2015年10月19日月曜日

ウィスキーを飲みながらの独り言

 嫌いな・・・・というものは理屈でなく、生理的嫌悪感に近いものでどうしようもない。嫌いな女優が出てくるドラマはチャンネルを変えるし、嫌いな作家は世間から高評価を得ていてもその作品には眼を通さないし、ポップスでも嫌いな歌手、クラシックでの嫌いな指揮者、嫌いなピアニストも自分の中には存在する。
 十数年前に青森出身の同僚と飲んでいて、何とはなしに作家の話をしていて、太宰治が嫌いだと言ったら、相手は急に怒り出した。その後ポップスの話になって彼にプレスリーは好きでないと口にしたら彼の怒りを増長させてしまった。嫌いな作家は誰、好きではないシンガーは誰と問われてマジメに返事をしただけだったのだが...。
 モーツァルトのピアノコンチェルトは好きで、演奏者・指揮者の異なるCDは多く持っている。その中でホロビッツ/ジュリーニのあの速歩の23番は一度聞いてから二度と聞いていない。しかし、それを高評価する人もいて、その評価を論理立てて文章にしているが悲しいかなこっちにはその表現力がない。カラヤンもどうも駄目で、その弱音の美学というらしいものが自分には駄目。
 音楽を文章で表現する人の鑑賞力、語彙、文章力に敬服するのはいつものこと。シベリウスの交響曲第2番はオーマンディ/POがとても好きなのだが、他の指揮者ではなく何故にオーマンディなのか自分でもよく判らない。最初にLPで聞いたのがそれだったせいかもしれない。動物が生まれて最初に目にする生き物を親と思うそれに似ているのかもしれない。多分そうに違いない。シア・キングのモーツァルト/クラリネット協奏曲もそうだし、似たような事例は沢山ある。アンセルメのドビュッシー(特に牧神の午後への前奏曲)、ジョージ・セルのドヴォルザーク交響曲、ABQのベルグやモーツァルト、等々があり、好きなサティもチッコリーニは避けてしまう。あわないといいながらもカラヤンのシェーンベルグ/浄夜はいい。クロノスQやクレーメルは発売されると殆ど購入して聴いている。どこが好きなのかと問われると自分でも上手く説明できない。問い詰められると、最後は好きなものは好きと言い張るだけになってしまう。
 音楽においての好き嫌いは、作家や演奏者の名前をあげることに抵抗は殆どない。しかし、小説をはじめとする本においては特定の嫌いな作家名をあげるのには抵抗がある。それは本には思想性や人生観、政治性が表出してしまい、誤解曲解嫌悪感を容易に生じさせてしまうからである。単独の小説については自分のブログでも書いているのであるが、ある作家を総論的に書くのは控えている。出版社/新聞社も同じで、自分の中では色づけている。これはしようがないことである。最終的には好き嫌いでしかない。

 昨日は疲れていたせいもあろう、21時には寝てしまった。予め判っていたことだが今朝は早く眼が覚めてしまい、午前3時にはコーヒーを入れてPCに向かっていた。今度はその反動で昼になってから猛烈な睡魔に襲われ熟睡の昼寝。そして眠れないであろうからと22時頃からウィスキーをなめている。いつものことではあるけれど、年齢に相応しくない不規則な-出鱈目な-睡眠/起床ではある。