうかれこれ10日以上になろうか。HAPはCDからのリッピングもでき、gracenoteでタグも付けられるのであるが、これに任せるだけでは不十分であり、結局はPCでリッピングし、タグを編集し、プレーヤーに転送する方法である。リッピング・ソフトとタグ編集のためのSuperTagEditorは欠かせない。
 これだけに専念していては時間が勿体ないので、テレビを見ながら、あるいは本を読みながらのだらだら作業になるが、面倒とも思わず楽しみながらこのプロセスを楽しんでいる。音楽を聴かずに聴くためのプロセスを楽しんでいる、という本末転倒の状況に多少の自省はある。

2017年2月12日日曜日

もやっとしてしまう

 豊中市の国有地が某学校法人に売却されたが、「財務省近畿財務局が学校法人に払い下げた大阪府豊中市内の国有地をめぐり、財務局が売却額などを非公表にしていることが分かった」 との2/9の朝日新聞朝刊記事。以下、記事を引用しながらの感想。
あれって思うのは、①近畿財務局は14~16年度中、「同じ公共随意契約で計36件の国有地を売却。このうち35件は売却額を開示している」がこの学校法人への「売却分だけを非公表」としている。②売却額は隣接する土地より約1/10の1億3400万円となっている。③この学校法人への売却前に別の学校法人が取得希望しているが、「7億円前後」の売却額を財務局に求めたが、「財務局から『価格が低い』との指摘を受け、12年7月に購入を断念した」とされている。
妙な感じがする。しかし、ここには「日本初で唯一の神道の小学校」が運営される予定で、理事長は「日本会議大阪の役員」で、「同校の名誉校長は安倍晋三首相の妻・昭恵氏」であるとのこと。これを読むと哀しいかな、ああなるほどネと思ってしまう。そしてこの学校の「教育理念に『日本人としての礼節を尊び、愛国心と誇りを育てる』と掲げている」との文を見ると嗤ってしまいたい気持になる。この学校に対しての気持ではなく、ほかの、この国を取り巻く空気、政府機関の傾向、社会を構成する人たちの不透明な接着、等々に対する気持である。

 11日の続報によれば、財務省は次のように説明した。すなわち、「財務局から依頼された不動産鑑定士が更地価格を9億5600万円と算出。財務局は地下の廃材、生活ごみの撤去・処理費8億1900万円と撤去で事業が長期化する損失を差し引いた1億3400万円で、同年6月に公共随意契約で同学園へ売ったという」。「11年にこの国有地の取得希望を国に伝えていた別の学校法人は」、「国交省から『大量の埋設物がある』と知らされ、見積もりをゼネコンに頼」み、「撤去費をふまえ、7億~8億円だった購入希望額を約5億8千万円に下げたが財務局から低いと指摘され、断念したという」との記事である。撤去費に関する近畿財務局は、学園による「基礎工事中、さらに大量の埋設物が地下にあることが分かった」と説明しているとのこと。
新聞記事で分からないことは、基礎工事前には、つまり売却を決定したときの撤去費見積額が不明であること、実際に生じた撤去費の検証がないことである。また、撤去事業長期化による損失も詳らかにはなっていない。括ってしまえば、一連の経緯に疑問を抱くのは当然であるし、説明も説得性に欠ける。一般的に言われるではないか、後づけの理由は真の理由を説明したこととはなり得ないと。

2017年2月4日土曜日

國・国・くに

 トランプの一挙手一投足ならぬ一ツイッター・一大統領令が連日テレビや新聞を賑わしている。私的な意見や感想を述べたところでどうにもなるものではなく、何時まで続くか分からないこのトランプ劇場を眺めているしかないのが現実。少なくとも今の民主主義のシステム(選挙システム)に対する疑念が湧き上がらなければそれこそ変だぞと思うこの頃。得票率と獲得選挙人の食い違いを言っているのではなく、今の選挙システム(多数決とか投票の重み付けとか選挙権などなど)への疑念である。

 秦の時代を中心にして久しぶりに中国の歴史のテキストを再読している。当然ながら「国」のあり方が叙述されており、横道にそれて「国」の字をおさらいしてみた。以下はそのメモ。

