2017年9月5日火曜日

「振り返る」ということへのメモ

 「振り返る」ことの意味を大事にしていた時期は、製品設計業務に従事していたときである。
 設計は単純にいえば、要求仕様を設計仕様に翻訳し、それを設計図面に転写する一連の作業である。この翻訳-転写の概要は、「設計仕様」-「構想設計」-「部品設計」と進み、図面に向き合う構想段階では部品を構想しながら全体構想を組み立てていくと言ったようなものである。設計には、時間やコスト、製造技術/生産技術上などからの拘束性がある。悩ましいのは、設計が進んでいくと必ずといっていいほど設計をやり直したくなる瞬間が訪れるということ。時間がない、コストが目標に達しないなどといったようなものはまだ理由が明確であるが、厄介なのはもう少し良い設計にしたい、手直しすればもっとセンスある設計になるのではないかといったような、矜持というのか、ある種の美学的な欲求がでてくること。そして「振り返るべきか否か」、「手直しをすべきか否か」に葛藤する時間が少なからず発生する。設計がある程度進んだら原則的に振り返るべきではないと自分の中で決めていた。目標から大きく外れていない場合、或は機能や性能が仕様より劣っていない場合は、振り返るべきではないとしていた。取り戻すことの出来ない時間の中で、いちいち振り返っていては進まない。振り返りは次の段階でプラスに転じればいい。そう思っていた。仕事から離れた今でも、その考えは基本的に変わっていない。

 振り返ることだけを描く小説やドラマなどは嫌いだし、読んでいて見ていて不愉快になる。まして、過去に帰りたいと涙し、昔は良かったと懐かしむだけの描写は嫌いである。
 振り返ることの要因の一つには現実への未充足感がある。未充足感を填めるために過去を振り返るよりも、未充足が何に起因しているのかその現実を看ることが先ではないか。会社に勤めていたときのトップが座右の銘にしていた「看脚下」を思い出す。
 自らの足元を見ずに他人の言動ばかりを見て現在を嘆き、過去の社会に回帰しようとする人たちがいる。違うんじゃないかと思わざるを得ない。

 歴史を学ぶと言うことは単に「振り返る」ことではなく、過去の事実から今を見て、先に展望を開くことである。まさしくE.H.カーの「歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である」のだが、なぜなのか、単に過去を振り返り、懐かしみ、現在を歎き、歴史的事実を歪曲して声高に論じる人びとや書籍が多くなった。先日、ある小さな本屋に行ったら、入口の新刊コーナー、つまり最も目立つ場所にその手の本が並んでいた。売れているからそうしているのか、店主の好みでそうしているのか、居心地のよくない場所だった。

 好きな言葉、「過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる(You can not change the other people and the past. But, You can change yourself and the future.)」(Eric Berne)。

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