2018年5月11日金曜日

幕末と神話創成の本2冊

 <村上一郎 『幕末 非命の維新者』(中公文庫、2017年)>:初刊は1968年で当時のタイトルは『非命の維新者』、1974年の本書と同じ書名で文庫化され、本書はそれを底本として保田與重郎との対談が加えられている。保田との対談は全く興味もないが、解説に渡辺京二の名があり本書への関心は強まった。55歳で自刃した著者の名はぼんやりと聞いたことがあるという程度だった。で、本書で取上げている「非命の維新者」たちは、大塩平八郎・橋本左内・藤田幽谷・藤田東湖・藤田小四郎・真木和泉守・佐久良東雄・伴林光平・雲井竜雄の8人。最後の3人、詩人たちには関心はなく、藤田一族と真木については興味があった。
 明治維新の歴史は「維新者」たちの「魂魄のうめきの跡であり、だからこそ、とりわけ明治維新はまだ終わっていないともいえる」とまえがきに述べ、明治維新は「文化・文政の交より緒につき、以後ほぼ80年を経て明治中葉の挫折に至る過程と考えている」ともある。個々の「魂魄のうめき」に関心はないし、彼らの明治維新にも興味はない。彼らの挫折もなるべくしてなったという感想しか持てない。重要なことは彼らファナティックな行動がなぜ持て囃され、そして消えていったのかということで、そのバックグラウンドにある社会精神構造というか、日本というシステムというか、あるいは丸山真男のいう「古層」というものなのか、それをより深く知りたい。そうすることで自分の立つ位置の輪郭を描けると思っている。
 明治150年云々がいま盛んに言われているが、なぜ明治に回帰しようとするのかも理解できない。もっとも国家とか政治システムとかに理想を想像するなんて事は出来るはずもなく、少しずつでも進化するであろうという希望的前提に立てば、解説にあるように、「国民国家など、どう転んでも揚棄の対象でしかない」とするのがもっとも正しいと思う。

 <及川智早 『日本神話はいかに描かれてきたか』(新潮選書、2017年)>:サブタイトルは「近代国家が求めたイメージ」。
 幕末期・維新期に、日本が「西洋文明に触れたとき、日本人の根拠として新たに見いだされたものが『古事記』『日本書紀』に載録された神話や古代説話群であったといえる」。万世一系の系譜、天皇支配権の正当性を明示するために、天皇と直結する神々の世界を描く記紀の神話を活用し、記紀に「初代天皇として載せられながら」、近世の終わり頃までは「顧みられることの少なかった神武という存在が」、明治新政府によって「意図的にクローズアップされて」きた。維新期に再構成された神話は今も生きており、その意味では記紀の活用は成功したといえるであろうし、明治期に復古せよと主張する側から言えば、維新はいまも未完成なのだろう。
 科学的知識と感情の分離がいま顕著になっているとする分析があるが、それは何もいまに限定されることでもなかろう。本書では神話の図像の変遷が詳述されている。が、オロチが大蛇であろうと龍であろうと、和邇あるいは鰐と書かれたワニの正体が鮫、鱶、ワニザメであろうと、「肝要なのは解釈の当否ではなく、それが当たり前のように受け取られ、人口に膾炙していったということ」なのである。情報過多の今、SNS等で真偽の不確かな主張が飛び交っている。知識に基づく問いを自問するではなく、「感情」というある種ファナティック状態で、情報が不確かなまま「人口に膾炙」していることが多い。その風潮、時代の流れに強い違和感を覚える。
 ワニが爬虫類であると発表された当時は、日本は南洋諸島のある部分を領土としていたし、あわせて日本人南洋起源説も唱えられた。敗戦後は一転して鮫や鱶の類いであると解釈されてきた。他の事例をあげれば、「明治天皇がヨーロッパ的な軍人君主へと転換する過程」は「東征する神武天皇のイメージの生成」と並行するし、「”みづら”を結う神武天皇の図像は、近代に入って作為されたもので」、そもそも「古代天皇の支配の正統性とその由来を語るために生み出された『古事記』『日本書紀』に、初代天皇として載せられながら顧みられることの少なかった神武という存在が、幕末から近代に入り意図的にクローズアップされて」きた。”みづら”の髪型である神武天皇の図像は今の時代にも深く浸み混んでいる。明治の時代への復古を思うのも、あるいは抗するのも、そういう時代背景を知った上で語ることが大事だと思う。
 図像そのものではセキレイの描かれ方が(下世話的に)面白い。「イザナキ男神(陽神)とイザナミ女神(陰神)は交合の方法を知らず、飛んできたセキレイが頭と尾を振り動かす様を見てそのやりかた(術)を知り」、「国生みの神話の図像では、イザナキ男神とイザナミ女神が天の浮橋におり、そこから岩上(オノゴロ島)のセキレイを見ているというのが、江戸後期以降の定番図像と」なり、「図像として男女二神の交合を直接描くことは憚られたため」「セキレイの図像が、性表現の象徴として最終的に選択されたと考えられる」と述べられる。セキレイに関しては『エロティック日本史』(下川耿史)にも解説されている。

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