 「国」の旧字は「國」、また「邦」もよく目にする。そもそも「國」は西周金文では“くにがまえ”のない「或」で、口は城郭あるいは邑を示し、一は土や地や境界の意であり、それらを戈で守っていたのが「或」である。西周期(前1027 - 前771年)の「或」は王朝の軍事的影響力の及ぶ広い地域を指していた。「或」をさらに「口」で守る「國」は都城の意味である。
 「或」は又(ゆう)、有(ゆう)とも声義が通用し、有が一般的にある意であるのに対し、或は限定的な意味を持ち、ために「あるいは」と不特定の意となる。唐((618年 - 907年)に入って則天武后はこの「或」は「域」で限定的な意があるからと「或」をやめて「八方」に代え、「圀」を制定した。「或」は、惑うの「惑」につながるから「八方」に代えたとの記事を目にしたこともある。水戸光圀はこの圀である。
 一方「邦」は社稷(土地神を祭る祭壇と穀物の神を祭る祭壇の総称)に封樹(墓に土を盛り樹を植える)のある邑で、封建による国都をいう。つまり、「國」は軍事的、「邦」は宗教的な性格をもつ字である。
 國の略字は「囯」(口+王)で漢代(前206-220年)隷書から見られるらしい。あるいは隋王朝(581-618年)かららしい。王が治める土地であるからと王を城郭で囲って「囯」となったという説がある。じゃあ「国」は何で「国」になったのかと疑問を抱けば、「国」はこの「囯」に点を付けたもので、書の世界ではおまけのような感じで点を付すこともよくあるからというのが一説。また、「或」を崩して「国」になったとか、戦後の当用漢字制定時に「國」に代えて「国」が作られたとの説もある(日本には王がいないから玉にしたとか)。すっきりしないが分かった気分にはなる。
 『字通』で「くに」を見ると、「土」「邦」「國」「国」「或」「圀」「県」「縣」があり、さらに『異体字解読辞典』で口部の「くに」を引くと、「囯」(口+王),囶(口+八+土)、*「口+民+丶」、*「口+戈」などがある。*はフォントがないので記せない。
 以上は下記を参考にし引用もした。
 『字通』(平凡社)、『異体字解読辞典』(柏書房)、『中国の歴史 上』(昭和堂)、web「漢字文化資料館」(大修館書店)、wikipedia、ほかに個人のwebも幾つか参考にした。

2017年2月2日木曜日

漫画4冊

 シリーズになっている漫画を立て続けに4冊。

 <芳崎せいむ 『鞄図書館3』(東京創元社、2016年)>:書物に関する物語はいつも楽しめる。なぜなら書物には掴もうとしても掴みきれない人間社会の時空が広がっているからであろう。

 <雨瀬シオリ 『All Out 10』(講談社、2016年)>:菅平での合宿が終了。作者の絵はあいかわらず敬遠したくなる。シナリオもよくあるスポーツ感動ものなのであろうが、ラグビーだから読んでいる。

 <原泰久 『キングダム45』(集英社、2017年)>:秦王と斉王との会談で中華統一が進展する。秦が六国の征服を目指すが趙国李牧は七国同盟を主張し決裂。結局趙は滅びるのであるがその時代に辿り着くまではまだまだ巻を積まねばならない。

 <安彦良和 『天の血脈8』(講談社、2016年)>:突然に、中途半端に完結してしまった。しかもタイムスリップまでして無理矢理に終わらせたという感が強い。日朝同祖論はどうなったのか、安彦さんはこの完結を望んでいたのか疑問。このように終わらせるのならば単に主人公と妻(翆)との恋愛話にでもフォーカスした方がよかったのではないか。吹いていた風に棘あるものが混じっていたのか、手に持っていた風船が急激に萎んでしまった印象がある。そもそもテーマが重すぎたのかも。

 以前に比べて酒量が著しく減っているし、殆ど飲んでいない12年ウィスキーがまだ5本あるが、久しぶりに“やまや”で2本買ってきた。Old Parr 12とGLENCADAM 12 PORTWOOD FINISH。12(10)年ものの購入はこれで56種となった。ジンもウォッカも全然減っていない。

2017年2月1日水曜日

小説など

 <塩見鮮一郎 『貧民の帝都』(文春新書、2008年)>:「貧民シリーズ」としては最初に出版されているが、読む順番としてはこれが最後になった。明治維新で支配層や富裕層は江戸を離れ、大名たちは地方に戻り、人口が半減した江戸の都市機能は破壊され、旗本・御家人ばかりではなく、国に連れて行かれなかった中間や小物、下級武士は街に放り出され、かといって職もなく貧民は濫れた。困窮者を収容すべく施設はあれど、僭称廃止令で穢多・非人は表だっては存在しないこととなり、彼らの収容施設(救育所など)は廃止され、生活困窮者は路頭に迷うばかり。人身売買の廃止もなされ、借金がなくなった多くの遊女たちも吉原から出されて街をさまよう。かくして維新後の東京は人力車に書生があふれ、かつ「貧民の町、スラムの都」と化してしまった。こういう歴史は学校の教科書にはでてこない。横山源之助『日本の下層社会』・松原岩吾郎『最暗黒の東京』・同『職工事情』を展開する紀田順一郎『東京の下層社会』を以前読んでおり、改めてその時代の貧困を振り返ることとなった。
 著者の「貧困シリーズ」、全体を通して著者は何を描こうとしたのか発散気味。貧民も書く、手をさしのべた者も書く、施設の歴史もたどる、等々総花的な印象がある。

