2018年11月3日土曜日

11月に入った

 11月に入った。1年が経つのは本当に早い。変化のない毎日をおくり、同じ事を繰り返していると時間の経過は早い。電車の席から眺める景色が初めてのものだと時間はゆっくりと進むが、同じ経路での復路の時間は短く感じる。これと同じようなもので、初めてのドラマを観ても、政治茶番劇を見ても、本質的には同じ事を繰り返しているだけで結局は変化のない、眺めたことのある情景が目の前にあるだけという感が強い。年齢を重ねると時間が早く進むと感じるのはそういうことなのだろう。ならば、ゆっくりと進むためには、自分に対して自ら、初めての経験をさせることしかなさそうだ。

 <呉智英 『日本衆愚社会』(小学館新書、2018年)>:帯には「「自称知識人」の無知・無教養を白日の下に晒す」とある。自分は知識人ではないし、知識人に比べれば無知・無教養であることは間違いない。しかし、だからといって広範囲にわたって知識を記憶することが教養なのではない。そもそも記憶力は劣化する一方である。大事なことは様様な情報や思考に対して是非を問う感性を持ち続けようとすることであると思っている。
 教養とは考える際に抽出しをどれだけ持っているかということ、と何かで読んだし、そう思う。感性は抽出の多さで豊かになろうし、抽出しを開けるということが想像することともいえる。
 呉さんの書き物はただ流されがちになる自分に刺戟を与えてくれる。

 <原田実 『偽書が描いた日本の超古代史』(KAWADE夢文庫、2018年)>:日本の始まりを超古代に求め、そこには多くの神話が創られ、偽書の多くは明治になってからの出現が多い。これは何故なのかと考えてみれば、明治になって統治のために天皇が祭り上げられ、実証できない神武天皇などの神話が持て囃されたことと無関係ではなかろう。偽書を編み出す人の行動原理は理解できないが、世間から注視されたい、特異な存在でありたい等々であり、「マズローの欲求説」に習えば、経済的に恵まれるためにまず自分の居場所を作り、その場においての存在価値を認知されかつ尊重され、更にはそこで己の能力を発揮すると共にその能力を可視化したい、というところなのかと思う。そして荒唐無稽だろうが何だろうが、その場から利益を享受したいと欲する人たちが周りを囲む。
 かの有名な「竹内文書」や青森県にあるキリストの墓、『東日流外三郡誌』など17篇が紹介されている。『東日流外三郡誌』は古代史研究で著名な古田武彦が指示したことで大きな話題となった。以前に『偽書「東日流外三郡誌」事件』を読んでいただけにその内容は概略知っていたが、改めて滑稽さを覚える。他の偽書についても似たような感想しかない。
 書店をぶらついていたらこの文庫本のタイトルが目に入り、パラパラと頁を捲ったら「物部文書」のところで偶然にも「秋田県の山中、大仙市協和」の文章が目に入った。そしてそこに「唐松神社」や「宮司物部家」、「進藤孝一」もある。かつて暮らしたことのある宮田又鉱山について調べていたときに登場する地名・神社・人名である。ただそれだけでこの文庫本を購入した。残念ながら宮田又鉱山の名は登場しない。

0 件のコメント: