2018年10月24日水曜日

オープンカレッジ、新書2冊

 20歳前後に早稲田大学の学生であったころ、周りにいたのはほぼ同年齢の-1歳や2歳年長の人もいたが-男ばかりであった。60歳で法政大学の通信教育に編入学し、年2回のスクーリングでは年齢の幅も広く、10代から70歳超の人たちがおり、綺麗な人もそうでない女性も多く見かけたり、若い人から声をかけられたりして大学のキャンパスの華やかさもあった。今秋は9月より獨協大学オープンカレッジの2講座に通っている。火曜日と土曜日の2回で11月下旬まで続く。
 選択している講座内容のせいであろう、50代から70代しかいないようである。圧倒的に60代後半から70代が大半のようで、若さに基づく華やかさは全くない。自分も69歳であるから華やかさの欠如には大きく関与している。大学のHPを見ても60代が最多で次に70代、50代と続き、女性が6割を超える。
 駅からは団地の風景、キャンパスの建築物、行き交う学生の雰囲気を観察して歩く。過去に体験しているキャンパスのイメージとはかなり違っていて、その違いがどこから発しているのかを思いながら歩くのが癖になっている。

 <鈴木貞美 『日本の文化ナショナリズム』(平凡社新書、2005年)>:ナショナリズムとは「ある民族や複数の民族が、その生活・生存の安全を守り、民族や民族間に共通する伝統・歴史・文化・言語・宗教などを保ち、発展させるために国民国家(nation-state)を形成し、国内にはその統一性を、外国に対してはその独立性を維持・教化することを目指す思想原理や政策、あるいは運動の総称」(28頁)。だから本来は国家の強権による秩序統制や国粋主義とイコールではない。ナショナリズムが戦前の国粋主義と直線的に結びついているために負のイメージで捉えらる傾向が一般的にはある。現在、健全なナショナリズムがねじ曲げられ、偏った主張が多くなってきているのは確かである。ナショナリズムの形成はジワジワと政治が変化していくなかで、人びとの生活と密接する文化・文芸により強く表れる。具体的には今の社会の動きを見ればわかる。
 時々の時代においておきた出来事などと絡めて日本の文化がどう変遷していたのかが概説されている。それは、目次からのタイトルを拾って書けば、「発明された歴史」の過程で「天皇制も発明された」のであって、国語とは何かが解説され、「日本文学」は「二重の発明」であり、「伝統の評価基準」が形成された。そして「大衆ナショナリズムの時代」を迎え、大東亜共栄圏の思想へと流れ、「戦後の文化ナショナリズム」へと繋がる。
 この新書、自分にとっては総花的で、なかなか頭を整理できないままに読んでしまった。

 <鴻上尚史 『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書、2017年)>:「死ぬのが怖いのか、この卑怯者」と発することの卑劣さは次の指摘が的を射ている。すなわち、「大衆の一人ひとりは卑小であり<死ぬのがこわい>人間の集まり。そこに死を出すのは一種のエリート意識にしかすぎない。死ぬか死なないかを判断の尺度にする価値観は最終的には存在の放棄=滅亡にしか繋がらない」(板坂剛『極説 三島由紀夫 ―切腹とフラメンコ』)。
 特攻隊を創って精神論で部下を死地に向かわせ、敵艦を攻撃するよりは死ぬことを目的化し、敗戦後は特攻で死んだ兵士の忠烈と勇気を讃え美化する。愚かとか呆れを通り越して滑稽でしかない「特攻で死ねという命令者」の命令。戦没者慰霊祭に顔を出し、死者(「英霊」という言葉は使いたくない)の勇敢さを讃え、自らを責任の枠外におくかつての命令者の言動は偽善であり、内省するという思考能力も欠けた無知・無恥者である。彼らが思う愛国とか大和魂とかは理解できるものではない。しかし、彼らに憤りを覚えそこで停止するよりも、夫が戦死した際に人には悲しみを見せずに涙を流し、「お国のために見事に散った」と言わざるを得ない状況を作り上げたこの国の形に深い疑問と憤り、あるいは諦めを覚える。いかなる場面でも「天皇」が語られるが、単に自己の無責任さをその言葉で蓋ってしまう人たちにはその人の怯懦な性癖を見る。その性癖が「集団我」(南博『日本的自我』)に繋がるのであろう。

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