 <藤沢周 『安吾のことば』(集英社新書、2016年)>:副題は、「『正直に生き抜く』ためのヒント」。安吾と同郷の作家が、時には安吾を兄貴と慕い、安吾の言葉をピックアップして解説を加える。
 20から22歳の頃に坂口安吾の本を集中して読んでいた。読んだ内容について記憶はほぼ消え去っているのだけれど、ずっと残っている言葉が幾つかある。「テッパンに手をつきてヤケドせざりき男もあり」は多分酔っていてヤケドしたときのもの。自嘲した言葉だったのか。また、読んでいた頃、両親や姉に反発した感情を抱いており、「親があっても子は育つ」の言葉は真理を突いていると思っていた。「魔の退屈」と「歯の痛み」も好きだった。そう、世の中がどうこう動いているときの無目的な生活と、耐えきれない歯の痛みを嘆く安吾が好きだった。「黒谷村」が好きだった、ただ好きだったという記憶しかない。また、「不連続殺人事件」は推理小説としてかなり上位にランクされていたが今はどうなんだろう。
 数ヶ月前に『堕落論』の文庫本と安吾に関する雑誌を買ってきた。そのうちに頁を開いてみよう。

 <菊池敬一・大牟羅良 『あの人は帰ってこなかった』(岩波新書、1964年)>:『貧民の帝都』に記されていてWeb上の古本屋より購入(送料よりも安い95円)。岩手県和賀郡横川目村(現在は北上市和賀町横川目)は、敗戦時わずか93戸の部落であり、そこから125名が出兵し32名が戦死して11名の未亡人が生じた。当時、多くは10代で嫁ぎ、なかにはたった5ヶ月の夫婦生活で子をなし、夫は戦地に赴いて帰ってこなかった人もいる。若くして夫を亡くし、小さな子どもを抱え、残された舅姑の面倒を見ている。まだ20代にさしかかったばかりである。夫がなくなれば男が言い寄り、女の独り身を下卑た視線で眺める。人の社会のいやな面がいやというほど感じとられる。この新書にも描かれているように、「後家には気をつけろ!」、「男は敬遠気味、女は警戒気味」となってそれでいて監視の目が注がれる。「監視の目を自分自身の心の中にある不純なもの、その不純なものにこそ目を光らしてほしい」と著者も主張するが、監視の目を向ける人たちは社会的に自立しておらず、それ故に自律できていないのである。
 「死体に取りすがって泣く機会」も奪われ、寡婦となって苦労を重ねることとなる元凶は「戦争」ではなく、「戦争を導いてしまう人間社会のシステム」である。
巫女のお告げで神様が出征することになり、列をなしてバンザイをして神様を戦場に送り、戦死して「名誉ある戦死者」の標札を玄関上部に打ち付け、国のためと戦死を美化するこのシステムは何に起因するのか、いまもって理解できない。
 この新書を読んでいて、「未亡人」「戦争未亡人」という言葉が何度も出てくる。この言葉にとても違和感がある。個の人間として見ずに括って枠の中に閉じ込めた見方をしていないだろうか。女性をある種の枠の中に閉じ込めていると感じてしまう。

 <白石一文 『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』(講談社文庫、2011年初刊2009年)>:上下2巻の小説。引用が多く、その引用への思惟は広く展開し、癌を患ったカワバタの新たな出発への転換へと繋がる。この世の中は完成されたものであって、そこに生きる自分は何者だ、ということが著者のベースにあると捉えており、この小説での多くの思索もその揺るぎない信念の上に立っている。セックスも暴力も妻との関係も癌もその思考のための手段でしかない。根幹は考えること、この世界を見つめ自分の心を考えることにある。書名と同じ項のなかの文章を引用しておく。
 「この胸に深々と突き刺さる時間という長く鋭い矢、偽りの神の名が刻まれた矢をいまこそこの胸から引き抜かねばならない。その矢を抜くことで、僕たちは初めてこの胸に宿る真実の誇りを取り戻すことができるのだから・・・・・・」。