2021年12月24日金曜日

独り言、落合元中日監督の本

 国交省のデータ改竄。個人的にはあの政治家群が及ぼした官僚への影響、一言で言えば悪しき忖度であろうとの思いが強い。政権主導の弊害であり、また事なかれ行動をする官僚の典型。森友問題や桜問題と根は一緒で、さらには「認諾」した政官の姿勢と繋がる。どこまで腐っているのやら。
 多くの腐っている資質の人間が政治を担うようになっているこの国のシステムが腐っているのであって、これもまた日本文化の一つの構成要素である。日本文化って何か、という基底から考えてもいいのではないか。つまり、この国の文化-芸術や音楽やスポーツなどを含めての生活文化-というものに、この体質がどのように表出しているのかを考えてみるということである。

 娘の子どもたち二人が半年ぶりくらいにお泊りとなる。つくづく二人とも大きくなったものだと思う。小学校6年の孫娘は身長が高いせいもあってもう一人前の大人に見えてしまう。

 浴室&脱衣所の年末掃除が終わり、あとは用具類を片付けるだけとなった。やり始めると徹底したくなり、結果、特に鏡と洗面所シンクは曇りも水垢もなく、見てはそのキレイさに惚れ惚れする-自画自賛。

 <鈴木忠平 『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたか』(文藝春秋、2021年)>:野球選手で好きとか嫌いとかの感覚はさほど強くは持っていなかった。プロ野球で記憶に残っているのは、古くは衣笠で新聞に載っていた彼の言葉で、野球とは投手が渾身を込めて投げた球をバッターもまた渾身を込めて力一杯バットを振ることだ、というような意味のことを言っていた。広岡監督の管理野球は好きだったし、落合は選手としても監督としても好きだった。そして、自宅で購読していた読売新聞の影響だったのであろう、結婚後も暫くは読売巨人軍のファンだった。しかし、時期は明確ではないが、あるときからその読売が大嫌いになった。そのことを友人に話すと江川問題からかと指摘するが、江川トレード問題とは無関係に、兎に角読売が嫌いになり、最後には野球への関心は薄れた。多分に野球界という組織やシステムのあり方が嫌になったのだと思う。
 本書は文章も上手く、落合という監督が及ぼした影響などが丹念に掘り起こされ、謎のままに残る落合という人間の考え方や行動に対し、記者がどう向き合ったのか、それに惹かれる。落合監督の思考や行動は魅力的であり、それは個と公(組織化された集団)のせめぎ合いの中で、普通は組織に埋没してしまい個を希薄化して生きている一般人の、ある種の世に抗いたいという欲求を落合に転写していると考える。

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