2018年8月18日土曜日

芥川賞受賞作

 <高橋弘希 『送り火』(『文藝春秋』、2018年9月号)>:芥川賞・直木賞受賞作に興味を抱いたときは、全文が掲載されていれば『文藝春秋』や『オール讀物』で読む。単行本よりも安価なこと、それにも増して選評を読む楽しみがあるからで、今回の芥川賞受賞の著者は常人にはない風貌を漂わしていて、また文章が卓越しているらしいので、いつもの芥川賞よりは読んでみようとの関心が強く、久しぶりに『文藝春秋』を買ってきた。

 選評に書かれている文を引用して簡単に感想を書いてみる。「抜きん出た文章力」(1)で「描写力には文句のつけようがなく」(2)。それは「執着のなさが、絶対的な観察者としての目となり、このような狂気じみた描写を可能にしているのではないだろうか」(2)。そして多少の「読みにくさには敬意を払わねばならない。それは予定調和の通用しない世界を描こうとしているからであり、段落ごとに油断ならない状況を冷静に見極める必要があるからだ」(3)。だが、「的確な文章力は、鋭利な彫刻刀として美事に機能している」(4)といえども「その彫刻刀が彫りだしたものに、私はいかなる感動も感興も覚えず、むしろ優れた彫刻の力を認めるゆえ、こんな人間の醜悪な姿をなぜ、と不愉快になった」(4)。「理不尽さだけをまとった」(5)暴力の「最後の場面は残酷で」(1)、「この少年の肉体的心理的な血祭りが、作者によってどんな位置づけと意味を持っているのだろう。それが見いだせな」(4)かった。選者の一人が、「歩の受難と陰惨な場面の先になにがあるのか。それを問うことは、この作品においてあまり意味がない。異界のなかで索敵を終えた歩の、血みどろになって遠のいていく意識のなかで、シャンシン、シャンシンというチャッパの音を聴き取ることができれば、それでいいのだ」(6)とする意見には違和感を覚え、小説ー特に純文学とされる小説ーの役割は何だろう考えさせられた。著者は何を描こうとしたのか判らない。
 「つかず離れずの適度な距離を保つ姿勢が、弱者にとって最も隠微な暴力になっていたことが明かされる末尾の、フラナリー・オコナーふうの展開はすさまじ」(6)(7)く、このテーマと最後のチャッパの音をもっと結びつけて描写すれば、自分にとっては尚更に鋭い小説であると思った。
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 (1)宮本輝
 (2)吉田修一
 (3)島田雅彦
 (4)高樹のぶ子
 (5)小川洋子
 (6)堀江敏幸
 (7)「フラナリー・オコナーふう」という意味は分からない。大学教授にありがちな、
   他の作家などの名を引っ張ってきて説明するのは不快。例えば、ここに共通語では
   ない「時計仕掛けのオレンジ」ふうといってもそれが何なのか解らない読者には全
   く意味をなさない。

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