2019年4月19日金曜日

新書(1/3)

 令和の大合唱。西暦から元号に変換する作業が追加され面倒になる。「令和」を最初に目にしたときは瞬時「りょうわ」と読んだが、はて「りょうわ」なのか「れいわ」なのか、どう読むのか戸惑った。今後はいろいろな手続きをするときの生年月日を記入する欄にM・T・S・Hに加えてRが追加されるだろう。年代の運用主体を元号とし、提出書類にMTSHを印刷してある役所や企業では、書類フォームの新規製作が必要となる。何という無駄であろうか。
 先日自動車運転免許更新で警察署に行ったとき、提出書類に生年月日を記入する欄があり、とっさに元号ですか西暦ですか、とたずねたらどちらでも構わないと言われた。国家の公的機関の最たるところで元号と指示されなかったことに少しばかり意外な思いを抱いた。

 <中島義道 『反<絆>論』(ちくま新書、2014年)>:東北大震災の後からあちらこちらで「絆」が人の口から発せられ、メディアでも何度何度も報道され、いまになっては人間の麗しい活動の象徴として定着した感がある。身近にいる中学生の部活報告のレジメにも「強い絆をもつことができました」のような意味を書いて体育館に展示していた。
 悲惨な状況下で立ち直ろうとしている人びとに向かい、この一文字で未来を総括してしまうような言動に違和感を覚え、ましてそれを集団で唱えることに尚更にある種のキモチワルサを感じる。それは、「<絆>とは麗しいことばである。だからこそ、そこには人を盲目にする暴力が潜んでいる」のだし、「あのとき死んだ一人ひとりが、それぞれただ一度の死を死んだことが覆い隠され」てるからである。「<絆>は本来、けっして無条件に善いことを意味していないのに、今回すっかり相貌を変えて絶対的に善いことになっていまった感があ」り、「絆」という言葉に内包される意味の拡がりが狭まってしまった。「言葉がこういうふうに変貌するとき、そのマイナス面が消し去られ、すべてが明るい光のもとに照らされてあるとき、われわれは警戒しなければならない」。
 個々の視点を無視して、あるいは気付かないふりをして、みんな一緒に頑張ろう、みんなも頑張っている、あの人も頑張っている、さあ、皆で強い絆で先に進もうと唱えるこの方向性にはちょっと待ってよと抗いたい。これを声高に唱える人は、恐らく「「こうすべきだ」ということと「私はこうしたい」ということの恐ろしいほどの重なり」を自覚せずに、「意識の下層での「自己満足」」を吐露しているのだろう。
 本質を突いていると感じ入った言葉は、「お互いの「わがまま」を認め合う精神」で、続けてこう記している、「自分の「わがまま」を抑えつけていると、他人の「わがまま」も受け容れがたくなってくるであろう」と。いい言葉である。

0 件のコメント: