2019年3月20日水曜日

雑感

 久しぶりに鉱山関連のブログに書き込んだ。内容は鉱山用語とも言える「硑」の字に関する簡単なメモ。

 違法薬物で俳優が逮捕され、出演作品の公開に様々な賛否が発せられている。今日は東映が手を加えずに映画を公開することを決定し、それもまたニュースとなっている。
 俳優一人が法を犯したとはいえ何故に色々な人が関った作品を埋没、否、隠してしまうのかさっぱり理解できない。甲子園野球でも一人あるいは数人の個人的不祥事(あるいは犯罪)でその高校が出場辞退となる。他のメンバーはやりきれないだろうし、原因となった人には法以上の罪科を負わせてしまう。日本人の集団主義、同調性、画一的思考性、ムラ社会、云々という理由はあるだろうが、それらをいくら説明されても理解できない。納得できない。政官の隠蔽体質と同質同類の気がする。
 また、「作品に罪はない」、「音楽に罪はない」というコメントにも違和感がある。作品を社会から抹殺することを日本の思考性のなさという人がいるけれど、それこそ、作品や音楽といった存在にその罪を語ること自体が思考性のなさを露呈していると思う。逆に言えば、もし作品に罪がある、音楽に罪があるとするならばそれははどういうことを言うのだろう。そいう例があるのならそれも語ってほしい。すべて人間が作っているのだから問われるのは人間でなければならない筈である。
 もう一つ、作品、例えば映画で言えば、主演者が犯罪を犯して非公開になるとき、そこに出演していた主演者以外の人たちはなぜ非公開とする対応への怒りの声をあげないのだろうか。映画の中で演じた彼らの矜持-映画を見てもらってこその誇り-はどういうものだろうかと疑問を抱く。

 暖かくなった。隣の土地に梅が咲いているし、自宅の庭の木々にも花が析いてきたし、桃のつぼみも膨らんできた。




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