2019年4月19日金曜日

新書(3/3)

 <内田樹 『日本辺境論』(新潮選書、2009年)>:大別すると3つの幹があって、①日本には建国の理念が(アメリカと違って)なく、②日本は(中華思想の蕃国である)東夷の辺境にあり、③日本語は表意文字と表音文字の特殊性がある、というもの。納得できる論理展開である。しかし、戦艦大和で死んだ青年士官が残した言葉についてはすんなりと受容できないで抗う気持ちがある。それは別のノートにメモしておいた。
 建国理念がないから日本は建国を神話に遡るしかないし、文明の中心にあった中華からは遠く離れた辺境の蕃国であるから(しかも朝鮮とは違って海を隔てた遠いところ)、新しいものを素直に受容し、独自に加工してきた。それはそうだろうと思う。
 いいのか悪いのかではない。日本は右を見て左を見て「きょろきょろ」として我が身の立つ位置を確かめ、外部からくる新しいもの、あるいは支配的な権力を素直に受け容れ、屈託のない態度で無防備になり、親密さを示す。例えば古くは、中国からきた漢字を真名とし、本来の土着的言葉を仮名としてしまう。また、(これは記されていないが)敗戦後1ヶ月後には『日米会話手帳』を発刊し、ベストセラーになったし、明治維新時や敗戦直後には外国人の男性に対して売春組織を早々に作りだした。
 これが日本人だと言い切るのには一部の階層でしかないサムライを代表させ、全日本人を包括する日本人や日本文化については原典や祖型がないので、同一の主題を繰り返して回帰する。だからなのだろうか、自分もまたその回帰する主題について本を読み続けてしまう。
 「「何が正しいのか」を論理的に判断するよりも、「誰と親しくすればいいのか」を見きわめることに専ら知的資源が供給され」、「自分自身が正しい判断を下すことよりも、「正しい判断を下すはずの人」を探り当て、その「身近」にあることを優先する」。このように「外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている」。そのような人間を著者は「辺境人」と呼んでいる。この行動パターンは勤めていた会社で何度も体験的に見てきた。
 また、設計的実験的に多湿状態下で製品に不具合が生じるのは予想できていて、実際にフィールドでトラブルが多発したとき、該システムを担当していた設計者はこのように言っていた、「予想はしていたが、フィールド・ローンチ時にそれを言える空気ではなかった」と。これは敗戦時に東京裁判で被告席に立たされた旧日本軍人が言っていた「個人的には反対していたが、ああせざるを得なかった」という発言と同質である。
 書けばきりがないし発散してしまう。
 「日本は辺境であり、日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できるというのが本書で」著書が「説くところであり」、「本書が行うのは「辺境性」という補助線を引くことで日本文化の特殊性を際立たせることで」、「この作業はまったく相互に関連性のなさそうな文化的事例を列挙し、そこに繰り返し反復してあらわれる「パターン」を析出することを通じて行われ」ている。いきなり日本は辺境であるとドスンと眼の前におかれ、あとはその「辺境性」たる事例をあげているので明快で分かりやすい。しかし、前提をドスンと置いてあとはその前提に即した事例を展開するのであれば分かりやすいのは当たり前とも言える。本書において反論するのは難しいだろう、なぜなら日本は地政学的に(中華に比して)辺境ではないとは言えないだろう。部分的な箇所を取って非難するかもしれないが(例えばヒムラーの言質を取上げている箇所)、著者は、「はじめに」の最後に、予想される批判を述べ、その上で「どのような批判にも耳を貸す気はない」と宣言している。この姿勢、武道家らしいのか、刀を抜く前に雑魚を叩っ切っている。

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