2017年9月18日月曜日

新政府軍を嫌い、会津藩に期待する江戸庶民・・・

 <森田健司 『明治維新という幻想』(洋泉社歴史新書、2016年)>:明治維新を礼賛する姿勢に疑問を抱いたのは結構若いときからである。それは靖国であったり、明治になって作られた平安神宮であったり、明治神宮であったり、陵墓が新たに指定されたり、諡号が贈られたり等々、継続する歴史が明治になって大きく変遷した(断ち切られた)ことに疑問・違和感を覚えたときからである。あわせて、傑人と呼ばれる明治の指導者層に対する、疑問符を伴う思いへと繋がってきた。疑問を膨らまして単純な否定へと向かわせることには抵抗するが、少なくも明治維新に作り上げられた日本のシステムは、先の戦争での敗戦後、今でも継続していると思っている。そして、明治を礼賛する人びとの、その礼賛する理由が理解できない。
 金子光晴は「新政府に加担する学者たちは、歴史をいつも一方に押し曲げる」と喝破したらしいが、それはいつの時代にも通じる。本書の著者は、「江戸時代の庶民思想の研究に注力している」社会思想史研究者で、本書では「民衆や旧幕府軍側の視点を通して」「開明的で希望あふれる「明治の世」を目指したという」明治政府の正体を検証する。「庶民に嫌われた新政府軍」-「新政府軍に目をつけられた人々」-「旧幕府軍側から見た明治維新」-「明治政府のイメージ戦略と『三傑』の実像」との4章で構成される。
 江戸時代を高く評価する重要なものは、①平和 ②治安の良さ ③それらを支えた道徳であって、そのような文化に浸っていた江戸庶民にとって新政府軍は不人気極まりなかった。江戸幕府を信頼する「江戸っ子」たちは、薩摩藩を中心とする新政府軍の繰り返される集団強盗=テロで、「錦ぎれ」の布を肩につけた彼らを毛嫌いした。江戸城を明け渡し、新政府軍に恭順した慶喜から庶民の心は離れ、東北戦争が始まってから、江戸庶民にとって旧幕府の中心は会津藩、松平容保であった。この乱暴狼藉強盗殺人のテロの中心にいたのは西郷隆盛の命の下にいた相楽総三の赤報隊である。新政府の第一の目的は、「より良い、近代的な日本の確立」などではなく、「自分たちが政権の座にある日本」だった。それは後の薩長を中軸とする政策に表れている。一方、「徳川家への忠心」と「私欲の強い否定」を家訓の主軸とする、会津松平の容保は自身のプライドを守る行動はない。会津戦争敗戦後、容保は過去については何も語らず書きもしなかったらしい。日光東照宮の宮司に就いた容保は、家康を通して幕府将軍への忠心を継続していたと言えるであろう。
 薩摩藩邸を焼き討ちにした庄内藩を私怨で賊軍にした薩摩藩であるが、会津戦争終了4日後に降伏した庄内藩には寛大な態度で対処した。西郷隆盛の意向があったと伝えられ、現在も庄内藩では西郷への敬愛の念が高いという。テレビでその状況を放映するドキュメンタリーを見たことがある。西郷の深謀があってと論じられているが、加えて会津での惨状をもたらした自らの冷酷な暴虐性(圧倒的な優勢を知りながらも攻撃を続けて若松城下には遺体を散乱させ、埋葬さえ禁じた)に嫌気をさしてきたのかもしれないと思っている。庄内藩敗戦で東北戦争は終わり、心に余裕が生まれ、冬も近づいてくるなかで、新政府軍は自分たちの会津での残虐性に怖れも抱いたのではないかと想像している。確かな根拠はないのだが。
 本書にて、維新三傑+伊藤に対する評価は辛辣である。すなわち、①幕府の追求から逃れるために改名した、影の薄い木戸孝允。②金銭欲より権力欲の男、(滅多打ちの「なます斬り」にされた)大久保利通。③戊辰戦争で天皇の威光を利用しただけの、戦好きで死を恐れなかったが、軍服を剥がれてのほほんとした姿に貶められた西郷隆盛。④品性に欠け、「単線的歴史観」の持ち主、テロリスト伊藤博文、である。そして、「新政府の要人たちの多くは、知識や語学力はあっても、品性や美学が甚だしく欠如していた。その代表が伊藤博文だが、木戸孝允も大久保利通も、道徳的に高い評価を下すことは困難である。彼らは皆、政治の手腕はあったとしても、哲学がなかった。西郷隆盛に至っては、悪い意味で「一時代前の人物」だろう」と断じ、あわせて、「戊辰戦争ほど無意味な戦争はなかったと断言」する。確かに、幕末に生きた数多の優秀な人物が殺されている。「新政府が仮に、自分たちは公益の何たるかを理解して、それに基づいて政治に関わっていると信じているのならば、その根拠は何だろう。答えは、いくら問い続けても出てきそうにもない」のである。「新政府」を特定政党や政治家個人、あるいはテレビで流れるスキャンダル議員に置き換えれば、これは今の「政治」にも当てはまると思う。つまり、「〇〇が仮に、自分(たち)は公益の何たるかを理解して、それに基づいて政治に関わっていると信じているのならば、その根拠は何だろう。答えは、いくら問い続けても出てきそうにもない」のは今でも同じである。
 勝てば「官軍」負ければ「賊軍」は、勝利した側が自らを正当化する行為に導かれる普通の結果であって、維新以降、徳川幕府を「旧き悪しき近世」と歪めたことは否めない。明治新政府を築き上げた指導者たちを単純に批判・非難するのではなく、幕末から明治、明治から大正、そして昭和前期と敗戦後の昭和後期、そして現代の流れを作り上げる日本というシステムの本質は何なのか、それを知りたい。というか得心したい。そんな思いである。
 臨時国会冒頭で解散のニュースが発せられている。民進党もだらしないが、長州出身と称される首相や、与党のあざとさを思う-尢も、政治に関わる議員たちの多くがそうであろうが-。明治維新の薩長体制政治の基底にあるものがいまも大きな潮流になっていると感じる。

0 件のコメント: