2018年6月4日月曜日

二つの新聞記事

 朝日新聞から二つの記事の抜粋。引用は記事の文章をそのまま切り取って繋いでいる。ここで個人的意見(異見)は書かない。二人の知識人の記事は自分を見つめるときにいい材料(共感と反感)となるから忘れないように並記しておく。

 <「異論のススメ」”森友問題一色の国会 重要政策論の不在、残念”(佐伯啓思、2018.04.06)より>
 この1年、国会で論じられた最大のテーマは何かと世論調査でもすれば、たぶん、森友・加計学園問題だということになるであろう。両者は、今日の日本を揺るがすそれほどの大問題だったのか、と私など皮肉まじりにつぶやきたくなる。
 現時点で確かなことは、ただ財務省内部での改ざんの事実であり、官邸の関与はなかったと佐川氏が発言したことであり、森友学園問題は現在、検察が捜査中、ということだけである。官邸が関与したという事実は何もでていない。
 森友学園騒ぎと、安倍内閣の支持率を一気に下降させた政治的エネルギーはといえば、事実も想像力も、また様々な政治的思惑も推測もごちゃまぜになったマス・センティメント(大衆的情緒)であり、この大衆的情緒をめぐる駆け引きであるといわざるをえない。だがそれこそが大衆民主政治というものなのであろう。その時その時の不安定なイメージや情緒によって政治が右に左に揺れ動くのが大衆民主政治というものだからだ。
 私がもっとも残念に思うのは、今日、国会で論じるべき重要テーマはいくらでもあるのに、そのことからわれわれの目がそらされてしまうことなのである。
 私は安倍首相の政策を必ずしも支持しないが、それでもこうした問題について安倍首相は、ひとつの方向を打ち出しており、そこには論じるべき重要な論点がある。問題は、野党が、まったく対案を打ち出せない点にこそある。だから結果として「安倍一強」になっているのだ。
 財務省の文書改ざんの「真相解明」はそれでよいとしても、それ一色になって、重要な政策論が見えなくなるのは残念である。安倍首相の打ち出す方向に対する代替的なビジョンを示して政策論を戦わせるのもまた、いやその方が大新聞やメディアに課された役割であろう。

 <「政治断簡」”畑作は土から、寝言は寝てから”(高橋純子、2018.04.16)より>
 「国会で議論すべきことは他にもたくさんある。○○問題一色になるのは残念だ。私は必ずしも安倍政権支持ではないが、野党は対案を出さずに批判ばかり。もっと政策を議論すべきだ」
 以上、男もすなる「憂国しぐさ」といふものを、女もしてみむとてするなり。
(1)議論すべきことは他にもあるという〈嘆息〉(2)私は「中立」だという〈弁解〉(3)野党は対案を出せ、政策論議をせよという〈すり替え〉――が基本セット。なにげに手軽に高みから知ったげに何か言ったげになれるがゆえに流行中だが、権力擁護以外の効能があるはずもなく、ならば堂々と日の丸の小旗でも振ったらいいのに。
 それにしても、である。政治という営みはいつから、政策論議に矮小化されるようになったのだろう?
 畑の土が汚染されていることがわかった。もうこの畑で作物をつくるのは無理ではないかという議論をしている時に、いつまで土の話をしているのか、ニンジンをうえるかジャガイモをうえるか議論すべきだ、冷夏への備えも必要なのに、対案を出さず批判ばかりして……などと言い出す者は正気を疑われる。
 政治がリーダーシップを発揮して官僚組織のうみを出し切るなどという言も聞こえてくる。寝言はせめて寝てからにして頂きたい。リーダーシップとは責任を取ることと表裏一体のはず。官僚にのみ責任を押し付けた上で発揮される政治のリーダーシップなどあり得るのか
 先の展望がないからしがみつく。いろんな意味でこの国は老いているとしみじみ思う。どうすれば若返れるか……あっ。「やらされモードではなく、死ぬほど実現したいという意識を持つことが最低条件」かもしれない。自分の記憶の限りでは。

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