2018年8月23日木曜日

暇潰しに新書2冊

 <石蔵文信 『なぜ妻は、夫のやることなすこと気にくわないのか』(幻冬舎新書、2014年)>:副題に「エイリアン妻と共生するための15の戦略」、帯には「それは、性格ではなく性ホルモンのせいです」とある。いちいち納得も出来て面白いのであるが、我が妻との合致度合いには触れずに幾つか抜き出す。
 「女性は誰でも、生まれからズーッとわがままである」-女性に限らない。「すべての結婚は「一時の気の迷い」である-ギャンブルのようなもので、時には判断の誤りもあり、且つ忍耐力・記憶力の低下に伴って離婚と再婚を繰り返す者もいる。「結婚生活とは「エイリアンとの共生」である」-過去とエイリアンは変えられない、変えられるのは未来と自分である。「妻の怒り恨みは無期限有効・利子付きのポイントカード制」-男は初めてのキスを覚えていて、女は初めての朝帰りを覚えている。「妻を無理やり可愛いと思え」-男の目の前にはいつも難題が山積し、人生は常に修行中。「料理ができれば、妻の支配下に置かれずに済む」-何はともあれ食うことが最優先。「孤独に耐えられる趣味を持つ」-趣味を持たない人に趣味を持てといっても殆どは何をして良いのか分からないので、このアドバイスは意味がなく、趣味は不断(普段)の生活の中で継続的自然発生的に生じ、趣味を持つことを目的化しても成果に結びつく確率は低いであろう。

 <仲正昌樹 『「みんな」のバカ! 無責任になる構造』(光文社新書、2004年)>:本書の編集目的は「私たちを子供の時から縛っている”みんな”という制度について分析する」もので、その”みんな”とは、「匿名になり切って「甘えの構造=無(限)責任の体系」の中にしっかり組み込まれている”みんな”」であり、簡単に言えば「赤信号みんなで渡れば怖くない」の”みんな”であり、みんなやってるからと個人を囲い込む”みんな”であり、みんなやっているのになんで私だけ責めるのかと見逃しを請う”みんな”であり、みんなやっているからと安心感を得る”みんな”、みんなで頑張ろうの”みんな”、みんな言っているよの”みんな”、等々の”みんな”である。「観客の多くの方々が拍手をしている」が、「観客の”みんな”が拍手をしている」と言い換えられ、一体感や同調を強いる時にも日常的に軽く使われる。ニュースなどでも”みんな”がよく使われていて、この漠とした言葉はallなのか、majorityなのかmanyなのかと突っ込みを入れたくなるときがある。
 結局、自我を中心に置くのではなく、自己を含む世間に寄りかかり、一体感を想像することで安心感を得ようとする心理が働くからであろう。共同的ナルシシズムと言っても良さそうである。無責任な甘えの構造は、「前近代的な「みんなの共同体=世間」感覚で成立していたお話をいったんご破算にして、個人に「責任」を分配しない限り、近代的「主体」が活躍することのできる「法化」された環境など整えることなどできないのだが」(155頁)、それは無理なことである。
 自律することのない人たちが群れを作って忖度し、総裁選という一見高度な選挙においては「正直・公正」などという低レベルのスローガンを立てざるを得ない状況にあり、グループの”みんな”はどっちにつくのかという集団行動とその報道は、単に相互舐め合いのムラ構造の上辺をなぞっているにしか過ぎない。

0 件のコメント: