2018年12月2日日曜日

読書2冊

 <大澤真幸 『近代日本のナショナリズム』(講談社選書メチエ、2011年)>:「ナショナリズム」に右翼っぽいニュアンスを感じるひとたちがいるが、ナショナリズム・ウルトラナショナリズム・パトリオチズムをごっちゃにし、その人の抱く考えや感情に偏らせてイメージしていると思う。「ナショナリズムはネーションを尊重する規範・態度のこと」であるが、この「ネーション」の定義は困難で、ほぼ不可能と思われる。
 以前、在日コリアンの人たちをルポした本を読んで、そこに、「日本人とは、「日本人とは何か」と自問しない人たちである」との意味を込めた言葉があった。安寧に暮らし、差別・被差別に直接関与したことのない人たちへの皮肉を込めた鋭い視線であると今でも頭の中に残っている。大学時代、建築学科在籍の在日朝鮮人学生と雑談をしていたら、彼が、「妹が日本人と結婚するといったら親は絶対に許さないと思う」と言っていた。この時の言葉にも彼の所属している「ネーション」の特殊性があった。
 引用をつなぎ合わせると、「ナショナリズムはネーションを尊重する規範・態度のこと」で、「ネーションは他の共同体と違って、想像においてのみ実在的で」、「直接の知覚や感覚の体験を通じての実在性で定義できない」し、「常に、その外部に別のネーションがあることを前提にしている」。
 天子をまつり上げるのが東アジアの常であったとすれば、天子(王朝)を改易しなかった点において、日本は、思想文化が中国より遅れていたといえるのかもしれない。それは、日本には思想をぶつけ合うこと、深めるという考えがなかったからであり、改易がなかったことを賛美することとは違っているだろう。そこを思想史は明らかにしてきたのだろうか、単に自分が不勉強で知識がないのかもしれないが。
 再び引用をつなげる。「普遍性が不可能であるとするならば、そこにできあがった空白は、普遍性をあからさまに否定し、蹂躪するような価値によってこそ埋められるであろう」。普遍性を求めることは、結局は裏返って「特殊性をあからさまに支持することが、この残された唯一の条件に素直に、欺瞞なく応ずる方法だから」、「ナショナリズムや呪術的な信仰は、まさに、そうした「普遍性の代理」として機能する特殊性に他なるまい」。その特殊性を主張するときに、健康的に主張するのか、不健康なナショナリズムになるのか、いまの世は後者の方に傾いている。

 <大澤真幸 『戦後の思想空間』(ちくま新書、1998年)>:『近代日本のナショナリズム』と読む順番を間違えたようである。重複する部分がある。
 「戦争の内的な体験が歴史的に記憶されなかっただけではなく、まさにその記憶されなかったという事実-忘却の事実-が忘却されている」。全くそうだと思う。過去にきちんと向き合ってこなかったツケは今もある。
 学生運動がピークの時代-1968年から1972年-が戦後を区分する。すなわちその年以前が戦後前期で以降が戦後後期。この年は丁度大学に通っていた時期であり、同時代性を感じる。「内向の世代」と呼ばれた作家や批評家たちの本、また「第三の新人」の小説家の本に惹かれた時代でもあった。「学生運動」には与しなかった。学生運動において、学生自らが「学生」と冠を付ける運動に違和感を覚え、関心もなかった。冠を付けることで最初から退く姿勢を表していたと思う。
 「不条理に見えるのは、人生や世界に意味があるはずだと思っているからです。不条理だという感覚は、世界が有意味であるというオプティミズムを前提にしている」・・・なるほど。

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