何らかの馬鹿よけ/ foolproofのような配慮があればいいと思うし、または防塵キャップにも構造的工夫があればよいと思うが(簡単なことである)、それを主張するのは自分の愚かさを棚に上げるような気分となってしまう。
<白石一文 『我が産声を聞きに』(講談社、2021年)>:一緒にがんセンターに行って、夫は癌であると診断される。その日の昼食を共にした夫は、好きな人ができたので、家を出るという。家は譲る、退職金の半分は送金する、と言う。妻の多香子はなぜなのか判らずに呆然とするが、やがて自分の過去・現在・これからの人生を思い惑う。
かつての婚約者だった女性を好きになったと夫は言うが、淡淡としていて、それだけで妻と別れるという選択肢を択んだ理由が深くは伝わって来ない。しかし、人生を二度生きてみたいという衝動は理解できるような気がする。多香子は出て行った夫を追いかけるでもなく、自分の過去を思い、二度目の人生を見つめようとしている。二度目の人生を歩むときのスタートで耳にすることが「我が産声を聞」くことなのであろう。その産声がミーコ-過ぎし日にいなくなった愛猫-の声に重ねられ、思わず巧みな構成の小説だと感じ入る。
己の人生を自分だけで作ってきたというのは己惚れでしかないが、己の人生を回想し見つめれば、それは自分だけの人生であると得心するしかない。一度しかない人生というのは偽りで、二度目の人生というのはあり得ることかもしれない。それが妻以上に好きになってしまう女性と出会い、その好きになってしまったことを自覚することは一つの例であり、一方では普通に過ごしていたことが形を失くし、そこに自分のありようを再構築することもまた一つの例であろう。要は、自分の人生をどこかで画することで二度目の人生を歩めることだと思う、それが形としては何ら変わらなくとも。
白石一文さんは最も好きな作家であり、この小説も思索的であり、読み出すと集中することはいつものこと。読むことを中断せざるを得ないことが2回あったが、中途で頁を閉じるその時間が恨めしかった。
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