2019年8月25日日曜日

雑記、本4冊(春画・吉原・売春)

 何の変哲もない日々の繰り返し。録画した番組をテレビで見て、一日おきぐらいにアルコールを身体に取り入れ、本を読んでメモを記し、と言ったところ。
 早稲田ラグビー、夏の練習試合で天理大に勝った(33/5T4G-14/2T2G)。そして21日は帝京に勝利(31/5T3G-21/3T3G)、これはオンデマンドで観戦。岸岡も斎藤も体が大きくなった気がした。後半は帝京に押され気味と感じたが、負けるよりはもちろん勝つ方がいいに決まっている。しかし、今の段階ではまだまだ先は読めない。ただ、天理戦も帝京戦もBチームが完敗しているので、層の薄さを感じてしまう。
 車の点検。会津に関連して会話をするようになっていた若い女性(星さん)がいなくなっていた。逆に初めてみる女性スタッフが二人いたので定期的な異動でもあったのかもしれない。
 プリーツタイプのブラインドの昇降コードがまたもや破損および動きの不具合。前回修理したところとは別のところのコード被覆が切れてしまい、昇降がスムーズでないしストッパーも効かない。しようがないのでまたもや一日かけて修復したが、他にも原因があることが最後に判明した。それは昇降回転力伝達のカップリング状部品が完全に破断しており、機械工学の初歩の教科書に出てくるような45度の破断面であり、これはもう修復不可能。部品を取り寄せる気にもならない。このブラインドは15年の寿命だった。動きの伴う部品の選択ミス-要は設計不良-であり、耐久試験などやっているのだろうかと疑問を抱く。販売価格を安価にするために安易な設計をしているとも捉えられる。

 <田中優子 『春画のからくり』(ちくま文庫、2009年)>:幸田露伴『五重塔』などを例に出し、「中心を空洞にしてその周りにぎっしりと表現をまとわせ、読む者がその中をただよう文章」は「日本の散文が達成した高度な文章の方法」であったと説き、春画は特定の部分を際立たせて見せるために、ほかの部分や背景を隠す。覆っている衣装や背景を微細に描く。そして見る側に、物語を思い描かせる。また、春画は隠れて覗き見をするものではなく、複数の人間が見て笑い興じるものにある、とする。なるほどと思うが、絵画的表現に関する鑑賞力が自分には欠如しているため、江戸期の春画における技法を読んでも退屈してしまう。そんなことを改めて自覚した。

 <永井義男 『お盛んすぎる 江戸の男と女』(朝日新書、2012年)><永井義男 『江戸の売春』(河出書房新社、2016年)>:江戸期の吉原や売春に関する雑学、エピソード集といった趣であって、江戸に生きた人びとを下半身から軽く推し量る、といった内容。2冊には共通する内容が少なくない。
 江戸の春画では男女はなぜ着物を着ていたのか、(田中優子とは違って卑近な見方をしており、)そこには絵師の技量の発揮があり、庶民の住環境があったと書いている。だが、それは本書を読まずとも推測できることである。また、花魁は、例えば「3回目でようやく肌を許す」などと通説があるがこれは史料の裏付けもない俗説でしかないとしている。ならばなぜその俗説が流布するのかといったことも知りたくなるが、そこには深く入っていない。
 ヨーロッパにも売春はある。江戸期の日本との違いは、ヨーロッパでは個人が売春をするが、江戸期日本では個人の意志ではなく、女衒を通して遊女屋に売られてきた幼女が売春のシステムに組み込まれていた。唐突に泉谷しげる「うられうられて」が頭の中に流れる。
 「芸者は芸を売っても体は売らない」に、仕事への誇りや精神の気高さを説く人がいるが、それは間違いであって、単に「遊女の領分を侵してはならない」という戒めであった。そもそも(という言い方は好ましくないが)、誇りとか精神を声高に説く人にはその人の軽さや浅薄さを感じる。

 <小谷野敦 『日本売春史』(新潮選書、2007年)>:副題に「遊行女婦からソープランドまで」。
 「私は歴史学者ではないから、自分で新しい史料を発見することはできない。飽くまで、滝川を中心とした先学の史料を用いて、私なりの歴史を記述するということになる」とまえがきで述べているように、多くの「先学」の史料や論文を提示し、批判し、著者の見解が記述される。著者の他の著作にもみられるように批判は激しい。本書では特に網野史学を批判する。直接的に「歴史」」に関連しないものも含め、多くの書物からの引用もあり、個人的には、発散するが故に著者のエッセイのように思える箇所もあり、通常のアカデミックな「歴史」テキストとは言い難い。それでも読み続けてしまうのは著者の博覧強識に圧倒されるからである。

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