2019年10月18日金曜日

『江戸の図像学』、『アイヌ民族の軌跡』

 <浪川健治 『アイヌ民族の軌跡』(山川出版社/日本史リブレット、2004年)>:日本の歴史の中で、いわゆる本土以外の地は、中央から見て開発対象の地であった。小笠原は1926年に東京都に組み込まれる(東京府小笠原支庁)までは小笠原島庁の管理下であったし、琉球は沖縄県とされたが、敗戦後に米国統治下にあり、返還後は沖縄開発庁から沖縄振興局と名を変えて中央からの視線を向けられている。そして、かつてのアイヌ民族の地で会った蝦夷はどうかというと、これまた中央には北海道庁が1947年まであり、その後は北海道開発庁が18年前まであった。現在でも政府には「沖縄及び北方対策担当大臣」がおかれ、かつての振興・開発とは意味合いを異にするものの特別な地であることには変わりない。
 アイヌの人びとは江戸幕府によって「蝦夷人」「夷人」と呼ばれてきたが、西洋との接触の中で「夷人」が西洋人を貶む言葉としても用いられてきたために、1856年(安政3)に「土人」と呼称するように改められた。以後、「旧土人」と記載された法律が1889年(明治32)から1997(平成9)まで約100年間にわたって効力をはたらかせ、アイヌの人びとに対し、「生産・生業と文化の諸側面において民族文化を否定し「日本」文化への吸収をはか」ってきた。「旧」が付いても付かなくとも、「土人」という蔑みの呼称は沖縄で機動隊員が口にし、現在でも本土人の心の深層にこびりついている。
 日本の歴史関連の本を読んでいると、北海道や琉球の歴史がストンと抜けていて、要はその地の歴史を知らないことが多い。それは多分に、各地の歴史は中央の歴史の延長線上で捉えられるが、海で隔たった地においてはその延長線が跡切れ、繋がるときには中央政府の圧政としての側面が強調される。圧政と暴虐に抗しては敗北し、懐柔され服従されるというパターンを思うと、結局は彼我の「力の差」がそうさせたことである。対抗するには組織的戦力の構築と増強しかない。その意味で、昔の時代における中央政府に抗う暴力は安易には否定できない。
 それにしてもと思う、北海道や沖縄の歴史はどうも負の側面から描かれることが多く、それ自体がもう中央の高みに視座を置いている、ということなのであろう。

 <田中優子 『江戸百夢』(ちくま文庫、2010年、初刊2000年)>:表紙には書名の橫に「近世図像学の楽しみ」とあり、江戸期の国内外の絵画や彫刻などを見ての著者のエッセイといった風。歴史を知悉し、芸術品への鑑賞眼があり、人間の営みを深く考えて寄り添う、そのような人がものすることのできるエッセイ。そもそも図像学とは何かとWikipediaを開くと、「絵画・彫刻等の美術表現の表す意味やその由来などについての研究する学問」とある。絵画や彫刻を見ても、ぼんやりと眺めておしまいといった態度しかとれない己にとっては、なるほど、殆ど縁のない学問ではある。

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