2019年4月19日金曜日

新書(2/3)

 <佐伯啓思 『反・民主主義論』(新潮新書、2016年)>:民主主義ってそんなに素晴らしいのか、民主主義の最たるものの多数決って暴力の一形態ではないのか、そんな思いは小学生の頃から抱いていた。それは、生徒会長を選ぶ選挙を控え、このクラスからは誰を選ぶのか多数決で決めようと担任教師から指図があった。誰々さんがいいとかの意見の発言は多少はあったとは思うが、なぜこのクラスで一人を推薦し、決めなければいけないのか、1人ひとりが別々に決めればいいだろう、と違和感を強く覚えたことを今でも記憶している。
 また、給与所得者であったころ、企業内でも「民主的に」業務配分を行い、「個々が納得できるように」業務を説明して欲しいなどと、まだ経験の浅い設計者が上司に申し入れていたことがある。自分の配下ではなかったが、乱暴に言えばむかついた。多分に「民主的に」という言葉に自己陶酔していたと思う。自己能力の未熟さを棚に上げて、どこかで聞いたかっこよさそうな「民主的」を唱えれば強い武器を持ったと勘違いして自己を高みにおけるという満足感は得たのであろう。
 本書では民主主義を核として、政治・憲法(護憲)などが論じられる。
 誰だったか覚えていないが、政治における選挙とは美人投票のようなものだ、誰が一番美人とされるかその候補者に投票する、といったことのようだった。いい得て妙である。その選挙を実行する多くの大衆とは、「多様な意見に基づく議論でもなければ、熟慮や熟議でもない、どこかで聞いた話や、ちょっとした情緒的なフレーズに飛びついてそれを政治的意志と思い込んでいる巨大な集団」であり、その選挙でもって「民主的」に選ばれる政治家というのは、「世評や人気に依存」しており、耳あたりのいい空疎な言葉を発し続けるのであろう。だからちょいと政治的な事象に触れると浅薄な言葉が口から出てしまい、その失言とか、自らの言うバカさ加減も自分では理解できずに、「民主主義」の原則に則って役職を離れたり辞職するのであろう。プラトンの批判「衆愚政治」はいまも払拭できないでいる。
 「日本には、アメリカのような、民主的な世界秩序を形成するという歴史的使命のごとき大きな世界観も歴史観もありません」は、次に読んだ内田樹『日本辺境論』とも繋がる。

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